スプートニクの帰路 最終話
あの夜のことはよく覚えている。
ヤブキリの森は初夏の香りがする。白桃の皮を剥いた時の匂いに似て、甘さだけではなくて絵の具を水で解いたような苦さもある。
しかし、その匂いはせずヤブキリの鳴き声も無かった。代わりに聞こえていたのは窓に打ち付ける雨の音だった。
決して強い雨では無かった。でも、冬を名残惜しむ雪が溶けて降り注いだように冷たかった。
明け方までもう後一、二時間ぐらいで、東の空は雲を白くし始める頃だ。
雨音に消えてしまいそうなかすれた声で誰かが呼んでいるような気がして、眠気から身体を起こしてふとベッドを覗き込むと、セシリアが意識を取り戻していたのだ。
表情をはっきりさせ、さらに反射ではない眼差しがこちらを弱々しく真っ直ぐに見つめていた。
俺はすぐさまアニエスを起こし、ベルカとストレルカを呼びつけてカルル閣下やルスラニア政府関係者に連絡をさせた。
弱々しくも再び光り出した黄色い瞳に喜びを感じると同時に、それが何を意味するのか。誰かに言われなくても分かった。
アニエスと覗き込むと、セシリアは目尻に涙を貯めた。まるで意識が無かった間の分の涙を押し出しているかのようだった。
「目が覚めたみたいだね。熱くないかい?」
「大丈夫。でも、起きるのは無理みたい」
セシリアは手を僅かに上げて力を込めたが、弱り切ってしまった筋力のせいで起きることは出来なかった。
持ち上がった枯れ枝のような手をアニエスが握り、頬にすり寄せた。
「私、もう、ダメなのね」
セシリアは分かりきったようにそう言った。まさか、遠のいた意識の中で喧嘩の内容を聞いていたのではないかと思い、胸が締め付けられるような気分になった。
「どうして、そう思うんだい?」
返答にそうだとは言えないし、否定も出来ない俺は質問を返すことで逃げた。
「ふふ、自分の残された時間くらい、分かるわ」
そう言うとセシリアは笑った。だが、無邪気な子どものような笑顔ではなく、まるでいつかのククーシュカが時折見せていたあの寂しい笑顔だった。
「でも、楽しかったわ。とっても。毎日が輝いていた」
「そうか」
「私が――」
セシリアはそう言いかけると言葉が一度止まった。そして、黙り込むと天井を見つめていた視線を左右に振った。
「私が最初にあなたに会ったとき、シバサキに耳をつねられてたわね。
あのときはどうでもよかった。ただの他人でしかなくて、それまでもそれからもずっとそうだと思ってた」
俺もはっきり覚えている。それは一番最初に会ったときのことだ。
だが、そのときはまだククーシュカだったはず。セシリアになってからククーシュカの記憶は無くなっているはずだ。
「なんでそれを覚えてるんだ?」と不思議に思い尋ねた。
すると、セシリアは鼻から息を吐き出して、「実は、もう全部思い出していたの」と仕方なさそうに言った。
「クライナ・シーニャトチカでシバサキに誘拐されたことがあったでしょう?
あの後、コートの中から日記が出てきたの。私が、ククーシュカだったときに誰にも知られないようにこっそり付けてたもの。
そのときまでは私はセシリアだったけど、それを手に取った瞬間、全部、全部、ぜーんぶ、思い出したの。
私がククーシュカであったこと、そのときにしてきたこと、していたときに感じていたこと、あなたに時間を戻されたこと……。
記憶から何から、全部。それから私はセシリアであり、ククーシュカでもあったわけ」
セシリア、ククーシュカは少し言ったことを後悔したような顔をした。
「そうか」と言う他にできることはない。俺たちが幸せにしようとしたのはククーシュカであり、セシリアだ。記憶が戻っていようといまいと、全く関係ない。
反応が短いことに「驚かないの?」と困惑したように小首をかしげた。
「驚きたいけど、ときどき見せた仕草がセシリアではなくて、ククーシュカっぽいところが少なからずあったからな。
もしかしたら、記憶が戻りつつあるんじゃないのか、とは思ってた。まさか全部とはね」
その小さな身体にククーシュカの記憶は重すぎたのだろう。足らぬ器に海の水を注ぐように、あふれだし、やがて幼い身体を蝕んだのだろう。
記憶が戻ることへの恐れは、ククーシュカへ戻ることでは無く、記憶に幼い身体が耐えられないかもしれないというものだった。
恐れていたことは恐れていたままに、彼女を今際へと追いやったようだ。
「子どものふりにも限界があったのね。でも、それをわかってて何故……。ううん、何でもないわ」
そう言うと安心したようになり、軽く目をつぶった。おそらく、ククーシュカはセシリアではないのに何故私を幸せにしようとしたのか、それを言わなくても通じたのだろう。
しばらく黙っていた後、「ねぇ」と再び問いかけてきた。
「私は良い子だった?」
「ああ」
「あなたは確か罪滅ぼしをしろって、言ったわよね」
ククーシュカは鼻をすすった。
「できたの……かしら?」
「ああ」
「たくさんの……人を……笑顔に出来たの……かしら?」
「できたさ。俺とアニエスは君の傍で誰よりも、笑った。贅沢なまでに、飽きるほど」
「そう」
しばらく黙り「もっと」と囁いた。そして続けて、
「もっと、生きたい……。生きていたい、な」
と言った。
「また戻すか?」と俺はするつもりがないのに尋ねてしまった。
そう言うと手を握っていただけのアニエスが顔を上げた。そこには本人が望むならしてもいいのではないかという、希望が浮かんでいた。
「ううん、それじゃあダメなの」と仕方なさそうに笑った。
「今のまま、今の私のままで、記憶も何も全て持って、このままで生き続けたい。ククーシュカと呼ばれ、そしてセシリアでもある私で」
俺は何も答えなかった。
「無理なのよね」
記憶までは無理だ。
どうしてもという願いがセシリアにあればしていたかもしれない。戻ったセシリアはそのどうしてもの願いなど覚えているわけもなく、また親がいなくなったときの寂しい彼女に戻るだけだ。
そして、また君がこうして苦しむのを何度も見たくない。
アニエスには伝えた。セシリアの病気は後天的な、彼女自身が生まれてから育つ間で抱えたものではない。
その身体の設計図、遺伝子に刻まれてしまった重い病なのだ。
どれほど時間を戻しても、赤子に戻したとしても、それは消えることは無いのだ。
セシリアは「ううん、わかってる。いいの。私の時間を戻さないでね。そうなら、このまま眠りたい」と言いながら天井を見上げた。黄色い瞳は揺らぐことなかった。
「ワガママなのは分かってる。もっと生きたいと思ったのは、思えたのは、きっとすごく幸せだったからなの。だから、もっともっと、欲しくなっちゃったの」
そして、微笑みながら目を閉じた。
「私はイズミ、あなたに会えて良かった。本当に。もっと早く気がついていれば」
目を再び開くと、目尻から涙が浮かびあがってきた。
「イズミ、アニエス、いや、そうじゃなくて、パパ、ママ、本当にありがとう」
そう言いながら俺とアニエスを交互に見つめた。
「私の家族ごっこに付き合ってくれて。本当のパパじゃないのに、パパみたいなことしてくれてありがとう。ママも。最後までママって呼べなくてごめんなさい。恥ずかしかったんだと思うの。
大嫌いな人の娘なのに、こんなにこんなに愛してくれてありがとう。パパ。ママ
そして、その大嫌いな人も許してあげて欲しいな。
あんな人でもいなかったら、私はこの世界に生まれてこられなくて、それにこんなに幸せを味わえなかった。
私は空の上から見守っているけど、私のことなんてすぐにでも忘れて幸せになってね。私の分も生きようとはしないで。
でも、一つだけ。私を世界で一番幸せにしたことだけは忘れないで」
朝が明ける前に雨は上がっていた。
早雪も火山ガスも、夜明け前の冷たい雨さえも、まるで何も無かったような抜けるような青空だった。
その中で一輪のアサガオが咲いていた。
蕾が赤紫色だったはずのその花は綺麗な青い色をしていた。
漏斗状に広がる青は、晴れ渡る真夏の空のように濃い青ではなく、淡く儚い青だったのだ。
澄み渡る青は穏やかで、まるで天国を連想させた。
よく伸びた蔓は彼女を天国へ導いてくれることを、俺は強く願った。
やがて天まで届き、そこでその花を彼女の前でいくつも咲かせて欲しい。




