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彼女が選んだもの 第二十五話

 身体が痛い。痛みは特に腰に来ているような感覚がある。

 痛みの感覚だけだったが、痛みに意識がたぐり寄せられて目が覚め始めた。


 昨日の夜は完全に酔っ払っていて、テーブルか、何か硬いものの上で突っ伏したまま眠りこけてしまったところまでは覚えている。

 痛みを避けるように意味など無いと分かりつつも寝返りを打った。身体を転がすと肩や腕に包み込むように軟らかい物が当たった。

 アニエスではなく、ベッドのリネンのようだ。

 どうやら俺が潰れてしまったあと、アニエスがベッドまで運んでくれたようだ。彼女は父親譲りなのか、酒にはめっぽう強い。

 二人ともよく飲んでいて久しぶりに会話も弾み、寝覚めが痛みであっても悪い心地では無かった。


「ああ、アニエス。またごめん。ありがとう」とかすれた声でそう言った。しかし、声は寝室に虚しく響いて、置いてある家具に染みこむように消えていった。


 アニエスは既に寝室にはいないようだった。朝食の準備でもしてくれているのだろう。

 しばらくそのままベッドの中でうだうだと過ごしていれば、だらしない俺を起こしに顔を出すだろう。


 だが、目をつぶると耳は澄まされ、リビングの方からは全く音がしないことに気がついた。

 調理をするときにでる金属の当たる音が木材の壁に反射してこもった音も、彼女が眠っている俺に気を配り音を抑えながら調理している音も、足音と軋む床の音さえも聞こえてこないのだ。

 そこにあるのは、ただまだ温かい薪ストーブの煙突に空気が流れていく、低く長い音だけだった。


 そして、いつもなら目を覚ました物音に気がついて様子を見に来てくれるのだ。

 だが、開け放されたドアから三つ編みに結んで左肩から下ろしている紅い髪と昔から変わらない仕方なさそうな微笑みが現れることは無かった。


 尋ねるように名前をもう一度呼んでみたが、いつものように、どうしたんですか、と返ってくることはなかった。


 重い頭を引きあげるようにベッドから身体を起こした。

 閉じられたカーテンの隙間からもう高い朝日が差し込み、埃の幾何反射をリビングの方へ真っ直ぐ伸ばしていた。その先は誰もいない図書館のように静まりかえっていた。


 次第に感覚が目覚めていくと、何の匂いもしないことに気がついた。

 調理をしているなら何かの焼けるような匂いとコーヒーの匂いがして、聴覚よりも先に空腹を呼び覚ますはずだ。


 そして、俺はやっと気がついた。山小屋の中にアニエスはいない。

 外へ薪を取りに行ったわけでもなく、積もった雪をどかしに行ったわけでもなく、分かる範囲内の近くにはいないということに。


 胸騒ぎにさらに目が覚め、動くと頭痛の走る頭を抱えてリビングに入った。

 テーブルは綺麗に片付けられていた。二人で選んでノルデンヴィズで買い、気に入って使っていたクロスは、テーブルと角がきっちりと揃えられ、まるで何日も使っていなかったようにぴっちりとしていた。

 以前のヤシマの家のような整然さを思い出した俺は動悸が起こるのを感じた。

 テーブルを見回し、あるものを探していた。無い物だと思って欲しいと思うにつれ、心臓は脈打ち、自分の鼓膜に鼓動が聞こえ始めた。


 テーブルにはそれはなかった。少しばかり安堵した。

 鼓動が弱まり始めリビングを見渡すと、キッチンとして使っていた台の上にお皿が置かれていることに気がついた。

 アニエスが朝食としておいていってくれたのだろう。重ねられた食器を開けると昨晩のエゲケーが残っていた。だいぶ時間が経ったのだろう。上に乗っているバジルが黒く乾いて縮れている。


 だが、再び蓋をしようと持ち上げたとき、見つけてしまった。四角く、二つに折られた紙切れ――手紙が食器の下に挟まれていたのだ。


 視界に入った途端、早かった鼓動は強く大きく打ち、心臓が口から飛び出るような気がした。

 震える手でそれを掴み恐る恐る開くと、アニエスの華奢な丸い文字で文章が綴られていた。

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