翠雨の別れ 第九話
気が付くと霧の深い湖の畔の白いベンチに腰かけていた。
水際は目の前にあって、さざ波は岸にあたると、可愛げのある音を立てて砕けている。
白樺湖に行った時のことだ。
大学三年生の時の夏休み明けのテスト直後だ。六年制の大学に通っていたから―――ほかに例えが無いし、実際そうだった―――まあまあ暇だった。持て余した時間は学生の間だけのものであって、限りなく無限だと錯覚しそうな有限ではあることは分かっていたし、限りあるがゆえに無駄にしてはいけないというのは重々承知していた。
早く動けば時間は早くなる。十分かかるものを五分で終わらせるとは、つまり(終わる)時間が早くなるということだ。相対性理論については言葉の格好良さに惑わされるぐらいの知識しかないし、相対する性の理論という解釈で爆笑をする程度だが、何もわかっていないなりに案外いいことを言っているなと思っていた。
そこで手近に何ができるかと、先人たちの偉大な知識をすぐに下ネタに結び付ける程度の頭で十分間考え込む時間を五分間に絞り、思いついた過ごし方はドライブぐらいなものだった。
誰と一緒に行ったのかというと、全くもって喜ばしいことにたった一人だ。仕事でもないのに朝五時という気まぐれな時間に出て、運転が気に入らないから言葉という補助ブレーキを踏みっぱなしの教習官が助手席にいない車で走行車線だけを走り続ける気まぐれな運転して、歩くのは面倒だが湖から少し離れていて空いて停めやすい駐車場に気まぐれに車を停められるというのは、幸せだと思わないだろうか。
実のところ、そのときはなぎさにふられたのだ。
中古で手に入れたSUVにいそいそと一人乗り込み、中央道で八ヶ岳を超え諏訪南で下に降りて、くねくねとした山道を登れば上るほど霧は濃くなり、白樺湖の駐車場に着いたときは五メートル先も見えないほどだった。
立派なシラカンバの木が生えてはいるが、霧のせいで下のほうしか見えない。周りが見えていないせいかわからないが、人の気配がなかった。北欧のような抜群の景色を期待してきたが、これでは何も見えない。
そして、なぜかわからないが、昔観た映画を思い出していた。フィ〇ップ・K・ディック原作のSF映画で、警察みたいな組織が予知能力を使って犯罪を予防できるシステムが確立した未来、そこで酷使されていた予知能力を持つ女の子を取り返しに来た母親をその組織の局長が殺したことを、罪をかぶせられた組織員が暴く話だ。
局長がその母親を殺したのは、ちょうどそんな水辺だった。それにしても参った。
殺人現場を見るために三、四時間法定速度で安全運転してきたなんて科捜研でもあるまいし、観光客にはひどすぎやしないだろうか、と思ったものだ。
気が付いてから視界に入ったものは、自分の服と芝生の緑以外、霧の白だけの単色の世界だ。ここは、何の変哲もないただの蕭条たる湖畔は、どうも、その局長が女の子の母親を殺したところに似ている。
霧が深い天気は嫌いではない。どこかわからないという不安もあったが、既視感とある予感のせいで落ち着いてはいられた。しばらくはこうしていてもいいだろう。ベンチに座って下を見ると足元に小さな小石があり、二個ほど拾って手の中で弄んでいた。
―――シバサキは憎い?
やはりな。反響のかかった幻想的な声が聞こえてきた。それは女神が上からものを言うときと同じだった。聞こえた方向がわからずとりあえず上を見上げた。
そして聞き覚えのある声だ。だがいつもの彼女の声ではない。となると、
「お久しぶりですね。人事部長さんでしたっけ? 普通に話しませんか?」
ふっと霧の中から女性が現れた。やはりあの人事部長だった。
「あらあら~。覚えていてくれたの?うれしいわ~」
その女性はスカートをさっと手で押さえ、空いていたベンチの横へ座った。
俺はここで何をしているんだ?
ああ、そうだ。俺はレアと路地裏で話した後、家に帰り自分の匂いの染みついたベッドの上で、使う当てのない余分な枕を抱きしめながらぷうぷうと間抜けな寝息を立ててはずだ。
つまり、毎度のごとく、突然超自然的な存在に呼び出されたのだ。
あの役員女神もこの部長女神も、俺の都合などお構いなしに自分の世界に引きずりこむのは同じだ。いつもとの違いがあるとすれば、真っ暗な暗闇ではなく真っ白な霧の中にいることだ。そして、この女性は部長女神で、ここはその彼女の空間ということだ。
「覚えていますよ」
手の中の小石をぎゅっと握ると、冷たいものが手のひらに食い込むような感じがした。開いて見ると、小石と土の付いた手のひらが見えた。小石をそのまま目の前の水面に勢いよく放り投げつけると、コプン、と音を立てた。立ち上がる小さな水しぶきを見たその部長女神は顔をしかめた。
「あら、そんなに悪いことしたかしら~」
「いえ、何にも」
本当に何にもしてない。適当に理由をつけて話をいい加減に収束させただけ。そのいい加減さに付け込んで、俺は賢者に昇進したわけだ。何も言うまい。
「そうよね~」
にこにこと目を細めている。話が途切れると、波の音が聞こえた。
しばらく寄せては返す音を聴いたあと、部長女神はおもむろに話を始めた。
「ところでさ、シバサキが憎いんでしょ?」
何を言い出すのかとちらりと女神のほうを見ると、満面の笑みで見つめ返してきた。
「力が欲しくないかしら~。とっても素敵な力よ。どんな女の子も手籠めにできちゃう力」
「いらないですね。生きてるだけで精一杯で、ほかの人養えるほど余裕ないので。たくさんの人が慕ってくれるのはうれしいですが、生活があるので。シバサキさん関係あります?」
「じゃあ、どんな敵でも一撃で殺せる力は~?」
というと、装飾の付いたいかにもな剣を持ち出してきた。抱きしめるようにそれを抱えている。
「もう持ってます。使わないだけで」
「何をされても不死身の体は?」
派手な剣はどこかへ仕舞われており、今度はザクロだろうか、半分に割れた実の中に赤い小さな粒がたくさん入った果実を見せてきた。
「人は死という解放と終焉を持つから、人生という恐怖に立ち向かえて輝けるので、一番いりませんね。それに、それ食べたらここから出られなくなりそうです」
「なにそれ。ああ、そんなもんじゃないわよ~。ここは冥界じゃないわ~。それにしても、哲学でも勉強してたの? つれないわね。つまんないわ~」
部長女神は長歎息を漏らすと、背もたれに首をのせた。
「でも、シバサキは憎いんでしょ~?」
憎いことは憎い。殺されかけもした。直接彼に手に掛けられたわけではないところがなおのこと憎い。そして、アンネリの件だ。彼がどこまで関与があるのか、ここのよりもさらに可視領域が狭いようなところに放り出されたようで混乱させられてさらに憎い。部長女神のほうへ向くと、首を左右に揺らしていた。
「それはそうですね。でも殺しても意味がないんですよ。復讐は虚しいとか、大した復讐もしたことのない百戦錬磨を自称する大人が言いそうな教訓の話ではなくて、俺はただ単に関わりたくないだけですね」
「あっそ。あんたもつまんないわね~。シバサキのほうがよっぽど面白いわ~。あの子だけ、力を上げるって言ったらすぐ飛びついたのよね~。あんまりがっついてたから、時がきたらってことにしたけど」
シバサキは女神にお預けを食らう宿命なのだろうか。確か20年ぐらい我慢してやっと勇者になったんだっけ。それはいいとして、なるほど、疑いの通りだ。数ある勇者たちをそそのかしているのはこの人だ。少し遅れたが、女神に依頼された調査はこれでもうおしまいにできる。だが、もう一押しほしいところだ。
「そういえば、ときどき聞こえてきた声はあなたですか? カトウがシバサキを打ち抜けばいいと思ったときに止めなかったり、掲示板の前にいるシバサキを殺させようとしたりしたのはあなたですか?」
「そうよ~。悪いかしら?」
「やっぱりそうでしたか。だからどうしたという話でもないんですがね」
大ありだ。これで充分だろう。
この空間から帰るときはいつも意識が薄れていくような感じがある。どうやら今回はおしまいのようだ。さきほどに比べて体がだるくて重たい。部長女神が一体何のために呼び出したのか、よくわからなかったが、俺には収穫があった。ここにいる理由もないからもはや潮時だ。
「意識が薄れてきたので、今日はここまでってことですかね」
「そういえば、錬金術師の彼女、元気?」
「何を言ってるんですか? 元気ですよ」
部長女神のほうを見ると、彼女は目を閉じ下唇を指でトントン叩いていた。
動きが止まりゆっくり口を開くと、
「『母親』を」
とつぶやいた。
そこまででは理解ができなかった。しかし、続く言葉は予想だにしなかった。
「――――殺そうとしたのは、誰か」
決して大きな声ではないその一言は、鼓膜を突き刺すように響いた。薄れゆく意識に身をゆだねようとした体は再び揺り動かされ、途端に鼓動が速まった。
しかしそれも一瞬のことで、意識の遠のく速さは加速度的に上がっていった。
「知りたくない?」
部長女神は足をぴんと伸ばすと椅子から勢いよく立ち上がった。そして目の前に仁王立ちして、目線の高さを合わせるように屈んでのぞき込んできだ。『母親』とはアンネリのことで間違いないだろう。だが、なぜアンネリの話を知っているのだろうか。あの女神しか知らないはずだ。しかし、街であれだけ目立てば知らないわけもない。それにこの人も超自然的な存在だ。
真相を語れないアンネリの発言に違和感を覚えていた俺は、心のどこかでアンネリを傷つけたのはシバサキではないのかもしれないと思っていた。その一言は、もしかしたらという小さな猜疑心に揺さぶりをかけた。それと同時に、では一体誰が、と自分以外を疑い始めた。鼻筋に力を入れて部長女神を見つめてしまった。それを見た彼女は不敵に笑いだした。
「それなら、私を楽しませてほしいわ~」
というと微笑みをたたえながらそばを離れた。
楽しませる、とはどういうことなのか。いや、見当がつかないわけではない。
「……シバサキを手に掛けろと、言うことですか?」
「どうかしら~。力が要らないっていうなら、それが手っ取り早いしらね~」
シバサキが犯人ではない可能性がますます濃くなった以上、彼を殺してはいけない。だが、俺は力もいらない。それにもう本当に時間切れのようだ。ここで聞いてもあやふやになってしまうに違いない。それに曖昧な言葉で煙に巻くような言い方で混乱させられそうだ。
「断らせていただきます」
ついに目の前もぼやけてしまい、言おうとしたことをはっきり言えているかわからないが断った。
「多数派の意見が意味するものは、少数派の存在よ~。見せて頂戴。何もしなくても面白くなりそうだわ、ふふふ。じゃあね」
気が付いたときはベッドの上で汗だくになっていた。外は明るく、もう朝を迎えていた。
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