シロークは妻に懊悩する 最終話
私は不安だった。
シロークは私のかけがえのない夫。でも、心のどこかで前妻を追いかけているような気がしている。そのままマリアムネの影を追いかけてどこかへ行ってしまうのではないだろうかと。追いかけて行ってしまったなら追いかければいい。でも、もしマリアムネの行ってしまった世界だったら、私は追いかけられない。息子と娘を置いて、そんなところへはいけない。
シロークは人間の私を拒まなかった。
日々シバサキや意識だけは高い勇者たちに関係を持てと体を要求されるのが不愉快で、奴をヒミンビョルグの小屋で建物ごと半、いや七割殺しにしてチームを逃げ出した。どこでもいい。とりあえず遠くへ。当てもなく途方もなく遠くへ。そこへ老いたシンヤを連れて行くのはあまりにも無責任かもしれなかった。
しかし、消えてしまったら誰がたった一人の家族である彼の面倒を見るのか。そう思うと置いていくことはできなかった。
それから私たちは人間のいないところを目指した。具体的な行先もなく逃げている途中、雪の森で会ったシロークは敵であるはずの私とシンヤを助けてくれた。
そのとき、私はまだ敵の姿を知らなくて、彼も人間で、敵の国に入ろうとした私たちを殺しに来た追手だとばかり思っていた。敵だと気が付いたのは、熊の事件のさらに後の何週間か経ってからだった。それを伝えるとシロークは、自分たちが敵同士であることには会ったときにすでに気が付いていたと言った。
そのときには、私の中ではすでに恩人である彼に対する敵意は全くなかった。恩人であり、なおかつ自分たちの唯一の保護者であり、絶対的な信頼感すら覚えていた。彼は私の話を聞きたがった。本当に面白いのかどうなのかもわからないような話でも彼は一生懸命聞いていた。私は夢中で話をし続けた。シバサキのことも、生まれた所のことも、何から何まですべてを。
誘拐されると被害者が加害者に親愛の情を抱く場合があるとシバサキはドヤ顔で私に言ってきたことがある。リマだかストックなんとか症候群と言うらしい。奴が私をヒミンビョルグに執拗に監禁しようとしたのはこれが狙いだったのだろうか。不愉快この上ない。
私とシロークの関係は、最初は確かにそうだったかもしれない。だけど、彼と過ごしていくうちに築かれたものは、そんな犯罪心理学が当てはまるようなものではなかった。私は確かに彼を、シロークを深く愛し始めていたのだ。
シロツメクサの花冠を作った時、彼の前妻との間の息子、の話を聞いた。思わずシロークを平手打ちしてしまった。思い返せば嫉妬に狂って思わず手を挙げてしまったのかもしれない。でも、それだけではなかったはずだ。
こちらに来てから家族というのは私にとってはシンヤだけで、その彼ももう長くはなかった。だから、家族で、しかも血のつながりのある実の息子を突き放す彼が許せなかったのかもしれない。そして、私は無理やり結婚を迫って三人で暮らし始めたのだ。シロークをマリアムネの亡霊から解き放ち、その息子は世界一幸せにすると心の中で誓って。
迫った割に彼は私との結婚を全く嫌がらなかった。話をしたとき、照れているのか何なのか、下を向いて気持ちの悪い笑みを浮かべていた。それさえも愛おしかった。独占したい。気持ち悪い顔をしていられるのは、唯一私の前でだけだと世界に主張したいほどに。
結婚してからもシロークはただ、ただ優しかった。優しくて何も言わない彼に何度も暴言を吐いてしまった。それでも彼は変わることなく、優しさを与え続けてくれた。息子が反抗的になっても、娘が生まれても、何があっても。
人間である私をエルフの世界で生きていけるように、ありとあらゆる手段を講じてくれた。エルフとしての籍を与えてくれて、立場、仕事をくれた。見た目が異なるのは自分の魔法で何とかした。シンヤは「私に教育を施した親切な老人」として、首都の療養所で暮らすことになった。
そして、気が付けば私はエルフの没落した名家ヴルムタールの記憶喪失の隠し子となっていた。勉学の機会も与えられた。私はシロークのために必死になった。強烈な魔法が使える私はエルフの世界では重宝された。人間に比べてエルフは魔法が使える数がとても少ないからだ。
するとヴルムタール家再興と称して様々な人が支援をしてくれたのだ。先祖に似てもいない容姿のどこぞの馬の骨を疑いもせず担ぎ上げたのは、その私の魔力に魅せられたからだろう。私は支援する人々の期待に応えることにした。そしていつしか、軍の内部で評価を得て、ヴルムタールという看板を使ってトップにまですぐに上り詰められた。
甘えていたのだろうか。
与えられる喜びに溺れて、私は彼に甘えていたのだろうか。
目の前が明るい。
さっきの、意識が無くなる前の、あの黒いのは相当ヤバい。
死んだのか?
声が聞こえる。
太い声だ。男らしくて、でもどこか頼りなさげな。
ああ、大好きな、声だ。それを聞いていると春の野原のように暖かい。
シロークの声だ。
「リナ! ユリナ!」
目の前がはっきりしてきた。まだぼやけているが、覆いかぶさるのはシロークだ。
待ってて。私は死なないわ。
「リナ!」
シローク、その頬に触りたい。
「……シローク……シローク、ごめんなさい」
「リナ、良かった……」
気が付くと私はシロークに抱きしめられていた。泣きながらおでこをくっつけている。涙が口に入るとしょっぱい。
「死ぬわけないぞ。俺なりに調整してやたら派手にしただけだ。ただ、目の前であれだけの光と爆音浴びたわけだから、しばらくは動けないだろ」
「……チッ、クソが……。派手にやってくれたな……。私の負けだ」
イズミをまっすぐ見られない。こいつにも暴言を浴びせてしまった。私をシロークへと再びつなげようとしてくれた男に。重い腕を上げてシロークの頬に触れた。
「それから、シローク。よく無事で帰ってきてくれた。ありがとう。私はあんたが心配だったんだ」
「いいんだ。私も旅の途中で君が、君たちが心配だった。だが、無事ならそれだけで、十分だ」
シロークの言葉が染みるようだ。いつまでも話し続けた冬の夜のように暖かい。
「イズミ。確かに王子様が来ちまったな。私は何をすればいい?」
「何にもしなくていい。シロークに愛されろ。それだけだ」
「スカしやがって……」
練兵場は静かになった。転がったバケツの横で、夏草が風に揺れている。
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