スプートニクの帰路 第七十三話
ノルデンヴィズはもう雪が降る季節が終わっていた。
その代わりに雨の日が多く、道路脇や空き地に積まれていた雪山も、繰り返し降りその度に温まっていく雨の滴によって溶かされ、すっかりなくなっていた。
その日は特に強い雨が降った日だった。バタバタと垂れる雨水が雨よけのシートを揺らし水滴をまき散らし、集まったそれがさらに土の上に降りしきる。
丁寧に刈り揃えられている芝生の間には泥の川が波打ち、コンクリの床の普段見えないような僅かな凹凸には水たまりが出来ている。
俺はアニエスと共に基地内に入り込んでいた。
俺は呼ばれることはほとんどなくなったが、基地に入ること自体に問題はない。だが、用も無くいるのは怪しまれるので、アニエスの補佐として入っていた。
魔術指導に使うための資料を運ぶふりをしながら二人で基地内を彷徨いていると、外廊下にストレルカの姿が見えた。
彼女は制服姿で大きなこうもり傘を差し、屋根があるのに吹き込む雨に不機嫌そうにヒールをならして目の前を通過していった。
ラペルに付けていたチョウトンボのブローチが重たいのか、それとも、襟が窮屈なのか、ときどきその辺りを引っ張るように弄っていた。
俺たちは顔を見合わせて頷くと、アニエスの執務室で夜になるのを待った。
執務室に飾られた時計が六時半を示したとき、アニエスに目配せをして移動を始めた。
ルスラニア公使館へ向かう為に廊下を歩いていると、軍服の二人組とすれ違った。何かを言われるかと思ったが、会釈をして横を通り過ぎていくだけだった。
俺は平静を装ったが、アニエスは廊下の先の角に曲がって見えなくなるまでその二人組を目で追っていた。
ため息を堪えながら外廊下にでると、視界が曇るほどの雨が降っていた。夜になるまで雨は上がることはなく、それどころか雨脚は強まっていたのだ。
音が誤魔化せるかもしれないが、足が濡れてしまうと足跡が付いてしまうので、外廊下といった雨に濡れているところを通らずに少し遠回りをしてベルカの指定した部屋へと向かった。
ルスラニア公使館三階の階段の壁際に身体を寄せて、廊下の先を窺った。奥の方に見えたドアの前には椅子が二つ置いてあり、一つにはベルカが暇そうに座っていた。
「早ぇんだよ、ボケ。オレがクソに行くのは七時だっつっただろ」
大股を開いて新聞で顔を隠したままベルカがそう言った。足音は立てたつもりは無いが、気づかれていたようだ。
「さーて、そろそろ七時か。よーし、ウンコ行くぞー? 行くからなー? 2分くらい便器にシケ込んでブリブリ力んでくるかなーっと」
ガサッと新聞紙を顔の前から右上に避けて廊下にかけてあった時計を見ると、くしゃくしゃに畳んだ。
立ち上がり椅子の上に放り投げると伸びをしながらトイレとは反対側であるこちらに向かって廊下を歩き始めた。
そして、すれ違い様に、「戻ってきたらとりあえず女王誘拐事件だーっ、犯人はイズミだーっ、女二人を誘拐したぞーっ、て騒ぐからな。オレの仕事だから」と囁いた。
「かたじけない」と囁いたが、何も聞こえていないように鼻歌を歌いながら階段を降りていった。




