シロークは妻に懊悩する 第七話
リナたちがその村にとどまる意味は最初からない。しかし、もう逃げだすことはないだろう。
思った通り、彼女たちは脱走することはなくなった。熊との遭遇から数日たち、二人の、特にリナの怪我もだいぶよくなってきた。気持ちの問題もあったのだろうか、脱走前に比べて怪我の治りも早くなっていった。もう一人の男性は以前ほどの衰弱は見られず安定しはじめた。話ができないのは相変わらずだが。
話せない彼とは対照的に、リナは少しずつ話をし始めたのだ。
彼女がいたチームのこと、どこから来たのか、杖はガマズミの木だとか、他愛もない話もした。しかし、どれを聞いても不思議な話ばかりで面白く、そして尽きることがなかった。私は眠ることも忘れて夜通し話を聞いたこともあった。これほどまでに誰かの話を聞いたのは、前妻以来だった。
やがて冬の終わりが近づくと、シンヤを車いすに乗せ三人で外を出歩くことが多くなった。
もちろん、最初は不安だった。シンヤが床ずれするからと言って出たがる彼女が、そのままどこかへ行ってしまうのではないか、彼女の話を聞くことがもうできなくなってしまうのではないかと。しかし、不安はすぐになくなった。心配とは裏腹に陽の光をいっぱいに浴びた彼女はますます饒舌になっていったのだ。
それからも私たちの話はとどまることはなかった。いつも彼女に話させていてばかりだった私は、気が付けば自身の話をしていたのだ。
どんな家に生まれて、どんな風に育って、もちろん、妻が熊に殺されたこともだ。しかし話を聞いたリナは、私を幸せ者だと言った。彼女は孤児のような状態からしか記憶がなく、家族についてはそれ以前のことしか覚えていないらしい。それに比べれば衣食住に困らず、教育機会も与えられ、結婚までして普通の幸せを、普通に享受できて私は幸せ者に思うようだ。悲しい話に同情してほしかったわけではないが、予想外の返答に私は困惑してしまったこともある。
そうして過ごしていくうちに私は彼女に再び同じ質問をした。
「当てもなく遠くとはどこなのか、そこでなにをするのか」と。
また彼女は応えてはくれなかった。横に並んで座る彼女の顔は日差しにまぶしそうに目を細めていた。しかし、遠くを見つめているだけで悲しそうな顔ではなかった。いずれ答えをいつか聞くことができるのではないかと思い、私は常に彼女の傍にいるようになった。
もうシロツメクサが咲いていた。草の上の雪を川に流しつくしたあとに、あたたかな日差しの季節が訪れたのだ。リナは春の野原に私だけを連れ出し、はだしで駆け出していた。
シロツメクサの花冠を作るリナに、それまで何時間も何日も共に過ごしたのに一度も話したことはない話をした。たった一人の息子の話だ。なぜか息子の話だけは一度もしなかったのだ。きっと彼を放棄してしまったという罪悪感に苛まれていて、自然とさけていたのだろう。
話をすると彼女は手を止めて、私をまっすぐに見つめた。あまりに真剣なまなざしに顔が熱くなるのを感じた。直視できずに視線を逸らすと、平手打ちをされた。
突然のことに驚いて彼女を見ると、襟を掴み覆いかぶさってきた。そして彼女は言った。家族なのになんで別々に暮らさなければならないのか、と。
私は、会わせる顔がない、そして、私一人では育てられない、と言い、彼女を見ると「子育ても当てもない旅みたいでいいじゃないか」と笑った。
逆光の中ではにかみながら笑うリナはこれまで見たことがない笑顔だった。リナの中でだけではなく、世界のどこを探しても見つからないような、誰にも似ていない、一瞬のその笑顔はたった一つで、私のすべてだった。
そして彼女は私から離れると、私の頭にその花冠をそっと載せた。
ほどなくして私は仕事を変えた。と言っても役所勤めは変わらない。
私、リナ、息子の三人で暮らすことにしたのだ。
息子を迎えに行くとき、放ったらかしにしてしまったことを責めるか、それとも、私のことなどもう覚えていないかもしれないと不安だった。
しかし、久しぶりに会ったとき、彼は泣きながら私に抱きついてきてくれた。親切な親せきは、息子に絶えず私の話をしてくれていたそうだ。
小さな手が必至で私の背中を掴んでいる。
私は、死ぬことがすっかり怖くなってしまったのだ。
――――――――――――――――――――――――――
「そこから先は?」
「いや、ここまでだった」
オージーは鼻から息を大きく吸い込み、目を細めて満足そうにしている。新婚の彼の心には響いたのだろう。
レアは肩をなでおろした。踏み込んだ内容はなさそうだと安心したようだ。そして「そうですか……。毎回話に水を差すようで申し訳ないです」と元の位置に戻った。
馬車の隅で腕を組み、寝息を立てているシロークを見た。揺れる荷台に備え付けられている椅子は固いので寝心地は最悪だろう。眠りながらも辛そうな顔をしている。
そろそろ御者交代の時間だ。そう思うと同時に馬車が止まると「イズミ、そろそろお願いします」と御者台からカミュが幌の中をのぞき込んだ。俺は馬にも乗れないし、馬車も操るのもイマイチなのでオージーにサポートを頼んだ。しばらく休憩したのち、南へ向かい再び動き出した。
御者台に並んで座りながら、手綱を持って目を合わさずにオージーに話しかけた。
「なぁ……、さっきの話なんだけどさ、最後の方、駆け足じゃなかった? もう一人の男はどこへ行ったのさ?」
「……そんなことないさ。男の行方は……、さぁな、話してなかったよ」
横目で見るオージーは表情を変えずに前を見ている。しかし、答える前にわずかな間があった。ふーん、と鼻を鳴らして俺は再び前を向いた。
そして、それから大きな襲撃も魔物との遭遇もなく、道は進んでいった。
何日か進み続け、一応の目的地である最南端の街リティーロが見えてきた。黒い壁の前に建物が並んでいるのが見える。初めて訪れる街の不気味にずらりと並ぶ大きな壁が気になり双眼鏡で覗いた。
最南端ということは最前線の街ということになる。それだけあって守りは堅牢だ。地図で見ると橋を中心に半円状に強固な壁がある。橋までは距離があるのだが、ここまで重厚な壁をよく拵えたものだ。真っ黒だが黒光りはせず、マットな質感の壁には強烈な魔術障壁が組み込まれていて、魔力を持つものは磁石に弾かれている様な感覚を覚える。
それにとどまらず、物理的な強化も施されているようだ。どれくらいされているかわからないが、勢い良く突っ込んだところで傷一つつけられず、突っ込んだ側が死ぬくらいだろう。
俺たちから見えるのは連盟政府側からの眺めだが、理由は分からないが両側にそれが施されているらしい。まるで何人たりとも入れないが、出ることも許さないように横たわっている。
近づくにつれて大きくなってきた壁の前に建物は多くあり、かつての基地の街のようだ。酒場や飲食店、床屋などが見える。しかし、どの建物も人の気配はほとんどない。あるのは何十年か前までは活気があった痕跡とわずかばかりの生活感だけだ。最低限の管理されているのは軍事施設だけで、わずかな人の気配がある。
「40年前の戦役以来、相手側との交流が一切ありません。具体的な交渉も調印もなく休戦状態ですからね。直後に壁が作られて、そのあとしばらくの間はもっと活気がありました」
シロークが御者台に上ってきて様子を見はじめた。
「ああ、街には入らないでくれ。壁沿いにもう少し進んでくれたところに迎えがいるはずだ」
道を逸れて壁沿いに走らせた。
延々と続く黒い壁の横を走り続けて30分ぐらいたっただろうか、すでに建物はなくなり壁と森しかなくなっている。わずかながらあった人の気配もすっかりなくなってしまった。市街地からはだいぶ離れたのだろう。
前方に小さく人影が見えて双眼鏡を覗くと、股を広げて腰に腕をつき仁王立ちしている女性が見えた。
シロークの迎えにきた女性のようだ。つまり、あの気の強いリナさんという人だろう。
彼とのキューディラでのやりとりを見ている限り、初対面でもきつい言葉を浴びせるのは間違いないだろう。少し会うのが怖い。
カミュが幌から顔を出したので双眼鏡を渡すと、覗き込んでうん? と言いった。目を凝らしているのか眉が寄ると、突如立ち上がり声を荒げた。
「ユリナ!? ユリナじゃないですか!?」
読んでいただきありがとうございました。感想・コメント・誤字脱字の指摘、お待ちしております。