翠雨の別れ 第十一話
「カミュ、大丈夫? 落ち着いて」
「すいません。私としたことが……取り乱してしまいました」
椅子に腰かけて額を抑える彼女に近づくと、まだ息が荒い様子がうかがえる。
俺の中での疑いを彼女に言ってしまおうか、と悩んだが、それはまずいとすぐに気づいてやめた。この三秒前まで彼女が言っていたことを真っ向から否定するような発言は、剣を抜かせないまでも、せっかく落ち着きを取り戻そうとしている彼女をいい気分にはさせないはずだ。
「その件に関して落ち着いたら話をしよう」
「わかりました。でも、レアを、私の親友を疑うような発言をしたあの男はいったい何を考えているのでしょうか……。引っ掛かります……」
「確かに嫌な言い方だったね。レアは大丈夫?」
「いえいえ、気にもしていませんよ。ふふ、お気遣いに感謝いたします」
すぐそばにいたレアは少し申し訳なさそうな笑顔で振り向いた。
しかし、ワタベの背中を追う顔は、刹那の瞬間、底の見えない暗闇からこちらをのぞき、手を伸ばせば何百尋もある深淵へ引きずり込もうとする何かのような、不気味でおぞましい顔をしていた。目に映ったのはあまりにわずかで、ともすれば見逃してしまいそうなそれは脳内に刻み込まれてしまった。
初めて会ったころはひたすら笑顔だった彼女のそれは、見てはいけない何かのような気がした。まだ下っ端とはいえ、仮にでも世界物流を牛耳る商会の人間だ。今後ワタベに何か不利益がないとも言えない。この子は敵に回さないほうがいい。改めて思った。
それから十分ほど経過しただろうか。少しでも和んでもらおうと、俺はレアとカミュに路地裏の野良猫の集会の話をして過ごしていた。もうそろそろシバサキとワタベが依頼を受けて戻ってくるはずだ。猫話もピークを過ぎてきたのでちらりと彼らのほうを見た。
しかし、遠くに見えている二人はさきほどからずっとカウンタ―の前で何かを話し続けていて、一向に戻ってくる様子がない。それから、シバサキは話していくうちに身振り手振りが大きくなっていき、彼が何かを話して動きが止まると、ワタベはうんうんとうなずいている。それが何度か繰り返されて時間ばかり過ぎていく。
嗚呼、もう嫌な予感しかしない。経時的に増す不快感。
背中を向ける二人に阻まれて受付の職員の顔は見えないが、その人と何かしら諍いか、ろくでもない何かを起こしている気配がひしひしと伝わってくる。カウンターの様子を窺うのはもうやめようと思った。できるものならいっそ他人のふりをして、彼らがどこかに治まりのいいところで話を収束させてくれるまでこのまま過ごしてしまいたい。
しかし、何も見なかったように窓の外を見たその瞬間だ。
バン、とカウンターを叩く音がした。ラウンジ中に響き渡る、その予期せぬ音に体が飛び上がってしまった。
「依頼を受けられないとはどういうことだ! ふざけるな!」
音と大声は誰のものか、わざわざ見なくてもわかる。シバサキはついにことを起こしてしまったようだ。俺は体をそちらに向けずにそっと猫背になり、無関係を装いながら目をやった。どうやらシバサキは、依頼を受けられないことに怒っているようだ。
確かに、依頼を受けられないとなると生活費を稼げないので死活問題であり、彼が怒るのも尤もなのだが、その当面の食い扶持の問題以上にこれから目の前で繰り広げられる事態を思うと嫌で仕方がない。彼は、はい! わかりました! とすぐに食い下がることは絶対にないだろう。
それにとどまらず、騒ぎを大規模に延焼させるに違いない。青筋を浮かべて怒鳴るシバサキの周りにはざわざわと職員が集まり、彼を取り囲み始めている。
「僕が何をしたっていうんだ! なんで依頼を受けられないんだ! ふざけるな!」
取り囲む職員の一人が両手のひらを前に出し、弁明するかのように話し始めた。
「大変申し訳ないのですが、あなたのチームの、その、素行が悪いという報告を受けていて、依頼請負の申請をしてきても断れとお達しがありまして……」
「誰がそんなこと言ったんだ! 誰よりも依頼を真剣にこちとらやってきたんだぞ!?」
騒ぎを嗅ぎつけた人が集まりだした。取り囲むのは職員だけではなくなっている。ただの通りすがりが立ち止まったり、面白半分でにやつきながら見ていたり、それだけでなく、依頼を受けにきたり、何かの手続きを待っていたり、それぞれに違う目的でその場にいた人たちも野次馬になり、口々に噂の話をし始めている。折しも、朝の混雑する時間帯であり、多かった人の波はその場で滞り、シバサキを囲む円は瞬く間に大きくなった。
「おい、お前、自分の立場とか誤魔化してるらしいな! 恥ずかしくねーのかよ!?」
そして、ついに集まりだした群衆の、野次馬の中から罵声が上がった。増えすぎた人のせいで誰が言ったのかもうわからない。それをいいことに、あちこちからも堰を切ったように声が上がり始めた。
「依頼終わらせてねーで何やってんだよ! お前のせいで信頼無くしてほかに迷惑かかってんだよ!」
「出禁の店放火したってマジかよ!?」
「若手いじめてるらしいな! だから年長者はクソなんだよ! さっさと引退しろ!」
「掲示板で見たぞ! こいつ、例のクズ野郎だ!」
「誰のせいで前金制度無くなったと思ってんだよ! ざけんな!」
飛び交う罵声は渦を巻きはじめ、根も葉もない尾ひれの付いた噂話をまことしやかに叫ばれ、そして、いつしか、やめろ、やめろ、とカウンター前が一体となって繰り返し始めた。
そうなってしまっては、もはやそこに交じりたくはない。俺はシュプレヒコールを浴びるシバサキとは無関係であるかのように距離をとりつつ、こそこそとレアの傍へ移動した。
「レア、これってさぁ」
「どうやら、読みが甘かったようですね。もう手遅れな段階にまで話が広まってしまったようです。私は一応支部長ですが、立場でいえば中間管理職の下くらいです。エリートだなんだと言われても、まだまだ下っ端です。だから、依頼請負の可否について口は出せません。やはり昨日の話はあっという間に上に伝わり、拒否の決定を下したのでしょう。早さから察するに、最後の決め手となったのでしょうね」
レアは鞄から書類を取り出しさらさらと何かを書き始め、騒ぎなど歯牙にもかけていない。まるで他人事のようだ。もしかして、先ほどの一件でついに愛想をつかしてしまったのだろうか。俺まで愛想をつかされてしまったのかと少し不安になってしまった。
「それで依頼が受けられなくなったのか……。え、でもシバサキと関係性の強いレアはお咎めないの?」
レアは、はぁー、と迷惑そうな深いため息をした。
「今のところ連絡はありません。未完の依頼については個別行動でしたし、シバサキ名義なので私は関係ないですね。あまり心証は良くないでしょうが……」
ふぅ~ん、と相槌を打つと、話が途切れて騒ぎの声が聞こえた。
「これから、どうなるの?」と、思わず情けないことを彼女に聞いてしまった。
「さぁ、どうでしょうね……。リーダー次第です。ですが、拒否解除はかなり大変ですね。本人との面談を五回ほどして、それと拒否段階になる一つ前の監視段階時点での所属メンバー全員へのヒアリングがあるので、まず無理でしょうね」
「よくわかんないけど、大変なのはわかった。ヒアリングって俺もされるの? やだなぁ……このまま解散しちゃえばいいのに……」
これからどうしたものかと悩む前に、どことなく、これは必然なのではないだろうか、と思っていた。まるで他人事のような自分がいる。
檻から逃げ出してきた獰猛な動物のような大勢の冒険者と、どれだけ凄まれてもマニュアル通りの毅然とした対応をする職員に囲まれて、さすがのシバサキも慌てふためき始めて弁明を始めた。身振り手振りが大きくなり、どうやら必死な様子だ。
「ふざけるな! ぼ、僕は、違う! 違うんだ! リーダーは、リーダーじゃない!」
周りにぐるりと壁のように立ちはだかれ、逃げられなくなったシバサキはまたしても胸倉を掴まれて持ち上げられている。次第に宙に浮き始めて、足をぶらぶらさせると彼は裏返った声で言い放った。
「リーダーはあいつだ!」
そして、どこかをまっすぐ指さした。
俺の目にはその人差し指は丸く見えている。ちょうど正面から見た筒のように。そして、男女問わず体つきのいい猛獣たちが一斉にこちらを見て目をぎらぎらと光らせている。なぜか、不思議なことにその誰とも目が合った。
なんとそれは、まぎれもなく俺を指さしていたのだ。他人事にしてしまおうと胡坐をかいていた俺は信じられずに、同一直線状の誰かではないかと思わず後ろを振り返ってしまった。しかし、残念なことに壁しか見えなかった。
「お、お前らの言っていることは全部、まぎれもない事実だ!全部あいつがやったんだ!あいつの指示だ!」
シバサキは手から離されるとうまく足をつき、猛獣たちを先導するかのようにこちらへ向かってきた。
「えっ、えっ」
理解が遅れて、きょろきょろ辺りを見回し間の抜けた声を上げているその間に、シバサキを含めた冒険者たちが大挙をなしてこちらへ向かってきている。
しかし、突然耳鳴りがすると視界がモノトーンになり、動きが止まった。この感じは、と思う間もなく、足元が崩れて落ちていく感覚がした。
最悪のタイミングだ。俺は女神に呼び出されたようだ。
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