白く遠い故郷への旅路 第二十六話
開けられているドアから外に出ると、強烈な寒さに見舞われた。
これまでノルデンヴィズやブルンベイクで慣れていた程度のものではなく、そこにあるものすべてを凍り付かせるような冷たさが肌を刺してきた。息をすれば肺が凍ってしまいそうで、呼吸が浅くなるほどだ。
車内に一度戻り、防寒具を持ち出した。砂だらけのそれを払いセシリアとアニエスに着せて再び外へと出た。
足跡を追って顔を上げると、数メートル先で三人が並んで仁王立ちをしていた。
ベルカは「ここはどこだろうなぁ」とつぶやき辺りを見回したあと、目の前に立ちはだかる五階建てほどの高さのありそうな砂丘を見上げた。そこにいた三人に追いつくと、俺も彼につられるようにそれを見上げた。
見えている空はまだ暗く、澄んだ空気の中で数える切れないほどの星が瞬いていた。
そこにあるのは見覚えの無い星空で、昔日本から南半球に行ったときに味わった自分の力ではどうにも出来ないはずの天を動してしまったような、あの不思議な感覚に襲われた。
砂丘は目の前のものだけはなく辺りにあるもの全てが堆く、地平線をほとんど覆い隠している。
空から見下ろしていた様々なうねりの合間にいるのだ。上から見たときは、あれほど小さく見えていたというのに。
どれくらいビラ・ホラに近づいたのかはわからないが、導きの星は最高高度は低くなり、明け方近くという時間的なものも相俟って見つけることは出来ないだろう。
同じ景色の繰り返しで方角も分からなくなってしまった。
手を繋いでいたセシリアが何かに気がつきキョロキョロと辺りを見回し出すと、手をグンと引いて放した。重たそうな防寒着で走りづらそうに駆けていくと、何かに導かれるように近くの小高い砂山に登りだした。
小さな彼女にとってだけではなく、大人にも勾配はきつそうに見えた。そこに手を付きながら必死に登り始めたのだ。
「どうしたんだ? 危ないぞ」と慌てているように見える背中に声をかけると、ウン、としか答えなかった。何度かずり落ちながらも足跡を残してその丘の上に立ち上がった。
そして、後から付いてきていた俺をちらりと見て丘の向こう側を指さしたのだ。
追いついて丘の下を見てみると、大きな砂を引き摺った痕の先に、ここまで運んできたトンボが横たわっていたのだ。
砂の上に完全に落ち、腹を向けて足を開いて動かしている。しかし、瀕死なのだろうか、動きも虫のような機敏さはない。
「ここまで運んでくれたんだ。こんなんでも可愛く見えるもんだな」
「トンボさん、死んじゃうの?」
セシリアが不安そうにズボンの裾を掴んで尋ねてきたので屈んで頭を撫でてやった。
「死なせたくないな。昆虫に利くかどうかは分からないけど、治癒魔法をかけてみようか」
出来れば、この先、もう少し先まで案内して貰いたいのだ。戻ろうと思えば移動魔法で戻れるが、焦るベルカとストレルカやギラついたエルメンガルトは戻ろうなどしないはずだ。
太陽が昇ったら北に向かって砂漠のど真ん中を歩き出すとか言う暴挙に出かねない。
そして、何よりも、俺自身もこいつを死なせてしまいたくないのだ。
まだ生きているなら、その大きなエネルギーで力を取り戻し、やがて来る季節の青空を優雅に羽ばたく姿を見たい。
しかし、これだけの巨体、しかも昆虫。どの程度でかければいいのかわからない。だが、身体が大きいなら魔力任せにかけても問題ないだろう。
杖を大きく空に掲げ、トンボ全体を包み込むように魔方陣を練り上げた。渾身の魔力を練り上げて治癒魔法をかけると、魔方陣は緑色に光り出した。
緑の光りを顔に受けた俺とセシリアが見守る中、緑色の光の球が溢れだした魔方陣の上でトンボは脚を盛んに動かし始め、やがて起き上がろうと尻尾を曲げ始めた。
折れてしまった後ろ脚は治らなかった。しかし、それでも器用にバランスを取り起き上がると、みるみる元気を取り戻し翅を力強くばたつかせ砂埃を上げて飛び立ち始めたのだ。
治癒魔法の余韻である緑色のオーブが消えていく中、トンボは空へ空へと登っていった。
セシリアは翅の巻き起こす風で飛ばされそうになりながら、そして、顔に向かって飛んでくる大量の砂を両腕で遮りながらも、飛び立ち始めたトンボを見守り続けた。
やがて、ずんずんと上昇し始めて風も弱くなるとセシリアはトンボに向かって大きく手を振り始めた。
しかし、彼女は振っていた手を突然止めると黄色い目を大きく開いて光らせて「パパ、見て!」とズボンを強く掴んできたのだ。




