白く遠い故郷への旅路 第三十一話
「いえ、そうだろうと思っていました。もう軍属だとは名乗らない時点で分かっていました。ならば、あなたにもここで足を止めていただかなければ行けません。
あなたは尊敬すべき女性であり軍人でした。なので、アニエス教官殿、いえ、アニエスさん。反逆だとか裏切りだとか、そう言ったものは一切抱かず、敬意を持ってあなたに戦いを挑み、そして、こちらの指示に従っていただきます」
そう言った後に顔を下に向けた。そして、絞り出すような声で、
「覚悟してください。
あなたが魔法使いとしてどれほど優秀であっても、稀代の占星術師氏族の末裔であっても、私たち魔術擲弾部隊で束になってかかっても敵わなくても、杖を抜かずに私から逃げることはさせません。
いえ、抜かせないわけにはいかないのです!」
と言った後、素早く顔を上げた。
ユカライネンはアニエスとの実力差を知っている。
杖を上げないアニエスに自らの弱さを馬鹿にされているとでも思っているのだろう。そこに恐怖も加わっているのか、震える下唇を血が出てしまいそうなほどに噛み、目に涙を浮かべている。
その姿を見たアニエスはそれでも杖に触れることはなかった。しかし、さすがにこのまま何も言わないしないというのは可哀想だと思ったのだろう。「イルマさん」と一喝した。
「ここは戦場ですよ? もはや時代遅れの貴族同士で行う魔術での一騎打ちではありません。そのときに名乗り口上は必要だと私は教えましたか? 戦いに私情を挟む権利があるのは勝利した者だけですよ」
ユカライネンはアニエスの言葉に驚いて肩を飛び上がらせた。しかし、すぐに杖を握り直してアニエスを睨みつけた。
アニエスは止まらずにさらに続けた。
「私が杖を抜かないのは、あなた方が弱いからではありません。あなた方が戦う相手ではないからです。
あなた方が充分に強い。それはここにいる誰よりもよく知っています。あなた方を戦地で使い物になるまで魔法を教えたのは私なのですから。
ですが、私は杖を抜きません。油断もしません。そして、邪魔もさせません」
ゆっくり諭すようにそう言うと、ユカライネンの目を真っ直ぐ見つめ返したのだ。
ユカライネンは左手で目をぐしぐしっと擦り鼻をすすると顔を再び上げた。袖に付いていた砂が涙と鼻水で固まり、一層みっともなく汚れてしまった。
しかし、その顔は覚悟を決めたようになっており、先ほどまでの迷いに強ばる頼りないものではなく、真剣そのものになっている。
ウトリオと顔を見合わせて頷くと、ユカライネンとオスカリが構えていた杖が鈍く光り始めた。
ユカライネンの杖からはパチパチと静電気のような黄色い閃光が上がり、ウトリオのものからは冷気が漏れ出し彼の足下を白い煙で覆い始めた。
二人はどうやら魔力を込め始めた様だ。
俺の魔力は貰い物に過ぎない。だが、この二年近く、それに甘んじて来たつもりはない。何度か戦いも切り抜けてきたし、相手との力量差を見抜く自信くらいはある。
アニエスは一切手を出さないが、二人の攻撃程度ではかすり傷はおろか届くことさえないだろう。
しかし、俺は愛する女に向かって杖を向けられているの状況に黙っているわけにはいかない。アニエスと二人の間に立ちはだかった。
「アニエス、君自身が名乗らなくてもまだ北公の軍服を着ている以上、軍人であることにかわりはない。
だから、君はこの二人を攻撃するわけにはいかない。それから、セシリアも下がって。今やベルカとストレルカも味方だ。俺たちは負ける気がしない。
何よりもだよ。家族に杖を向けられているのは許せない」
そして、杖を握り直した。
「イズミさん、手加減はしてあげてください。あなたも昔とは違うのですから。でも、手は抜かないであげてください」
「難しいな。でも、分かってる。この間よりちょっと長めに気絶させるだけだ」
こちらも杖に魔力を込めた。暖色系のぼんやりとした光を放つと、湯気がゆらりと立ち上った。
ベルカとストレルカはそれを見て口をヒューッとならしたが、俺をからかうようなことは一言も言わずに「ウラーフ、ツェツィーリャ」とつぶやくと再びシャシュカと鎌を気を引き締めるように構えた。
明け方の砂漠は寒く、吐息が白く登る。
しかし、息を止めているかのように誰も白い息を吐き出さない。
僅かな動きもなく、穏やかに吹き付ける風さえなければまるで時間が止まったように全員が硬直している。
どちらが先に出るか。おそらく、ウトリオとユカライネンは戦う意思はあってもまだ迷いが見える。
対するこちらは防衛側だ。とはいえベルカとストレルカは攻撃的であり、そして性格的に先手を打つはずだ。
ウトリオとユカライネンは初手で杖を弾かれる。最も厄介なのはムーバリだ。
ブルゼイ・ストリカザを持っている以上、ベルカとストレルカはムーバリに対して非常に不利だ。となれば俺が何とか抑え込むしかない。
策がまとまるよりも早く動きが起きた。
ベルカがにらみ合いの中でじりりとシャシュカを握る右手をならすと、強く砂を踏み込み脹ら脛を幹のように膨らませた。
しかし、いざ地を蹴り戦いの火蓋を切り落さんとしたそのときだ。
無数の火の玉が突如頭上を通過していったのだ。
夜明け前の砂漠を目を覆いたくなるほど明るく照らす火山弾とも隕石とも見まごうそれは、ヒュウヒュウと不気味な音を立て、対峙する俺たちの影を黒々と地面に描いて頭上を通り抜けていった。
そして、すでに遠くに離れていたトンボの群れにぶつかり大きな爆発を起こしたのだ。




