スプートニクの帰路 第百十五話
その日以降、アニエスは時間を戻せとは言わなくなった。それ以外のことはいつもと変わらなかった。それがかえって不安になった。
もし、あのときにもう一度だけ、セシリアに回復魔法をかけて時間を戻したとしよう。
すると心の中で、禁忌を犯すことへの罪悪感の閾値が上がってしまう。そして、幾通りも繰り返したパターンの中で、偶然にも長生きをするパターンがあるかもしれないと希望を抱き始める。
再び今のように死にかければ戻し、また死にかければ戻しを繰り返すことになり、するのが当たり前になり、さらに閾値は上がっていくだろう。
その度に思い出は消え去り、再びゼロから築き上げる。だが、消え去り無に返るのはセシリアの中にある思い出だけだ。
繰り返す度に俺たちは存在しない思い出を積み重ね、そして、幾度となく悲しみそのたびに思い出を犠牲にしながら老いていく。
やがて俺もアニエスも死んだとき、きっと自分たちのエゴで戻され続けたセシリアはまだ子どものままだろう。
自己中心的な願いのせいで思い出を何度も否定されてきた哀れな少女を一人遺して、俺たちはこの世を当たり前に去ることになる。
そして、繰り返してきたように症状を呈した彼女は、ついに戻されることはなくなり、いくつも繰り返したはずの記憶にすがりつき懐かしむことも出来ず孤独に死んでいく。
そのようなことはあってはいけない。
だから、俺は時間を戻さない。
“相対的時間減衰”はただ結果を先延ばしにするだけで、直接の死の原因の排除にはなり得ない。仮に原因を排除し出来たとしても、死そのものは免れ得ない。
俺がセシリアを見殺したと言いたいのであるならば、好きなだけそう言えば良い。
だが言う前に一度、考えてみて欲しい。もし自分たちが、不思議で偉大であっても万能ではない力を手にしたとき、それをどう使うのか。使った結果何が起こるのか。
誰がなんと言おうと、そして俺がどんな行動を取ろうとも、この先後悔するのは目に見えているのだ。
やらないで後悔するくらいなら、やって後悔しろと世間はいうかもしれない。
だが、やらないことへの後悔ではなく、してしまったことへの後悔が上回るのは間違いないのだ。




