ワタベの追憶 中編
ただ胸糞が悪いだけの内容です。ワタベの過去の話なので、読まなくても本編に影響はありません。
佐々木は飲ませるとよく話す。上司が誘うと面倒くさがって行かないのがほとんどになった最近では珍しく、誘うとすぐに来るのだ。そして飲ませると、もれなくそうなるのだ。話が長すぎてうんざりすることもあるが、彼が誰に対してどう思っているか、若手がどう思っているか、探るには絶好の機会だ。実際は探りもせずに勝手に話すのだが。
その時は―――というか、ほぼ毎回―――高木への愚痴で始まった。乾杯も早々に済ませて、口を付けただけで酔っぱらったのか、普段の倍以上にしゃべりだした。
「最近、高木さん酷いんすよ。僕のことコピーもできない奴で、紙無駄になるからコピー機の半径5メートル以内に近づくなって。自分がしたいときは誰かに頼めばいい、ま、することなんかないでしょうけど、ってぼろくそに言うんですよ」
「それは困ったものだね。上場企業であるわが社にそういうハラスメントはあってはいけないのにね」
確かに、彼は以前ミスコピー(カラーの)を300枚ほど出して給料からがっぽりひかれたことがある。それだけで済むのならいいが、その紙を無理やりシュレッダーにかけて、さらに詰まらせたことがある。
一度にどれだけ大量に紙をぶち込んだのかとても頑固に詰まっており、業者が来ても直すことができず、リース契約も満期目前だったので最終的に買取して処分となった。その件はあまりにもお粗末で、本人は気にしていない様子だがまだ笑い話にはできずそれどころかタブー扱いになっていた。
最近高木に言われたときに何をしたのか詳しくは分からないが、また似たようなミスをして大目玉食らったのだろう。
相槌も打つ間もなく、さらに佐々木の舌は滑らかに転がり続けた。
「それだけならいいですけど、この間、同期で入った女の子、平沼さんっていうんですけど、その子ができちゃった結婚したんですよ。でも仕事続けたいって本人が希望して続けてたんだけど、高木さんがいじめた挙句、辞めちゃったんです」
「それはひどいなぁ。相談する部署とかないの?何か対策が必要だ。策を講じなければなぁ……」
平沼くんは出世して、来年度からは東京の本社勤務せよと辞令が出たばかりではないか。高木もなかなか手に負えない。出る杭は打たねば気がすまないのだろう。
それからも佐々木は飲み続け、私が一杯の半分も飲まないうちに三杯目に突入し、ジョッキに手を放さず話を続けた。緩んだネクタイの結び目はだるだるになり、ワイシャツの第三ボタンのあたりまで下がっている。
それにしても、そんなことを私に言ってどうするつもりなのだろうか。私がするのはとりあえずテキトーに相槌を打ち同調して信頼させて、何か対策を打つような素振りをするだけだ。何をどうするかなどの対策内容を具体的に話す必要はない。どうせ酔っぱらっていて話したことなんか忘れているに違いない。それに、佐々木はひとしきり愚痴を言い切るとスッキリしてしまうのだろう。次の機会に同じ愚痴を話しても、私を責めるようなことは一切言わないのだ。
飲みに誘うといつもこのような感じで延々と愚痴が続いた後、解散となるのだ。当然だが奢りはする。領収書には値段だけを書いてもらえばいい。会計時に研修中の札の付いた店員がいるタイミングを見計らって、急いでいる様子でレジに行ってその人を焦らせれば簡単だ。さすがに白紙のものを貰うような狡いことはしない。
そんな日常を定年まであと少しだらだらと続けて、退職金だけ貰ってお暇しようと思っていた。
しかし、変化は突然訪れるものだ。
その日は日曜日だった。だが、みんな会社には顔を出していた。休みなのでタイムカードは押さない。上場企業だから意識だけが高く、休日は”成果右肩上がりの気力奉仕出勤日”だそうだ。他が休んでいる間にこそ自己研鑽せよ、という裏の標語の基に作られたらしい。通称”気奉日”。バカな部署にバカなシステムにバカな社員。売り上げもイマイチなわけだ。労基にチクれば一発だが、面倒くさいからしない。自分は閑職だから朝来てデスクに五時くらいまで座ってニコニコしていればいいので、そこへ行く必要がない。
自転車通勤での疲れがたまってきているらしく、朝から肩と胸が重たかった。特に左肩だ。座っているのも辛く、すぐにでもその疲労感から解放されたくてマッサージに行きたいと思っていた。しかし、まだ午前中でさすがに脱走はできなかった。バレたらこの貴重な閑職を追い出されかねない。その時は諦め、暇な一日が終わったら行くことにした。
そして、パソコンを使ってどこの店に行くか調べているうちに、いつのまにかの11時前になっていた。
「佐々木クンさ、なんでおんなじミスを何億回繰り返せるの? ミスの繰り返しで宇宙でも作りたいの?それともおサルさんがシェイクスピア打ってくれるまで待ってるの? それに、なんか作れって指示したら、そのまま言った通りのものそのまんまでしか作らないよね? そこは気を使って、求められている以上のものを作らないと成長しないよ? 気が利かない。というかキミにはそもそも気がないのかな?これだからFランは……はぁー……」
突然大声が響き渡り何事かと思い、衝立から顔をのぞかせると通路の先で学歴ロンダリングお局が何かの書類を指で下品にバンバン叩きながら、下を向く佐々木にまたねちねちと何かを言っていた。言っては物憂げに額を押さえ、再び言い始めては紙を叩き、を何度も繰り返している。高木がそういうことをするから、佐々木の愚痴に付き合わされる羽目になるのだ。勘弁してほしい。ため息をしてトイレへ行くために立ち上がった。
その瞬間、胸にナイフを突き刺されたかのような痛みが走った。刺すだけならいいのだが、まるでさらにえぐられているような痛みだ。すさまじい脂汗が額かあふれ出し、世界が揺れる様な強烈なめまい。それよりも尋常ではない、味わったことのない胸痛。
おもわず立っていられず、机に手をかけて座ろうとしたが、足に力が入らず床に倒れてしまった。リノリウムの床が視界いっぱいに広がった。それからなんとか体を仰向けにすると、ぼやけ始めた視界の中に人が集まってくるのが見えた。
まず佐々木と高木が近くに駆け寄って来て、何かを話始めている。高木は跪き、その横に立っている佐々木は背面が光るスマホを持って見下ろしている。遠くで反響するように二人のやり取りが聞こえてきた。その二人以外の誰かの指が私の首に触れた。脈を測っている様だった。
「佐々木クン、AED持ってきて!」
「バッテリー切れてます!」
「何やってるの? 早くして!」
「だからッ、バッテリーが!」
「バカ、クズ、ゴミ! ほかのフロアから持ってくればいいじゃない! そんな簡単なこともわからないの!? 脳みそあるの!? 早く!」
「え……、でも今日休みでほかのフロア入れないですよ!」
「アホ、ノロマ、マヌケ! AEDはエレベーターホールにあるはずでしょ!? 早く! 渡部さん死んじゃうよ!」
「違います!AEDはカードキーで入るところに設置されているので取りに入れません!」
「じゃさっさと設備課か警備室に連絡を……」
そのやり取りも次第に聞こえなくなっていった。視界もついに暗くなり、意識も遠のき痛みも薄れてきた。ついには体も冷たくなり、手も足も感覚がなくなってきた。
暗い闇に飲み込まれていくような、下半身から沈んでいくようだ。恐ろしくてもそれに抗うことができない。
ここで、死ぬのか。死んでしまうのか。
「人工呼吸すればいいんじゃないですか?」
「私が!? なんで私がやるのよ!? 佐々木クン、男の子でしょ!? やって! ほら、急いでよ!」
「えぇ……」
話し声に混じって様々な種類のスマホのシャッター音が聞こえる。
暗くなっていく視界の中をカメラのライトが照らしている。
なぜ誰も助けようとしないのだ。他にすることがあるだろう。
なぜ誰もメーカーに問い合わせなかったのか。なぜ私が作った張り紙を誰も見ないのだ。
こんな会社、こんな世の中、間違っている。
絶対におかしい。自分が正しい。自分だけは絶対に正しい世界に、生まれ変わりたい。
今際の際にそう強く思った。
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