スプートニクの帰路 第百九話
彼女を起こさないように静かにドアの外へ出て、俺はムーバリを見送った。
「今日はありがとうな。嬉しそうだった」
「やはり素晴らしい子ですね」と感慨深そうに頷いた。
「どのような方かは知りませんが、クラーラという母親の血が、いえブルゼイ族の血が濃いことにそこは感謝しなければいけませんね。
そして、生後すぐにあの男とは引き離されて育った。孤独で短命であることは避けられないかもしれないですが、ただ悪いことばかりというわけではなかったようですね」
あまりにもハッキリとした物言いに驚きもしたが、事実でもあるのだ。
まだククーシュカだった頃に二十歳過ぎまで生きられたのは、生粋のブルゼイ族王家直系の遺伝子にシバサキの遺伝子が混じり、そこへさらにいくつもの偶然が折り重なって、ほんの少しだけ遺伝性疾患の症状発症の可能性が薄められたからなのだろう。
この世界はまだ遺伝の概念がはっきりしていない。子が親に似るというのは事実として誰もが知っているが、それが遺伝子による明確なものであるということは知られていない。
それでも遺伝子というものは存在しているし、それに伴い遺伝性疾患というのも確かにあるのだ。
出生時から病気が決まっているなど、貴族社会を脱した北公でさえまだ貴族階級の影が彷徨いているこの世界では、排除因子として扱われかねない。
しかし、ブルゼイ族にとって、砂漠の秘宝である黄色い目と氷河を思わせるグレーシャーブルーの髪、そしてその疾患こそが王族である証なのだ。
セシリアがセシリアたるためには不可欠であり、俺たちも恩恵を受け、スヴェンニーとブルゼイ族の再統合をもたらしたのだ。
ムーバリはスヴェルフというスヴェンニーとエルフのハーフであり、人間でもエルフでも被差別として扱われてきた者の一人だ。
極めて差別的な言い方をするが、そう言った出自を持つムーバリにとっても、それでいて国家の幹部となり色々な事情を知る彼にとっても、遺伝子による疾患は「悪いこと」なのだ。
――言い訳がましいが、俺はムーバリに対してはっきり嫌いと言えるほどに嫌いだが、あくまでスカした態度が鼻につくのと友人の双子たちにしたことに因る嫌悪であって、元は何も知らない別の世界の人間なのでエルフだろうが人間だろうが知ったことではない。
「生みの親より育ての親、とはよく言うけど、その育ての親が俺で良かったのか。
お前と話しているときみたく、最近はあまり笑ってはくれない。
幸せにするとか言っておきながら、俺はその程度なんだよ」
「何を仰ってるんですか。あなただから、笑わないのですよ」とムーバリはすぐに言い返してきた。
「あなたとアニエス上佐は彼女の中で唯一心を許せる存在。
笑わないのではなくて、無理をしてまで笑わなくてもいい存在なのですよ。
彼女は私に気を遣って笑顔になっていたのはわかりませんでしたか?」
「慰めてるつもりか?」
「まさか。事実を述べたまでです。
私と彼女は親しくはなれました。ですが、知人のおじさんでしかありません。ただの友人の一人であり、いくらでも替えが利きます。
ですが、あなた方二人は彼女にとって替えが利きません。セシリアはもう長くは持ちません。私の見立てでは、もってひと月でしょうね。
だから、最後まで側を離れないであげてください。閣下には極力邪魔を入れさせないよう、私から進言しておきます。女王の死は公表されません。安心してください」
ムーバリは糸目の笑顔のまま、躊躇いも無く淡々と言った。
「最後とか、ふざけるな! 分かってる! 分かってるさ! だけど、お前、何も思わないのか? なんでそんな事務的に振る舞えるんだよ!?
セシリアと仲が良くなったのも、ホントに硝石鉱床だけが目当てなのか!?」




