彼女が選んだもの 第九話
「コーヒーをいただけるかしら。彼と同じもので。砂糖もお願いしますね。あと、そうね。何か甘いもの……、マリトッツォもいただけるかしら」
この店での密談にはルールがある。マスターが絶対なのだ。
場所を提供する、そこで話された内容の一切を黙っている、その代わり、何か必ず頼まなければいけないというものがあるのだ。
それさえ守れば、マスターからは通報も密告もされない。
売り上げ重視のむき出しで商魂たくましいようなルールだと思うだろう。
だが実際は、クロエが言ったとおりに諜報活動は闇から人混みへとシフトした。そのように自然にした方が最近はむしろやりやすい。
密談者たちに時代の流れに合わせた適切な場所を提供しようというマスターの気配りなのだ。
とはいえ、クロエはがっつりケーキまで頼むようだ。
「のんびりお茶する気か? 悪いが手短に頼む。俺は今戦地で負傷した兵士たちの治療をしてるんだ。今日は少ないみたいだが、早く戻らないと気が気でない」
俺の言ったことなど聞こえていないかのようにふんふん鼻を鳴らしながら、メニューを楽しそうに眺めている。
ノルマの注文も済んだというのにこいつは今度はカリーブルストでも頼むとか言い出すのではないだろうか。
しかし、それはなさそうだ。俺の言葉に反応して顔を上げると、眉を上げて目を見開いた。そして、
「それについてはご安心を。あちこちの前線の指揮官に、昼に悪天候を突いて総攻撃の情報があるから防御に徹しろ、こちらからは一切攻めずに使わせるだけ使わせろ、という偽の情報を掴ませてあります。
銃でも魔法でも、この雨では求めるような威力は出せません。悪天候、つまりピンチはチャンスと言って兵士を無理矢理突出させる愚将がいなければ、新規の負傷兵たちは今日は少ないでしょう」
と言ってメニューを閉じてテーブルに静かに置いた。
「それはお気遣いどうも。で、何だよ。事と次第によっちゃ、今すぐお前をノルデンヴィズの司令部に突き出すぞ? ここにいるだけで充分な理由になる」
するとマスターがコーヒーとマリトッツォ二つを持ってきた。クロエはかなり甘党のようだ。
テーブルに置かれると「どうも」と微笑んだ。だが、すぐに表情を無表情に戻し、俺のカップにおかわりを注ぐマスターを、顎を引き気味にして見つめている。
マスターがカップを持ち上げ、ゆっくりと注ぎ、再びソーサーの上に置き、そして、彼が足音を立てずにその場を去るまで、鼓動や呼吸も止めているかのように静まりかえっていた。
「“レッドヘックス・ジーシャス計画”」
マスターがいなくなると同時に出てきたコーヒーに口を付け、一口飲んだ。そして、カップから上がる湯気越しにそう言った。




