翠雨の別れ 第十二話
どこまでも深い奈落にかなりの速さで落ちた気がしたが、高さはせいぜい一メートルぐらいだろうか。
いつもの暗闇の中どっさと尻から地面に着いた。高さこそないがだいぶ勢いよく落ちので、硬い大理石の床にぶつけた尻がカーっと痛い。
毎度毎度、本当に空気の読めない女神さまだ。以前のパワハラまがいの時期から比べれば刺々しさはないが、最近は事前連絡もなしの呼び出しで乱暴になってきた気がする。熱くなった尻をさすっていると暗闇の中からサンダルのぺたぺたという足音が聞こえてきた。
すると、案の定いつもの役員女神が出てきた。片手に紙のカップを持っていて、おそらく中身はコーヒーだろう。近づいてくるにつれて香ばしい匂いがしてきた。
「イズミくーん、おつかれー。あのさ、この間の話の続きなんだけど」
「なんで今なんですか!?」
「何よ、どしたの?」
「今まさにシバサキが俺をリーダーだっつって、ゴリラみたいな冒険者が俺を集団リンチしに向かってくる、まさにそのタイミングなんですか!?」
「あら、そんなタイミングだったの?ごめんね。落ち着きなさいよ。ここに荒くれ者はいないから。まぁ、でもまさにそのシバサキの言ったことで呼び出したんだけどね」
真横に屈むと紙のカップを渡してきたので反射的に受け取ってしまった。
「どういうことですか?」
「んん~、普通に教えるのは面白くないわね」
立ち上がった女神は目の前をうろうろしながら、人差し指を下唇にあてた。そして、何かを考えた後、あっと何かに気が付いたように表情が明るくなった。
「なんでカトウくんをあんなにあっさり辞めさせられたわかる? ヒントはこの前あんたに何班か聞いたときに37班っていったでしょ。シバサキの班は35班よ」
「わかりません。なにしたんですか?」
「せっかくコーヒー渡したんだから、飲みながらもうちょっと考えなさいよ。第二ヒント、誰よりも問題なくデータいじれるのはいったい誰かしら?」
わからない。もとい考えていない。受け取ったカップから一口を飲むとそれを床に置いた。そして、しりもちをついたままの体勢を変え胡坐をかいた。
「つまり?」
「えぇ……まだわかんないの? あんたたちは37班としてシバサキの35班に合流したの。でもそれだと、リーダーがあんたとシバサキの二人いることになるでしょ? だから、あたしがあたしの権限で、何の問題もなく35班が37班に円満に吸収合併されたことしたの。合併理由が経営不振とか仲間割れとか質の悪いものではないし、シバサキから吸収合併後の采配とかに関して具体的にこうしてほしいっていう要望が全くなかったからね。そんで、カトウくんの話をしたときにちょこっと言ったこと覚えてる? 合併されたほうがリーダーを直接言い渡さないと最終的な移管手続きは終わらないって。で、たった今、彼があんたをリーダーと言ったことで、二人が同等の権利を持っている二重状態は解消されて、正式に全権のあんたへの移管が終了したってこと。カトウくん脱退の件はあんたにも決定権があったから、あっさり行ったワケ。おぅけぇい?」
怒涛の如く女神は説明をしたが、はっきりと理解できたのは“彼があんたをリーダーと言った”だけだ。それ以外はなんとなくでしかない。しかし、これ以上わからないとキレそうなのでわかった風を装った。
「つまり、俺がリーダーなんですね?」
「ま、それでいいや。ご明察」
落ちたままの姿勢から立ち上がり、ほこりを払った。
なんでもっと早く言ってくれなかったんだ。いや、違うな。女神の話を聞いていなかったのは俺で、理解しようともしていなかった。早めに理解できていたならカトウの時にあそこまで気をもむ必要はなく、さっさと辞めさせてあげられたかもしれないのだ。
だが、これはこれでちょっとややこしいことになってきた。俺自身は自分をリーダーとは思っていなかったし、シバサキは自分こそがそうだと思っていた。彼が問題なく業務をこなせていたので何の疑問も抱かなかった。
しかし、本当のところは、移管完了していないがリーダーは俺であり、シバサキはそうではないが同等の権限を持っていたから回せていただけである。傍から見れば彼のふるまいから彼はそうだと見えていたはずだ。
だが、職業会館で俺のほうへ向かってくる直前にリーダーだと言ったせいで、本当の意味で俺がリーダーになってしまったのだ。こうなってしまうと、権利をなくしたシバサキは本当にリーダーである俺の指示で動いていたと受け取られない。
そんなものはこれまでの記録でもなんでもあるだろう、手間はかかるが調べれば証明が出てくるはずだと思うだろう。だが、困ったことにどれよりも正確な事実が事細かに書かれた記録は女神のもとにあり、彼女と接する機会がない限りそれを見ることはできないのだ。要するに勇者以外では見られないのだ。そして、勇者以外には感知できないその存在は集団ヒステリーとも言われてしまうくらいだ。
では、人間の世界にある職業会館やその他の資料はどうなのかというと、その超自然的な力でいつの間にか書き換えられてしまうのだ。女神からすればたやすいが、商会によって人間的には厳重に管理されている資料は、その厳重さゆえに改ざんされることは決してないと信じられており、それを手に取り中身を見た人は、違和感こそ覚えても、ああそうなんだ、ぐらいにしか思わない。誰一人、女神によって改ざん―――修正?訂正?―――されているのではないかなどという疑問を抱かないのである。そもそも、改ざんをできる存在など勇者以外の心の中にはいないのだ。
俺たちを取り巻く状況で当てはめれば、シバサキの班が合流してから今日に至るまでずっと俺がリーダーであったと商会の資料には載っていたことになるのだ。まるで、"19〇4年"のイン〇ソックように。
ここから出てあっちで意識が戻ればリンチ寸前の状況に放り出される。押し寄せてくるその人の波に向かって、俺の指示ではない、そいつ個人で勝手にやった、という唯一の嘘を指摘したところで、興奮した群衆にはもはや通用しないだろう。理由がどうあれ、状況がどうあれ、いきり立って主語も述語も理解できなくなってしまった人たちは、理由をはっきりさせる前にまずは一人一発とりあえず誰かをぶん殴らなければ冷静にならず、話を進められないのだ。
意味がないと分かっていても、指摘できる嘘が一つでも多いほうがまだ心の中に余裕があったはずだ。殴られる覚悟というか、それがなくなってしまったのだ。
「えぇー……、いやぁ……、マジっすかぁ……、。なんでそんなややこしいシステム作ったんですか……?それに最終移管が口頭で済むとか……、いいんですかねぇ……」
「そりゃ、最初はシンプルだったんじゃないの? でも、例外作ったりコンプライアンス無視したりで、ダンゴになっていったんじゃない?あたし作られたときは知らないし」
「あぁ……、よくあるやつですね。つじつま合わせの連続でこんがらがっちゃったシステムですか。超自然的な存在の集団でもそんな風になっちゃうんですね」
「そりゃ人が集まればどこもそんな感じになるわよ」
床に置いたままのコーヒーを拾い上げて再び口に含んだ。いい香りで落ち着くには落ち着くが、これから話が終わり、戻った後を思うと胸が重くなる。
「あの、それで、戻った状況はどうすればいいですか?」
「なんとかなるわよ。あんたがみんなの前でリーダーだってことを認めれば、多少は話を聞くんじゃない? 後はノリで何とかなるわ、よッ」
そういうと背中をパンと叩いた。よろけて女神を見ると、腰に手を当てて笑っている。
ノリでうまくいくことは俺の場合は少ない。ノリがいいというほうでもないし、どちらかと言えばノリが悪いほうだ。それなのに調子に乗ると悪ノリする癖があるので、ただノリが悪いだけで起きる事態程度では済まされないことも多い。それに、想定外を想定しても、結局それ以外の結果になる。つまり、想定外は運以外では避けられないのだ。
「なーに悶々としてんのよ、さっさと戻んなさい。大丈夫だから」
と言われると、再び奈落へと落ちていく感覚に包まれた。残り少ないコーヒーを慌てて床に置いた瞬間、目の前が真っ暗になった。
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