シロークは妻に懊悩する 第六話
カミュが御者をしているある日のことだ。
シロークは野宿の連続で少し疲れている様子だった。ぐっすりと眠る彼は、乗り心地の最悪な馬車がどれだけ揺れていても起きる気配はなさそうだ。
レアと日程調整の話も終わり、ぼんやりとしていたらオージーがふんふん鼻を鳴らしながら横に座ってきた。顔はてかてかに光っている。元気があるからと言うよりは、徹夜でもした後の光り具合だ。
「イズミ君、シロークさんは素晴らしい方だ……。妻を心から愛しているのだよ」
愛を愛することよりも試験管を振り回すことに愛情を持っていそうな研究者である彼が、シェイクスピアを一晩中読んだあとのようなことを言い始めた。話しぶりは彼にしては珍しくねっとりとしていて、機嫌がいいのか、寝不足なのか、少し気持ちが悪い。
「ど、どうかしたの……?」
「彼の妻の話を一晩中聞いてね……。素晴らしい夫婦だよ」
向かいに座っていたレアが振り向くと、オージーを険しい表情で見つめている。
「オージーさん……、彼からどのような話を聞きましたか?」
ああ、と笑顔になると彼は目を細めて言った。
「レアさん、心配しないでください。馴れ初めしか聞いていませんよ。お話ししましょうか?」
「……ぜひ」
訝しむレアを気に留めず、話を始めた。
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意識が戻ったリナはまず暴れた。
しかし、抑える間もなくすぐに今度は激痛に悲鳴を上げ、すぐにおとなしくなった。突然暴れだしたリナを怖がる村人たちには、彼女は大きな怪我と少し打った頭のせいで錯乱していると伝えて誤魔化した。
それから事情を聴くために、作戦会議だと言い人払いをした。自分たち三人以外、誰も部屋にいないことを確実にしてから私は彼女に事情聴取を開始した。彼女はとある勇者の一団にいて、そこから逃げてきたらしい。
担いでいたもう一人の男性もかつての仲間であり、友人だそうだ。その老いた見た目からはにわかに信じがたいが、年もそこまで離れていないと言った。これからどこへ行くつもりなのかと聞くと、当てもなく遠くへ、できるなら故郷へ帰ると言った。そこより先には人間の故郷となる町はないと言うと、彼女はそれ以来黙ってしまった。
当てもない遠くへ、いったいどこへ行くつもりなのだろうか。そして、どうするつもりだろうか。彼女の一言は、自分が思っていたことを客観的にさせてしまったのだ。怪しければ殺してしまえばいいと思っていたが、そうもいか無くなってしまった。
意味があるとは思えないが、私は彼ら二人をしばらくそこで拘束することにした。村人たちに怪しまれないようにするために、二人を治療したその建物すべてを一時的に借りることにした。そして、本部には、作戦に支障が出るものを排除するために帰投が遅れると連絡を入れた。
その時点で遅延理由を細かく聞かれることはないので、二人の怪我が治り、それからどうするかを決めた後にのんびり言い訳を考えることにした。しかし、何日かしても彼女は黙ったままだった。
数日もすると、彼女の怪我は快方に向かい体力も戻ってきた様子だった。
そうなるとどうするかなど、容易に想像がつく。脱走したのだ。
気が付いたときには彼女の杖はなく、もう一人の男も担いで逃げ出していた。後から窓につけた鉄格子は焼き切られて赤く湯気を上げていた。手負いと侮って杖を回収しなかった私のミスだ。窓から見えた空には月が浮かび、風は吹きぬけると不気味にカーテンを揺らしていた。
まだ雪の残る森は暗く、決して安全なものではない。そして体力のないものには容赦のない寒さだ。水はたちまち凍り、天は透き通るようで、雪は解けて再び凍りを繰り返し、樹木や凍った滝は凶器のような硬さと鋭さのつららを作っている。そんな夜にまともな服もまとわずに逃げ出すのは大間違いだ。
私はすぐさま追いかけた。当てもない先はどこへたどりつくのか、そして、そこで何をするのか。その疑問に対する答えを得る機会を、ここで彼女を救わなければ永久に失ってしまうような気がしたのだ。
しかし、どこへ行ったのか全く手掛かりがない。見知らぬ土地で方向感覚のない二人は目標をもって移動することが考えられない。つまり、そのほうがかえって探しにくいのだ。だが、鉄格子はまだ赤いほどに熱かった。そう遠くへ入っていないはずだ。
その時、静かな夜闇に何かの鳴き声が聞こえた。
低く響き渡るような音で、木々を揺らして私の鼓膜に届いたそれは、間違いない。熊の咆哮だ。距離はあるが、はっきりとわかるその声は狂暴と悲壮感がにじみ出ていて、おそらく『穴持たず』だ。
そうだと確信するとともに汗が額に噴き出た。頭の中を213年の冬が蘇る。マリアムネの死が、形のないその記憶が目の前に壁のように立ちはだかり、足腰を震えあがらせる。
妻は早雪の森の中で、性別もわからないほどに食い散らかされて、亡骸は見ないほうがいいと言われるほど無残な状態だったらしい。亡骸を見つけたのは学生時代からの友人で、当時は法律を学んでいた。
彼も立ち会った検死の結果、妻を殺したのは熊だと結論付けられた。40年前もしかり、私たちの一族は熊にいわくがあるようだ。熊たちを恨んでいるわけではない。どの熊を殺したところで仇討にはならないことはわかっている。だが、鼓動が怒りのせいで速まるのを感じ、咄嗟に声のするほうへと走った。
すると、熊は前足を上げ、自らの体重を乗せて二人へと倒れ込もうとしていた。今にも覆いかぶさりその爪で引き裂こうとしていた。もし仮に引き裂かなかったとしても、重さで潰されてしまうだろう。
私はさらに走る速さを上げた。
そして、半ばやけくそになった私は前足と彼女たちの間に滑り込み、二人を助け出した。わずかに触れた熊の爪が私の服の一部を裂いた。
ある程度の距離を取り、腕の中の二人を下ろすと、熊に向って対峙した。
どれほど長い年月を生きていたのだろうか。後ろ足で立ち上がった熊の体長は、森の中の木々と変わらないような大きさで普通の成体の熊の倍はありそうだった。年を追うごとに大きくなってますます冬眠することができなくなり、体の成長とともにその狂暴性を増していったのだろう。
加えてその年の豪雪のせいでいつもの早雪の時期よりもさらに食物が減り、熊たちの飢餓を煽っていた。自我や恐怖心を失ってしまうほどの空腹にあえいで栄養失調を起こし、気高さの象徴であるはずの豊かな毛はところどころ抜け落ち禿げて受けてきた傷の数々をあらわにし、大きくても痩せているのがわかり、死ぬこともできず生きながらえてしまう頑丈なその姿は哀れで、もはや普通の熊ではなかった。
破れた服の邪魔な部分を引き裂き、おぞましい見た目にひるんではいけないとすかさず剣を抜いた。月の光を跳ね返し煌めく私の剣は鋭利ではあるがあまりにも細く、何かを切り落とすよりは突き刺すことを目的として作られている。それでは熊の腕は切り落とすことができないだろう。まぶしく怪しい月明かりの下に導かれてしまった弱い私の唯一の拠り所である武器を折られてしまうのではないかという恐れを隠しながら、距離を取りつつ睨み合った。
だが、どうしのぐかを考える間すら与えんとするかのように突如突進をしてきたのだ。どうやら賢さもあるようで、まず狙ったのは私ではなく手負いの彼女たちだった。直前で進行方向を変えるとまっすぐ彼女たちに向かっていった。
しまった、と思いそちらを見ると、立膝の彼女は怯むことなく杖を熊にまっすぐ向けて魔法を唱え、熊の眉間に火の玉を当てた。威力は弱いが、以前よりは強くなっていた。力も戻っていたようで足止めをすることができた。その隙に二人を抱え、熊の前を離れた。
少し距離を取れたが熊はすぐに気づき追いかけてきた。もはや逃れることは不可能なようだ。そして、もしこのまま熊に背中を向けて村に戻れば、人里に導いてしまうことになる。何か言いたげなリナに、まだ魔法が使えるのかと尋ねた。おとなしくなっていた彼女はきっと私を睨むと頷いた。協力してくれるかどうかはわからないが、彼女に指示を出したら火の玉を使うように言った。彼女の了承を待たずに私は動き出した。
まず二人から注意をそらすために、高い木にできた大きめの氷柱に向かって火を放つように指示をした。高いところから落として勢いが付けば熊を運よく攻撃できるかもしれないからだ。やらなければ死ぬと彼女も覚悟したのだろう。彼女はためらうことなく魔法を放ってくれた。本来の狙い通り大量のつららを落したことで熊の注意は私に向いた。しかし、硬い体に氷柱をぶつける程度の攻撃が効いているとは思えなかった。
しかし、それでも何度も行った。手負いの彼女に何度も魔法を討たせてしまい、威力もどんどんと落ちてきてしまった。いつしか空気に熱がこもり、辺り一帯の雪と氷は解けていくつも水たまりを作り始めた。
すでに凍り始めた水たまりの間のわずかな地面を縫うように動き、私は熊の前に立ちはだかった。リナに魔法の指示は出さず、足元にあった小さな石を拾いあげ、移動しながら熊に向ってそれを繰り返し投げた。執拗なつららの攻撃にいら立ち、その投石をきっかけについにいきり立った熊は前足を上げ私に襲い掛かった。これまで以上に爪を立て、一息で体を真っ二つにされてしまうそうだ。
だが、この時を待っていた。
熊の足元の水たまりはすでに凍っていた。石で挑発しながらできる限り大きな凍った水たまりまで誘導したのだ。襲い掛かる熊はそれに気づかず、前足を上げたのでバランスを崩しよろめき始めた。
私はリナへ叫んだ。熊の後ろ脚を魔法でねらえ。それと同時に熊の下へと滑り込んだ。遅れて魔法が足に当たり、熊はついに前のめりに倒れ始めた。
間に合えと念じながら熊の下へと滑り込む。そして細いが鋭い剣を真上につきたてた。倒れてくる熊の胸部に剣が刺さるのを見届けると、剣から手を放し倒れていく股の下を滑りぬけていった。
大木が倒れるような音がして振り返ると、うつぶせに倒れた熊の背中から血にまみれた剣の切っ先が突き出ていて、月明かりに不気味にしらしらと光っていた。剣に付いた熊の血はまだ温かく、湯気を立てていた。
熊は即死だった。器用に骨を避け、心臓を貫いたようだ。
安心してしまったのか、力が抜けて膝から崩れ落ちてしまった。
もし途中で剣が折れてしまい、殺せなかったらと思うと首筋がピリピリした。そして、興奮が冷めるよりも早く、ひどい寒さが体の芯に向って入り込んできた。
このまま安心してはいけない。ほかの熊もいるかもしれない。それに手負いの二人にはこの寒さはまずい。私は急いでリナの元へ戻り、そして彼女たちを抱きかかえ村へと戻った。
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