翠雨の別れ 最終話
意識が飛んでいたのはわずかな間で、一秒も経っていないようだった。視界がはっきりしてくると、正義の審判者のような顔のシバサキとその背後を固める怒れる冒険者たちはバラバラで大きな足音を響かせてこちらへ向かっていた。
徒党を組む彼らは大移動をするヌーのようにこちらへ向かってきているが、先ほど女神に呼び出されたときにコーヒーをゆっくり飲めたおかげか、ほんの一秒前よりは落ち着いている。
ノリで何とかしろ。頭の中には何にもない。嘘を考える余裕もない。
この場のノリに任せるとなると、二通り考えられる。このまま精強な冒険者たちに何も言い返さずタコ殴りにされるか、本当のことを少しでも言って新たな流れを生み出すか。ヌーの群れに轢殺されるか、川を渡りだす最初の一匹を別の方向へ誘導するか、言わずもがな後者を選ぶだろう。
一か八か、俺は腹から声を出すべく息を吸いこんだ。
「確かに、この班のリーダーは俺だ! だけどな、そこにいる中年はうそつきなんだよ! 俺は、俺たちはそんな奴はもう知らない! もはや仲間じゃない!」
先頭のシバサキの歩みは一度止まり、群衆はざわつきだした。これはもしかしたら、流れを変えられるかもしれない。しかし、そう思ったのもつかの間、シバサキが何かを言う間もなくワタベが後ろから群衆をかき分けて前へ出てきた。
「やれやれ……、イズミ君。いい加減にしたまえ……。まさか君がここまでとは思わなかったよ。常識がない、とでもいうのかな……。ではね、イズミ君、君が言うシバサキくんが嘘つきである証拠はあるのかね?」
この場所にある証拠は、俺の中にしかない。それをどうやって示したらいいのだろうか。あっ、それは、と何も言えなくなってしまった。もしかしたら、それは証拠でも何でもないのだろうか。自らを疑い始め、言葉に詰まり焦りだした俺を見たワタベは鬼の首をとったかのようになった。
「黙っていては分からないよ。ないのかね?わしは君の主張を否定せず、極めて公平な立場をとっている。まったく、こんなことをしては許しては貰えないよ。ここにいる大勢がそれを信じてくれたとしても、名誉を傷つけられたシバサキくんやわしは絶対に許さない。それにこんな形で皆を混乱させてしまったのだ。君がリーダーだとしても、責任をとれないなら誰も仲間になってくれないよ、きっと。さ、今ならまだ間に合うかもしれない。何をしたらいいか、わかるだろう?」
群衆の持つ目には見えない圧力が再びこちらへ向き、さきほどよりも強くなるのを感じた。まるで、空気が押さえつけられているかのようだ。
確かに嘘はあった。俺はこの目で、この耳で見て聴いてきた。それは俺だけではないはずだ。だが、ほかのメンバーは何もしない。もはや、無力でしかないとでも悟っているのだろうか。自分が行き当たりばったりで始めたこの騒動だ。彼らを巻き込むわけにはいかない。ではどうすればよかったのか。シバサキが俺を指さしてリーダーだと言ってから、女神にも呼び出されて時間はあったはずだ。何も思い浮かばない。
自分の無力さに全身が包まれ、言い知れぬ寒気に襲われた。なぜ毎回失敗してしまうのか。俺は詰めが甘いのだ。女神にリーダーになったと言われたからどう偉くなるというのだ。嘘は嘘だと言えばみな疑うことなく一斉に信じる魔法が使えるようになるとでもいうのか。ほとんど何も変わらないではないか。それにこの状況は立場がどうあれ、確たる証拠がなければ意味がない。
やはりノリでどうにかなるものではなかった。
喉元に刃を突き付けられたような空気の中で沈黙をしていると、握っていた杖の温度が少し冷たくなってきた。こんな時に何の用だ。
さっきまでの俺の勢いをバカにでもしているのか。この杖は時々、人の気持ちや言葉を理解しているような反応を見せるのだ。持ち主がそんなにもバカだとでも言いたのだろうか。普段気もならない杖の材質のいがいがとしたものが不愉快で、いまにも地面に投げつけてしまおうかと思った。
ぐっと力を入れて握ると、一部が小さく緑に光っているのが見えた。これはいったいなんだろう。この杖は非常に万能な杖で、機能が山ほどついている。そのほとんどを使いこなせていない。きっと、また知らない機能が勝手に駆動していたのだろう。
杖から視線を離すと、ポケットが小さく震えた。そして、中から「マーオ、ニャァァオ」と猫の声が聞こえた。それを取り出すと、二股にわかれた文字が刻まれた緑色の丸いものが出てきた。ぼんやり光るこれは録音装置だ。再生された音は、手に入れた当時に近所の野良猫集会の声を機能テストとして集めていた時の音声だ。
なんだ、ただの杖のいたずらか。バカにしやがって。
それをポケットに戻そうとしたとき、俺の中に何かが駆け抜けた。
これだ! 俺の手の中には、依頼を受けているときのすべての声と音がある!
「……ある」
思わず下を向いてしまうと、手足が震えだした。口から出た言葉はこぼれてしまったもので、それを抑えることができなかったからだ。
意図せず漏れたそれはワタベにも聞こえていたようだ。呆れかえるような声で言った。
「まったく、君は往生際が悪い。男らしくない、というのかな。これ以上みんなを混乱させると君をしかるべきところに突き出さなければならないよ」
口頭でも重要な決定が済むということは、言った言わないは非常に重要になるはずだ。それにもまして、ワタベの言うその証拠が、見られる人が限られている女神のもとではなく、音声としてこの手の中に存在することは、非常にアドバンテージがあるはずだ。
だが、これが本当に現状打破のキーとなり得るのか、自信がない。しかし、ここで言わなければどのみちまた不条理に飲み込まれる。それどころか、この世界からもつまはじきにされる。
声を上げるしかない。半ばやけくそだ。
「あるとも! 何があったか全部聞かせてやるとも! ワタベ、あんた確かハラスメントに詳しいんだろ? ボイスレコーダーって言ったほうが早いよな!?」
勢いよく前を向くと俺は先ほどよりも大きく声を張り上げた。そして録音装置を力強く握り、高々と天に掲げた。勢いと言葉の力はすさまじい。自分の言葉で自分に暗示をかけているようだ。冷たい結露のように心を覆っていた迷いが次第に消えていく。その代わりに何かが込み上げてくる。
「聞きたい奴から前に出てこい! 気が済むまで聞かせてやるよ! ゲロ吐くほど胸くその悪いこれまでの全てをな!」
炎さえも焼き尽くすような熱量がみぞおちから湧き上がる感覚。堪らない。これほどまでの爆発的な力がまだ自分の中にあったのか。それは驚きであり、同時に喜びと無限の高揚感を俺に与えた。止まってはいけない。止まっては自分が壊れてしまいそうだ。
握りしめた手は汗が光り、わずかに震えている。それは怒りや恐怖ではなく、湧き上がるマグマのような勢いを押さえつけているからだ。俺は群衆を、ラウンジ全体を、階段の先にいる人を、カウンターの中まで、どこまでもすべてを見据えた。
「俺たち若手は不条理に塗れた抑圧の中にいた! 年長者は報酬のピンハネを繰り返し、不当で不適切な指示や文言に若手は抑えつけられてきた! 今もそうだ! まさにそこにいる男は嘘をつき、怒れる冒険者たちの追求を逃れようとした! 我々若手には能力がない、権力もない! 抑えつけられてしまうのが必然だろう! しかし、遅くはない! 若手よ、立ち上がれ!我々には年長者では絶対に手に入らないものがある! それは変化をもたらし立ち向かう若さだ! 嘘と惰性をむさぼり、それを食潰してきた年長者どもを許すな! 不条理に塗れた抑圧から大事な若き仲間たち、そして自分自身を開放するのだ!嘘に塞がれた耳を開け! 惰性に乾いた目に焼き付けろ! 俺はリーダーの権限をもって、この場で、群衆という公平なる証言者の前で、声高らかに自らの班の解体宣言をする! そして、永い年月を喰い潰した膠着を必ずや打ち滅ぼし、若き力とともに未来への先陣を切る!」
俺は杖先を地面に強く打った。
幸いなことに、中身はともかく勢いに圧倒されたのか、ヤジを飛ばしていた群衆は静まり返ってくれた。行いへの糾弾や反論が出て俺の中の熱量が下がってしまう前にすべてを終わらせてこの場を後にしよう。
それにしても、俺は何を言っているのだろうか。なぜ自分たちの話を業界全体にまで広げたのか。ここまで大風呂敷を広げていいのだろうか。
年長者が考える、依頼だけしていれば本来の目的から逸脱しても評価を得られる腐ったシステム、それによって進まない討伐、惰性だと気づいていながらそれを維持、それだけではない。俺が少なからず心の中で思っていたことを、同じく思っている若手はきっといるはずだ。反抗することに意味を見出し、格好の良さだけを追い求めていて、本当に思っていなくてもいい。若気の至りでもいい。若手は燃え尽きてしまっただろうか。どれだけ年長者がいてもそれは消えてはいないはずだ。
そんな無意識が熱に打たれて上昇し全身を駆け巡り、平静を装い自分の中にあるものでさえ無視していた心をかき乱し言葉となって出てきたのだ。
ここで冷静になってはいけない。せめて最後まで、ここを出るまでは若手を、自分自身を煽り続けなければならない。
それなのに、群衆は静まり返ったままになってしまった。心の中を猛烈な寒波が覆い始めようとした。
だが、どこからか、小さな音がした。
そちらを見ると、気が弱そうな、華奢な体つきの若い魔法使い風の男が、コツン、と地面を杖でたたいている。
おそらく、まだ十代半ば過ぎだろう。か弱く、話し声にすら紛れてしまいそうで、ただの雑音とも思える程の小さな音だった。
音に視線が集まると、ほんの一瞬躊躇したのが見えた。しかし、震える手で握る杖は再び地面を鳴らした。
すると、その地を打つ杖の小さな音に合わせるかのように、一つ、また一つと音が鳴りだした。そして、ゆっくりとそれは重なり合い、いつしか大きな一つの音となり、リズムを刻み始めた。
その音はただの衝撃音のはずだが、まるで何か大いなる意味を持った声のように繰り返され始めた。ついには床を鳴らす音は杖だけではなく、剣や槍など様々なものが入り混じり始めた。
それがないものは足で、あるいは手で、音を上げ始めた。その意味を待たないはずの音は反復した言葉となり、耳には聞こえぬその意味がすぐに職業会館すべてを包み込んだ。かつて本で読んだことがある。全体と同じ行動をとるのは人間の本能だ。その本能たちは自らを飲み込み、若手を共鳴させ始めたのだ。
反論は起きない。俺は確信した。
冷静になることこそ悪だ。思考こそ足枷だ。自らの言葉に疑問を持つことなど愚の骨頂だ。
支持を得た喝采を受けるとは、なんと愉快で高揚するのか!
汗は引き、手の振戦は当に収まっている。
窓を、建物を揺らすほどの万雷の中、カウンターに向かってゆっくりと歩き出すと、眼前の人の海は割れ、偉大なる道を示した。何の変哲もないフローリングに目には見えぬ上質なビロードが敷かれ、その上を何者をも立ちはだからせんとする顔で一歩一歩を噛み締めながら進んだ。
そして、群衆の目の前で解散届を受け取り、高く掲げて皆に見えるようにしながら俺はリーダーのサインを書いた。
沸き起こる歓声と床を打つ音。いままさに職業会館は狂気の中にある。
安い鍍金の言葉に焚きつけられて音を鳴らし、世界を変えんとする若手の大いなる熱意は新緑のごとく輝き、大した価値もない言葉に容易く剥がされてしまうような利権を貪り、耳をふさぐ年長者の声にならずに滾る怨嗟は雨雲のごとく垂れ込めた。
その二つが渾沌と交じり合う狂乱の翠雨の中、シバサキとの冒険は終わりを迎えた。
この出来事は若手と年長者、この二つの世代の間に大きな確執をもたらした。
もめ事は嫌だと主張をしてきた俺が、自らのその行いを後悔するのはまだ先の話。
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