スプートニクの帰路 第六十一話
博士は集音像耳の端に結びつけられている赤い小さなリボンを弄った。会議のときもときどき触っていたことがあった。何か考え込むときに癖で弄るのだろう。
よく見ればだいぶ年季が入っている。縁はほつれて毛羽立ち、赤と言うには少し色が落ちてややピンク色だ。折り重なって縫われていた糸が緩み、透けて不揃いな格子模様を描いている。
長い間触り続けている内に人差し指と親指の間で擦り切れていったのだろう。
「だが、しかし、なぁ」と唸るように言ってしばらく黙り込んだ後、
「凍傷は起こさんだろうが、左腕だ。上膊部分の付け根も体幹にだいぶ近い。大動脈や心臓からの距離を考えると、少々冷えすぎるのも考えものだな。
循環器系の冷えすぎも倦怠感に無影響と一概には言えんかもな」
と眉をしかめた。博士は自らの最高傑作に思わぬ欠点を見つけてしまったようだ。
使用者である俺自身はそこまでその冷たさに苦労を感じたことはない。
「最近はノルデンヴィズもそこまで寒くならないので大丈夫ですよ。
ビラ・ホラにポータルを開くときはさすがに吹き込んでくる風が冷たいのでしっかり保温手袋もしてますし、俺はドア係みたいなもので現地に直接行くこともないです。
特に困ってはいないから大丈夫ですよ」
「寒い冬は何度でも来る。早雪も然り。
君は季節ごとにこれを取り替えたいのかね? それとももう寒い地域などには来たくないかね?
クセが馴染み始めた三、四ヶ月ごとに義手を取り替えるというのを、私は良しとは思わない。
ものを大事にするために慎重に使うのは尤もだが、丁寧に扱いすぎて厄介になるのはダメだ。これは君の腕なのだから。自分の身体を持て余すなど嫌だろう。
通年で使えてメンテナンスが最低限である魔工万能義手が理想なのだ」
「なるほど、本物の腕を目指しているんですね」
愛想笑いをしながらそう言ったが、博士は全く聞いていない様子だ。
博士は肘関節の内側の可動域にできる隙間に先ほど叩いていた棒状の器具を突っ込むと「下膊、外すぞ」と言って反時計回りにそれを回した。
上腕と前腕のつなぎ目から軸受が回るような音がした後、博士が関節から先を引っ張ると外れたのだ。
突然のことに驚いてしまうと左腕が動いてしまった。それにしても、離れているのに指先が動くのは、何とも奇妙な感覚だ。
「これ、動かすな」と言うと博士は左手前腕の手首を握った。
「魔法で動かすときの廃熱よりも気温の低さの方が勝っているようだな。しかし、加温用魔石を付けるとなると熱いときに過熱状態になってしまうな。では、温度検知センサーまで付けると、いや重さが……」
「でも、娘に冷たいから触らないでって言われちゃいましたよ」
離れた左腕を見ながら俺はぽつりとつぶやいた。
聞いていない、博士の遠い耳には聞こえていないと思っていたが、博士は「娘……」と小さくつぶやいたのだ。
それからしばらく腕を組んで低温対策を考えているうちに思い出したのか、おお、と言うと「セシリアか。クイーン・オブ・ブルゼイの」と両眉を上げ、モノクルをかけると前腕部に顔を近づけて分解し始めた。
「もう会うことがないからどうでもいいんですけどね」
ははは、と笑ったが博士は無言だった。
「嫌いだって言われちゃいましたよ」
「なるほど。左手の親指先と人差し指先を合わせて」
分解した左腕前腕を見ながら腕を組むとそう指示を出してきた。話を聞いて何かを納得してくれたわけではないようだ。
指示された通りに円を作るように指を動かすと、開かれた前腕の内部が見えた。
尺骨と橈骨の様な二本の軸の間で小さな部品が僅かな体動にも反応し精密に動いている。
人間の腱のように柔軟で再生能力のあるものの代わりに、いくつも細分化された材料たちがその役割を果たそうと蟻や蚤が動くように小さく盛んに動いている。
「ややこしいものだな」と言ったので「そうですね」と答えた。




