シロークは妻に懊悩する 第一話
夜のウミツバメ亭はしっぽりと大人の雰囲気をしている。
店の中は昼間とは様変わりし、夜が遅くなるとバーとして営業していた。マジックアイテムの照明は間接的になり、暗い部屋の中を暖色に照らしている。テーブルの上には照明とは別にキャンドルスタンドが置かれ、その中でろうそくが揺らめく明かりを投げかけている。バータイムにこれを置くのを提案したのはカトウらしい。おかげで客も増えたようだ。主にカップルが。
カウンターの向かいでカマーベストのカトウがグラスを磨いている。彼はスプレッドカラーのシャツに身を包み、蝶ネクタイをして一丁前にバーテンだ。アルエットが「きゃああ、アキくんカッコイイー!」とか喚きそうなほどに似合っている。
「イズミ先輩、帰んなくていいんスか?」
はぁーとため息をすると、俺はカウンターにおでこを付けた。
「おうち、帰りたくないの……」
カトウはグラスを戻し、俺のおでこにほど近い場所に両手を載せ前かがみになった。
「なんでッスか? 家に帰れば美少女二人がお出迎えじゃないッスか」
「それが、ねぇ……」
それが帰りたくない理由なのである。
どういうことかと言えば、あの狭い家に三人で住んでいるのだ。俺とアニエスとククーシュカの三人だ。ククーシュカは家を追い出され浮浪者状態で、住まわせてもらえなかったら路地裏で寝泊まりするらしいので給料が出るまでは俺の家にいることになった。
「ある朝、俺は腕先に柔らかい重さとしびれの冷たさを包む優しいぬくもりを感じて目が覚めた。そこにはあられもなくさらけ出された肩とそこから広がる豊かな隆線が見えた。ククーシュカが生まれたままの姿で横たわっていた。爽やかな朝の陽ざしの中で輝く、しっとりと潤い光の中で消えてしまいそうな肌にかかる白く青い長い髪は春の小川のようだった。それに耐えきれずそっと手を伸ばし撫でると、伏せていた彼女の顔の中の瞳がゆっくりと開いた。そして一言囁いた。『おはよう。昨日……』」
「ストップ。いつのまに来たんですか?」
「さっき、あんたがおでこの脂をカウンターにこすりつけてたときくらい」
「アレ? メガ姐さんじゃないスか!お久しぶりッス!」
いつのまにかカウンターの隣に役員女神が座っていた。嬉しそうに驚くカトウに、こんばんは、と挨拶をすると肘をつき、何かのカクテルとナッツを注文した。
さっと出てきたナッツを食べながら再び話始めた。
「ついにこらえきれずに(ガリ)コート姿の彼女を後ろから力強く抱きしめた(ポリポリ)。そして、肩に手をかけて彼女を振り向かせ(カリッ)、壁に押し付けるように唇を奪った。彼女の唇はみるみる熟れて赤くなり、唾液で光るそれはまるでザクロの実のようになった(ガリガリ)。言葉もなく小さく抵抗したが(カリカリッ)、口と口の間で引いた糸が消える間もなくそのままベッドに押すと力なく倒れてしまった(ポリ)。もはや抵抗するそぶりを見せない彼女のコートを開き大きく(コリッ)はだけさせると、肩から隆起の先の桜の花びらを(コリッコリ)結ぶ線の上に愛らしくほくろがあることに気がついた (ポリポリポリポリ)」
「なんですか? 欲求不満ですか? 食うか話すかにしてください」
「やっぱ先輩のお姉さんパないッスね……」
グラスを磨くカトウの腕は止まっていた。
「手ェ止まってんぞ。め……姐さん、今日は何か用ですか?」
「特にはないわ。飲みに来ただけ。最近どう?うまくやってる?」
「うまく、ねぇ……。まぁチームはうまくやってはいますけど、家がね」
「女の子二人と共同生活は大変?」
大変なのは大変なのだ。
最初にいついたククーシュカについてだ。ナッツを貪る女神の語る官能小説のような事態は残念なことに起きていない。なぜなら彼女はベッドで眠らないからだ。なぜかクローゼットの中で眠っている。
俺が童貞をこじらせた挙句恥ずかしくて落ち着かないからといって彼女をそこへ追いやったわけでなく、彼女が望んで入っていった。着るものもほとんどないので空っぽ同然だったので構わないので許可をした。
しかし、その一メートル四方ぐらいの明かりのない狭い空間で一体どんな生活をしているのだろうか。朝になるとカリカリ音がしてドアが開き出て来て、夜になるとまるでベッドに入るかのようにそこへ帰っていく。
それから、もう一人の同居人であるアニエスがなぜうちへと押し掛けたのか。
ククーシュカがうちで暮らすことが決まり、家に連れていくと前で待ち構えていたアニエスが真っ青な顔をして俺を詰問した。
圧倒されるがままに状況を話すと、それを聞いた彼女は湯沸かしのごとく怒りだした。彼女は怒り肩で、不潔です! と三回くらい罵った後、おもむろに持っていた移動用マジックアイテム(ダミー)を真っ二つに折った。そして大げさに口元を押さえながら、「まあ大変! 私もうおうちに帰れないわ!」と言い出した。
アニエスはアイテムなしでも移動魔法使えるのではないか、と言いかけるとすぐ目の前までつかつかとやってきて引きつった笑顔で「ま、あ、た、い、へ、ん!う、ち、に、か、え、れ、ね、ぇ、わ!」とすごまれたのだ。
俺が送るといいかけると、今度は何も言わずにますます顔を寄せてきた。恋人同士でもないのに同棲と言うのは非常識だが、こうなるともう聞いてはくれないだろうということで彼女もいっしょに暮らすことになったのだ。
はっきりノーと言えばいいのだが悪い気はしないし、それに一度彼女との外泊経験もあるので、まぁいいか、と思うところもある。真っ二つになったダミーはこっそり回収し、修理して預かっている。帰れねぇんじゃ仕方ない……。
それから毎朝、コーヒーの匂いで目が覚めると朝ごはんが用意されるようになった。コーヒーとトースト、目玉焼き。ありきたりだがその一つ一つはおいしいのだ。(ちゃんとククーシュカの分も用意している。
食べないとアニエスが怒るのを察しているのか、彼女もきちんと食べている)加熱用のマジックアイテムがひっそりと置かれているだけの手狭な台所はいつの間にか綺麗になり、住み始めてから二年近く経つが一度も使ったことがなく埃だらけだったそこは様変わりし彼女のテリトリーとなった。
食器も調理器具も一切なかったはずだがいつのまにか持ち込まれていた。おそらく実家から持ってきたものだろう。(どう持ってきたか聞くのは間違いである)。
寝床はきっちりとメイキングされて万年床ではなくなってしまった。彼女を床に寝かせるわけにはいかないのでベッドを明け渡し、俺は床で寝ている。毎日依頼と冒険をしながらもそういった家事をこなすのはなかなか大変だと思うのだが、手際のいい彼女はさっさとやってしまうのだ。
それが迷惑というわけではない。だが、自分の慣れ親しんだ匂いが毎日どこかへ片付けられてしまったり、周りを気にせず素っ裸で家の中をうろつくことができなかったりというのはどこかさみしいのだ。
対照的にククーシュカは何にもしていない。できればこのまま何もしないでいてほしい。俺にはさぼり仲間が必要だ。
アニエスを傷ものにしたわけではないが、俺はいつかアルフレッドとダリダに袋叩きにされるか、雨の中パン屋の前で土下座させられるかもしれない。
「ろうそくの薄明りの中で橙の揺らめく影を落とし、火照る素肌でさらに体温を求めて身をよじり絡ませている部屋のドアが突如開いた。すると小さな悲鳴が聞こえた。アニエスが腰を引けながら顔を手で覆っている。うっぷ。指の隙間から見える顔はろうそくの明かりの中でも恥じらいの色がはっきりと見えた。それは彼女の情熱的な髪色よりも紅く、対照的な眼前の青い髪に心の平穏は混乱させられ、いつも以上に魅力的にさせた。すると彼女は肩をゆっくりさらしまるで果実の皮を剥くように服を……あー、カトウくん、おかわりいいかしら」
カトウがシェイカーを振り、名前の知らないカクテルが女神のグラスに注がれた。また始まったので、俺は無視して話始めた。
「それはそれですよ。うまくやってるといえばまぁ……。いまんとこ心配するような問題はありませんよ。始まったばかりだから見えていないだけかもしれませんが」
ウィスキーグラスの中で氷が解けて、からりと乾いた音を上げた。グラスの淵を指でなぞった。すると、カトウは何も言わずに水を出してくれた。顔を見ると、へへへ、と仕方なそうに笑っている。俺は右手を小さく上げて小さく、どうも、と伝えた。
「そういえば変わった人に会いましたよ」
「へー、なんて人?」
女神は小皿に手を伸ばして、人差し指でナッツの山からピスタチオを探り出し取り上げた。
「シロークって人。シローク・ゲンズブール」
え、とピスタチオの殻を割る彼女の手が止まった。そして、そのままこちらを見ている。
「あ、ホントに? ふぅーん……」
何か感慨深そうに息を漏らしながら殻を捨てた。
「何かあるんですか?」
「いや、別に?またエライのと会ったわね」
「確かに、40手前でまだ若いのにどっかの自治領の高官とか言ってたし。あれ? なんか知ってるんですか? ……て、あなたに言うのは野暮ですね。なんでもお見通しですからね。海沿いの町から帰る途中で迷ったらしいです。南の目的地までの護衛依頼を頼まれましたよ。単発じゃなくて長期の依頼で報酬もかなり出してくれるんですよね」
彼女は何も言わずに残ったカクテルの中身をくいっと飲み干した。
「ま、頑張んなさいよ。ちょっとやること思い出したから、あたし帰るわね。あんたも早く帰んないとママと妹が心配するわよ。箒もって待ち構えてるかも。全裸で」
「今日は早めですね……はぁ……」
「カトウくん、チェックいいかしら。弟の分も」
酔っているのか少し早口になった彼女は立ち上がりウィンクをしながら言うと、カトウはウィーッス、と言って裏手に伝票を取りに行った。
「あ、いいですよ。自分で払いますよ」
貨幣を出そうとポケットに手を入れると、彼女は、まぁまぁ、とそれを制止して戻ってきたカトウにお金を渡した。
「どうしてもというなら、じゃあ、出世払いで返してね。ふふふ。おつりはチップでいいわよ」と言った。そして、おやすみ、と肩越しに手を振り、店を後にした。
店内を見回すと、いくつかあるテーブルの上のろうそくは燃え尽きたのか、ぽつりぽつりと消えていて、気が付けば客は俺一人になっていた。もうだいぶ遅いようだ。どうやら常連面していつまでも居座る迷惑な客になってしまったようだ。カトウは手のひらの中のチップを見たあと、ポケットにしまった。
「姐さん、相変わらずパないスね……」
「遅くまで悪いな。それから、ウィーッス、じゃなくて、かしこまりましたっていいなよ。雰囲気的にバーテンなんだから」
「はい、よろこんで! はどうッスか?」
お互いに笑い合うと、女神に少し遅れて俺も店を後にした。
明日は昼からだ。が、ぎりぎりまでは眠れないだろうな。ママと妹に起こされる。
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