藁人間
1
レクリエーションの時間は憂鬱だ。
いつもの食堂の窓際の席を陣取り、湯呑を両手で包みこんだまま、わしはだんまりを決めこんだ。こうなったら甲羅に身を引っこめて苦痛の時間をやりすごすしかない。
ところがこの介護施設の男どもときたら、我先に女性入居者にまじり、お手々つないで黄色い声をあげてダンスにうつつを抜かすのだから、開いた口がふさがらない。根っからボンボン育ちの元電力会社経営者の町田氏ならいざ知らず、畳職人一筋だった梅澤さんや、板前歴半世紀の頑固一徹、早川さんまでもが若い職員にそそのかされ和気藹々とやっているのだから、人は見かけによらない。
もちろんレクリエーションの存在意義はわかっているつもりだ。風船バレーは腕の機能訓練であり、 ボール蹴りは足の機能訓練、トランプ遊びは脳のそれだ。身体を適度に動かすことで身体機能の維持と向上をはかり、ひいては手足や頭を刺激することによって脳を活性化させ、認知症の予防、および、すでにその症状であるならば進行を遅らせることができる。
また人とのコミュニケーションを通じて生きがいを取り戻し、わしら高齢者の生活の質、すなわちquality of life、略してQOLの向上につながるというものだ。施設のパンフレットに書かれた謳い文句の受け売りだが。
――コミュニケーション? そんなものは豚にでも食わせろだ。
それがどうしたってんだ? 施設では入居者への医療ケアやリハビリを提供し、最終的に在宅復帰を名目としているが、わしらのほとんどは、もといた家へ帰れるなどは望むべくもない。よしんば復帰できたところで、どうせ独居老人ばかりだし、なかには息子夫婦に押しこめられる形で入居している人だって少なくない。
退路は立たれたも同然なのだ。太古より言われ続けた現代の姥捨て山、人生のリストラ組、黄昏の残光がさす最後の砦。たいていはここで老いさらばえ、悪くすれば特別養護老人ホームへ移され、死にゆくのを待つだけの身だ。それが早いか遅いかだけで、ちょっとばかり早めたいと思ったところで、とがめられる筋合いはない。
おっと……大広間の向こうから靖川 まなみがやってきた。またぞろ話しかけられる恐れがある。あの新人介護職員は、なにかとわしから昔話を引き出そうと、干渉してくるから手強い相手だ。あと三年ほどもすれば百合の花が開いたように、さぞかし美しい女になるであろう二十代前半の小娘ながら、口が達者で、てきぱきとよく動き、新人とは思えぬほど知識が豊富で自信に満ちていた。それだけにわしにはまぶしく映り、思わず腰が引けてしまうのだ。
わしは窓ガラスの外から斜めに入ってくる午後の物憂い光をうけ、うたた寝しているふりをした。
「アカデミー賞なみの演技力ね、田力さん。五秒前までお目々、パッチリ開けて外を眺めてたじゃあない。またレクは見送るつもりですか?」と、靖川はかろやかな口調で言い、わしの両肩を揉んだ。「たまには参加して、ストレッチすればいい気分転換になりますよ。散歩に出かけたいのもやまやまでしょうけど、こうも木枯らしが吹いてちゃ、お身体に障りますからね」
「風邪から肺炎をこじらせるリスクがあるからね。とくにインフルエンザが流行しているいまは、外出を控えた方がよさそうだ。肺炎による死亡者数は、ガン、心臓病、脳卒中についで第四位だが、要介護の老人ともなれば、死因のトップに数えられる。そうじゃなかったかね、がんばり屋さん」と、わしは狸寝入りから眼をさまして言った。「この寒空を見ていりゃ、保育園児じゃあるまいし、とてもお遊戯に付き合う気分にならないがね。わしゃ遠慮しとくよ。こっちはいいから、みなさんの相手をしておやり。窓辺でひとり瞑目し、日本の行く末にでも思いを馳せるとしょう」
「まーた、孤高を気取っちゃって。田力さんって、昔からこんな調子だったんですか? つまり、『おれはおまえたちとは立ち位置がちがう。ここにゃ、おれの居場所はない』みたいな。まるで大沢在昌のハードボイルド小説の主人公みたい」
「大沢なんとかさんは知らんが、あんたの趣味の一端をかいま見たような気がするな」
「ほんとはレクに加わってくれたらありがたいんですけど、無理じいしてもね」と、靖川は言いながら、わしの横の椅子に座った。ショートカットが似合う、大きな眼がくりくりと動く娘だった。かと思えば、ときおり仕事疲れなのか、ふっと見せる翳りをわしは知っている。「今日はとくべつに、わたしとマンツーマンでレクリエーションといきましょう。ちゃんと上に許可もらってます。たっぷり会話でもしましょっか。話すことにより、田力さんの気持ちがほぐれたら幸いですわ。それで、どんな内容にします? 戦時中のお話でもよろしいですわよ。あそこの車椅子の富岡さんなんか、野戦病院に配属され、迫撃砲でバラバラになったご遺体を回収されたって話をねちっこく聞かされましたから、免疫はついてます」
「おいおい……。なにも気持ちが凝り固まってるつもりはないんだが」と、わしはテーブルのうえの湯呑をとり、冷めたお茶を口にした。「戦時中の話なんて願いさげだ。つらい思い出しか残っとらん。そもそも、わしゃ、まだ小さかったから出征しなかった。太平洋戦争がはじまった当時は、まだ十一の小僧だった」
「そう。だったら」と、彼女は言って、わしの手をつかんだ。「田力さんの手って、いくら洗っても真っ黒よね。ガサガサだけど、職人の手って感じだわ。いかにもナウシカが褒めるような。ゴルおじいちゃんがこう言うのよ。『この手を見てくだされ、ジルさまと同じ病じゃ。あと半年もすれば石と同じになっちまう。じゃが、わしらの姫さまはこの手を好きだと言うてくれる。働き者のきれいな手だと』」
わしは声を出して笑った。歯ならびの悪いわしの歯列を見せる相手は、ここ最近じゃ彼女だけだ。
「あんたは精進苑きっての、ものまね名人だな。元ネタは知らんから、くらべようもないけどな」と言い、手を引っこめ、節くれだった自身のそれを見た。「黒いのはオイルがしみこんで、なかば入れ墨みたいになってるからだ。職業病の一種だな。働き者の手か。言えてるかもしれん。仕事が生きがいだった。きれいかどうかは怪しいが」
「どんなお仕事されてたんですか? もしかして自動車整備士?」
「ちがうな。職人は的を射てる」
「ああ、言わないで。当ててみせるから」
「ちと難しいぞ。このごつい手からは想像もつくまい」わしはそう言って、掌を広げた。「こう見えて、繊細な指使いをしたんだ、現役のころは。それがヒントだ」
「繊細な指使い……。とっさに、時計職人かピアノの調律師が浮かんだけど」
「これまたちがう。残念ながら、そんな上品なものじゃない」
「降参。正解を教えてください。田力さんはどんな特殊能力があったんですか」靖川は正面からわしの顔をのぞきこんだ。
わしは手をひっくり返し、ためつすがめつ見つめた。
そうだ。わしだって、この道五十年の自負をもつ職人だった。ほかの業種の空気を吸ったことがないので視野狭窄もはなはだしいが、こと業界においては突出した才能をもっていたと言って憚らない。もっとも現役から退いてからというもの、ちょっとへそ曲がりな、ただの老いぼれにすぎん。
2
……さて、わしは何者だったかな。
砂に埋もれた記憶。か細い小川から海原に逃げてしまった人生の残滓。おかしい。わしの過去が衣類の虫食いみたいに穴だらけのような気がする。今日は二〇一三年の十二月七日、土曜日、先負。現在、午後二時十六分、苑内はレクリエーションの最中で、わしだけが辞退している。
屋外は寒空が広がり、敷地内のプラタナスの木々の葉っぱがカラシ色に染まっていた。夏にはよく手入れされる芝生も錆色が広がっており、寒々しいことおびただしい。はるか向こうの峨々たる山なみには、ほんのり粉雪がふりかけられているのが見え、昔食べた粉砂糖をまぶしたドイツの菓子パンを思わせた。
わしの名は田力 肇。
今年のクリスマス・イブで八十三になる。秋田県南秋田郡の大潟村の米農家に生まれ、三男坊だったので、中学を卒業するとともに東京へ出てきた。いかんせん学がなかったもんだから、季節労働者をハシゴし、とある講習会に参加したのがきっかけでこの業界に飛びこんだ。いつしか一人前になり、店を経営するまでになった。平凡ながら家庭も築き、一姫二太郎の子宝にもめぐまれた。
なのに、どうも釈然としない。わしはそんなありふれた人生を送ってきちゃいない。もっと妙ちきりんな体験をしたはずだ。
高齢からくる見当識障害だろうか? まさか苑内で孤立を深めていたばかりに、知らず知らずのうちに認知症の魔の手が、わしの脳内に勢力を広げていたとでも? 肝心ななにかを置き忘れている。なにか強烈なできごとがあった気がしてならない。それが思い出せない。漠たる灰色の空白。この窓ガラスの向こうの風景のように。
「……ねえ、田力さん。聞いてるの。心ここにあらずよ。魂がどっかに飛んじゃってる。特技は幽体離脱ですか」遠くで靖川の声が呼んでいた。じきに音量がもとにもどった。靖川がわしの眼のまえで手をふっている。「ちょっと田力さん、まさか具合でも悪くなりました?」
「いやなに」と、わしは眼をしばたたいて口をもごもごした。「人が死ぬとき、古い過去が走馬灯のようにかけめぐると言うが、ちょうどそんな体験をした。あんたが話しかけてくれてるってことは、まだ健在らしいな。やれ、よかった。お迎えがくるには、ちと早すぎるってもんだ」
「どうやら、ぶじにご帰還ね。刺激のない生活を送ってると、ふとそんな感覚になるのかもしれないわね。貴重な事例をまぢかで見えて、今後の課題に活かせられるかも」靖川は言い、ティッシュでわしの口の端から流れかけたよだれを拭いてくれた。「それより、さっきの続き。どんな仕事をされてたんですか」
「鍵師さ」きっぱりと言った。「鍵職人。機械でスペアキーを作ったり、錠前を売ったり。ときには出張して、開かなくなった錠を開ける。いわゆる金庫破りみたいなまねごともしてきた。わしにかかれば、どんな錠だって開けることができた。イチコロさ。……そもそもあんたは、鍵と錠のちがいがわかるかね? ここが肝心だ。防犯のために取りつけてある機構が錠で、それを開閉するための道具が鍵ってわけさ」
「わお、鍵職人」と、靖川は言い、身をのり出した。「俄然、興味がわいてきた。きっと、それにまつわるおもしろいエピソードが満載ですよね。よかったら、職人時代のお話、聞かせてくれませんか?」
「いいとも、ほかでもない、靖川さんの頼みだからこそ、語ってやろうじゃないか」と、わしはお茶で口を湿し、しゃんと胸を張った。
俄然、興味深いか。なるほど、鍵師は若い娘の食指が動くネタには事欠かないかもしれん。大半はサラリーマンと同じあれふれた日常のくり返しだが、ときたまとんでもない仕事を頼まれたものだ。
そうとも、わしは若いころ、鍵師だった。
鍵師というと、釘師や山師、サオ師などから連想されるように、なんだかいかがわしい職人のような印象を抱かせるかもしれないが、そのじつ、人さまの生活には必要不可欠な財産や、畢竟、生命まで守る錠――すなわち砦を設けたり、また、壊れたそれを開錠・修復したりと、言ってみれば鍵や錠のお医者さんってわけさ。れっきとした堅気の商売だと、わしは思っとるよ。
もちろん、ときおりとはいえ、ヤクザがらみの仕事を依頼されることもあるし、これから銀行強盗でもしでかすような、怪しい手合いに手ほどきを請われることもめずらしくないのだが。一応、料金が発生するならば、ヤクザからの依頼は断らないが、後者のような犯罪に加担するような場合はこの限りではない。丁重にお引き取り願う。
なんで鍵師になんか、なったかって? とんだ野暮天だよ、お嬢ちゃん。
もともと手先が器用で、ひとりコツコツするのが好きだった。難しい錠と取っ組んでると、なんだか心の奥底へ内向していくような気がするんだ。心の深いところへ沈降していくというか、けっして根暗になるって意味ではなく、暗い井戸の底をのぞきこみ、その水鏡になにかが映るさまを見にいくような根源的な気分にさせられて、すっかり魅了されちまったってわけさ。ずいぶんと観念的な表現だが、とにかくそういうこった。ほかにうまく言い表せない。
鍵師のいちばん醍醐味は、開けられなくなった金庫やドアをピッキングで開けたときの達成感が病みつきになるってことだ。言ってみれば、狙ったかわいい女の子を、あらゆるテクニックを使って征服したようなもんだな。
あんただって単純に考えてみな。
いくらがんばったところで開くことのない扉に、鍵をさしこみ、まわし、カチャッとシリンダー内のロックがはずれるあの感触。あのジャストフィットした反応を。それを裏技ともいえるピッキングでやってのけるんだから、わしの技能はたいしたものだと自画自賛しちゃうがね。
金庫のダイヤル合わせといい、ピン・タンブラー錠といい、頼りになるのは指先に伝わる振動だけだ。金庫の場合だと、大きさやメーカーによって伝わってくる感触が微妙にことなるため、どんな些細な変化も見逃さないよう感覚を研ぎ澄ましていなければならない。
よくテレビドラマや映画で、金庫破りが聴診器を使ってダイヤル合わせをしているシーンがあるが、あんなのは嘘八百だ。ちっとも現実的ではない。
たしかに金庫の構造上、ダイヤルをまわせば、カチカチ音はするものの、扉の鉄板が厚ければ厚いほど捉えがたく、たとえかすかな信号を捉えたとしても、しょせんダイヤルのつまみに伝わってくる振動だけにすぎず、それ以上の情報は得られないんだ。
ダイヤルの裏にある複数のディスクをまわせば、各ディスクは連動し、各ディスクについている切欠きがぜんぶそろうことにより、扉についているカンヌキが外れて開錠されるという仕組みなんだが、聴診器ごときで切欠きの位置までは特定できはしまい。
3
錠の構造はわかるかね?
ピン・タンブラー錠、いわゆるシリンダー錠は、スプリング入りの長さのことなる金属棒が数本ならんでいて、ここに鍵をさすと、鍵に刻まれた山によって金属棒が押しあげられ、切れ目が一列になり、鍵をまわすことで開錠できる仕組みになっている。
このシリンダーがさしこむ鍵のギザギザとぴったり合致するような地点で、クルリとまわされて初めて錠を開けることができるのだが、これを指先に伝わってくる直感力だけで探り当てるわけだ。
なんてことはない。勘だよ、勘。錠の大きさやメーカーによってコツはことなり、そのコツを憶えるには長い年月の経験と、たゆまぬ研鑽を要するんだよ。
そんな閉ざされた錠をピッキングで正解を当てたときの感触。パズルのピースがかみ合ったときのあのフィット感。パチンとシリンダーが正しい位置にかみ合い、一瞬にして緊張がほぐれる解放感はたまらないね。
鍵師ってな、いろんな人からおかしな仕事を依頼されるもんだ。
大手銀行の巨大金庫や、さっきも言ったようにヤクザの事務所の手提げ金庫なんかまだ序の口で、寺の納骨堂、病院の霊安室の扉などの開錠をまかせられることなんてめずらしくない。いろんな意味でゾッとした体験譚がてんこ盛りさ。
お通夜や葬式のさなかに、金庫を開けてくれという連絡が入ることも少なくない。金庫が壊れたから開けてくれというわけではない。金庫のロックの解除方法を知る唯一の本人が死んだから、にっちもさっちもいかなくなって、わしのところへ電話がかかってくるってわけだ。
まさに通夜の最中、ご遺体が寝かされた部屋で、床の間の金庫と取っ組んだりしたもんだ。入れ替わり立ち替わり、弔問客が入ってくるところに作業着姿の男が金庫と格闘してるのだから、怪しい奴がなにやってんだ、みたいな眼つきで見られたりした。もっとも、何者だと問われたら、依頼者がそばにいるわけだからすかさず仲介に入ってもらうわけだが。
なんにせよ、よりにもよってそんな日に依頼するのも、いかがなものかと思うがね。遠方からかけつけた遺族たちは、そんなときじゃないと一堂に会さないもんだから、ただちに金庫を開けてほしいんだとさ。それで遺産をめぐって骨肉の争いを目の当たりにすることもしばしばある。人間、金がからむとロクなことはない。見苦しいったらありゃしないね。
そんなある日のことだ。わしは人生を根っこから揺さぶられるようなできごとに遭遇した。
そう、あの事件をきっかけに、快活そのものだったわしの心は暗黒の翼にすっぽり包まれちまったんだ。
そうとも、じょじょに思い出してきた。いい塩梅にディーゼルエンジンが温まってきたってところかな。
すべては、山の手の瀟洒な屋敷でのできごとから歯車が狂い出した。
依頼主は築百五十年を超える邸宅でたったひとり住む後家だった。
その当時、わしも五十代に入ったばかりで、そりゃかけ出しのころとくらべれば体力はおとろえていたが、仕事への意欲はそれ以上で、人生を生きるうえにおいては溌溂としていた。
後家は熟年の、どこか浮世離れした佇まいを見せる美人でね。すらりとした肢体に、色気たっぷりなのだが、近寄りがたい退廃美をまとっていた。まかりまちがって手を出したらものなら、手ひどい火傷を負いかねないキナ臭さを匂わせた。たとえが適切かどうか自信はないが、ウツボカズラの甘いエキスに吸い寄せられる羽虫の気持ちにさせられたんだ。
依頼の内容はこうだ――最近、屋敷を大掃除していたら、開かずの間が見つかったので、その扉を閉ざす南京錠を開けて欲しいんだと。扉の向こうに、なにが入っているのかむしょうに気になるという。
錠じたいは年代ものだとしても、構造は現代のそれと同じだ。わしの手にかかれば、眼をつむっててさえも攻略してみせる。
じっさい、十分とかからず南京錠を開けた。
開かずの間になにが入ってたと思うかね。……なんだって? 横溝正史の小説に出てくる座敷牢みたいに、わけありな家族を閉じこめてただって? で、死んで葬られもしなかった人骨ってわけか。そりゃまた、ずいぶんと荒唐無稽な。
開かずの間は埃がうず厚く堆積した小部屋で、雑然と小物が押しこめられ、ガランとしていた。
床にはおよそ百十年前の明治三十五年の新聞紙が置いてあった。紙面にはなんと、『雪中行軍の大惨事』のセンセーショナルな見出しで八甲田雪中行軍遭難事件の記事が書かれていたんだ。
そのとき以来、時間がとまったままなのかは定かでない。だがこれ見よがしに、今朝読んだばかりの新聞を、ポンとそのまま置き捨てたような感じだからな。なんていうか、新聞の日付どおりだと解釈してもいいのではないかと思う。つまり、明治三十五年一月三十日以来、この部屋の時はとまったままなのだと、わしは信じたね。
とはいえ、部屋を調べまわった結果、なんてことはない。隅には長櫃が置かれ、なかには子供のテストの答案用紙がねじこまれていた。他にもたわいもない女性の水着姿の写真が数葉。鍵をかけてまで封印したかった人の秘密ってのは、えてしてその程度だったりするもんだ。
そうとも。なんてことはない。あの件はそんな肩すかしの結果に終わった。……終わったはずだ。
4
それから数年がすぎた。いろんなことがあったが、つぎに起きた事件にくらべれば、取るに足りん事象だ。
ある日のことだ。遠方の出先で妻の訃報がもたらされた。わしの妻が事故にまきこまれて死んだというのだ。
現場は家の近所の交差点。信号無視をした車にはねられて死亡したという。即死だったそうだ……。
病院にかけつけたとき、霊安室で妻は横たわり、両手は組み合わされ、顔には白布がかぶせられていた。
わしはふるえる手でその布をとった。
安らかな顔だったよ。顔には傷ひとつなく、朝、シジミ汁と銀鮭をふるまってくれた晴れやかなそれと、なんらかわりなかった。ただ、眼を開けてくれなかったのと、頬に触れると、アイスキャンディーみたいに冷たく、カチコチに硬直していたのがちがってるだけで。
泣いたよ。生まれてこのかた、涙を見せたことなどなかったわしが、さめざめと、この世の末、もう未来はないと言わんばかりに泣いた。滂沱としたたった涙でわしは溺れちまうんじゃないかと思うほど、泣きくれたね。
そうして妻の身体を労るように触った。
死の瞬間の苦痛はいかばかりか。いったい致命傷はどこに与えたのだろうか。わしは素朴な疑問を抱いた。
事故の目撃者の証言だと、妻はなんの落ち度もなかったという。加害者は、耳たぶのみならず、牛じゃあるまいし鼻や舌にまでピアスをぶらさげた若い男だそうで、ごついマフラーをつけたスポーツカーで、妻を王貞治のホームランなみに跳ね飛ばし、そのあと前輪で念入りに轢いた。男は取り調べに応じた際、まるっきり反省の色を示さなかったらしい。
身体にかけられたシーツをめくると、妻は浴衣姿だった。
そっと襟を解き、胸の谷間を見ると、痛々しい傷跡が残されていた。黒いタイヤ痕がついてあった。むごたらしいことに、皮膚が裂けた痕跡もあった。縫合されてあったが、あきらかにこれがダメを押したのであろうということは明白だった。
とてもじゃないが、あのときの切歯扼腕の体は人さまには見せられないね。
妻を失った悲しみ、絶望よりも、いますぐ加害者につかみかかり、恥も外聞もなく、妻と同じ苦しみを味わわせてやりたいと思ったからだよ。胸をかきむしりたくなる狂気。なんにもまして、純然たる殺意。熱烈なまでの負の感情が、身体の芯からマグマのように突きあげてくる。わしは霊安室の床で転がりまわりながら、なんとか自制しようと努めたが、そんなのはきれいごとにすぎない。わしは獣のように吠え、狂ったように泣いた。
どれほど時間が経ったろうか。
体内の水分が干上がるほど泣き疲れたわしは、ようよう立ちあがった。
ここで寝っ転がってても、ことはまえに進まない。妻の親族に突然の不幸を知らせ、葬儀を手配しないといけない。通夜か告別式が、友引とかちあっていないよう祈るしかない。
……どの面さげて連絡するんだ? 葬儀? 妻を棺桶に寝かせ、火葬場の釜に放りこみ、ましてや火にくべることを、おまえは容認できるのか?
このバカタレが。人はそんなかんたんに、部屋の電気のスイッチを切るみたいに切り替えなんか、できっこない。
もう一度、ストレッチャーのうえに寝かされた妻を見やった。寒々しいことに浴衣の前がはだけたままだ。
ふとわしは、身体の中央にある不自然なホクロを見つけた。ホクロは両方の乳房にはさまれる位置にあった。
おかしい。さっきは見つけられなかったのに……。
恥ずかしい話だが、結婚して以来、夜の営みで薄暗い室内での観察ではあるが、妻の身体は知り尽くしているつもりでいた。それこそ星座のように点在したホクロの位置までわかっていたつもりでいたのだ。が、悲しいかな、それもずいぶん昔に確認した話であるが。
見慣れぬ身体のホクロは、前方後円墳みたいな形をしていた。……いや、形状からして不自然すぎた。それはホクロではない。
穴だ。それも鍵穴ではあるまいか?
わしはそっと穴に指を触れてみた。たしかに中指の腹に伝わる感触から、仕事柄見慣れた鍵穴にまちがいない。
どういうことだ? なぜ人体に鍵穴があいてあるんだ?
だとすれば、わしの職業病じゃなくとも、この鍵穴を開錠してみたいという欲求にかられるというもの。
開錠すれば、静止した心臓があらわになるかもしれない。
むんずとその臓器をじかにつかみ、水風船でも揉むようにマッサージすれば、もしかしたら蘇生するのではないか?――そんな妄想が頭をよぎった。
閉ざされた扉を見つけたら、開錠せずにはいられない。一縷の望みにすがり、とにかくわしは妻の鍵穴と取っ組むことにした。そうとも、わしはなんら疑問も抱かず、すぐさま開錠をこころみたわけさ。
道具箱は車に置いてきてしまっていたが、作業着のポケットには常時ピッキング用の道具は忍ばせてあるし、仮にそれがなくとも、どこかの病室からヘアピン二本を拝借してくればそれでこと足りる。
挑戦せずにはいられなかった。
人体にあいた鍵穴はふしぎなことに、金属の感触だった。
わしは汗水流しながらピッキングしているさなか、もうひとりの冷静な自分が耳もとでささやいた――おまえは気が触れたんじゃないか? どう考えてもトチ狂った所業だぞ。鍵師になって生まれてこのかた、嫉妬深い情夫にかけられた女の股ぐらの貞操帯の鍵穴に挑んだ経験はあっても、肉体そのものに穿たれた鍵穴をピッキングしたことはないし、鍵師仲間との情報交換で、そんな事例があったなんて聞いたこともない。世界広しといえど、妻の身体の鍵穴と格闘した男なぞいるものか。
穴の内部構造は典型的なピン・タンブラー錠だ。
さっきも言ったが、錠内部に円筒形のシリンダーがあり、ここに鍵を挿入すると、錠にバネ仕掛けで固定されているピンが持ちあがり、ぜんぶのピンの位置がシリンダーと外枠との境にならんだとき、シリンダー全体がまわってカンヌキがはずれる仕組みになっているわけだ。
そうさ、百戦錬磨のわしにかかれば、こんなありふれた鍵なんてチョロイもの。冷静さを欠いてはいたが、ものの五分以内で開けてみせる。
じっさいそうした。スマートな攻略ぶりだった。
シリンダーが回転する心地よい感触が手に伝わった。
すると、腹部には毛ほども切りこみがなかったはずなのに、十センチ四方の扉がひとりでに外側に向かって開いてきたから、ギクリとさせられた。
わしは反射的に眼をそむけた。ついで、恐る恐る内側を見た。てっきり生々しく光る臓腑が現れるのかと思いきや――。
妻の内側には、藁束がぎっしりつまっていた。
どこをどう見ても藁だった。実家は秋田県の僻村で、親父は村でも屈指の豪農だった。
子供のころ、秋の収穫を終えたあと、稲穂の杭かけを手伝ったことがあった。そのあと脱穀し、残った藁束を押し切りと呼ばれる藁切り機で裁断し、田に広げたり、堆肥に使ったり、牛馬の餌としたものだ。あの細かく裁断された藁が、ぷんと濃密な匂いをたちのぼらせ、身体のなかに押しこめられてあったのだ。
なぜ藁なんだ?
ひょっとしたらこれは、特殊な死体防腐処理のつもりではあるまいか?
交通事故による外傷での死因の場合、最新医学の研究の結果、このような処置が好ましいとでもいうのだろうか? 遺族が対面しても自然に映るよう、修復の素材として内側に充填されるとでも? もしかしたらハンバーグを作るときの、つなぎみたいな効果があるのだろうか。それとも衛生的に、この方が腐敗の進行を抑える働きがあるとか……。
わからない。鍵師ひと筋のわしには、医学のことなぞ門外漢。まるっきりわからない。
とにかくわしは両手で藁をかきわけた。カサカサと音をたててまさぐった。
藁、藁、藁。いくらかいても乾いた藁がねじこまれているだけ。
独特な藁の臭気が鼻をついた。たっぷり天日干ししたそれの匂いだ。いくら探しても臓器の断片とて見当たらない。そっくりくり抜かれているようだ。
いったいどういうことなんだ、これは? 事故により、内臓は甚大なダメージを受けたため、いっそのことすべて摘出したというのか?
物事を理屈で考えてはいけない。感じるまま捉えるのだ。
……そうだ、そもそもわしは、妻の名前さえ思い出すことができないじゃないか。連れそって三十数年すごした仲であるにもかかわらず、記憶があやふやすぎやしないか?
横たわった彼女の寝顔を見た。見憶えはあるはずなのに、生前、妻との思い出の数々がおぼろげだ。
なぜ雲海のなかの山道のように曖昧模糊としているのだろう? なぜ、こうも不完全なのだ?
まさか、妻に対してその程度の感情しか抱いていなかったのだろうか? つまり、中身のともなっていない、うすっぺらでがらんどうな気持ちしか。
世界が大音響をたてて崩壊していくようだ。
いままで仕事にうつつを抜かし、なにを研鑽してきたというのか。閉ざされた障壁をこじ開けることにだけ、ミクロなことだけにのめりこみ、己の内奥に深入りするだけで、つれ合いの気持ちすら汲まなかったため、人として肝心ななにかを放棄してしまったのではないか。のみならず、人としてすっかり破綻してしまっていたのではないか、と思った。
そうとも、わしになんらかの、致命的な落ち度があったのでは?
わしのなかの計り知れない狼狽を、あんたにゃわかるまい。
5
「ふーん、藁人間か……。つまり生気のない、お人形さんみたいな意味を含んでるわけですか。なんだか意味深ですね」と、靖川まなみは頬杖をついたまま言った。わしの魂が過去の愁嘆場から舞いもどると、レクリエーションのざわめきも大きくなった。町田氏や梅澤さんたちのかけ声と、女性介護職員たちの嬌声と手拍子がおり重った。「それでそれで……オチはそれで終わり?」
「オチ」と、茫然たる面持ちでわしはおうむ返しに言った。「わしはなにも、おもしろい話のつもりで、あんたにしゃべったわけじゃないんだが。これといって、思わずのけ反るようなドンデン返しの結末もない。期待させて悪いがね。経験したことを、ありのまま伝えたまでさ」
「結局、奥さんの身体に藁がつまったまま、ご葬儀されたんですか? お医者さんに問いかけたりはしなかった?」
「そう。結局、霊安室で胸の扉を閉めた。ピシャッと、もとに戻ったよ。誰かにあえて聞き出すつもりもなかった。仮に心臓が見えてたところで、心臓マッサージをやったとしても甦る道理はない。どちらにしろ、死後五時間は経ってたからね。結局、妻の扉をピッキングしたのは無駄骨だったわけさ。なんにもかわらない」
「田力さんのお話のなかで気になった点は」と、靖川はうつむいた状態で思いついたように言った。大きな眼が見開かれ、すぐわしに向けられた。「血液の描写がいっさいなかったことです。奥さんの痛ましい事故を思い起こさせて申し訳ないんですけど、事故の際はかなり出血されてたはずです。すでにご遺体が清拭されてたとしても。それに身体の内側に藁がつまってるだけで、藁にさえ血が付着してなかったんでしょ? まるで体内を洗浄したかのように。なんだかそれが腑に落ちない」
「そういや、そうだな」まさに目からウロコの思いにかられた。「藁にはいっさい血がついてなかった。乾いた状態だった。そう、体内の臓器をくり抜き、いったん洗浄したような感じだった。身体の表面にはむごたらしい外傷はあったとしても、内側はきれいなもんだった」
「なんていうか……すごくわかるような気がする、わたし」と、靖川は眼をそむけ、心ここにあらずの表情で言った。「わたしにも身に憶えがある……」
「この話を誰かにしたのは、あんたが初めてなんだが、まさかこれほどついてこられるとは思わなんだ」と、わしは言った。全身から血の気が音をたてて失せるようだ。「そりゃそうと、身に憶えがあるとな、あんたが?」
そのとき、わしの背後に誰かが歩みよる気配がわいた。つかつかとサンダルの音が聞こえ、盛大なため息がもれた。
「なに深刻な話をしてるんですか、お二人さん」書類一式を抱えた穂積 さと子だった。精進苑ではいちばん古株のケアマネージャーで、職員のみならず、要支援・要介護認定者をふくめ、その家族からも信頼が篤い。が、いささか実直すぎるのが玉に瑕だった。快活な笑みを浮かべ、靖川の背中をどやした。「田力さんったら、どうせお得意の話術で、この子をまるめこんじゃったんでしょ。ダメですよ、靖川さんはちょっと天然なところがあるんですから。感化されちゃったらどうするの」
靖川は穂積を見あげ、
「たったいま、田力さんから、すごい話を聞かされたんです。それが衝撃的で」
「まんまと担がれたのよ、あなたは。田力さんは別のレクで弁論大会をさせたら、名人級の語りを披露して、みごと優勝したこともあるんですから。ぜんぶこの人の作り話にのせられたんです。若い娘を手玉にとってやれってね」
すかさず、わしは手をあげた。
「おいおい待ってくれ。そりゃあない。わしは真実を言ったまでだ。担ぐだなんて、いくらなんでも人聞きの悪い」
「人聞きの悪いことは謝ります。ですが、奥さんの身体に藁がつめられてたなんて、ねえ。冗談をいうにしては不謹慎すぎます」と、穂積は腕組みし、片方の眉を吊りあげてわしをにらんだ。「悪いけど、田力さんは生涯独り身だったはずでしょ。ここへ入居するにあたって、ちゃんとわたしが面談しています。データは頭に入ってて、水ももらしませんよ。まったくウソばっかり」
「聞いてたんですか、いまの話」と、靖川。
「耳をそばだてるまでもありません。田力さんったら夢中になって熱弁してるんだもの。聞くなという方が無茶な話です」
「わしが生涯独身だっただと?」と、わしは眼をむいて食いさがった。「そんなはずはない。なにかのまちがいだ。妻を事故で亡くしたと言ったろう。混乱させるようなことは言わんでくれ」
「ま」穂積は口を開けたまま、あきれた様子で首をふった。「お好きなように。ただ、くれぐれも若い娘をたぶらかさないようにしてくださいね。この子は感じやすいみたいですから。まわりにも、タチの悪い冗談を広めるのだけはよしてください」そう言って、事務所の方へ去っていった。
靖川は憮然たる体でわしを真っ向から見据えた。それを複雑な面持ちで受けとめた。彼女から発される青白い非難を甘んじなけねばなるまい。
だますつもりは毛頭なかったが、結果的に彼女を惑わせてしまったようだ。穂積さと子は現実社会における理性そのものだ。あのケアマネが言うことが絶対のマニュアルであり、無条件に正しいのだろう。
――どうやら禍々しい認知症の魔手は、浴室で黒カビが繁殖するようにジワジワとわしの大脳皮質をむしばんでいたのかもしれない。わしはすでに、元気なころのわしではなくなっていたんだ……。
6
愕然たる思いにかられているところへ、靖川は明るい笑顔でこう言った。
「わたしは信じてます。田力さんが語ってくれた内容を。あなたはうそをつく人じゃない」やれ、よかった。靖川は力強くうなずいてみせた。わしの手をとり、「藁人間について、わたしにも思い当たるふしがあります。よかったら、わたしの話も聞いてくれませんか」と、言った。すべらかな感触が、たしかに彼女もわしも、地に足がついている実感を呼び起こさせた。
「どういうことだね、思い当たるふしとは」
「レクが始まるまえ、事務所で雑用をしてたんです。カッターナイフを使ってA4サイズのコピー用紙を四分割にする作業をしてたんですが」と言って、左手を広げてみせた。中指に無残な切り傷がぱっくり開いていた。本来ならば絆創膏だけでは心もとないほどの傷だ。それが包帯もまかず裸のまんまとは……。「手もとをあやまり、指を切ってしまったんです。ごつい業務用カッターで、替え刃を新品にしたばかりだったの。切れ味はバツグンでした。ざっくりやってしまったはずなのに、ほら、このとおり、血が流れない」
「いったい、どういうこった……」
「一滴も血が流れなかったんです。いまもこんなに傷口が開いてるにもかかわらず、わたしは血が通ってないのかしら」むしろ、あっけらかんと言いきった。
「解せんね。うまいぐあいに厚い皮だけ切ってしまった場合、出血しないこともあるが、それだけ切ってりゃ出ないのはおかしい」
「思えば、わたしは」しかつめらしい顔の靖川は言った。「小学二年生のころ、父親が失踪したんです。理由はわかりません。もともと放浪癖があった人らしいし。母は捜索願を出しました。ですが、いまもって父の行方がつかめない。なにせ、わたしも小さすぎたものだから、よく顔さえ憶えていないんです」
「それとこれとが、どういうつながりがあるんだね」
「父にどんな考えがあったのか、推し量ることもできませんが、結局、わたしたち母子を捨てたも同然でしょ。でも恨んじゃいません。やっぱり父は父ですもの。頭のなかで思い描くと、父の顔だけが真っ黒なベールで覆われたまま、灰色のスーツ姿で浮かぶんです。できることなら記憶を取りもどしたい。父の顔を思い出すことで、傷つくかもしれませんが、それでも知りたいと思うのは罪なことでしょうか」
なるほど、彼女がときおり見せる侘しげな翳りの正体を見つけたぞ。仕事疲れが重なり、窓辺に立ってカップを両手で包みこみ、コーヒーを飲みながら遠い眼で山なみを見つめているときは、えてして父の面影を探し求めていた瞬間だったのかもしれない。
「ちっとも罪じゃないさ。あんたは悪くない」
「わたしはほんとうに父から生を受け継いだのでしょうか? だって血が流れないんですよ。なにもかも実感がともなっちゃいない」
「実感がともなわない感覚か。たしかにいまのわしにも当てはまるな」
「田力さん」靖川はすがるような眼差しをよこした。「この際、ハッキリ言います。あなたはうそはついていない。かつて鍵師であったことも事実のはずです。裏付ける証拠もあります。あなたはそのピッキング能力を使って、たびたび精進苑の裏口の錠を開け、屋外へ出ていってましたね。ここだけの話ですが、あなたはちょっとした問題児ならぬ問題入居者として、職員のあいだでは知られていたんですよ。いくら錠をかえてもかえても、そのたびにあなたは開けて、こっそり抜け出していってた……。ご自覚はないのかもしれないけれど。いまさらそれを責めるわけじゃありません。奥さんの身体をピッキングで開けたことは、たしかに信じがたいかもしれない。まるでファンタジーです。……ですが、もしかしたらわたしだって」と、言って、彼女はくるりとうしろを向き、髪をかきあげ、うなじを見せた。かわいい後れ毛の生えたウブなうなじだった。「もしかしたらわたしの身体だって開くのかもしれない。わたしの頭を開いてみせてください。まさか、わたしの頭のなかにも藁がつまっていたら……」
わしの手ごときでなにするものぞ。
なのに靖川ときたらどうだ。うなじの中央には、しっかり前方後円墳の形をした穴が開いているではないか。
……まぎれもない、鍵穴だ。わしの背筋に、冬の冷気とは異なる寒さが忍び寄るのがわかった。
「あんたの頼みとあればやぶさかではない。だったら手を貸すか」と、声をしぼり出した。そしていつもポケットに常備している二本のヘアピンを出した。手のふるえがとまらない。「わしがときおり脱走する常習犯だって? とんとそんな記憶はないんだが。外へ出かけ、いったいどこへ行ってたっていうんだ? それすら憶えていない。いったい、どうなってるんだ……」
「そんなことはどうだっていいじゃないですか。手もとに集中してください。わたしの頭を開け、脳を調べてほしいんです。父の面影を思い出したいんです」
「開けたところで、記憶回路がどうなっているかなんて、わしには専門外だぞ」
「とにかく、まずは鍵穴に挑戦してみてください」
「わけないさ。わしにかかれば。なんてったって、もと鍵師。現役を退いても、腕は錆びちゃいない」
あれよと言う間に靖川のうなじの鍵穴を開けてみせた。とたんに彼女の頭皮が前方に向けてめくりあがった。頭髪ごとズルリと開閉したのだ。額のあたりに蝶番でもついているようだった。
なんてことだ、靖川まなみの頭のなかは容器状になっており、これまた藁、やはりたくさんの藁がつまっていた。ぷん、と太陽にさらされて乾いた堆肥の匂いがたちこめた。
なぜ藁なのか。
――そうだ。あのとき、あの山の手の屋敷での体験。ウツボカヅラのような魔力的な魅力をもった後家が導いた開かずの間。あの明治三十五年一月三十日以来、時がとまったままだったあの部屋には、もっと隠された秘密があったはずではないか。なぜわしはいまのいままで偽っていたのだろうか。あの部屋には、もっと禍々しいものが眠っていたのに。
「そうか、思い出した!」と、わしは苦々しげに言った。
あの開かずの間には、テストの答案用紙や水着姿の女の写真なんて、そんな陳腐なものだけが残されていたんじゃない。
藁人形だ。
呪いの藁人形が、数えきれないほどの藁人形が、壁一面に打ちこまれていたんだ。
どれもが人形の中央に五寸釘が打ちこまれていた。後家が言うには、先祖にあたる男に、妾とのあいだに生まれた子供がいたと言っていた。だが生まれつき重い病気で、寝たきりの生活を強いられていた。その子供が誰を恨んだか、こうして呪詛をばらまいていたんだ……。あの光景が強烈すぎて、わしは記憶を偽っていたのか? わしはテーブルを叩いて烈しくうめいた。
「しかし、どこまでが真実なんだ。妻の死はどうなんだ。わしは、わしさえもが!」
「……ちょっと、田力さん、なんてことを!」かたわらで穂積が絶叫していた。わしは、気が触れたような彼女の顔を見た。バサリと、手にしていた書類が床に落ちた。そのあとすぐ、靖川まなみの後頭部に眼をもどした。蝶番がはずれ、容器状になった頭部には眼にもまぶしいピンク色をして、テラテラと光沢を放つ脳みそがおさまっていた。
わしは安堵の吐息をついて、
「なんだい、さっきのは幻か。あんたはまともだ。どこもおかしくないさね」と、笑いかけ、彼女の細い肩に手をかけた。
次の瞬間、靖川の身体は力なく横に倒れ、デロリと容器の中身をこぼした。
了
★★★あとがき★★★
田力という姓は、日本神話における天照大神が天岩戸に隠れたとき、岩戸の扉を開けた八百万の神のひとり、天手力男命から取った。それにまつわる話にするつもりだったが、紆余曲折があって変更し、そのまま名残りをとどめている。
最初、スピルバーグ製作、映画『トワイライトゾーン/超次元の体験』(1983)の一篇『真夜中の遊戯』にインスパイアを受けて、老人ホームを舞台にしたものに挑戦した。それにならい、結末もさわやかな読後感にしたかったが、みごとに失敗。むしろ後味が悪すぎる。
身体のなかに藁がつまっていたという発想は、ずっと以前から、サム・ペキンパーの『わらの犬』や藤井フミヤの同タイトルの歌や、邦画『藁の楯』など、聴いたこと観たこともないのに、長年、「わらの犬ってなんじゃい!」という疑問を抱いており、執筆にあたり派生した。
基本、先にプロットを練ってから書くのだが、めずらしくぶっつけ本番で進めた。昔から年寄りくさいと言われたこともあり、老人の一人称はなかなか興が乗ったのではないかと思う。
※参考文献
『鍵師 カギ穴からのぞいた人生模様』大谷二三男 幻冬舎アウトロー文庫