ワタベの追憶 前編
ただ胸糞が悪いだけの内容です。ワタベの過去の話なので、読まなくても本編に影響はありません。
話しかけられて慌ててブラウザ―――とその下に隠れていたソリティア―――を消した。
「え……、なに? AEDのバッテリー切れてるから、どうしたの?」
「いや、交換しないといけないんじゃないですか?」
会社のデスクで真剣な顔をして動画を見ていたところ、ネクタイの結び方がへたくそなのか首の結び目部分の左側が膨れた若い男が話しかけてきた。部下の佐々木だ。
彼は入社五年目だが、相変わらず仕事は覚えないし、使い物にならない。
「そんなもん、このビルの設備課かなんかのやることでしょ? なんで言ってくるわけ?」
「各階各部署の担当がするみたいなんですけど……。それにメーカーの問い合わせ先、渡部さんしか知らないですし……」
すると佐々木は後ろから何かで叩かれ、くぁっと鳴くと頭が前に下がった。
「佐々木クン、おバカさんなの? パソコン使えないくらい低学歴だったっけ? 調べればすぐ出てくるわよ。座ってることしかできないおじいちゃん困らせちゃダメでしょ」
横から出てきて、佐々木の後頭部を猫のマグカップで小突いた女性は高木だ。バレーボールをやっていたとかで身長が190センチほどある。170の佐々木やそれより小さい私に対してかなり高圧的に来る。
だが、どうやら彼女は自分よりも背の低い人間に対して皆一様にそうしているようだ。ここで一番背が高い彼女は、ある意味皆に平等に接していると言えばそうだ。確かに仕事に対しては熱心で優秀なのだが、言葉のせいで損している。長いことこの会社にいるらしい。何年目だかはわからないが、中途でだいぶ前に入った私より長いことは確かだ。
「高木さん、言い過ぎだよ。佐々木君がかわいそうじゃないか。わしに任せなさい」
痛そうに頭を押さえる佐々木と、ぐりぐりと執拗に彼の頭にマグカップを押し付けている高木を交互に見つめた。そしてパソコンを開き、普段は動画サイトしか見ていないのだが、久しぶりにオフィス系のアプリケーションを開いた。パスワードは……『Pass12346』
「これでよし」
プリンターがガーッと音を立てると一枚のカラフルな紙が出てきた。
“!警告!このAEDはバッテリーが切れています。使用できません!バッテリーの交換をお願いします!”
電池の切れたAEDに張り紙をすることにしたのだ。我ながらいいアイディアだ。
「渡部さん、なんですか、これ?」
さきほどパソコンで作った張り紙を見て佐々木は、何かに不満があるのか、口をへの字に曲げている。
「こうやって張り紙しておけば誰か気づいた人がなんとかするだろう。設備課も気を回してメーカーに連絡してくれるだろう」
横で佐々木は間の抜けた顔をして顎をいじっている。
「そんなもんですかね。いいのかなぁ」
「だいたい、AEDなんて必要なかろう。普段から健康に気を付けていれば必要がないんだよ」
「それ、大丈夫なんですかね?」
セロテープすら持ってこない佐々木をしり目に、オレンジ色のケースに貼り付けた。彼はこういうところがある。自分でやりもしない癖に難癖ばかりつけるのだ。こういう大変な作業を一度自分の手を動かしてやってみるべきなのだ。二時間もかけて作るのがどれだけ大変か思い知るべきだ。
「ちょっと、佐々木クーン、こっち来て。使い物にならないクズなんだからどうせ暇なんでしょ? 手伝ってー」
ちょうど貼り終わったくらいにオフィスの端から品の欠片もない大声が聞こえてきた。高木が佐々木を呼んでいる。バカでかい声でよくそんなことを言えるものだ。それにクズとはなんだ。思っていても言うべきでは無かろう。
それからまた別の日のことだ。佐々木が運転している社用車の中での話だ。
その日は雨が強く車の使用を許可されたので、社用車で少し離れた郊外の営業先へ向かっていた。後部座席で軽いストレッチをしていると佐々木が話しかけてきた。
「そういや、渡部さん。先月の健康診断受けてないですよね? 大丈夫なんですか?」
「君はわしのことバカにしているのかね?いったいどれだけ健康に気を使っていると思っているのだ……。まったく人を見る力がないというのかな」
バックミラー越しに目が合った。そこに映る顔には驚きが含まれているのか、目を見開いている。
「なんかしてるんですか? 運動とか?」
「ああ、そうだとも! 毎日自転車できているぞ!自転車はいいぞ。車が怖ければ歩道を走ればいいし、車道でも歩道でも、どの信号が赤でも止まる必要はないからな。安全第一でしかも早い! 突っ込んでくるバカな歩行者がいなければ、ブレーキなんか握らずに会社にすぐ来られる!」
「……そうですか」
「車のように環境を破壊しないし、歩行者よりも早いから、道路では最も地位が高いということをみんな理解しないんだよ。法律を作るべきなんだ。わしが年甲斐もなく張り切っているのが心配なのか、今朝も妻に危ないから乗るなと言われたんだがね。ただ、どうも張り切り過ぎているのか、自転車通勤のせいで筋肉痛だよ。肩やみぞおちが痛い。ははは」
佐々木の反応は薄い。そしてついに、へー、としか言わなくなった。ひたすら前を見て運転を続けている。
「ただ、わしは一応電車で来ていることになっているから、交通費のことは内緒だぞ。そうやって合理的に小遣い稼ぎをしないとな! ははは!」
佐々木は前を向いたまま、何も言わなくなった。どうやら運転に集中しているようだ。
ぱたぱたとフロントガラスに打ち付ける雨音とワイパーの音が規則的に車内に響く。
しばらく無言が続き、信号で止まると佐々木は再び口を開いた。
「そういえば、健康診断で結果ヤバいと会社がヤバいらしいですよ。なんだっけ……。健康……、何とか法、ナントカカントカ法で、健康診断の成績悪いと会社になんかペナルティあるらしいですよ」
話始めたのはいいのだが、ヤバい、ヤバいと繰り返したので、語彙力をどこかへ置いてきたのではないか心配になった。それと同時に怒りを覚え、開いた口がふさがらなかった。
「全く……、何度も言わせんでくれ。わしは健康そのものじゃないか。最後まで健康であり続ければ気にする必要なんかない。それに、君の言う健康ナントカ法なんて受動喫煙の話だけだよ。もう少し社会に興味を持ちたまえ。本質が見えていないというのかな」
「そうですかねー……。二人に一人は癌の時代にそんなことないと思うんですけどねー……。つか、渡部さん、脂っこいもん好きですし、リスク高いんじゃないですかねー」
目的地が近づいてきたので、後部座席から身を乗り出して案内をした。
「あー、その先、そこ、左に曲がって。そのほうが早い」
「え、でも、そこ一方通行出口ですよ?」
佐々木はバックミラー越しに腑に落ちなさそうな顔をしている。
「なーに言ってるの。わしらは仕事中だよ? 合理的なことして生産性あげなきゃいけないんだから大丈夫だって。確かに、君みたいな若い連中が合理的なことをするのは経験が伴っていないからただの怠惰だが、わしのように熟達した人間が合理的に仕事をするのは正しいのだから。そのわしが言うのだから、大丈夫。ホラ、曲がった曲がった!」
「……そうですか」
ウィンカーの音が雨音とワイパーの音に混じった。左のサイドミラーのあたりがオレンジ色に明滅している。
しかし、曲がった直後だ。
バン。という音と同時に前の座席に顔をぶつけた。顔を起こすとワイパーのリズムが速くなっていた。
佐々木はバカなことをしてくれた。
一方通行から出てきた乗用車と正面からぶつかりやがったのだ。あまりにも不注意で、馬鹿過ぎたので車の中で寝たふりをすることにした。
それから、気が付かないうちに本当に眠ってしまいタクシーでの移動になるまでの間、何をしていたかわからないが、佐々木はとにかく大変だったらしい。
会社に戻ってからも、社用車で事故ったから保険だとかそういうのでかなり怒られたらしい。彼自身の不注意だから仕方ない。渡部が曲がれと指示したと上の連中の前で弁明したところで、運転していたのは佐々木だ。知ったことではない。
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