囚われに羊飼いは西へ 第十話
「生憎、私にはペンがありませんので。血判でもしろと? そのためのナイフもありませんけど」
小首をかしげて片眉を上げて、わざとらしい表情を見せつけた。
「これは失礼しました」と言いながらラビノビッツは左手を挙げ、人差し指をくるくる回した。
すると、先ほどラビノビッツと同時に入ってきたヴァーリの使徒がテーブルへと近づいてきた。
ラビノビッツの真横で止まると、袖の中を探りペンを取り出して私の右手のすぐ傍に静かに置いた。少しでも転がれば小指に触れるほど、近くに。
私はそのペンを見た。驚くことはない。それはよく見ていたペンだった。
しかし、これは……。視線の見えないヴァーリの使徒をちらりと見た。
顔はどこも見えないのだ。表情が言葉に出る目も、感情が浮き出る頬筋の覆われた頬も、見ることはできないので、何も分かるわけがない。
だが、なるほど。
ラビノビッツはペンを見ると、「君、いけないね。私物のペンしかないのかい?」と顔をしかめて使徒を睨みつけた。尋ねられた使徒は何も言わずに頷くだけだった。
ラビノビッツは「仕方ないですね」とぼやくと、私の方へ向き直り「この際書ければいいといえば、そうですね。あなたは今ペンを選べるような立場でもありませんし。では、これでサインを書いていただけますね」と微笑んだ。
笑顔のまま「書いていただかなければ、新たな覇者と顔を合わせることはないでしょう」と脅すようにわざわざ付け加えた。
「仕方ありませんね」
脅されては仕方ない。何事も命あってのものだ。
私はペンを取り上げ、キャップを開けた。使い慣れたペンは手によく馴染む。
「それにしても、実に素晴らしいペンですね」と紙のサイン欄にペン先を近づけながら言った。
「書きやすそうで、これは、奇遇にも」と言いながら、人差し指を軸にして親指と中指でペンを弾いて回した。
「“羊飼いの如何様”」と人差し指と親指の間に収まると止めて力強く握りしめた。
握りしめた拳でテーブルを叩き、「私の杖です!」と怒鳴ると同時にペン先をラビノビッツに向けて小さな火の玉を投げつけた。
ラビノビッツの身体の中心、胸骨突起の辺りに命中した火の玉はそのまま彼の身体を貫通し、壁にぶつかって消えた。
ラビノビッツは何が起こったか分からないような顔をして自分の身体を見た。口から血を吐き出すとそのままテーブルにゆっくりと倒れていった。
血の臭いがむわりと鼻の奥を突くと、ぬるりと血の池が広がった。血は多く、ラビノビッツを中心に円形にテーブルの端まで広がり、行き場を無くした血液たちはだらりと垂れ下がった腕を伝い床に落ちた。
最初の一滴が地に足を付け、冠を作りまき散らすと、それに続いていくつも落ちていった。
私は目をつぶり大きく胸くその悪い血の悪臭を肺いっぱいに吸い込んだ。そして、ケーリュケイオンを渡してきたヴァーリの使徒の方へと向けた。
ラビノビッツが撃ち抜かれても動揺一つ見せていない。何らかの意図を持ってこれを渡してきたのは確実だ。
「あなたは何者ですか」と尋ねると「白々しいな。マダム・エル」と答え、白面布を取った。
「あなたは……!? なぜ?」




