翠雨の別れ 第三話
―――イズミくん、ちょっと失礼。
―――浸ってるとこ悪いんだけど。
本当に空気の読めない女神さまだ。
己の無力を何度も痛感しても繰り返す虚しさと、これからのオージーの長い孤独を思う辛さ、そして苦しみの中で意識を薄めていくアンネリの悲しみを思い、考えることすら面倒なほどに重くなった頭の中に、節操のない女神の声が響き渡った。マイクが拾う衣擦れの音や聞き覚えのあるマリンバが今回はないだけましかもしれないが。
アンネリを諦め始めてしまった俺は、泣かないでとオージーを励ますアンネリとその手にすがるオージーを見つめながら、呼びかけに答えた。
「こんなときに……何の用ですか……?」
―――目つぶんなさい。
―――あんたと一緒にその娘こっちに連れてくから。
「何する気ですか……?」
―――責任取るっていったでしょ。
―――なんとかするから。安心して。
目の前が開けたような気がした。
そうだ。この人がいた。
まだ諦めてはいけない。力の抜けた足腰に血が流れだすような感覚を覚えた。
確実な神頼みほど不平等なものはない。
だが、今この瞬間は、この瞬間だけは許してほしい。
「アンネリ、目をつぶれ! まだ諦めるな!」
「……でも」
「いいから! 早く! 死にたいのか!」
突然生気を取り戻し、声を荒げる俺に驚いたアンネリは小さくうなずくとそっと目を閉じた。
それに続いて俺も目を閉じた。
そして、ほんの一瞬、気を失った。
腕の中で彼女が大きく動いた感触に俺は閉じていた目を開けた。
女神に呼び出されるといつもはくだらない話を吹っ掛けられるのだが、珍しく今回はそれがなかった。目を閉じたほんの一瞬のうちに、女神は何らかの処置を施したようだ。
アンネリは大きく息を吸い込んだ。彼女は小さな顎をのけぞる様に上げて、止まりかけた生命活動で吸えなかった空気を肺の中すべてへいきわたらせるように。生きていることを噛み締めるように。そして表情からは苦痛が取れたのか、安らかになった。顔の土気色もみるみる血色がよくなっていく。どうやら息を吹き返したようだ。
何度か大きく息を吸い込んだ後、呼吸が落ち着くと突っ張っていた手の力が弱まり、苦しみに硬直していた体からも力が抜けて、すぅすぅと寝息を立て始めた。
「アンネリ……?」
オージーは虫の息だったアンネリが突如安定したことに理解が追いつかなかったようだ。
ぼんやりと彼女を見つめている。
「オージー、もう大丈夫。大丈夫だ」
二度重ねて言うも、目の前の姿がまだ信じられないようだ。
横にいたカミュが不思議そうに尋ねてきた。
「イズミ、これは……いったい……」
「説明は後。とりあえず、アンネリは一旦落ち着いたから、全員を解毒除染し次第、街へ向かう。依頼は一時中断。まずはアンネリを安静なところへ」
俺は立ち上がり、皆を見回した。唖然とした表情をする人、訝しむような表情をする人、視線だけをよこしている人、みなそれぞれに異なった反応を見せているが、一様に混乱しているのは分かった。急な状況の変化に俺以外はついていけていないようだ。それもそうだ。奇跡を宣告されたのは俺だけなのだから。
指示をしたのだが、このままでは誰も動かなさそうだ。
「いま説明しないとダメ? はっきり言えるのは、俺の力じゃないけど、何とかなった。アンネリは万全ではないけど、安静にしていればもう大丈夫だ」
無理にでもわからせるために、俺は目を細めて引きつりながら無理やり微笑んだ。
笑顔を見たオージーはアンネリが無事だと言うことは理解できたのか、アンネリを抱きしめ頬ずりをした。そして、そのまま彼に預けた。
それから俺は釈然としていない全員の解毒除染を済ませると、ノルデンヴィズへのポータルを開いた。職業会館で依頼未完了を申請し、完了延期を要請した。
ぐったりと誰が見ても健康な状態ではない姿のアンネリを抱えて職業会館の中を歩き回ったので、かなり衆目を集めてしまった。ざわざわという落ち着きのないざわめきに交じり、耳から耳へ言葉が流れているのが見え、口々に噂をしているのがわかる。
受付をして申請承認を待っている間、誰かが、またあいつら……と言っているのがうっかり耳に入ってしまったので、俺はそれから意識を遠ざけ、内容を聞かないようにした。
ノルデンヴィズにオージーとアンネリ以外を職業会館に待機させると、二人をストスリアへ連れていくためにポータルを開いた。彼女の容態は女神が何とかしてくれたが、詳しく調べたりしたわけではないので、安静を保つべく以前世話になった治療施設へアンネリを預けることにした。
ポータルを抜けて施設の前へ着き、施設のロビーにつながる重い金属の扉を開けると偶然にも世話になった少し年上の婦長さんが目に入りすぐさま声をかけた。名前を呼ばれてこちらを振り向いた彼女は久しぶりに俺の顔を見るやいなや口のへの字に曲げて「また? 今度はクラーケン狩りでもしてきたの?」と面倒くさそうに言ったが、オージーの腕の中でうなだれるアンネリの姿を見るや「入りなさい」と受け入れてくれた。
それから簡単な検査を済ませてわかったのだが、女神が施してくれたのは、この世界の医療水準で治療可能なレベルまでの処置だった。治癒や除痛の魔法が使えない人が一言痛いと言えば、柳の葉や樹皮を何時間も煮込んだどどめかぶんず色をした埃臭い土の味の灰汁をしこたま飲ませるぐらいの知識しかない世界に合わせた、言ってしまえばほとんど万全に近い状態だ。胎児への影響はわからないらしい。そこまで調べる術がないのだ。
白いリネンがまかれた、薄くて硬そうな(硬いことを俺は知っている)マットのおかれた簡単な骨組みのベッドにアンネリが横たわり安静が確保されると、オージーはまたしても脱力してしまった。ぐったりと椅子に腰かけて、両手で顔を押さえてため息をしている。アンネリの顔色もだいぶ戻ってきた。もう大丈夫だろう。目が覚めるのも時間の問題だ。
この建物の部屋の空気が悪いのは相変わらずのようだ。建付けの悪い窓をガタガタと開けると、土のにおいがふわりと広がり、湿った雨季の風がベージュのカーテンを揺らした。薄汚れたシンプルなカーテンタッセルで揺れるそれらを束ねながらオージーに声をかけた。
「オージー、大丈夫か」
オージーは顔を両手で擦ると、俺のほうを見た。大丈夫ではないことは一目見ればわかる。愛した人間が目の前で一度死にかけたわけだ。くまのできた目には疲労の色が浮かび、まるでこの数時間で五年も歳を取ったかのようにやつれ、いまでは彼のほうが辛そうだ。
「ああ、大丈夫だ。すまない」
声もかすれて生気がない。アンネリの無事を確認すると張り詰めていた糸が切れてしまったのだろう。
「俺はノルデンヴィズに戻る。君も休んでいてくれ。施設の人に頼んでおく」
「ありがとう。そうさせてもらう」
オージーは膝に腕を乗せると再び頭を抱え、下を向いてしまった。
消耗し言葉も少なくなった彼を病室に残し、施設の人に彼の軽食と休める場所を提供してもらえるように頼んだ。一通り準備が済むのを確認すると俺はノルデンヴィズへポータルを開いた。
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