問題篇
蒲生のくたびれたジャケットからLIME(無料通話アプリのことだ)の軽やかな通知音が聞こえたのは、彼が三日間の九州旅行から帰途に着き、行きつけの喫茶店に大学来の友人である碓氷を呼び出し、手土産を渡してから取り留めのない四方山話に興じているときのことだった。
「早く土産物を寄越せって、同僚からの催促じゃないの」
可笑しそうに肩を揺らす碓氷に、だが蒲生は眉を顰める。
「いや、弟からだ」
「蒲生の弟って、確かサークル活動で泊まりじゃなかったっけ」
「そのはずなんだがな――何だあ、こりゃ」
素っ頓狂な声に、近くでテーブルの後片付けをしていたウエイトレスが怪訝そうな顔を向ける。蒲生は精一杯の愛想笑いを返し、改めて手元のスマートフォンを凝視した。
「弟くんどうかしたの」首を傾げる碓氷の顔前に液晶画面がぐいと突き出される。
「これ、弟から写真だけ送られてきた」
友人からスマートフォンを受け取り、画面をしげしげと見やる碓氷。
「これは、将棋盤と駒だな」
「俺の実家にある将棋セットだよ」
「蒲生、将棋に興味あったっけ」
「親父が昔好きだったのさ。今でも気まぐれに押入れから引っ張りだしては、弟を無理やりつき合わせているらしい」
哀れむような苦笑を浮かべ、碓氷は再び画面に目を落とした。木製らしき将棋盤の上には「歩兵」「飛車」「桂馬」「金将」「玉将」の駒が並べられているが、その配置は一見すると不規則である。
「対局途中、の様子ではないな。明らかに駒の数が少ないし並び方も変だ」
「碓氷、将棋分かるのか」
「ちょっとだけ齧ったことがある。それにしても、弟くんはどうしてこんなものを送ってきたんだろうね。悪戯か何かかな」
「将棋盤の写真一枚じゃ、悪戯にならんだろう。グロ写真とか心霊写真とかを連続で送りつけてくれば『いじめかよ』って思うが」蒲生は猜疑の目で友人を見る。
「たまには兄貴も親父の将棋相手をしろ、って仄めかしているんじゃないの」
蒲生はまだ腑に落ちないといった顔で珈琲を一口啜ると、
「詳しいやり方は知らないが、将棋の駒はもっと数が多いよな」
「うん。それに、対局中なら互いの駒は向き合う形になるはず。この写真ではほとんどの駒が一方向しか向いていないし、飛車にいたってはルールをまるで無視した打ち方だ」
「じゃあ、盤上に駒を並べる遊びでもあるのか。あるいは、将棋を使った占いか」
「利かずの駒並べって遊びはあるけど、この写真だと玉将の位置が駄目だね。将棋を使った占いは聞いたことがない」頬杖をついて謎めいた写真を見下ろす碓氷。
「駒の種類は他にもあるけれど、写真には特定の駒しか写っていないね」
「この駒の種類や数に、何かメッセージでも秘められていると?」
「さあ、そこまでは。案外弟くんも、深い意味もなく送ったのかもしれないよ」
「お前は、あいつのことを何も分かっちゃいない。弟は俺や親父と違って、無意味なことや無駄なことに時間をかけるような奴じゃないんだ」
碓氷は言葉を返す代わりに肩を上下させた。実の兄が断言するならそうなのだろう、とでも言いたげに。
「親父さんといえば、先月あたりに海外旅行から帰ってきたばかりだよね。今度はどこを周っていたの」
ウエイトレスに珈琲のお代わりを注文し、碓氷はそれとなく話題を変えた。蒲生はちらと天井を見上げて、
「エジプト。カイロ大学の考古学学部に知り合いがいるらしくてな。古代エジプトの珍しい文書が手に入ったから見に来いとか、大学主催の遺跡探索ツアーに参加しないかとか誘われたらしい」
「で、二つ返事でエジプトへひとっ飛びか。親父さんのバイタリティには感服だ」
海外周遊はおろか、国内の温泉ツアーでさえ参加を渋る碓氷にとって、弾丸の如く世界を飛び回る蒲生の父親は異人種に近い存在なのかもしれない。蒲生長男もその血を色濃く受け継ぎ、折を見つけては気ままな一人旅へ繰り出すことも少なくなかった。
「そういや親父、言っていたな。エジプトの石碑に刻まれた暗号を、考古学学部の友人と解読しに行くとか何とか」
「暗号?」
「ほら、古代エジプトで使われていた文字。何だったけな、象形文字のカタカナ名称。ヒ、ヒロ、ヒエ、ヒエラルキー? いや違うな。ヒル――」
「ヒエログリフのことでしょうか」
唐突に湧いた無機質な声に、二人の男はびくりと肩を上げる。珈琲カップを載せたトレイを手に、ウエイトレスが直立不動で二人の傍らに控えていた。
「あ、ああ。そう、ヒエログリフ、です」
機械じかけの人形みたいにぎこちなく頷く蒲生。無表情のウエイトレスは陶器のカップ二つを机上に並べると、お辞儀か頷きかよく分からない角度でショートヘアの頭を動かしてから足音もなくその場を立ち去った。
「ヒエログリフだ」厳かな声で繰り返した蒲生に、碓氷はこくりと頷く。
「うん、知ってたよ」
何か言いたそうに一瞬口を開きかけたが、僅かに顔を赤らめながら無言で珈琲を口に運ぶ蒲生。
「ヒエログリフ、暗号か。もしかして蒲生の弟くんが送ってきた写真、あれも暗号だったのかな」
「あの意味不明な将棋の駒が暗号だって。あいつは俺様に謎解きを仕掛けようというのか」
盛大に鼻を鳴らす蒲生。彼は奇妙奇天烈な謎を好む性癖があるが、最終的にはいつも碓氷に安楽椅子探偵役を押し付けるのだ。
「駒の打ち方はルール破りだしどう見たって対局の場面ではないけれど、玉将があるのは気になる」液晶画面に視線を落とし、碓氷はぽつりと呟く。
「玉将って何」
「チェスでいうキングみたいな駒。ただ、将棋では一方が玉将、もう一方は王将の駒を用いるけれどね」
「同じ駒なのにどうして王と玉があるんだよ」
「そこまで詳しくないけど、対局では上位者が王将、下位者が玉将を使うらしい」
碓氷の将棋講座に、蒲生は真剣な面持ちで「へえ」とか「ふうん」とか相槌を打っている。
「弟くんは親父さんと対局することもあるんだよね。将棋の基本ルールくらいは知っているはずだ。にも関わらずこの出鱈目な打ち方。まるで将棋のいろはも知らないみたいに」
「何が言いたいんだよ」先を焦らす友人に、蒲生は片足を小刻みに震わせる。
「彼が何らかの意図をもってこの写真を送ったとすれば、将棋のルールとか将棋にまつわる様々の知識なんて大して役に立たないってことさ。だって、蒲生はほぼ将棋初心者だろう。そんな相手に将棋の専門知識を駆使した暗号を送ったところで解けるわけないもの」
いつもの気障な所作で肩を竦める碓氷。
「将棋の先入観なしに、この写真の意味を解読しろってことか」
「蒲生はこの並びに心当たりはないの。駒の動きとかじゃなくて、歩くとか飛ぶって動作とか、お金に関する何かとか、駒の文字を見て思い当たることは」
蒲生は右手で顎を撫でながら低く唸る。
「これといってピンとこないな――あ、分かったぞ」
「何が」
「さっき言ってた象形文字だよ。ヒエログリフ。駒の種類や数に意味がないとすれば、将棋盤を俯瞰で見ろってことなんじゃないか」
スマートフォンを机上に置き、二人で液晶画面を覗き込むように前屈みになる。
「ほら、駒と駒とを線で結ぶと記号か文字のように見えてくるだろう」
星と星とを繋いで星座を作り出すように、指先で駒を辿る蒲生。
「ヒエログリフの中に、こんな形の文字があるってこと?」
「ひとつぐらい似たものがあるんじゃないのか。こんなときこそインターネットの出番だ」
友人に顎をくいと向ける蒲生。碓氷は軽く舌打ちをするとショルダーバッグからスマートフォンを取り出し、ヒエログリフの検索を始めた。だが、結果は芳しくなかったようだ。
「ないよ。この駒の並びと同じようなヒエログリフなんて」
「本当かよ。ちゃんと調べたのか、似たような文字がひとつくらいありそうなものだが」
「似たような文字だったら、こじつければいくらでも出てくるだろうね。でも、そんな曖昧な考えじゃ答えをひとつに絞れないよ。ナンセンスだ」
碓氷はそっけない口調でだめを出す。
「じゃあ、ヒエログリフ以外の象形文字を――と言っていたら切りが無いのか。第一、弟に象形文字の知識があるとも思えない」
「弟くんの専攻は考古学学部とかじゃないの」
「理学部の天文学科だよ。考古学も天文学もロマン溢れる学問って意味じゃ同じだがな」
珈琲をぐいと一飲みし、小さく貧乏揺すりを始める蒲生。対して碓氷は、ほっそりした顎に手を当て地蔵のように身動きせずスマートフォンを眺めている。
「――蒲生の家に、金庫ってあったっけ」
碓氷の言葉に、蒲生はカタカタ鳴らしていた右足を止める。
「金庫? そういやあったな。それがどうした」
「その金庫ってさ、もしかして一階の庭に面する和室に置いてる? ほら、窓際に神棚がある部屋」
「よく覚えているな。お前が最後に俺の実家に来たのは、確か高校生のときだろ」
懐かしそうに目を細める蒲生に、碓氷は思い出に浸る隙も与えず問いを重ねる。
「あと、その部屋の襖には落書きの跡があったよね。蒲生が子どものときにクレヨンで描いた」
「空飛ぶ車の絵のことか。あれは俺じゃなくて弟が描いたやつだ」蒲生は心外そうに訂正する。
「どっちでもいいよ。最後に訊くけど、蒲生の親父さんはエジプトで珍しい古文書を見てくるって言っていたんだよね。そのことを知っている人は他にいるの」
「さあ、親父は旅行譚を語り聞かせることが好きだからな。親しい奴くらいには話したんじゃないのか。それがどうしたよ」
碓氷はしばらくの間、物思いに耽るようにぼんやりと虚空を見上げていたが、やがて緩慢な動きで顔を正面に戻すとおもむろに口を開いた。
「蒲生、今すぐ実家に人がいるか確認したほうがいい。親父さんか弟か、とにかくどちらかに連絡をつけるんだ。恐らく――」