スプートニクの帰路 第七十九話
それからも俺とアニエスはセシリアを連れて行けるところはできる限り行った。
人の行いがどれほど醜くても、どこかで戦争が起きていても、海は青く揺蕩い、空は広く雲を手の届かぬ先へと流し、土は生命を湛える腐乱の匂いに溢れ、草は肌を割くほどに生き生きしている。
銃の鉄の冷たさでさえも素晴らしいものだ。
打ち棄てられた銃身は錆びいつか苔に覆われ、ニスが風雨によって剥がれ落ちた台尻の木も朽ちてやがてそこから緑が芽吹く。
朝は全てが新しく無垢な朝露は光に溢れていて、夜は感光版に焼き付いた一日が消えていく足音に耳を傾ける。
雨降り夜明けの森の匂いは、やがて再び来る一日の希望がしっとりと満ち満ちている。
音と光、匂いと肌触りに溢れたこの世界は、五感だけでは足りないほどに美しいんだ。
この世界は知らないモノ・コトで溢れているんだ。君の辛い記憶の何倍も美しくて楽しいことに溢れている、普通に生きていても知り足りないことで溢れていると、俺はセシリアに教えたかった。
「ジャガイモの芽に毒があるんだよ」
ストスリアでお使いをした後、少し疲れた様子があったのでベンチに座って休憩をした。
紙袋に入っていたジャガイモを一つ持ち上げた。秋の収穫期を逃して春に収穫した新しいジャガイモはまだ土が付いている。早雪明けのジャガイモはデンプン質が多くてほくほくしているらしい。
「知ってる! ソラニン! マ……アニエスおばさんの料理手伝ってるときに教えてもらった!」
セシリアは飛び出すように勢いよく答えてきた。
シチューのジャガイモの大きさがバラバラだったのは、セシリアが切ってくれたのだろう。頭を撫でてあげた。
「よく知ってるね。じゃあ、なんでソラニンっていうか知ってる?」
くすぐったそうにしていたセシリアは首をかしげた。
「ジャガイモはね、太陽に当たるとソラニンが出来るんだよ。だからソラニン。イスペイネ語で太陽はソル。すると?」
セシリアは驚きと納得で目と口を大きく見開いた。しかし、笑う俺の顔を伺おとしてじっと見つめると次第に口角を上げ目尻を下げ始めた。
そして、感情が溢れると「嘘つき! パパの嘘つき!」と大声で笑い、左腕に抱きついてきた。
「帰ろうか」とそのままセシリアを抱き上げてポータルを開き、ヒミンビョルグの山小屋に戻った。
山小屋は灯台もと暗しというのか、北公やルスラニアが探しに来る気配がない。旅行の合間にはここに帰り、寝泊まりをしているのだ。
セシリアは左腕の義手を全く怖がらなくなっていた。
セシリアの落書きといつ貼ったのか分からないシールだらけの義手のしがみつき、「パパの左腕は冷たいからあっためてあげる!」と言うのだ。
最初に飛びついてぶら下がったときには外れそうになってしまったので、彼女がそうしたいときは左腕で抱えるように抱っこするようにした。
彼女が乗ると、感じるわけもないのに左腕が温まるような気がした。
だが、温まっていたのは本当なのだ。左腕肩の付け根は義手の温められた熱が伝わってくるからだ。
子ども特有の体温の高さ、にしては熱いときが多かった。おそらく彼女も義手は冷たくて気持ちが良いのだろう。
それはつまり、本人も気がつかないほどわずかにでも熱を出していたと言うことなのだ。
セシリアは誘拐以降、熱を出すことはあまりなかった。だが、公使館にいたときより頻度が減っただけであり確実に発熱は繰り返していた。
世界を一瞬で動き回るということは、それだけ急激な気候の変化もある。それは病身に良くないかもしれない。
疲れてしまうと熱を出すのは分かっていた。しかし、疲れさせない為に何処にも行かずに閉じ込めてしまうのは気が進まなかった。
だが、まだ春先であり気温差もそこまでない。俺たちは注意を払ったし、彼女は様々なものを見て楽しそうにもしていた。
生きる喜びを知ったように表情を変える彼女を見ていると、病気のことなど忘れてしまえそうだった。
それからも旅は続いた。あっという間で、それでいて遠く遠く、色々なところへと俺たちは旅を繰り返した。
そして、思いつく限りのところへの旅に満足した俺たちはあるところを目指した。
そこに行きたいのではなく、いずれ行かなければいけない、セシリアには最も安全で俺たちには危険かもしれない、あの場所だ――。




