旅路の仲間 第五話
彼女からは「久しぶり」と小さい声で返事が返ってきた。
いつも着ている赤黒いコートは汚れをあまり目立たせないはずだが、裾や肩に土埃がついている。道の真ん中で立ち話をしてしまうと通行の妨げになるので、俺は彼女の肩の埃を払いつつ、そっと押して沿道へと導いた。
「いまどうしてるの?」
「何にもしてない」
「大丈夫なの?」
「家なくなった」
「どうして?」
「シバサキの家にいたから。彼が行方不明になって追い出された」
三個目の質問で八文字以上の返答が初めて返ってきた。解散してからは一度も会っていなかった。それなりに時間が経っているが、どこで寝泊まりをしていたのだろう。彼女の話し方からすると、これまではシバサキの家で寝泊まりをしていたようだ。あの男の家に若い女が一緒に住んでいるなど、危なくて仕方ないと思うだが。
「私がシバサキの家にいたのはおかしい?」
気が付かないうちに眉間にしわを寄せていたのを見られて、考えを読まれたようだ。それは、まぁ、と濁すように答えると、彼女は話を続けた。
「彼は何もしなかった。むしろ私に近づかれるのが嫌だったみたい」
なぜだろうか。かつての仲間のユリナ(とカミュが言っていた)を人里離れた山小屋に連れて行こうとしたり、ウミツバメ亭のアルエットを脅迫したり、若い女性であれば誰彼構わず手を出そうとしていた彼が、眉目麗しいククーシュカに手を出さないというのは考えられない。何かあるのだろうか。まさか彼女の手は汚れているからとかいう、いまさらの潔癖だろうか。
困った顔をして彼女を見つめていると、広場につながる通りのほうから大きな声で名前を呼ばれた。
「イズミだ! イズミがいるぞ!」
見たことのある男たちがこちらを指さしている。着けている鎧や小手は年季が入り、皺が刻まれた顔には白髪交じりの髭が生えている。冒険者たちはストレスが多いせいか、見た目よりも老けて見えることも少なくない。だが、その三人は見た目ではなく本当に年老いている。どうやらこの間の演説が気に食わなかった人たちのようだ。シンパではない、最悪なほうの連中に見つかってしまった。
「あのアジテーターをとっ捕まえろ! 俺たち年長者の敵だ!」
厄介ごとになる前に逃げなければと思った瞬間、「こっち」と突然ククーシュカが俺の手を取って走り出した。彼女は俺を連れて逃げだしたのだ。彼女の足は思った以上に速く、引かれた肩が痛くなるほどだった。
石畳の道を抜け、路地を抜け、猫の集会場を抜け、しばらく逃げ続けて、声もしなくなったころだ。俺は気が抜けたのか、ついに転びそうになってしまった。バランスを崩してつんのめると彼女の背中にぶつかった。そして立て直す間もなく「ここ」と言って何かの建物の中に押し込まれた。
昔懐かしいカビの匂い。夜昼ではなく、時間そのものが静止したような静かな暗闇。彼女が俺の後に入り、ドアが閉まると吸い込まれるかのように外の音が消えた。ショーウィンドウ越しに見えた、店の前を通り過ぎる追跡者たち、そしていつもの杖屋。
そこは俺と彼女が初めて会話をした骨董品屋だった。ゆっくり歩いてでもいないと見逃してしまうようなその店は追跡者をやり過ごすにはうってつけなようだ。
店内を歩き、『グスリ』という名前の楽器の前まで来たときに足を止めた。
「ありがとう。助かったよ」
「あのままでは落ち着いて話せない」
埃の幾何反射の中でウシャンカを脱ぐと髪をかき上げた。わずかな光に反射して青白くなった。
「あなた、新しいチーム作るんでしょ。だったら仲間に入れて」
「それはかまわないけど……。シバサキ放っといていいの?」
「置いていかれて、どこにいるかわからない」
彼女は鼻を少し触りながら言った。
ククーシュカはとても強い。物静かな普段とは違い、戦いになるとまるで静寂とは無縁のようになる。魔術もそれ以外もパワーとスピードでねじ伏せ、逃げ惑う敵を鷲掴みにし、武器でその首を思い切り跳ね飛ばし血を浴びても眉色一つ変えることはない。どれほど武器の切れ味がよくても、生き物の首をはねるのはかなり大変だ。
大学時代の解剖実習で使っていた、どれだけ研いだメスでさえすぐに脂でなまくらになる。それをものともしない彼女の力はすさまじいのだろう。
その姿も力も、恐ろしいと言えば確かにそうなのだ。だが、敵に回さなければ大いなる戦力だ。仲間に入りたいという、それを断る理由がない。
それに、周りが破滅するような忌み名を付けられていたとしても、普段の彼女は二十歳そこらのただの口数の少ない女の子だ。
ただ、仲間たちはどう思うか。この間まで同じシバサキの部下として行動を共にしてきた。初期のいじめのころのようなものはすっかりなくなったが、まだ深い溝は埋まっていない。
俺はこの女性のことを知らない。わかるのは名前とその強さだけ。仲間たちも本当の姿は知らないはずだ。忌み名と、伝わる過程でついた尾ひれ以上のものだらけの逸話に先入観を支配されているに違いない。このままでは誰も歩み寄りはしないだろう。
「あのさ、ククーシュカの昔の話、聞かせてよ」
「……なぜ?」
真っ白な彼女の鼻筋にわずかに皺が寄った。黄色い目に嫌悪の色が灯る。そこまで親しくもない男性に、自らの過去を―――それも訳ありな―――話すのは抵抗があるのだろう。
「怪しんでるわけじゃないんだ。俺は君のことを知らなさすぎるからさ。なんだか、ひどい言われようで、その先入観に支配されるのは避けたいんだ」
そう、というとグスリを左手でなぞる様に撫でた。
人差し指が弦に触れると高く弾ける様な音が店内に悲しく響いた。
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ノルデンヴィズでカッコウが鳴き始めるのは、ちょうど今頃。
遅くきた春が終わり、低い気温が上がり始めて、雨も上がった夏の入り口。雨上がりの晴れた朝、靄と湿気の中に鳴き声が響く。静かな町は閑古鳥の歌を反響させる。
誰も聞いていないその歌を。
『カッコウ』と最初にそう呼んだのは誰かすらわからない。
私は、私が何者なのか、わからない。自ら名乗ったわけでもなく名付けられたわけでもないのに、髪色と瞳の色のせいでかつて追われた民族の言葉を使うという皮肉と、ハトに似た、腹に縞模様があり青い背中をした鳥の持つ忌まわしい伝説をその名に込めて、たくさんの人が私をそう呼んだ。
そのうちに私は本名を失くした。わずかばかりの時間を共に過ごした両親の与えた本当の私を。
昔のことはすべて曖昧。何事もいくつのときかははっきりと覚えていない。何を話すにも「たぶん」と「おそらく」で始まって、最後には「だろう」と「はず」が来る。
木造の家、薪のストーブ、それを囲う石の壁。窓から見える景色は天を突くように鋭く伸びた木々、雪、雪、雪。住んでいた家で覚えているのはそれだけ。
家は、最初は温かった。だが、父がいなくなると少しずつ家は冷えていった。それから母はベッドから出られなくなり、いつしか起きることはなくなった。それが死であるということをそのときに理解した。同時に父も母と同じ状態になっていたことも。数少ないはっきりとした物事の一つだ。
身寄りのない私は冷たい雪に覆われた小屋の中に一人取り残された。寒さと乾燥で腐敗しない母は不気味で、いつまでも死の瞬間で静止したままの姿は怖くて仕方がなかった。死にあらがえずいずれ自分もこうなるのかと思うと、心の底からおぞましく思った。恐怖と孤独に苛まれながら、ひっそり両親と同じようになるのを待つしかできなかった。
しかし、あの男が現れた。
なぜかは分からない。でも、そのとき現れたのはシバサキだった。それが彼とのファーストコンタクトだった。
彼が現れて、私を助けたのだ。そのとき彼が救世主であるように見えたのだろう。父親に託されていた唯一の遺品である不思議な白いコートの中の財宝を、枯れていくような死からの解放のお礼として一つ差し出した。それを受け取った彼は諸手を上げて喜んでいた。でも、そのとき、なんでも取り出せる、その便利な白いコートの秘密については黙っていた。
彼と私は母を葬った。寒いところの地中だと天には帰れないという彼の言葉に従い、母を火葬にしたあと灰は家の周囲に撒くことにした。私は火葬をすることに違和感を覚え、灰を撒くことには反対をした。母のせめてもの名残が欲しかった。しかし、これは母親ではない、と彼に言われ反論できなかった。この時の私は世間では土葬が一般的なことすら知らなかったのだ。
彼は私を助け出しはしたものの、子どもを育てる能力はなく、彼の親せきとして間もなく孤児院に預けられた。後になって考えれば、彼は財宝がまだあるとでも思ったのだろう。確かにコートの中にはあったが、私にとってそれらは自らを置いて死んだ両親への恨みの結晶とまだ家が温かったころの記憶という心のよりどころでもあったので、もうないと嘘をつき続けていた。そのうちに彼は諦めたようだった。
ただ、子どもということもあり、放置するわけにもいかなかったゆえの判断をしたのだろう。親せきとしたのは、今後に何かをわずかばかりに期待していたのだろう。また財宝を持ってくるのではないだろうかという。
孤児院では毎日ありとあらゆる武術と武器の使い方を習わされた。その日々に何の疑問も抱かなかった。世間を知らない私にとってはそれが普通だと思っていた。過酷に過ぎていく日々ではあったが、生きていくためにそれについていくしかなかった。
ときどき体が動かなくなる私は落ちこぼれ同然だった。しかし、ほかの子どもたちは逃げたり、死んだりで数を減らしていって、最後は私を含めた数人になった。
いつしか私は戦いのすべてを叩き込まれた。そのころには精鋭で、大人顔負けになっていた。そんな折に、その孤児院は何者かの夜襲を受けた。
真夜中の孤児院には火が放たれたのだ。だが、そのときにはもう施設の大人たちはいなくなっていた。光の当たらないところで子どもを訓練し、都合のいい兵士に育てることは、その大人たちにとって明るみに出るのはまずいことだったのだろう。大人たちはすぐさま施設を放棄し子どもたちを見捨てたようだった。火を放ったのもおそらく。
そこで私は襲撃犯の一人を素手で殺し、その武器を奪った。長い柄のついた斧のような形をしたそれは、最初の実戦で体に一番なじんだ。適度な重さがあり、うまく使えば一撃で勝敗を決められるので、その後私と共に歩むことになった。
ほかの襲撃犯を捕まえ自供させると、ある町の酒場でここに財宝があるという、どこかのだれかが流した噂が原因で襲撃されたことがわかった。誰が言ったのかはついに聞くことができなかった。その犯人たちも行きずりで、教えた人の名前を知らなかったようだ。特徴は戦士風の男というあいまいなものだけだった。
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