彼女が選んだもの 第十九話
午後も負傷した兵士たちは多くはなかった。
クロエのばらまいた情報と強まった雨脚により、前線の広範囲では戦闘が起こることはなかったのだろう。
以前は脅威的な速度で攻めていた北公も、塹壕を掘って対応し始めた連盟政府相手に今では五メートル進むのにさえ時間がかかっている。
どちらも塹壕を掘っていて、この雨では泥でそれどころではないのだろう。
泥の中に突き刺さっている塗装がはげたサッパースペードも、誰かが引っかけて千切れた風に揺れる軍服がついた鉄条網も、降り注ぐ雨にうなだれて今日ばかりは静かに水の粒を滴らせている。
今日の水たまりは振動で波紋が起きない。波を起こすのは雨粒だけ。煤混じりの石の臭いと雨音だけが焼けただれた広い大地に響いている。
致命傷の兵士たちはほとんどおらず、その時間でこれまで治療してきた兵士たちを段階的に治療していき、その日は交代の時間となった。
ヒミンビョルグの山小屋に戻ったのは、二十一時過ぎくらいだった。いつもよりもだいぶ早い時間に戻ってこられた。
まだ明るい山小屋付近は陽の沈む前の薄明かりの中で雪原とトウヒの森は濃紺に染まっていた。そして、久しぶりの雪が降っていたのだ。
ノルデンヴィズにしつこい雨を降らせていた雨雲は北へと流れ、天を突くように高いヒミンビョルグにぶつかって這い上がり、万年雪の山の低い気温によって雪へと変わったのだろう。
雪ではあるがぼったりと水分が多く、軒下や庇の下では建物から放たれる熱気で溶けている。
溶けた氷がつららになっているがあまり長く伸びてはおらず、先端から滴る水の量も多い。
色も溶け始めのように透き通り、薄暗がりの山奥の濃紺と空一面の灰色を映し出している。
小屋にはアニエスが珍しく早く戻っていて、暖を取っているようだ。
「ただいま、珍しく早いね。俺もだけど」と尋ねると、うん、と頷きながら視線を逸らした。その後も視線は落ち着き無く、棚やテーブルに流れ続けてあまり合うことがなかった。
それがどうも様子がおかしく感じたのだ。きっと疲れているのだろうとその場では深く尋ねようとはしなかった。
時間的には遅いので料理を一緒に作ろうという気にはならなかった。だが、タイミングが合ったので久しぶりに食事を一緒に取ることにした。
ウミツバメ亭はバータイムで食事にはありつけそうではなく(言えばカトウはラーメンとか作ってくれそうだが)、いつか通い詰めていた工芸区画の店にも顔を出しづらいので、基地の食堂へと向かった。
給仕係は深夜帯に訪れることがほとんどだった俺たちの顔をすっかり覚えており、サーモンやローストビーフのスモーガストを作ってくれた。
さらに、ソーセージにザワークラウトをおまけに付けてくれた。
それをわざわざ食事を山小屋へと持ち帰り食べることになった。
テーブルの上に貰った食事を置くと、なかなか豪華な見た目になった。
コーヒーを淹れて二人で広くなったテーブルに並んで座り、食べ始めた。
薪として貰っていた麓の木は乾きが弱く、煙も多くパチパチと木が弾ける音もかなり多い。温まった煙突が膨張して太い金属の筒を叩くような音が響いた。




