彼女が選んだもの 第四話
目も当てられない傷痍軍人たちをなだめ、治し、そして看取るだけの日々ではなかった。
治癒魔法を効率的にかけられるように僧侶、生体魔術学者、基礎治癒魔法履修兵(要するに衛生兵)を集めてセミナーを開いていた。
彼らは俺の話をとても真剣に聞いていた。死に瀕していても、生きているのならその者を一人でも多く生かしたいという彼らの熱意は凄まじかった。
しかし、残念なことにその中にいた者たちも前線に赴いたまま次のセミナーには参加しなかったり、悲惨な姿で帰ってきたりがほとんどだ。
昨日、角に座って真剣に聞いていたスヴェンニーの兵士に、次の日には治癒魔法をかけたことも何度かあった。
俺は彼らを見る度に何かを間違えているような気がしてならなかった。
――正直、分からなくなっていた。
俺はセシリアの死を嘆いた。兵士たちも等しく死を迎えていった。そこに抱く感情はどちらも辛いものばかりであった。
だが、どうしてもそこにある嘆きは平等ではなかったのだ。
人は死を多く目撃すると次第に慣れると聞いたことがある。それは血のように真っ赤な嘘だと、俺は身をもって理解した。
死に慣れるのではない。そして、死は慣れるものではない。
本能で誰しも回避すべきものであり、一度しか訪れないそれに慣れるなどと言うのは有り得ない。
死に至るまでの過程に慣れるのだ。そこに並ぶ命の嘆きに慣れる。
慣れる、というのも俺は気に入らない表現だ。
自分にとっての命の優劣を付けて他人とみなし、他人であるからこそ痛みを共感せず、治療が出来るのだ。
他人に訪れた死そのものよりも、そこへと向かう他人たちが味わう恐怖、絶望、苦痛を自らもいつか味わうのではないかという極めて自分本位の恐怖、それから自分を守ろうとしているだけなのだ。
前線は地獄の有様なのだろう。ここでこうして穏やかに暮らせるのは幸せだ。
仮に、俺が前線に出たところで、人を殺せない兵士など邪魔でしかない。そう言い訳を付けて目を背け、代償行為として戦争を終わらせようとしている。
それも前進がなく、ひたすらに治癒魔法をかけ続ける。




