慟哭の痕 第九話
山小屋の前にポータルを開くと、万年雪の山の風が吹き込んできた。それに舞い上がった風花――気圧差で起きる風に乗ってポータルを抜けてきた雪がチラチラと舞う。
俺が初夏の基地の敷地内から未だに真冬の山にポータルを開く様子を、基地にいる軍人や事務員たちは最初は面白がっていた。
俺も調子に乗って、物珍しがっているそいつらの前に小さくポータルを開いて寒い突風を浴びせたこともあった。
しかし、毎日通勤の為にポータルを開いているうちに当たり前の光景となり、今や誰も興味を示さなくなった。
山小屋のドアを開ければ、照明も暖房も付いていない。窓はぱっきりと凍り付き、触れれば皮膚ごと剥がれそうだ。
「ただいま」と言っても誰かが答えるわけでもない。声は暗闇の中に吸い込まれて消えて行く。
ここに戻る頃まで種火が残っていることを期待して、早朝に薪ストーブに放り込んだいくつかの薪はすでに燃え尽き、ガラスの窓を真っ黒焦げにして天井まで伸びる煙突を黒々しんしんと冷やし切っていた。
消えて久しく煤けた匂いは薄く、すぐに火は点かない。
外から薪を持ってきて放り込み、照明よりも先に強めの魔法で無理矢理点けた。
焚きつけのために細く割ってあった木に火が付き、すぐに太い薪も燃え始めてくれた。
オレンジがぼんやりと部屋全体と一人の俺を照らした。
暖をとれさえすればいい。結局その日も照明を点けなかった。冷たく広いベッドの上の起きたときのままでくしゃくしゃの毛布を被ってその日は眠りに就いた。
夜はすぐに眠ることが出来る。だが、それでも夜は長い。
俺は夜中に何度も目が覚めるのだ。ありもしない左腕の痛みとその痛みが生み出す悪夢で何度か目を覚ます。
アスプルンド博士は、アニエスがいなくなって以降、俺に幻肢痛が無いかしきりに尋ねてくるようになった。
以前はありもしなかった左腕をさする癖が出始めているらしい。
昼間は忙しく、そのようなことは全くない。だが、それでも癖は出ている。指摘されて俺は左腕を意識するようにした。
すると、ふとした瞬間に気がつけば左腕の二の腕から前腕部を擦っているのだ。
最初は気にもならなかったが、三日、一週間と時間が経つにつれ夜間の幻肢痛に悩まされるようになった。
左腕はもうない。どれほど言い聞かせても、俺の脳はそれを受け容れなかった。
いなくなった二人がいたから俺は左腕が無い日常を受け容れられていたのだ。
三度目の目覚めで俺はベッドから身体を起こした。右膝に右肘を乗せ、右手で顔を擦った。汗だくなのは毎度のことだ。
しっとりとした額を拭うと掌が薪ストーブの赤く燃える炭の微かな灯りを照り返している。
冷たく湿った感覚、額の柔らかさ、右掌を通じて伝わるそれらは左腕の痛みを増した。
夜はそれの繰り返しだ。夜は短い。
だが、明日は非番だ。寝られないというなら、眠れるまで寝起きを繰り返そう。そして、呼び出しがかからないのであるならば、もう一日中眠って過ごそう。




