なりたい自分
気付けば、鈴はボロボロになっていた。
まず、食を摂らなくなった。否、摂れなくなっていたというべきか。
いくら空腹を感じていても、文字通り食物が喉を通らない。どれだけ食べようとしても、一口の小粥を食べようとするだけで、直ぐに吐きそうになる。胃が受け付けないとか、そういうレベルではなかった。もはや、食道が食べ物を受け付けないのだ。ストレスだか何だかで「食べ物が喉を通らない」などという表現は過剰だろうと思っていた鈴だったが、この時ばかりは、本当に喉を通らないことがあるのかと思った。
一日、茶碗一杯のご飯を食べることが精一杯になった鈴は、日に日に痩せ衰えていく。
食欲が失せていくと同時に、人と顔を合わせることもしなくなった。
視線が、怖いのだ。みんながみんな、口には出さなくても、お前が辰人を殺したのだと言っているような気がした。顔は笑っていても、心は「こいつは親友を殺したんだ」と蔑んでいる。そんなことはないと思いたいけれど、そうとしか思えない。
やがて朝が起きれなくなったのか、それとも起きたくないのか、いつも早くに起きていた鈴は、朝食も摂ることもないまま、布団から出ようとしなくなった。
いつしか、学校へも行けなくなっていた。
鈴を心配して両親が部屋に来ても、鍵は掛けたままで部屋へ入れず。部屋から出ている時を見計らって話しかけてきても、一言二言で話を終わらせて自分の部屋へ戻る。
当然、部屋にいるからといって眠れるわけでもない。睡眠もロクに取れず、目の下のクマが濃くなるばかりだ。自分でもいつ寝ているのか、休んでいるのかもわからない。夢を見ているのか、それとも現実に起きているのかわからない。
食事もとれず、人との付き合いもせず、睡眠も取れず。
命だけは助かったものの、彼の心は死んでいた。
「あら、飛鳥ちゃん」
美月の声がした。
他は聞き取れなかったが、おそらく飛鳥が鈴を呼びに来たのだろう。
階段を登る音が聞こえて、鈴の部屋の扉がノックされた。
「鈴。飛鳥ちゃんが来てくれたわよ」
扉越しに美月が言った。
「……うん」
言って、鈴は布団を被る。
「今日も学校、休む?」
「……………………」
美月の声は届いたけれど、鈴は返事を返さなかった。しばらくすると、「そう」という。
「いつかは、行けるようになるといいわね」
それだけいうと、美月は階段を降りて行った。
少しだけ飛鳥と話したあと、飛鳥は学校へ行ったのだろう、扉が締まる音がした。
「……わかってるよ。このままじゃダメなことくらい」
どれくらい時間が経過したのだろう。ふと、布団の中で目が覚めた。
何も食べないまま暗い部屋に一人でいると、チャイムが鳴った。誰かが来たのだろうかと思っていると、階段を登る音が聞こえた。また母親が来たのかと考えていたら、案の定ノックが聞こえた。
今度は何だ、心の中でつぶやくと、扉の向こう側から「今、いいかな」と声が聞こえた。飛鳥の声だった。
「起きてるかはわからないけど、話だけ聞いてくれればいいから」
勝手にすればいい。思って、鈴は再びまぶたを閉じた。
もちろん、鈴は何も答えなかった。けれど構わず、飛鳥は続けた。
「昔は鈴くんがわたしを外に出そうとしてたのに、今はわたしが鈴くんを外に出そうとしてるなんてね。なんだか、不思議な気分」
かつて彼女を助けた自分が、「引きこもっても何も始まらない」だとか、「自分が変わらなきゃ、何も変わらない」などと偉そうなことを言っていた自分が、今はかつての彼女のように閉じこもるなど、誰が予想しただろう。
ホント、偉そうなことばかり言っていたなと思って、鈴は乾きひび割れた笑いをもらした。
「あのね、鈴くん……。わたしね、謝らなきゃいけないことがあるの」
飛鳥の言う事など、どうせ「外へ出よう」だとか、部屋から自分を出そうとするような声かけだと思っていただけに、何を謝るのかと耳を傾けた時だった。
バン!
一瞬、何かで扉を叩いたような、大きな音がした。
「な、なにをやって……?」
思わず起き上がり、扉を凝視した。再度、バンと大きな音が鳴り響き、扉が揺れた。
心なしか、扉の中央が鈍器でもぶつけられたかのように膨らんでいるように思う。
「ごめんね、鈴くん。扉壊しちゃうから」
ゴバン!爆発音と共に、鈴の部屋の扉が文字通りに吹き飛んだ。
「はぁああっ!?」
あまりに唐突な出来事に目を見開いた鈴は、何が起きたのかまるでわからず、状況を確認しようと周りを見渡した。
本棚を破壊して部屋の隅に転がった扉が、みるも無残な姿で打ち捨てられおり、真ん中辺りは、何かを叩き付けられた跡が丸く凹んでいる。扉が衝突した本棚からは、バサバサと漫画やらなにやらが飛び出し、床へ落ちていった。
「大丈夫、美月さんに許可はもらったから」
ふふん、得意げな顔で鼻を鳴らした飛鳥は、片手に持った小型ハンマーを廊下に置いた。
「そういう問題じゃないだろ!」
いいから、出て行けよ。部屋に入ってきた飛鳥をすぐにでも追い出そうと、鈴は飛鳥を睨み付ける。
「けど、こうでもしないと鈴くんは会ってくれないでしょ?」
「それは……」
それは確かに、その通り。今の気分では、鈴はとても人に顔向けなどできない。ましてやそれが飛鳥であるなら尚更だ。飛鳥に隠して、子供が関わるべきでない事件に首を突っ込んだ鈴を、彼女はどう思っているのか。その結果、辰人を殺した鈴をどう思っているのだろうか。
……快く思っていないに決まっているだろう。
「確かに会うつもりはなかった。けど、お前だって俺に会いたくなんかないだろ」
俺は、人殺しだ。
本来なら、飛鳥と話す資格もない。鈴は、そう思う。
しかし飛鳥はムッとした顔で、「そんなことないから」と言って、ベッドの上で座る鈴の隣に腰かけた。
飛鳥が座ることによって鈴の体が傾き、飛鳥の肩に触れた。すぐに体を離し、鈴はむすっとした顔であぐらをかく。
「ホントに会いたくないなら、わざわざ家まで来ないよ」
わたしは、鈴くんが心配なんだよ……。足をぶらぶらと揺らして、飛鳥は呟いた。
「けど、俺は人殺しだ。辰人を殺したんだ。……お前に心配される価値もない」
絞り出すように言った鈴に、そんなことないと飛鳥は言う。
「わたしは、真実を知ってるよ。辰人くんがどうして居なくなったのか」
「……え?」
あの時のことを知っているのは、今では鈴と辰人、それと辰人を殺した人外。そして、あの時に助けてくれた少女だけだ。
あの時のことを俺は誰にも話していないし、だとすれば助けてくれた少女か人外からしか話は聞けないハズ。かといって、人外から聞くなどというのは論外だ。ならば、少女から?いや、日常を生きる飛鳥に、化け物と戦う少女との接点は無いはずである。
だったら、一体――。
「わたしね、鈴くんに秘密にしてたことがあるの」
「……秘密?」
「夢みたいな話なんだけど、笑わないで聞いてね」
飛鳥は、足を揺らすのをやめた。
「わたし、天児っていう特別な存在なの」
アマガツ?どこかで聞いたことがある気がするが、それは何処だっただろうか。考えているうち、飛鳥が応えた。
「天児っていうのはね、いわゆる正義の味方。悪いことをする宇宙人とか、怪獣を倒すのがお仕事なんだ」
「……おい、なに言ってるんだ?」
「鈴くんも知ってるでしょ、桜花っていう狐の人。その人から全部聞いてるハズだよ。今この地球が、どんな驚異に晒されているのか。高天原で起きてる猟奇殺人事件の犯人が、一体何なのか」
「……なんだよ、それ。なんで、お前がそれを――」
……あの少女が、まさか、飛鳥か。思い返してみれば、あの少女の顔は飛鳥に酷似していたように思う。黒い髪と、黒い瞳を青く染めなおしてみれば……水無月飛鳥であると言われれば、信じてしまうほど似通っていた。
飛鳥に隠れて危ないことをしているつもりだった自分だが、飛鳥の負っている危険など、自分の比ではないではないか。まだ中学生なのに、あんな化け物と戦う?一体どうやって。そんなこと、できるハズがない。
飛鳥はただの女の子だ。優しくて努力家で、しっかりしているようだけど、肝心なところで抜けているところもあるからか、どこか放っておけなくて。そんな女の子が、化け物と殺し合いをするっていうのか?
「辰人くんを殺したのは鈴くんじゃないって、わたし知ってるの。どちらかと言えば、二人が危ないことしてるって気付けなかったわたしの責任。わたしが悪かったの」
「けど……」
俺があの場で動けていたら、辰人は死ななかったのかもしれない。俺が――。
「それだけじゃないよ。わたしが悪い理由」
鈴の声を遮って、飛鳥は言う。
「ウチの組織はね、鈴くんが天児なんじゃないかって結構前から疑ってた。もう数年も前からかな。けど、わたしが鈴くんを戦いに巻き込まないでって無理言って、鈴くんには何も知らせないようにしていたの。昔、鈴くんがわたしを助けてくれたから、今度はわたしの番だからって。わたしが鈴くんの分まで戦えば、鈴くんは戦わなくてもいいでしょって言って」
「けど、だからってお前が悪いわけじゃ……」
「わたしから言わせたら、どうして鈴くんが悪いのかって思うけど。鈴くんに戦う力を与えなかったのは、わたし。辰人くんを助けられなかったのも、わたし。全部わたしが悪くない?」
「なら……」
ならどうして、どうして飛鳥はそんなに強くいられるのだ。
鈴はこんなにも押しつぶされそうになっているのに、今にも潰れてしまいそうなのに。どうして、飛鳥は立っていられるんだ。
「なんで、お前は前に向かえるんだ……」
「せめてもの贖罪、かな。辰人くんは昔、落ち込んでるわたしより前に向かってるわたしが好きって言ってくれたことがあってね、だったらせめて、辰人くんの好きなわたしでいようって思ったの。……ホントは強がってるだけで、今にも潰れちゃいそうなんだけどね」
はにかむ飛鳥の目は、笑えていなかった。
自分の身勝手な行動が友人の一人を殺したと思っているのだから、それも当然だろう。けれど、それだけでなく、決意のようなものが垣間見えた。
「……でも、俺は……」
飛鳥は、辰人からこうあってほしいと道を示して貰っていた。ならば、鈴はどうなのか。鈴には、向かうべき道がわからない。辰人がどう思っていたのか、わからない。もしかしたら、鈴を恨んでいるかもしれないのだ。真に死ぬべきは、風間辰人ではなく時神鈴であったと言うかもしれないのだ。
それが、たまらなく怖かった。
「俺は……どうすればいいんだよ……」
悲しめばいいのか。悔やめばいいのか。それさえも、鈴にはわからない。
人が死んだ。親友が死んだ。それも、自分が至らないせいで死んだのだ。
悲しむことは人として正しいことだと思う。しかし、だからと言って悲しむことが全てなのだろうか。いつまでも死んだ者に囚われて、苦しむことが正しいことだと言えるのだろうか。でも、悲しまなければその死を侮辱するようにも思えて――。
「わかんねぇよ……」
何が正しい?何が間違っている?わからない。何もわからない。
辰人は俺に何を望んでいるんだ。人は、俺に何を望んでいるんだ。俺は何ができる。俺になんの価値がある。
――わからない。
考えれば考えるほど自分に何があるかわからなくなる。考えれば考えるほど、自分の存在価値が見いだせなくなっていく。考えれば考えるほど、自分というモノの意味が分からなくなって、身体が震え始めた。
誰にも必要とされず、何もできず。そんな人間になんの意味がある。なんの価値があるという。人に迷惑をかけるだけではないのか。実際、飛鳥にも親にも、心配をかけているじゃないか。手間をとらせて、けれど自分は何もできなくて。
「俺は、どうすればいい……?」
震える手が止まらない。身体が冷たくなって、弱々しく震えているのがわかる。きっと、顔も真っ青になっている。寒い。気温はそれほど低いことはないはずなのに、まるで北極かどこかにいるようだった。一人でいたら、凍え死んでしまいそうだった。
「――俺なんて、死んだ方がいいじゃないか」
カチカチと震える口から、絶望の一言が紡がれる。
寒い、寒い。身体の熱がどこかへ消えていく。喉元に凶器を突き付けられた気分だ。歯が噛み合わない、瞳孔は開かれたままで、指先はもう氷のように冷たかった。
そんな鈴の手に、小さく柔らかい………なにより、暖かい手が重ねられた。
「そんなことないよ。わたし、鈴くんが生きていてよかったと思う。鈴くんがいたから、今のわたしがあるんだよ」
「だけど、俺は………」
「わたしはね、前を向いてる鈴くんが好き。誰かのために、一生懸命頑張っている鈴くんが好き。迷わずに人を助けられる鈴くんが、大好きなの。だから、これからも鈴くんにはそうあって欲しいと、わたしは思うな」
鈴には、何もできない。
人を助ける? それは確かに聞こえはいいけれど、所詮は自己満足じゃないか。誰かのため誰かのためと言いながら、誰かを助けることで自分の存在価値を見出している。結局は全て自分のためだ。
――最低の自己中心的な人間だ。
「ねぇ、鈴くんはどうしたい?」
「――え?」
「自分がどうするべきか、じゃなくて。鈴くん自身は、何がしたいの?」
「……おれ、は……」
俺は、何がしたい?
鈴は、自分自身は問いかけた。
そんなの、昔から決まっている。誰かを助けたくて。誰かに笑って貰いたくて。いつも、誰もが笑顔でいられる世界を目指してる。そのために、俺は。……俺は……。
「おれ、は……なりたい……――に、なりたいよ……」
俺には喧嘩しかできない。辰人みたいに頭は使えないし、飛鳥みたいに優しく相手を包み込むこともできない。本当に何もできない俺だけど、何の役に立つかもわからない俺だけど……これだけは、これだけは昔から変わらない願いだ。
「……正義の味方に……なりたいよ……」
呻くように、絞り出すように。そして、再び何がしたいのかを己の胸に刻み込むかのように。どこからか沸き出る涙に霞む瞳で、嗚咽を漏らしながら、鈴は小さな頃からの夢を再度口にした。
テレビのヒーローみたいに、誰かを助けたいと思った。誰かを笑顔にしたかった。泣いている誰かを笑わせたかった。みんなが笑顔になればいいと、思っていた。
「……うん。知ってたよ。わたしね、鈴くんだったら、正義の味方になれると思う」
鈴の夢を笑うことなく聞いた飛鳥は、優しく鈴を抱きしめた。
彼女の暖かい身体から感じるのは、慈愛の情。愛念とまでいえる、深い愛。
中学生にもなって正義の味方になりたいなんて言ってたら、普通笑いものだ。なのに、飛鳥はそんな鈴を笑わなかった。どころか、認めてくれた。抱きしめてくれた。あなたならその願いを叶えられると、言ってくれた。
その言葉が、鈴の冷たくなった心に優しく染み渡った。感動だとか、感激だとか、そんなありきたりな言葉では表現できないほど、とても暖かくなって、何かが溢れてきて、涙が流れた。
声をあげて、嗚咽を上げて泣いた。
中学生にもなって、女の胸を借りて、泣いて。普通は逆だ。男の鈴が、女の飛鳥に胸を貸して、泣かせてあげるべきだろうに。思うけれど、涙は止まらない。止めようと思っても、止まらなかった。
「鈴くんはね、わたしを助けてくれたあの日から、わたしの正義の味方なんだよ」
みっともない自分を彼女は優しく抱きしめてくれる。包んでくれる。
「鈴くんは鈴くんのままで、いいんだよ」
自分は今のままでいいのだと、言ってくれる。
ぎゅっと抱きしめてくれる飛鳥が、何よりも暖かくて。もう、苦しまなくていいのだとわかって。改めて、辰人はいなくなったのだと実感して。嬉しくて、悲しくて。苦しくて。
優しく鈴を受け止める飛鳥は、何度も宥めるように、鈴の頭を撫でる。
ああ、自分は此処にいてもいいんだ。自分を認めてくれる人は、確かに此処にいるんだ。だから、自分は、生きていてもいいんだ……。
ありがとう。こんな俺を必要としてくれて、ありがとう。
「ありがとう……飛鳥……」
鈴の言葉は、涙にぬれて上手く言えている自信はなかったけれど、意図は伝わった。飛鳥は、うんと頷いた。
飛鳥に抱きしめられたままひとしきり泣いた鈴の前に、閉めていたはずの窓から一人の美女が現れた。其の名は桜花。金色の耳、金色の尾を持つ狐のような女だ。
「……ふむ、邪魔をしたかのう。」
飛鳥に抱きついている鈴をニヤニヤ眺めていた彼女は、加虐心を含んだ瞳を向ける。
急に恥ずかしくなって、鈴と飛鳥は思わず距離をとった。
鈴は涙を見せまいと、ごしごしと目じりに残る涙を袖でふき取る。飛鳥の服を見ると、自分の涙やら鼻水やらで濡れていて、非常に申し訳なく思う。
「それで、時神鈴。どうだ、戦いの覚悟はついたか。」
「……ああ。戦うべき敵がいることは身に染みてわかった。もし俺に力があるのなら、守れるものがあるのなら――」
辰人の死を嘆くでも、悔やむでもない。辰人の死は忘れていいものではないけれど、だからといっていつまでも死者に囚われ続けるわけにはいかないだろう。
前に進むしか、ないだろう。
ならばせめて、俺に力があるのなら、自分と同じように悲しむ誰かが現れないようにするべきだ。うじうじ悩むのは似合わない。考えることは後でいい。今はとにかく、前へと踏み出せばいい。俺はきっと、そうあるべきだから。
これで、いいんだよな。問いかけるように飛鳥をみると。
それでこそ、正義の味方だと。それでこそ、時神鈴であると。水無月飛鳥は、強く頷いた。
「必要とされる限り、俺はどんな敵とも戦おう」
☆
――み。
――――きがみ。
「時神、起きろよー」
「ぉはっ!」
バシンと分厚い教科書に叩かれて、時神鈴は目を覚ます。
「起きたか、時神」
うっすらと目をあけた鈴を、メガネをかけた若い男子教論が目を細めて見つめていた。
「あ、あの……柏崎先生、俺の顔に何か付いてます?」
柏崎智彦。現在進行している理科の授業を受け持つ教師であり、隣のクラス、二年二組の担任教師で、きりっとした表情からさわやかな印象を受ける好青年だ。
現在二四歳、独身だが、年上の彼女がいるらしい。教師としてはまだ駆け出しで至らないところも多いが、その若さと、さっぱりとした性格が生徒たちに好まれている。決して強く生徒を怒ることはしないが、その代わりに罰として反省文や掃除をさせるところも、さりげにポイントが高い。
鈴たちの担任である山本は無駄にくどくどと注意を促すため、それに比べれば時間の浪費を抑えられるからと生徒の多くは思っているようだ。
鈴も山本に何度か怒られたことはあるが、授業同様眠くなるわ、何度も同じことを繰り返し言うわ、突然自分の不幸話を始めるわ、結局何が言いたいのかわからないわで最悪だった。山本はその場その場で思ったことを口にするからか、内容が支離滅裂であることも珍しくない。
それに比べれば柏木の説教など軽いものだと怒られる覚悟を決める。
「なぁ、時神。お前、不登校から学校来れるようになったのは大きな進歩だと思うけどさ、寝てちゃ意味ねーだろ。せめて、人の話を聞く態度ぐらいはしっかりしろ」
「……あの、すみません」
「わかればいい」
覚悟を決めた鈴だったが、杞憂に終わった。
ニッと笑った柏崎は、ガシガシと、髪の毛がぐちゃぐちゃになるほど強く鈴の頭をなでた。
「親友を無くしたお前の精神的ダメージは、かなりデカいと思うよ。まだ若いのにさ。だけど、立ち上がる力をお前は持ってる。すげー事だよ」
「先生……」
「しかし現実は非常にも、俺の個人的な評価とお前の成績はまた別の話になるワケだ。この意味が分かるか」
「……ハイ」
「まぁ、アレだ。俺も含め、どの先生方も、お前の事を応援している。期待に沿えとは言えないが、頑張れよ」
「……はいっ、頑張ります!」
鈴の背中を軽く叩いた柏崎は、それ以上何もいうことはなかった。けれど、その背中を叩いた手に、彼なりのメッセージが込められていたと思う。
頑張れとか、応援してるとか、そんなありふれた言葉じゃなくて、もっとずっと暖かい、言葉にならないメッセージが。
「鈴くん、大丈夫?」
すべての授業が終わり、残すは帰りのSTを残すのみとなる。
机にぐったりと倒れ込む鈴の隣に、飛鳥がやってきた。
「……あぁ、ちゃんと授業中に寝たぜ」
「それ、学生としては大丈夫なんかじゃないよね……」
「けど、今はこれで精一杯なんだよな……」
まことに不甲斐ない話ではあるが。
「……そっか。わたしに手伝えることがあったら、いつでも言ってね。できるだけ力になるから」
飛鳥が言うと同時、ガラリと音を立てて担任の山本が教室の中へ入ってきた。
「席につけ、STをはじめるぞ、お前たち」
STは、いつもとは雰囲気が違っていた。
風間辰人という少年の席には、既に彼の姿は無く、代わりに花の添えられた瓶が静かに立っている。実際、授業中のクラスの雰囲気が変わったことを、ほとんど寝ていたとはいえ、鈴は感じていた。
朝も帰りも、号令を出すのは、級長であるアイツだった。授業も、いつも多くを発言する物知りなアイツがいたからこそ、面白可笑しく学べていたのだと思う。アイツの号令を聞けなくなったことで、違和感を感じた。アイツが何も話さないだけで、授業がいつになく静かに感じた。
たった一人の身近な人間がいなくなるだけで、こうも己の世界は変わるものなのか。
「ごめんな、辰人。助けてやれなくて……」
人間が一人いなくなっただけで、こんなにも鈴の世界は荒んでしまった。一人失っただけで、こんなにも鈴の日常はつまらないものになれ果てた。
だからこそ。だからこそ、もう二度と失わないと誓う。後悔しないように、伸ばされた手を掴めるように、鈴は必ず強くなる。もう一人の大切な人すらも失わないように。そして、遠い誰かにとっての大切な人を守れるように。
――俺は、強くなる。
いつも通り、担任の面白くもないトークが終わり、解散の声を教室内に伝えた。と同時、クラスメイトたちが散らばっていく。
部活だったり、また、帰宅だったり。
何人かは鈴に挨拶をして教室を去っていく。また、鈴も挨拶を返した。
このクラスに所属する生徒の多くは辰人の葬儀に出席しており、鈴と晴子と鈴のやり取りを目にしている。初めはやはりギクシャクしていたけれど、晴子が学校まで鈴に謝罪しに来たこともあってか、それとも鈴が単に拒絶していただけであったのか、また昔のような関係を取り戻しつつあった。
いつものように、飛鳥が鈴の席までやってくる。
「帰ろっか、鈴くん」
「ああ、そうだな」
鈴と飛鳥。そしてもう一人。本来であれば彼らの下校は三人である筈なのに、もう一人が彼ら二人に並ぶ姿はもう、見ることは叶わない。
学校の校舎をくぐり、ふと鈴は呟いた。
「なぁ、飛鳥。数年前からお前が一緒に帰らなくなったのって……」
その頃から、既に天児として特訓なりなんなりをしていたのだろう。
「そうだよ。鈴くんだけは巻き込まないようにって、強くなろうと思ったの」
ずっと、戦っていた。鈴たちが遊んでいる影で努力して、辛い思いをして、それでも戦っていたのか。
「……そうか」
どうして、気付いてやれなかったんだろう。気付くことができたら、もしか辰人は死ななかったかもしれないのに。――いや、今更悔いても仕方ないことだ。
「うん」
頷いた飛鳥は、
「……結果的には、最悪だったけどね」
最後、自虐するかのように言葉を吐き出した。
「あのさ、飛鳥」
まったく、こいつは。どうして……こんなに、ほっとけないんだろうな。
「なに?」
鈴と辰人は、無理矢理にでも事件解決に乗り出す。しかし飛鳥は、気付かないフリはするものの、頼られることがあれば全力で解決に乗り出す。
どうしてこの型が当たり前になったのか。それには大きな理由があった。
一人、抱え込む存在がいるからだ。一人、誰にも相談せず苦しんでいる存在がいるからだ。水無月飛鳥は、辛い時も、悲しい時も、苦しい時も、一人小さな部屋で誰にも見えないように膝を抱えているからだ。
だから鈴と辰人は、無理矢理にでも事件解決に乗り出すようになった。些細な表情の変化を、彼女から感じ取れる説明できないような違和感も、気付けるようになった。
「お前、そんなに考え込むなよ。自分のせいだからって、一人で抱え込むなよ。たまには、俺を頼ればいい。あまり頼りにならないかも知れないけどさ」
飛鳥の苦しみを少しでも減らそうと、鈴と辰人はそういう形を取らざるを得なかったのだ。
確かに飛鳥は、鈴が苦しいときに助けてくれる。手を差し伸べてくれる。鈴が学校に行けなくなったとき、助けてくれたのも飛鳥だ。けれど、苦しいのは本当に鈴だけだったのだろうか。抱きしめてもらって、「あなたは悪くない」と言って欲しかったのは、果たして鈴だけだったのだろうか。――違うだろう。きっと、飛鳥もそうなんだ。どころか、飛鳥の方が多く悩み、苦しんだだろう。
だったら、男として助けられてばかりじゃ居られない。
今まで、鈴の代わりに傷つきながら戦ってくれた。鈴が辛いとき、背中を支えてくれた。ならば今度は、鈴が飛鳥を守る番だ。鈴が飛鳥を支える番だ。他の誰にも、飛鳥を傷付けさせない。他の誰にも、飛鳥を悲しませない。
そう、あの日に――虐めをなくした日に、辰人と、誓ったのだから。
誰も、飛鳥の泣き顔なんて見たくない。だから頼む、そんなに一人で背負い込むな。
「自慢じゃないが、俺は喧嘩で負けたことはないからな」
それを聞いた飛鳥は、しばらくキョトンとしていたが、やがてくすりと笑った。
「ホントに、自慢にならないよ」
ああ、自慢にならない。喧嘩なんて、本当にロクなモノじゃない。けれど、今こうして飛鳥が笑ってくれた。辰人がいなくなってから、ロクに笑えなくなった飛鳥が、笑ってくれていた。
それだけだ。たったそれだけ。一人の女の子が笑っただけなのに、鈴は、なんだか無性に嬉しくなった。
「それだよ、それ。俺はそれが欲しかった」
思わず緩む頬を飛鳥には見せたくなくて、飛鳥の髪をわしわしと乱暴に撫でる。
「ちょっと、髪乱れちゃうからダメ!」
嫌がる飛鳥を無視して、鈴は更にぐちゃぐちゃになるように両手で髪をかき混ぜた。
しばらくは嫌がっていた飛鳥だったが、頭に置かれた鈴の手に自分の手を重ねると、「――と」小さく何かを呟いた。
「え、なんだって?」
「……ありがと。鈴くん、わたしを元気付けようとしてくれたんだよね。でも、その気持ちだけで、わたしはもう大丈夫だから」
「お前、俺を買いかぶりすぎ」
そんなにわかり易かったかな、俺。
自分の全部が見透かされてしまったようで、なんだか恥ずかしくなった鈴は歩く速度をあげた。
「いい忘れてたけどさ、飛鳥」
「ん、なぁに?」
「お前は結構いろんな顔するけどさ、やっぱ笑顔が一番似合う。俺は、そう思うよ」
なんだかんだいいつつ、鈴が守りたいのは、飛鳥の笑顔なのだ。
……なぁ、辰人。俺は生きていくよ。そんで、必ず守るから。お前の大切だったもの、守りたかったもの。お前の分まで、俺が必ず守り抜くから。
『おれたちは、最強のコンビだ』
『二人で守ろう、飛鳥を』
『まもろうぜ、あの笑顔を』
『ああ、愚問だ』
――なぜなら俺たちは、正義の味方なのだから。
龍神兄弟という最強のコンビは、あの日を境に砕けて消えた。それでも、この心にだけは、龍神兄弟の魂と呼べるべきものが、残っていると思うから。だからいつかの日の誓いだってきっと、少しだって色褪せてなんかいないんだよ。
三人でジジイやババアになって、子供や孫を見ることは叶わなくなっちまったけどさ。あの世でなら、きっと昔のことを語り合えるだろう。その時お前に殴られないよう、俺は、今俺にできる精一杯のことを、やるべきだと思ったんだ。