スプートニクの帰路 第七十四話
二つ置かれた椅子の間のドアを両手で押し開けると、部屋の中は真っ暗でひんやりとしていて、微かに埃の匂いがした。
おそらくセシリアの体調を気遣って早めに消灯しているのだろう。カーテンは開けられていて、窓には雨が打ち付け、じわじわとした模様が不規則でそれでいて繰り返し浮かび上がっている。
暗闇に目が慣れると部屋の様子が見えてきた。奥には天蓋付きのベッドが置かれており、家具がいくつか、それもほとんど布が被せられ今にも運び出されそうな状態で並んでいた。
まさか、ベルカにも知らされないうちにもういなくなってしまっているのではないだろうか。焦りで駆け足になりながらベッドに近づいた。
レース越しに注意深く見ると、ベッドの真ん中が小さく盛り上がりゆっくりと上下していた。
何かの気配に気がついたのか、そのこんもりとして外の光に青く光る小山はもぞもぞ動き出した。
そして、「だぁれ? ムーバリおじさん?」と小さな声が聞こえた。それは久しぶりに聞こえた、紛れもないセシリアの声だ。
まだいた。間に合った。今日も泣き続けていたのだろうか、かすれている。可哀想に。
灯りを付けないままベッドのレースカーテンをくぐり、「小さな女王様を攫いに来た、悪い悪い魔法使いだよ」と囁いた。
ベッドの上には泣き疲れて目を腫らしたセシリアがいた。彼女は目が合うと固まったが、すぐに悪い魔法使いが俺とアニエスだと気がつくと飛び上がるように身体を起こして抱きついてきた。
そして、身体に顔を押しつけると声を殺して静かに泣き出してしまった。
アニエスと三人で頬を寄せると、セシリアの頬はとても熱かった。寄せてきた身体も、フリルのついた寝間着越しでも熱く感じるほどだった。額も汗だくで前髪が束になっている。
抱きしめて「大変だったね。もう大丈夫」と頭を撫でると、「ごめんなさい」と謝り始めた。
「セシリアは何にも悪くないよ。俺がもっとしっかりしていれば、こんな辛い思いをさせなくて済んだのにね」
身体を離すと、外の薄明かりで黄色い瞳を輝かせながら、
「パパとママが嫌いだなんて言うのはウソ。全部ウソなの。私がパパとマ、アニエスおばさんの大嫌いな人の娘だから、もう近くに寄らない方が良いって。そんなの嘘。もっとそばにいたい」
と必死でついてしまったウソを謝り続けた。
俺が大丈夫と言っても彼女は言い続けた。よほど気にしていたのだろう。
「嘘はダメだな。でも、君のついたウソは、みんなの為を思ってついたものだ。それは悪いウソじゃない。
セシリアは何も悪くないよ。ウソをウソだと知ってて、それを受け容れたパパが悪かったんだよ。嘘はダメだって、ちゃんと叱るべきだったんだ」
首を左右に振ると再び「ごめんなさい」と謝り始めた。
さて、これからお尋ね者だ。逃げだそうとしてセシリアを抱き上げてベッドから下ろした。
アニエスはいつの間にか部屋のどこかからあのコートを探し出しており、振り向いた俺に投げ渡してきた。
寝間着の上からコートを着せて手を繋いで歩き出そうとしたが、セシリアは二、三歩歩くと足がもつれて膝から崩れてしまった。足腰も弱ってしまったようだ。
再び抱き上げてコートで簀巻きにして背中に担いだ。以前よく飛びついてきたときよりも軽くなった身体に、背負う力が強すぎてふらついてしまった。
「あらら、こんなに軽くなっちゃって。重くなってくれた方がうれしいんだよ」
「ごめんなさい。ごはん、ちゃんと食べなかった」
今は何を言っても謝るばかりだろう。とにかく早くここではないどこかへ行って、気持ちを落ち着かせよう。
「熱も出てるみたいだし、辛くて食べられなかったんだね。仕方ないよ。
もう大丈夫。これから色んなところに行って、食べたいものたくさん食べような。よし、じゃあまずはどこに……」
言いかけたと同時に、部屋の照明が一斉に点けられた。




