残虐皇帝と予言の王女
久しぶりに短編です。短編なので、かなり話が飛んだりします。
大陸の覇者ハインツェル帝国とロワリエ王国は長きにわたって戦争を続けていた。膠着状態にあった戦争が終結したのは、ハインツェル帝国に1人の子供が生まれたためだ。
ヴォルフガング・ハインツェル。名が示す通り、ハインツェル帝国の王子だった。彼は25歳で皇帝になると、圧倒的な強さでロワリエ王国を敗北させた。そんな彼は、ロワリエ王国からの人質として王女を1人、皇妃として差し出すように求めた。
しかし、停戦後2年たってもロワリエ王国は王女を差し出す様子を見せなかった。ヴォルフガングが抗議を行うと、やっとロワリエ王国は王女を帝国に嫁がせた。この時、すでにヴォルフガングは29歳。
荘厳な結婚式で、初めて花嫁の名前を聞いたヴォルフガングは驚愕した。
ニコレット・ド・ロワリエ。ロワリエ王国の第2王女らしい。
らしい、と言うのは、ヴォルフガングは初めてこの王女の名を聞いたからである。てっきり、第3王女アレクサンドリーヌが嫁いでくるものと思っていたので、拍子抜けするとともに、「誰だこれは」となったわけである。とはいえ、ちゃんと確認しなかったヴォルフガングにも非はある。
「いや、妹が身ごもっちゃって。急遽私が代役に」
初夜の寝室でナイフを向けて脅すように尋ねると、ニコレットはからりと笑ってそう言った。こいつの危機意識はどうなっているのだ……。
とりあえず、嘘をついているようには見えなかったので、ヴォルフガングはナイフを仕舞って彼女の隣に座った。
「それで、お前は誰だ」
「だから、ニコレット・ド・ロワリエだって。呼びにくかったら、ニコルとか、ニコラって呼んでくれてもいいけど」
ニコレットと言う名がハインツェル帝国で一般的ではないのを気にしてくれたのだろうが、そこは今問題ではない。それにしても、なれなれしい娘である。
「悪いが、お前の名は聞いたことがない」
ヴォルフガングははっきりと言い切った。ロワリエ王国には3人王女がいることは知っていたが、話題に上るのはいつも第1王女と第3王女。第2王女の話しは聞いたことがなかった。
すると、ニコレットは「だろうねぇ」と笑う。
「だって私、修道院で育ったし」
「修道院!? 修道女と言うことか!?」
さすがに驚いたヴォルフガングが尋ねると、ニコレットは「そう言うわけじゃないけどねー」とのんびりと言った。
「どっちかっていうと研究員に近いわよ。お父様に閉じ込められてただけだし、修道女とはちょっと違うわね」
待て。今、聞き捨てならない単語がさらりと吐かれたぞ。
「閉じ込められていたとは、どういうことだ」
「なんでもねぇ。私が生まれた時に預言があったらしいわよ。お母様がこっそり教えてくれたんだけど、『この子は父親を滅ぼすだろう』って」
まさかの親殺しの予言である。これは、確かに閉じ込められるかもしれない。殺されなかっただけましだ。ニコレットが言うには、この予言のせいで、母親とともに田舎の修道院に閉じ込められたのだそうだ。
「その母親は?」
「5年前に死んじゃった」
あまりにもあっけらかんとして言うので、あまり悲壮感が伝わってこないのだが。
何となくばかばかしくなってきたヴォルフガングはベッドに横になった。その体勢で尋ねる。
「お前、こんなところに来させられて父親を恨まないのか?」
「別に。興味ないし」
ここまではっきりと興味ないといわれると、逆に悲しい。
「私が怖くないのか」
「なんで? 話が通じるのに、どうして怖がらなくちゃいけないわけ」
ニコレットの斜め上の返答に、ヴォルフガングは思わず感心した。
「話が通じれば、怖くないのか」
「だって、私とあなたはちゃんと会話できてるじゃん。話が通じない相手だったら怖いけど、話が通じるんだったら別に怖くないわよ」
「なるほど。面白い考えだ」
ヴォルフガングはそう言ってくつくつと笑った。彼をまねて、ニコレットもベッドに横になる。
「それに皇帝陛下、結構かっこいいし」
あっけらかんとした言葉に、ヴォルフガングはついに笑い出した。この娘、存外面白いかもしれない。
腹を抱えて笑うヴォルフガングに、さすがに機嫌を損ねたのか「そんなに笑わなくてもいいじゃん」と半身をニコレットが唇を尖らせる。ヴォルフガングもベッドに肘をついて身を起こし、ニコレットの髪をなでた。
「面白いな、お前は」
「陛下も、話しに聞いていたよりも優しいわね」
ニコッと微笑まれたヴォルフガングは何故か居心地が悪くなり、こほん、と咳払いをした。
「疲れただろう。もう寝ろ。……ナイフを向けて悪かったな」
不遜であるが精いっぱいの謝罪に、ニコレットは気にしていなさそうに笑った。
「自分が疑われてもしょうがないのはわかってるわよ。おやすみ、陛下」
「……おやすみ」
人にこうして、「おやすみ」と言うのも言われるのも久しぶりだな、とヴォルフガングは思った。
皇帝ヴォルフガングが治めるハインツェル帝国は、大陸の4分の1を擁する大帝国である。昔から領土的野心の強かったハインツェル帝国の皇帝たちは、周辺諸国にたびたび戦を仕掛けていた。それで領土を得たこともあれば、失ったこともある。
ヴォルフガングが即位したとき、ハインツェル帝国は計四つの国と戦っていた。早々に三つの国に勝ち、終戦条約を結んだヴォルフガングは、最後に残った帝国の西に存在するロワリエ王国を敗北に追い込んだ。
ロワリエ王国はかなり大きな国になる。領土はハインツェル帝国の3分の1ほどであるものの、その技術力の高さから、各国から一目置かれていた。
取り込んでおいて損はない、と考えたヴォルフガングは、彼の王国から王女を望んだのは当然の成り行きであったといえるだろう。ヴォルフガングには皇妃が存在しなかった。
いや、かつて、三度ほど皇妃がいたことがある。しかし、その3人すべてを、ヴォルフガングは自ら斬り殺していた。
一度は愛した皇妃を斬り殺した皇帝。そこから、ヴォルフガングは残虐皇帝と呼ばれるようになった。彼を擁護するのであれば、彼が皇妃を斬り殺したのは、皇妃自身に非があったからだ。何の理由もなく手を下すほど冷酷な皇帝ではない。
そして、そんな皇帝のもとにやってきたのがロワリエ王国の第2王女ニコレットだ。ヴォルフガングが名を聞いたことがないのは当然で、彼女はまさかの修道院育ち。詳しく事情を聞いたところによると、もともとは、ヴォルフガングの考え通り、第3王女のアレクサンドリーヌが皇妃として嫁いでくるはずだった。
しかし、あろうことか、アレクサンドリーヌは未婚のまま身ごもった。ちなみに、アレクサンドリーヌは16歳である。
腹の子の父親は王太子である兄の学友だった。つまり、ロワリエ王国内での身分は高い。とはいっても、皇帝に逆らえる立場ではない。
しかし、泣きながら愛娘に「行きたくない」と訴えられたロワリエ王は考えた。もう1人、王女がいるではないか、と。
そうして嫁いできたニコレット。『父親を滅ぼす』予言を受けた子。ロワリエ王は、彼女なら皇帝に殺されても惜しくないと考えたのだ。アレクサンドリーヌはヴォルフガングが恐ろしくて嫁ぐのを嫌がったのだろう。
物心ついたことにはすでに修道院にいた、と言うニコレットは研究者であったらしい。修道院所属の修道士たちの中には、学者のような仕事を担うものがいるのだが、ニコレットの立場もそれに近かった。母親も同じく研究者だったらしく、ニコレットが研究者になるのは自然な成り行きであったと言えるかもしれない。
ニコレットは自然科学系の研究者である。母親は工学科学者だったらしく、最近目覚ましい発展を遂げた『銃』はニコレットの母親の作成らしい。ちなみに、もう出来上がっている銃の改良であれば、ニコレット自身もできるらしい。これは思わぬ拾いものをした。しかも、彼女は銃を撃つこともできるそうだ。
一通り確認したところ、修道院育ちであるからこそか、ニコレットはマナーや立ち振る舞いは完璧だった。なろうと思えばいくらでも貴婦人らしく振る舞える。ヴォルフガングに対してあれほど砕けた態度を取るのは、命が惜しくないからか、あれが素なのか。悩むところではある。
父親によって修道院に入れられ、父親によって残虐皇帝に嫁がされた彼女は、特に父親を恨んではいないようだった。彼女は「興味がない」と言い切った。無関心は殺意を抱くよりも恐ろしいかもしれない。彼女は故国に思い入れがないようだった。
修道院育ちと言うある意味箱入りのニコレットは、始めて見るあらゆることに感動した。おそらく、好奇心が強いから研究者などをやっていたのだと思うが、ある時は柱時計を見つめて仕組みを理解しようとし、ある時はアンティークの食器を眺めていた。
そして、何よりニコレットを感心させたのが食べ物らしい。修道院では、当たり前だが、比較的質素な食生活を送っていたようだ。菓子類も酒もあっただろうが、肉は禁止のはずだ。飽食も禁忌である。
彼女はとてもおいしそうに食べるので、みんな食べさせたくなるようだ。かくいうヴォルフガングも参加しているのだが、ニコレットはハインツェル皇帝やその使用人たちに餌付けされつつある。
「ニコラ。口を開けろ」
ヴォルフガングが命じると、ニコレットは素直に口を開けた。ヴォルフガングはニコレットを『ニコラ』と呼ぶことにしており、ニコレットはヴォルフガングを『ヴォルフ様』と呼んでいる。2人の間には確かに信頼関係が生まれていた。
ヴォルフガングがニコレットの口の中に放り込んだのは、固形チョコレートと言うものだった。普通は飲み物として飲むチョコレートを固めたものである。もくろみ通り、ニコレットは目を輝かせた。
「何これ! おいしい!」
「固形チョコレートだな。中にアーモンドが入っているものもある」
と、ヴォルフガングはもう一つニコレットの口の中に押し込んだ。ニコレットはその顔にとろけそうな笑みを浮かべる。
「おいしい」
その笑顔を見て、ヴォルフガングも目を細めた。
修道院にいる時よりも食事の量が増え、ニコレットは明らかにふっくらしてきていた。とはいえ、元がやせ過ぎだったので、今がちょうどよいくらいである。抱きしめたら抱き心地がよさそうだ。
ニコレットは癖の強い蜂蜜色の髪に菫色の瞳をした美女だ。やせているときも美人だったが、少し太った今の方が色気もあり、年相応に美しいと思う。背丈はヴォルフガングより顔一つ分ほど低い。
一方のヴォルフガングは銀髪に濃い青の瞳は切れ長。顔立ちは整っており、精悍な印象を受ける。体格がよく、かなりの長身だ。美男美女であるためか、使用人たちはヴォルフガングとニコレットを見て、お似合いだという。使用人たちが、今までの皇妃よりニコレットに好感を持っているせいもある。
「もう一つ食べていい?」
上目づかいに尋ねてくるニコレットに、ヴォルフガングは耐え切れなくなり、彼女を抱きしめて唇を重ねた。思った通り抱き心地がよく、チョコレートを食べていたせいか唇は甘かった。
はむように唇を重ね合わせるとニコレットは「ん……っ」と甘い声を漏らす。唇を離して彼女の顔を覗き込むと、ニコレットは目を見開いていた。それからみるみる顔が赤くなった。
「な、何するの!?」
「何って、キスだ。甘いな、お前の唇は」
ヴォルフガングは自分の唇をなめる。まるで彼女の唇の甘さが残っているようだった。それを見てニコレットはさらに赤くなる。
「もうっ! 突然変なことしないでよね!」
「別に変でもないだろう。夫婦だぞ」
「そうだけどっ」
さすがは修道院育ち。色事には耐性がない。一応、知識はあると言っていたが、その知識が正しいのか怪しいところではある。
「なら、何も問題はないな」
そう言って、ヴォルフガングはもう一度ニコレットに口づけた。
修道院育ちの皇妃ニコレットには特技があった。狙撃である。母親が銃の改良者であることを考えれば不思議ではない話だが、彼女は修道院で一体何をしていたのか気になるところではある。
「五発すべて当てるか……そこら辺の狙撃手より優秀だな」
「母が開発した銃の試射はすべて私がやってたもの。愛用の銃だったら400メートル先の的でも狙えるわよ」
そう言ってニコレットは胸を張る。ちなみに、今試射した距離は200メートル。この距離でも十分驚異的な命中度だったが、この倍の距離でも、ニコレットは当てる自信があるらしい。
ヴォルフガングも銃は得意であるが、さすがに200メートル先の的に当てる自信はない。
「お前、ますます何者かわからないな……」
「だから、私はニコレット・ド・ロワリエだって。あと、ヴォルフ様の妻だねー」
ニコレットはふふっと笑う。銃を持っていなければ、見惚れるほどの美しい笑みだった。
「ちなみに、その愛用の銃はどうしたんだ?」
「嫁ぐのに持ってこれるわけないじゃないの。私は持って行こうかと思ったんだけど、修道院長に『嫁ぎ先にそんなものを持って行ってはなりません!』って取り上げられちゃったわ」
「……そうか」
「置いていっても、だれも使えないと思うんだけどね。っていうか、持ってこれても、国境越えの時に取り上げられたわよね」
「それはそうだな」
ニコレットにもそれくらいの常識はあったらしい。いくら修道院で暮らしていたといっても非常識にも限度があるだろう。そう。ニコレットは浮世離れしていると言うよりは非常識なのだ。
現在、銃の狙撃を行うに至ったのも、帝国軍を見てみたい、と言い出したからだ。普通の女性はこんなものを見たいとは思わないだろう。兵たちも、新しい皇妃が訓練を見に来たので興味津々だ。ニコレットは容姿が美しいので、よく視線が集まっている。
「ニコラ、聞いてもいいか? 何故、お前に撃たせるとそんなに命中率がいいんだ?」
もしかしたら軍の訓練に使えるかもしれない、と思い、ヴォルフガングは尋ねる。彼女のセンスの問題だったら、利用しようもないが。
「そうだねぇ……。改めて聞かれると困るんだけど、私は女だから、あまり力は強くないんだよね」
女にしては強いと思うけど、とニコレットは続けた。確かに、女性にしては力が強い方だろうが、男と比べると弱いのは当然だ。
「銃って、重いでしょ。撃った時の反動を軽減するためにどうしても重さは必要なんだけど。きっと、みんなはこの銃の反動を押さえつけようとするから、当たらないのかもしれないわね」
「ほう。では、お前はどうしているんだ?」
銃はしっかり持っていないと撃てない。ニコレットは小首をかしげた。
「そうだね。衝撃を受け流しているのかもしれない。少なくとも、私が引き金を引いた後に、腕は跳ね上がっているはずだし」
「それだと、弾がぶれるのではないのか?」
「……えっと。やっぱり衝撃を受け流してるんだと思うわよ。私は、衝撃を全部受け止めてるつもりはないもの」
「……そうか」
なんだか、ニコレットのセンスがいいだけのような気もしてきた。彼女の謎の命中率の解明は、持ち越すことにした。着地点が見えない。
公務がないとき、ニコレットは本を読んで1日を過ごしている。ロワリエとハインツェルでは使用される言語が違うのだが、さすがは修道院で育ったと言うべきか、ニコレットは問題なく両方の言語を操れるし、読み書きもできている。さらに、古代語も読み書きできるらしい。
ハインツェル帝国の宮殿の図書館は充実している。多くの国の本が集まっており、初めて図書館内を見たとき、ニコレットは顔を輝かせていた。最近では、図書館にいる司書ともすっかり仲良くなったようで、勝手に研究をしたりしているらしい。一度爆発未遂事故が起こったので、爆発するような研究は外でやるように言っておいた。
彼女と過ごすのは楽しくて、ヴォルフガングは過去のつらい記憶を忘れつつあった。
そんな時、地方に引きこもっていた帝国貴族が帝都に戻ってきた。ライヒェンバッハ公爵家は、ヴォルフガングの1人目の皇妃の実家だった。
ヴォルフガングは、ニコレットの前に3人の皇妃を娶っていた。1人目は帝国貴族ライヒェンバッハ公爵家から。2人目は、帝国の東側に接しているカンビアニカ王国の王女。3人目は帝国の実質的な属州メサ王国の王女。
ニコレットは4人目の皇妃だ。おそらく、ニコレットとは今までの皇妃のだれとよりも長く一緒にいる。結婚期間の話しではなく、共に過ごしている時間の話しだ。
それに、ヴォルフガングはニコレットを愛していた。彼女の前の3人の皇妃の中にも、愛した者はいたが、彼女よりもニコレットの方が愛しいと感じる。なのに、ライヒェンバッハ公爵は、面会したニコレットにあることないこと吹き込んだらしい。そう言う報告を、ヴォルフガングはニコレットにつけている侍女から受けた。
いや、確かに、ヴォルフガングは最初の皇妃であるライヒェンバッハ公爵の娘を愛していた。しかし、彼女はヴォルフガングではなく、実家を取った。だから、殺した。
その事実がヴォルフガングの中で重荷になっているのは確かで、そう簡単に割り切ることはできない。しかし、今はそのことよりもニコレットの方が大事だった。
報告を受けてすぐにニコレットに会いに行こうとしたヴォルフガングだが、従者と宰相に止められ、結局、彼女に会ったのは夜になってからだった。夫婦の寝室に行くと、ニコレットは今日もベッドに寝転がって本を読んでいた。
「あ、ヴォルフ様。お疲れ様~」
いつもの彼女の笑みを見て、ヴォルフガングはほっとした。ほっとしたということは、緊張していたのだろう。避けられたら、否定されたらどうしようと思っていた。
「ああ……先に寝ていてもよかったんだぞ」
ベッドに腰掛けて彼女の髪に触れる。肌に触れていいかわからなかったのだ。
「んー。この本が面白かったから、眠れなくて」
よくつかわれる言い訳に、ヴォルフガングは少し笑った。ニコレットは身を起こし、ヴォルフガングに向き合った。
「今日、あなたの一番目の皇妃だった人の父親に会ったわよ」
ライヒェンバッハ公爵だっけ。とニコレット。彼女の方からその話をふってくるとは思わず、ヴォルフガングは瞠目する。
「……何か言われたか?」
「うん。あなたは、一番目の皇妃……リーゼロッテを愛しているんだって。愛していたのに、引き裂かれてしまったんだって言われた」
「……」
間違ってはいないが、語弊のある言い方であるような気がする。ヴォルフガングは、理由はどうであれ一番目の皇妃リーゼロッテを殺しているのだから、引き裂かれたとはいないだろう。それに、引き裂いた、と言うのなら、その引き裂いた犯人はライヒェンバッハ公爵自身である。
気づかずに視線をそらしていたらしい。ニコレットの手がヴォルフガングの頬を挟み、目を合わさせた。
「私は、あなたが私の前の皇妃様たちを殺したことを知ってるわよ。そうするしかなかったことも理解してる。知ったうえで嫁いできたんだから、私がそのことであなたを責めたり、怖がったりすることはないわ」
ニコレットは小首を傾げてニコッと笑った。
「私はね。修道院育ちだから、何となくわかるのよ。ヴォルフ様は、皇妃様たちを殺したことをすごく後悔してる。もっと他に方法があったんじゃないかって思ってる。きっと、それがとても大きな心の傷になってるんだわ」
「そんなことは」
「あるわよ」
ニコレットは目を細めて言いきった。
「ヴォルフ様は気づいていないだけ。気づこうとしていないだけ。修道院に駆け込んでくる人の中にも、そういう人はいたわ。とても傷ついているのに、全く気付いていない人」
ニコレットは膝立ちになり、ヴォルフガングの額に、こつん、と自分の額を当てた。
「あなたは、私もいつかいなくなるんじゃないかと思ってる。自分じゃなく、違うものを選ぶんじゃないかって。そう思ってる。だから、言っておくわ。私は、ヴォルフ様が『もういらない』っていうまで、あなたの隣にいる。約束する。私にはほかに選ぶものがないから、初めて私に、ちゃんとした居場所をくれたあなたのそばにいるわ」
「……ニコラ。お前」
額を離したニコレットはヴォルフガングに向かって微笑んだ。
「母はもう亡くなってる。親切にしてくれた修道院長も、もうきっといないわ……。私が育った修道院は、火事にあったんだって」
「火事だと?」
「うん。たぶん、父が私の痕跡を消してるんだわ。そうすることで、予言がなくなるとでも言うように」
『この子は、父親を滅ぼすだろう』。ニコレットが生まれた時になされた予言。予言は、覆らない。予言は絶対だ。
「……みんな、いなくなっちゃった」
ニコレットはヴォルフガングの胸に額を押し付け、泣いていた。静かに、泣いていた。
「だから、あなたまで、私はいらないと言わないで」
翌朝。ヴォルフガングが眼を覚ますと、ニコレットはまだ眠っていた。ヴォルフガングは手を伸ばし、ニコレットの眼尻に残る涙を拭きとった。
「んぁ……?」
ニコレットが間抜けな声を出して目を覚ました。まぶたの下から菫色の瞳が現れる。
「おはよう、ニコラ」
「……うん。おはよう」
寝起きの顔で、ニコレットはふわん、と微笑んだ。ベッドに手をついて身を起こした彼女にガウンをかけてやる。
「どうしたの? 珍しいわね。いつもならとっくに執務室に向かってる時間じゃない?」
「ああ。お前の顔を見ていたくてな」
そう言うと、ニコレットはわずかに頬を赤らめる。ときどき見せるこうした反応がかわいくてたまらない。ヴォルフガングは微笑み、ニコレットの頬から首筋に手を這わせた。彼女はくすぐったそうに身をよじる。
「ニコラ……ニコレット」
「うん。何?」
ニコレットは目を細めてヴォルフガングを見上げる。ヴォルフガングは彼女の頬に手を這わせたまま尋ねた。
「お前は、私とともにいてくれるか? 私の隣にいてくれるか?」
思ったよりも頼りない声だった。昨夜、彼女が言った言葉は当たっていたのだと思う。ヴォルフガングの中で、殺した3人の皇妃のことが傷痕として残っているのだ。そして、愛するニコレットが彼女らと同じように自分の側からいなくなってしまうのではないかと恐れている。
「……ヴォルフ様は、私に居場所をくれるのね」
ニコレットはそう言って、自分の頬に当てられたヴォルフガングの手に自分の手を添えた。そして、彼女は目を閉じる。
「もちろんだよ。母以外で、初めて私を愛してくれて、私が愛したのがあなただもの。いなくなったりしないよ、私は。裏切らないよ、あなたの心を」
「そう……か。ありがとう。ニコラ」
「うん」
うなずいたニコレットを抱き寄せると、ヴォルフガングはそっと唇を重ねた。
この時、ヴォルフガングとニコレットは、お互いが一番欲しくてたまらなかったものを手に入れたのだ。
結婚してから1年半ほどたち、ニコレットは男児を出産した。この慶事に、帝国中がわいた。ヴォルフガング皇帝とニコレット皇妃の仲の良さは帝国内では有名で、2人が姿を見せる祭事などには多くの人が押し寄せた。
人々はニコレットの美しさをほめたたえ、残虐皇帝にもこんな優しい表情ができたのか、と驚くのだ。
しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。ニコレットの故国ロワリエ王国を盟主とした連合国軍が帝国に宣戦布告を行ったのである。理由は、いつもの領地問題である。しかし、裏もあると思われた。
ロワリエ王国の第2王女であるニコレットが生んだ子にはロワリエ王国の王位継承権がある。ニコレットがロワリエ国内でほとんど実権のないお飾りの第2王女であったことを考えれば、この子の王位継承権は低いのだが、これを理由にヴォルフガングがロワリエの王位を狙うのではないかと、現ロワリエ国王は恐れたのだ。
人質として自分の娘を嫁がせた国に、刃を向ける。これは娘のことなどどうでもいいと言っているのと同じだ。
「……わかってたけど、父は私がいても、弓を引くことをためらわないんだね……」
割り切ったように、しかし、悲しげに言うニコレットの頭をヴォルフガングは抱き寄せる。そして、言った。
「大丈夫だ。お前には、私がいる。だから、お前は、私のためにここにいてくれ」
「うん。いるよ。あんな人、父親だと思ったことはないわ。ただの遺伝子提供者。そう。なんたって私は、親殺しの予言を受けた人間なんだから」
『この子は、父親を滅ぼすだろう』
ニコレットが生まれた時に受けた予言。これが今、現実にならんとしていた。
実際にロワリエ王を滅ぼすのはニコレットではない。ヴォルフガングだ。しかし、この状況はニコレットがヴォルフガングに嫁いだことで生じたのだ。そのため、ニコレットがロワリエ王を滅ぼそうとしている、そう考えることも不自然ではない。
ロワリエ王は、予言を真に受けて娘を遠ざけたことで、その娘に滅ぼされるのだ。少なくとも、ヴォルフガングは滅ぼす気満々だった。
出立の日、ニコレットは外まで見送りに来た。彼女は笑おうとして失敗し、泣きそうな表情になった。
「ヴォルフ様~。私、ここで待ってるから、ちゃんと戻ってきてね~」
「わかったから、泣くな」
「……泣いてないもん」
泣いていないと主張するニコレットであるが、その目はすでに赤く、大粒の涙がぼろぼろと頬を伝っている。出立前に妻に泣きつかれた残虐皇帝ヴォルフガングは、周囲から生暖かい視線を受けていた。
「そうしてると、陛下も形無しですね~」
「帰ってこないと、皇妃様が今より泣いてしまわれるわけですね」
「いやあ、お可愛らしいですね、皇妃様」
「大丈夫ですよ、皇妃様。陛下のことですから、きっと勝って、ケロッとして帰ってきますから」
ヴォルフガングをからかう言葉のほかにニコレットを慰める言葉も聞こえる。さすがは臣下や使用人たちから絶大な信頼を集めるニコレットである。
ヴォルフガングは唇の端をひくひくさせながら周囲を睨み、それからニコレットに視線を戻した。
「大丈夫だ。約束しただろう?」
ニコレットはヴォルフガングを裏切らないと言った。同じように、ヴォルフガングもニコレットを裏切るつもりはなかった。そっと頬を撫でてやり、落ち着かせようとする。
泣きながら上目づかいで見上げてくるニコレットにむらむらっときたが、ヴォルフガングが行動を起こす前に、ニコレットが彼の襟首をつかみ、引っ張った。ニコレットの動きに合わせてかがみこんだヴォルフガングの唇に、ニコレットは己の唇を重ねた。周囲が「おおっ!」と歓声を上げる。
「帰ってこなかったら、私もそっちに行くからね!」
「!? それは嫌だな」
暗にヴォルフガングが死んだら、自分も後追い自殺すると言われ、ヴォルフガングは嫌だ、と思うと同時にうれしかった。彼女は、隣にいる、と言う約束を果たしてくれるのだ。ヴォルフガングが行くところについてきてくれる。
今度は、ヴォルフガングの方からニコレットにキスをした。細い彼女の体を強く抱きしめ、彼女がそう簡単にヴォルフガングを忘れないように刻み付けようと思った。周囲がうるさい気がするが、気にしない。
名残惜しいが唇を離し、頬を上気させたニコレットに言った。
「では、行ってくる」
「……うん。行ってらっしゃい。気を付けてね」
相変わらず泣き笑いのような表情で、ニコレットはヴォルフガングを見送った。ヴォルフガングは微笑み、馬にまたがって出発した。
予言は真実となるのか。それを決める戦いが、始まる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
実は、唐突に思い浮かんだ話なのです、これは。でも、連載版で書こうかちょっと迷う……。
補足として、ニコレットとヴォルフガングは、ヴォルフガングの方が10歳年上。ニコレットが嫁いできたとき、彼女は19歳でした。