変わらぬ世界の角速度 第一話
「ここともお別れですね」
「そうだな。そんなに長い間いたわけでもないのに、ずっと暮らしてた様な気がするよ」
アニエスは唯一残された椅子にかけておいた軍服のコートに手を伸ばした。灰色の軍服はもういらないほどに気温が高い。彼女は一度羽織ろうとしたがすぐに止めて腕にかけていた。
ノルデンヴィズにあるルスラニア公使館の三階の部屋はすぐにもぬけの空になった。
化粧台も、豪華なクローゼットも、セシリアを看取ったベッドも、重さでへこんだカーペットの丸い跡だけを残してどこかへ消えていった。
もう女王様の居室ではなくなり、これから金属製の事務机が運び込まれて公使館のオフィスに戻るのだ。
それに伴って俺たちもここを去ることになった。
窓の外を見ると陽光の中で共同体の旗が音もなくはためいていた。
青地に白い絵で描かれた北部辺境社会共同体のシンボルである「アサガオが巻き付いた槍」が陽の光を返して眩しく輝いている。
セシリアの死が公になることは決してない。ルスラニア臣民も第二スヴェリア公民連邦国民も、誰もが彼女はまだ生きていると思い、変わらぬ日々の営みを続けている。
第二スヴェリア公民連邦国は国として歩み始めていた。そして、その未熟だが大きな掌の上でルスラニアを育て始めている。
北公という両掌に盛られた一握りの土山に、ルスラニアという小さな木の苗が生えているのだ。やがて土に植えられる日が来るだろう。
しかし、その土は北公が耕したものだ。そこにある栄養を吸って育つというのは、誰がどう見ても傀儡国家への道を進む可能性を孕んでいる。
トバイアス・ザカライア商会は後始末を終わらせて、北公地域とルスラニアから完全に撤退した。正規に所属している商人と彼らが公認している商人はすっかりといなくなったのだ。
彼ら出て行くことになった原因をムーバリから聞いたとき、かなり不安に襲われた。
レアが北公の英雄であるモギレフスキー夫妻を保護したので、二人を保護しているのは今でも商会だと思っていた。それが何を意味するのか、考えるのも怖かった。
しかし、北公の英雄の生存はセシリア亡き後も未だに騒がれていた。
一度閣下にその件について尋ねると、彼はどこにいるのかを既に把握している様子があった。
アニエスを両親に会わせたいのでそれとなく居場所を聞き出そうと遠回しに尋ねたが、教えて貰えることはなかった。
一つ分かったことは、彼の話しぶりに焦りは見られず、手が切れてしまった商会によって交渉材料という名の人質にされている様子はなかった。(尤も、あの二人を人質にというのは無理かもしれないが)。
どうやら現時点で二人を保護している組織はすでに商会ではなく、別の組織がしているようだ。




