翠雨の別れ 第七話
ノルデンヴィズの治安は、場所にも寄るが悪いわけではない。
酔っぱらって道端で寝ても物を盗まれることはまずなく、低体温でも起こさなければまず死ぬことはない。とはいえ、どれだけ治安がいいと分かっていても深夜の街中は不気味であることは変わりない。
地球でいうところの緯度が高いのか、雨季と夏季のノルデンヴィズの町は遅い時間まで陽がでていて明るい。しかし、深夜1時ともなると真っ暗になる。マジックアイテムの普及のおかげで明るい照明も夜が更けるとすっかり消えてしまい、街はすでに闇の中にある。
部屋をそっと出て街に出ると、雲に覆われた夜空は星明かり一つ地に投げかけない。寝静まった町は物音ひとつせず、夜の静寂と言うにはあまりにも美しくない。暗闇に慣れた目にはただ不気味に冷たく、そして無機質に横たわっている藍錆色の街並みが映っている。
レアは何か秘密の相談を持ち掛けてきたようだ。連絡用のマジックアイテムではなく、耳元で囁くように集合場所を伝えることから察するに、かなり危ない話なのではないだろうか。見つかってはまずい。夜闇に紛れるため明かりを持たずに職業会館裏へ向かうことにした。
目はすぐに慣れていき、迷うことなく集合場所に着くといつも来ているその場所は、遠い町というよりも一つの色以外をなくしてしまった世界の一角のように感じた。
職業会館の裏手にはどうやって出たらいいのだろうか。悩んだ末辺りを見回すと、普段は気にもならないような路地がとても大きく見えた。
俺はどうも、そこへ呼ばれているような気がする。
導かれるままそこへ入ると、先の見えない狭い路地が続いていた。しかし構わず進んだ。星明りも街明かりも、そして自分自身の明かりすらないこの場所では視力は意味をなさない。そして見える意味もない。見える必要があるほどそこは広くなく、自分の体が通れるほどしかないからだ。
しばらくすると、少し広い場所に出た、という感じがした。腕や足に触れる壁に挟まれた感覚が無くなり、顔にあたる空気の流れが変わったからだ。
どのくらい奥まで来ただろうか、会館の裏ぐらいまでは来られただろうか。あまり考えたくないが服もおそらく埃だらけだ。来た道を意味もなく振り返った。しかし、どこがきた道なのかすらもわからない。
しまったと思い、手探りで道を探そうとした。壁を伝わせようと暗闇に手を伸ばした瞬間、誰かのその手首をつかまれた。
そして、グンと引っ張れると誰かの小さな声がした。
「イズミさん、なにやってるんですか?」
聞いたことのある声だ。聞こえたほうに振り返ると、突然目の前に小さな青白い明かりがぽっと浮かび、人の顔が浮かび上がった。
思わず声が出そうになったが、口を抑えられた。
「シー! 静かにしてください。私です。レアです」
俺はあげそうになった声を飲み込んで、明かりの中の顔をしっかりと見た。すると、いつものレアが見えた。
「ちょっと、びっくりさせないでよ!」
「イズミさんこそ、なんで照明を持たずに来るんですか?」
「秘密の話かと思って……」
「なるほど、わかりました。ふふふ。慎重なあたり、確かにイズミさんですね。賢い選択かもしれません」
レアが持っていた明かりを少し強めると、彼女の姿が見えた。
影が多くて見づらかった顔ははっきりと表情が読み取れる程度になった。そのレアの顔は神妙だった。
「ところで相談て何?なんだか剣呑な話みたいだけど……」
険しい表情のまま、レアは話し始めた。
「では早速ですが、マジックアイテムの機能を利用した掲示板をご存じですね。それの一部を自動書記で紙に起こしました。これは特段機密性の高いものではないです。まずは目を通してください」
そういうと左上をひもで綴じられた三枚ほどの書類を手渡してきた。はぁ、と書類を読み始めた。小さなライトで照らし出された紙の上には短い文章の羅列が続き、それらを読んでいくとどうやら不特定多数の人間が会話をしている内容のようだった。
一ページを読み終えると紙をめくると、二ページ目にはこれまでなかった数か所に目印がしてあった。
『某チームのリーダー、勇者なんだけどひどすぎて笑えない。賢者自称してるし』
『道具ぶち壊されてた。弓も矢もぐにゃぐにゃにひん曲げられてた』
『言っちゃいけないかもしれいなけど、依頼も途中で投げ出して完了してない』
『この間、ノルデンヴィズの出禁になった店に乱入して従業員のこと襲おうとした』
『毎朝広場で怒鳴り声をあげているやべーやつだよ』
『依頼の報酬を使い込んで遊びまくっているらしい』
掲示板の内容を始めてみたが、どの世界でも匿名で書き込めるとなるとこういう晒し行為があるんだな。ノルデンヴィズでシバサキは有名人だから、こういう書き込みもあるのだろう。
「これは? シバサキに対する書き込み? あのおっさん、掲示板でも話題なのか」
俺の言葉を聞いたレアはますます険しい表情になった。
「イズミさん、私は今一言も彼のことだと言っていません。つまりこれだけで彼だと判断できるわけです。私たちは彼の素行を近くで見ているからすぐわかるというのもあるかもしれません。ただ、シバサキさんは悪い意味でノルデンヴィズでは有名です」
「これ、書かれたのはいつ?」
「カトウさんがいなくなる少し前ですね」
「誰が書いたの?」
「未完了の依頼については職業会館、依頼主とチームの関係者しか知り得ません。職業会館のスタッフは商会の人員で、守秘義務の徹底がなされているのでリークの可能性は低いです。依頼主は個人の特定が明確でないところにクレームを言うよりも商会に出したほうが確実です。そして、掲示板機能を使えるチームメンバーはカトウさん以外にオージーさんとアンネリさんですが使っている様子はありません。二人は書き込むことよりもそのシステムについて興味を抱いていますから」
「つまりカトウくんが書いたという線が濃厚というわけか……」
「まだあくまで可能性の段階です。スタッフにしろ依頼主にしろ、掲示板の影響力を正しく理解していない人もいるかもしれません。書き込まれてからだいぶ時間が経っていますが、一部で話題になっています」
わずかな明るさにすらまぶしさを覚えていた目も慣れて、見えていた背後の壁に寄りかかりレアに紙を渡した。受け取ったレアは話をつづけた。
「連絡用マジックアイテムはまだ高価ではありますがある程度量産されるようになり、中流階級でもかなり無理をすれば手が届くようになりました。非常に便利なので無理をする価値はあります。それに伴う掲示板機能のこの数年間の急な普及に業界団体も対応せざるを得ず、最近はこういう事態には非常に敏感です。ここまで個人が特定できるということは当然ながら商会も業界団体も、ひいては金融協会すらもすでに把握しています。敏感になっているときにブラックリストに載っている人間が話題になり、それにとどまらず、若手であるカトウさんの突然の脱退や、名うての錬金術師の愛弟子二人の休業という、仲間の進退にかかわる問題を短期間に立て続けに起こしているということです。さらに、アンネリさんの件を商会はイズミさんが提出した休業届以上の内容を把握済みです。委任に関してですが、第三者に委任せざるを得ないしかるべき理由について説明を追及されました。私は立場上、彼らが休業に至った理由をおおかた報告させていただきました。そして、この短時間ですでに噂話も流れているようです。もうこれ以上言わなくても、わかりますね?」
話を聞いて顎が気になり軽くさすった。内容はわかったことはわかったが、これからどうなるのだろうか。かつて普段から使っていたネットの感覚に近いのだろう。だが、実際のところ大手サイトのニュースと渋滞情報と乗換案内が閲覧履歴の八割以上を占めていて、掲示板と言えばなんとかちゃんねるやfaceb*okなど数多くあったが、触っていたのは半年に一回ほどのtw*tterぐらいしかない。それ以上に使ったことがないのでわからないのが実際のところだ。