スプートニクの帰路 第七十二話
「さて、オレはここでおいとまさせてもらうぜ。非番でちょっくら顔を出してみれば、旨いモンが食えたぜ。
赤髪の女のメシが毎日食えるなんて、お前は幸せな野郎だなぁ。へっへ。
これ以上、食いモンの旨そうな匂い付けて帰ったら、まだ仕事中のストレルカがキレそうだな。ありがとよ」
背中越しに右手を肩の高さまで上げて振るとすたすたと帰っていった。
ドアは乱暴に閉められることはなく、静かに締められた。
形の合う組み木が静かに嵌め込めれたときのような音が最後に聞こえた後、ベルカの気配が完全になくなると、部屋が広くなるような感覚に襲われた。
広がった部屋の中で声を出しても、側にいるアニエスにすら届かないのではないかと思うほど自分が小さく感じた。
音のない部屋の中にアニエスと二人残され、とりつく島もなくなり、左右に視線を振った後、視界に入った椅子に腰掛けた。
テーブルの上には冷めたドラニキがまだ少し残っている。俺はセシリアの話が出て以降、食欲がなくなり多くは食べられなかった。山ほどあったのにベルカがほとんど食べていったようだ。
テーブルに肘を突き、両手で顔を擦った。
「イズミさん、大丈夫ですか?」とアニエスが両肩に手をのせて、二、三度ぐっと力を込めて握ってきた。
「ああ、ごめん。大丈夫だけど、折角美味しく作ってくれたのに」
瞼をぐっと押しながら言ったが、アニエスは何も答えなかった。見えてはいなかったが、彼女は何も言わずに微笑みながら首を左右に小さく振っていたと思う。
両手はそのまま肩に乗せられたままだった。
セシリアは熱をこれまでも何度か出していた。しかし、毎日では無かった。
何か、嫌な、それでいて避けられない予感がした。言葉はおろか、頭の中ですらそれを文字にはしたくなかった。
ベルカが俺を焚きつけても、最終的に実行するのは俺自身だ。これから俺がしようとしていることはかえってセシリアに負担になってしまうのではないだろうか。
そう考えると踏み出そうとする足がまた止まりそうになる。だが、しなければ後悔が残る。
しかし、それも自分が後悔したくないからと言う、自分本位な行動になるのではないかと、思考が堂々巡りになる。
彼女も孤独に追いやりたくはない。もし、後悔するのが自分だけ、自分一人で済むのならば。
俺は肩に乗っているアニエスの手に掌を重ねた。そして、彼女の方へと振り返って「アニエス、いいかい?」と尋ねると、アニエスは目をつぶって大きく頷いてくれた。




