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翠雨の別れ 第六話

「あ、イズミさん。お戻りですか」


 職業会館のカウンターに立ち、呼び鈴を鳴らすとレアが顔を出した。ピンクのゆったりした腕カバーをしている。濃いラクダ色をしたハーフリムの眼鏡までかけて事務処理でもしていたのだろうか。


「何やってんの?」

「私も一応ここには入れるので、そろそろかと思いましたよ。これですか?」


 そういうと、一枚の紙をカウンターの上に置き、手前にすっと出してきた。

一番上には『休業届』と書いてある。察しがいいのか、情報が速いのか。


「なんでわかったの?」

「アンネリさんがどうするかくらいは分かります。私が彼女の立場なら、こうすると思います」



 カウンター越しの彼女は何かを書きながらしばらく沈黙した後、


「様子、どうしでした?」

「アンネリの意識は戻ったよ。それに子どもも大丈夫かもしれないってさ、本人が」


 文字を書く手とそれを追う視線が止まり、伏し目がちに少し口角を上げていた。


「……そうですか」


 冷静に見えるがやはり気にしていたのだろう。少しは安心してもらえるといいのだが。


「書いたら持ってくるよ」



 時間帯も遅くなり人の数も減り始めていたラウンジは、どこを使ってもいいくらいにテーブルは空いていた。カウンターに近いその一つに腰かけ、貰ったばかりの休業届に、チーム名、休業をする者の氏名、休業理由、そして委任であること、二人の代わりに俺のサイン、と次々と羽ペンを走らせた。ついでに委任状に俺のサインを書いた。これを提出しさえすれば錬金術師二人は休業だ。

 それを考え出すと手が止まった。一つ一つ終わりに向かって動き出しているような気がしたのだ。頬杖をついてカウンターのほうを見ると、レアが裏に入っていくのが見えた。


 病気により休業という、曖昧な理由でも大丈夫なようだ。職業会館はその内容の真偽が疑わしいほどにいい加減でも書類を出しさえすれば責めない。大事なのは書類を出すか出さないかという点だけであることには助かった。

 そのおかげで、かつては休業届と一緒に要求されていたお金のかかる診断書かそれと似たようなものも必要ない。そもそも医者がいないこの世界にはそんな言葉すら存在しない。


 残すは一つ。すべての行動を遅らせる言い訳となるたった一つだ。それは、チーム責任者のサイン、つまり、シバサキのサインだ。すべての提出書類において必要で、いついかなる時もいい加減に与えられてきたそれは、きっといつも通り何も見ずにさらりと書かれるだろう。だが、そんな簡単なことがこのときほど面倒に感じることはなかった。


 重い腰を上げて、何が不満なのか迷惑そうな顔で自分の指先を見ているにしているシバサキにサインを貰いに向かった。彼の前まで来ると、できる限り彼と目を合わさないようにして、サインお願いしますと言った。

 壁に寄りかかり、深爪をしたらしい指先を見ていたシバサキは面倒くさそうに俺を見ている。今回に限って偶然にも書類の内容をしげしげ見たりはしないだろうかと、内心はみぞおちが空っぽになったように緊張していた。俺の顔は鏡で確認しなくても引きつっていたのはわかるが、それはいつものことなので問題ない。

 シバサキは紙を受け取るとテーブルに向かい、大して見ずにサインをし始めた。なんとか貰うことはできたようだ。

 しかし、解放された反動で腕の筋肉が突っ張るような感じがした。こんな時でさえもこいつのサインがいるなど虫唾が走る。憎しみがあふれ出し、サインを書くシバサキの後頭部を殴り飛ばそうかとも思ったが、それはなぜか違うような気がして腕を抑えた。

 昼のことへの確信がないのだ。


 それに、まずはオージー、アンネリの二人を休業させることが先決だ。この場は抑えて、サインだけ貰えればいい。それに必要以上に余計なコンタクトを取ると厄介なことが増えて、面倒くさくなる予感しかしない。ホレ、と紙を渡されると、図らずも腹いっぱいに深呼吸をしてしまった。喉仏で止まったアリガトウゴザイマスを言う前に、彼は胸のあたりをごそごそまさぐって煙草を出し、一本咥えてそのままどこかへ行った。


 サイン以外は数分のうちに書き終わったが、最も重要で最も軽んじられているそれをもらいに行くまでに躊躇した時間のほうが遥かに長くかかった気がする。すぐさま受付に向かい呼び鈴を鳴らすとレアが再び顔を出した。彼女に書類を渡すと、眼鏡を額に上げて内容に目を通し始めた。


「こうなるとは思いましたが、やはり二人ともしばらくは来ないのですね」

「さみしい?」

「一度は旅をした仲間ですから。そういうイズミさんは大丈夫ですか?カトウさんの件でだいぶ落ち込んでいましたし。あ、ここ日付書いてください」


 使い込まれたピンクのかわいらしい羽ペンを渡され、カウンターの上にこちら向きに置かれた紙に日付を書いた。


「なんとも。まぁ正直なところホッとしている自分もいるんだよね」


 そう思ってしまう俺はまたマタハラをする可能性があっただろう。アンネリがいなければまた彼女に嫌な思いをさせずに済むという、自分本位の安心だ。

 レアは紙を受け取ると、小さな棚からハンコを取り出してぱしぱしと押し始めた。


「わからないことも、ないですね。彼女の意見を尊重しましたが、私もやはり気にはしていましたから」


 何度かハンコを押された後、書類は音もなく箱の中へ入っていった。

 あとは偉い人が順にそれにハンコを押してくれるのを待つしかない。よほど怪しい点がなければ話はすぐ通るだろう。大事なことがこんなにも簡単に決まってしまった。あれだけ大騒ぎになっても結局そんなもんだ。それが嫌なら壮大なスペクタクルで物事が動けばいいかと言えば、そうでもない。だいたいのことは複雑怪奇に見えるが、決まる瞬間はシンプルで静かだ。

 書類を任せると何も言わずにカウンターを離れた。



 書類を提出した後、シバサキの姿は今度こそ本当にどこにもいなかった。いつのまにか帰ったようだ。アンネリへの暴行の関与の可能性を除けば、当日中にサインを貰えたのでもう何も言うまい。それどころか躊躇している間に帰らず、むしろよくこんな時間まで残っていてくれたものだ。


 ため息をしながらラウンジを見渡すと、若手メンバーが最後まで残っていた。何もしないで待機というのは時間の無駄で、待つのも疲れる。俺はさっさと解散の指示を出すべきだったのかもしれない。行ったり来たりを繰り返した俺と違って暇を持て余していただろう。


 ラウンジでそれぞれに過ごしていたカミュとククーシュカを呼び、レアも一度カウンター裏から出てきてもらい、残っていたその三人を集めて俺は解散を言い渡した。

 ストスリアの治療施設にいるオージーに今日は解散したことと休業届を提出したことを連絡した。彼はそのままアンネリに付き添うそうだ。是非そうしてもらいたい。不気味だから早く出たいと言っているが、四、五日ほどそこで安静にしてから家に戻るそうだ。彼女は病気というわけではない状態での怪我ということで話がまとまり、最低限の保険金のようなものは下りるらしい。さすが保険屋、話が早い。


 遠巻きに様子を見ていたククーシュカは珍しくみんなに頭を小さく下げるとそっと姿を消した。顔にも仕草にもでないが、気にはかけていたのだろう。それにしても挨拶をして帰ったのは初めてではないだろうか。

 その姿にあっけにとられていたところにカミュがウミツバメ亭でもいかがと誘ってきた。彼女なりに気を配ってくれたのだろう。しかし、とてもそんな気分ではなかったので断った。その後まっすぐ帰ったのだろうか。断ってばかりで彼女には申し訳ないことをしたと少し後悔した。



 職業会館のラウンジにある椅子に腰かけて、皆が帰ったのを見送った。

 まばらだった人影もなくなり、ラウンジには俺以外に誰一人いなくなった。すると張り詰めていた気が抜けはじめ、足腰の筋肉がどっしりと重く感じた。思い返せば長い一日だった。


 シバサキを手に掛けようとしたり、カミュが沼地で襲われたり、そしてアンネリの大怪我。幸いなことに彼女は女神の助けもあり、安定した状態になった。治療施設で安静にしていて、オージーもそばにいる。そして二人はこのチームにはもう来ない。これでアンネリの安静は保たれる。


 テーブルの上で腕を組み、頭をのせて突っ伏した。すると肘に何か当たった。顔を起こすとレアの羽ペンがころころと転がっていた。さっき日付を書いたときに借りて、そのまま持ってきてしまった。あとで返そう。再び顔を腕にうずめた。

 あちこちの町を行ったり来たりした。移動魔法ですぐなのだが、それでも疲れる。北部のここと南部のストスリアでは気温差もある。ここではまだ長袖でもいいのだが、向こうではそれでは暑いくらいだ。動き回っていたのもあって疲れたのだろう。


 それにしても疲れた。自分の腕の中がとても暖かい。このまま眠ってしまいたいくらいだ。




 ドアが開く音がした。知らぬ間に少し眠りかけていたのか、その音で膝が飛びあがりテーブルを蹴ってしまった。強張った痛みの走る首を上げてそちらを見ると、カウンターの裏につながるドアの中からレアが顔を出した。どうやら彼女も最後まで残っていたようだ。

 何かを確認しているようにきょろきょろと周りを見回し、俺を見ると笑顔になった。そして、こちらへ向かってくると「よだれ、ついてますよ。おつかれさまでーす。ペン返してもらいますね」とにこやかに笑った。

 それに「お疲れ」と手をあげようとした。



 だが、近づいてペンを取り上げたとき、レアが耳元で囁いた。


「ご報告が。1時、会館裏へ」



 おつか―――までで挨拶に詰まり手をあげたまま彼女のほうへ振り向いたが、離れていく彼女は何事もなかったかのように出口へと向かっていった。


 目が覚めたが、嫌な予感で足の力が抜けるような気がした。

読んでいただきありがとうございました。

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