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彼女が選んだもの 第三話

 最近、アスプルンド博士が雷鳴系の魔法を使った脳に直接視覚的シグナルを送る義眼を開発したそうだ。


 だが、あくまで俺自身の価値観に基づいているのだが、それは本当に「見た」と言えるのだろうか。


 例えば、夕焼けに染まる黄金のススキの原っぱを、それを通して見たとしよう。

 濃紺が一番星と共に足早に追いかけてくるあかね色の大きな空の麓で風が吹けば、どこまでも広がる黄金の大地は波を打ち歌う。

 金色は黄色に、黄色は黄金に、ひとえに金色と言っても光の当たり具合でススキの原野に無限の色を映し出す。

 義眼の兵士はそれに涙するだろう。世界は殺し合いをしていても美しいことに感動する。

 いつかここも地を這う塹壕と泥の川に飲み込まれて、砲火と魔法で焼き尽くされて埃っぽい白と黒だけの世界になるのかと悲しむ。


 兵士が泣いたのは、生身の目が浴びた光ではなく、義眼の中のレンズが集めた光を組み込まれた雷鳴系の魔石が微弱な電気に返還し、視床下部を中継し大脳新皮質へ情報を送りつけたからだ。


 それを「見た」と言えるだろうか。


 生身の眼球としていることは同じだ。だが、それでも肉体を通して見たとは言いたくない。


 あくまで言うが、スピリチュアリズムの話をしたいわけではない。

 だが、戦争と言う命のやりとりを目の当たりにすると、どうもそういったものに傾倒しそうになることがしばしばある。


 特にそれを感じるのが、義眼や義手、義足などが生身と同じことをしていると思い込んだときだ。


 脳は眼球を失っても、義眼により再び情報を得ることが出来るようになった。それはつまり「見た」ということだ。

 それは義手も義足も同じであり、自らの手でしたということにもなる。

 見られるようになった兵士は再び戦地へと義足で赴き、そこで義手で引き金を握り、連盟政府の魔法使いを撃ち殺す。


 本能的には拒絶している戦地へその足で「向かい」、義手で人を「殺し」、その同類を殺したという情報を嫌でも脳に「見せる」のだ。


 見えたからいいわけではない。見せたから悪いわけでもない。

 見るものが、情報として脳に送られたもの全てが美しいなら、それは理想的だろう。


 傷ついた兵士たちは以前と同じものが与えられて再び戦地へと送られていく。

 そして、どうにもならなくなるまで戦い続けるのだろう。

 どうあがいても取り替えの利かない、心や魂が壊れるまで。


 それは本当に幸せなのだろうか。

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