世界はお前に優しくない
これは、昔の話だ。
お母さんに言われて、自分の部屋でハンカチなどの小さな洗濯物をわたしは干していた。
干してくれと任されたのは、数枚のハンカチだけだったけれど、綺麗にしわを伸ばして、わたしは一生懸命干していた。「女は家事ができてなんぼ、今日から飛鳥も家事を手伝いなさい」と、3歳の誕生日の日に言われて、その言いつけを守るために初めて洗濯物を干していたのだ。
けれど、せっかく伸ばしたハンカチを、がっしりと握りしめた小さな手が現れた。
「よう、おまえが“あすか”か」
引っ越したばかりのわたしの家に、一人の男の子がやってきたのだ。
それも、二階のベランダからわたしの部屋に入ってきたものだから、初めは絵本かなにかで読んだ妖精が家に来たのかと思った。
「ぴーたー、ぱん?」
もしかしたら、わたしがいい子にしていたから、わたしを夢の国に連れて行ってくれる王子様が来たのだろうか。淡い期待を抱いたわたしの夢を、
「は? なんだそれ。そのパンうまいのか?」
彼はその一言で、粉々に打ち砕いてきたのをよく覚えている。
子供ながらにずうずうしかった彼は、ベランダの窓をくぐって、ずかずかと断りもなくレディーの部屋に土足で入り込み、靴を部屋の隅に放り投げてどすんとベッドに座った。
そのベッドは、お父さんが二歳の誕生日にと買ってくれたものだ。普段は両親に挟まれて川の字で寝ているので、まだ使ったことはなかった。お父さんがプレゼントしてくれた時に「いつか、好きな男の子ができたら、その日からこのベッドで寝るんだよ」と言われたから。
わたしのベッドなのに、なんで知らない子が、大切なベッドで寝てるんだろう。
それも、どうして土まみれの汚い足で、「うわー、やわらけー。ふかふかしてんじゃん」などとご満悦で転がっているのだろう。
おまえもいっしょにゴロゴロしよーぜ、と彼が満面の笑みで言ったときは、本気で殴ってやろうかと思った。けれど気が弱かったわたしは何もできず、ふてくされるだけだった。
「おれ“れい”っていうんだ。かんじはむずかしくてわかんねーけど、“すず”ってかくんだってさ。みんなをやさしーきもちにさせるのが“すず”とか、とーさんがいってた。かっこいーだろ」
わたし今すっごい嫌な気持ちだから、あなた“れい”じゃなくて“ゴキブリ”とかって名前に変わった方がいいよ、なんてことも考えたっけ。
そんなこんなで、彼との出会いは最悪だったのだ。
以来、彼は度々わたしの部屋へ遊びに来るようになった。
いつも窓から入ってくるので、窓を閉めた。すると窓を開けて入ってくる。
窓の鍵を閉めたら入ってこられないだろうと思って鍵を閉めると、今度は玄関から入ってくる。
部屋に入れたくないと鍵をかけていたのだけれど、お母さんも彼と共に部屋の前に立って、「仲良くしなさいね」なんて言うものだから、嫌なんて言えなかった。
外出すれば彼と顔を合わせずに済むんじゃないかと、お母さんにやたら外出をせがんだけれど、「鈴くんが家に来てくれるから、一緒に遊べるでしょ」と言って連れ出してくれなかった。
お母さんは、鈴くんのお母さんと仲が良くて、いつも楽しそうに話している。きっと、わたしが彼のこと嫌いだって気付いてないんだ。そう思って、思い切って打ち明けたこともある。
「よく言ってくれたわね。それでいいのよ、飛鳥。あんたはね、全部お腹に溜め込みすぎなの。まだまだ子供なのにそんなに溜め込んでたら、大人になった時バーンって風船みたいに爆発しちゃうわよ。だから、口に出しなさい。いい子にしてることだけが、正しいことじゃないのよ」
思い切って打ち明けたら、そう言われた。
いい子にしていることだけが正しいことじゃないという言葉の意味は分からなかったけど、言いたいことは言ってもいいんだと思った。
次に彼が家に来た時、相も変わらず『仮面ヤイバーごっこ』をわたしに強いてきたので、思い切って「わたしはままごとがしたいの!」と言った。その日は結局、「ままごととかダセーじゃん。仮面ヤイバーのがカッコいいし」などと文句を言って、彼はそのまま帰ってしまった。
けれど、次の日に彼が家に来た時、なぜか謝ってきた。おおかた母親に、「鈴が仮面ヤイバーごっこをやりたいのと同じぐらい、飛鳥ちゃんもままごとやりたいんだと思うよ。いつも怪人やってもらってるんだから、鈴もたまにはお父さんやってあげなさいよ」とでも言われたのだろう。
謝って、ままごとをやろうと言ってくれた。
「はい、あなた。ごはんですよ」
「おー、ありがとな。あすか」
「はい、めいちゃんにもごはんあげるねー。きょうはパパもいっしょだから、おいしいっていってるよ」
「……なー、あすか」
「ん、なあに?」
「やっぱ、仮面ヤイバーごっこのがたのしいよ。ままごとって、なんかひま」
「……」
「――けど、なんかいいな。仮面ヤイバーはいつもだれかないてるけど、ままごとはだれもなかないんだ。みんなわらってるの、いいな」
「……うんっ、れいくん!」
ちゃんと謝れて、ままごともしてくれる。ああ、いい人なのかなと思った。この日初めて、彼のことを“鈴くん”と呼んだことを、よく覚えている――。
☆
――。
――――。
「――ん」
彼女は、目を覚ます。
やがて、意識もはっきりとし始めて、何があったのかを思い出す。
そうだ、自分は鈴を助けるため、鵺と戦っていた。そこに殻人が現れて、それから……。
「目が覚めたか、水無月飛鳥。」
体を起こしてまず目に入ったのは、大きな布。どうやら自分はそこの布に包まれていたらしく、その布に優しく地面に下ろされた。
「ここはどこ? 鈴くんは? 鵺はどうなった? 殻人は?」
「そう焦るな、一度に質問されても困る。軽く深呼吸するといいぞ。」
声の言う通り、一度深呼吸して気持ちを落ち着かせようとするが、やはり不安になる感情を抑えられない。ここは何処か? どうでもいい。自分がどうなったとか、敵はどうなったとか、それも全部どうでもいい。
「鈴くんは?」
ただ、それだけは、確認しておきたかった。
「ん。あの小僧のことだな。ならば安心しろ。桜花が嚆矢さまの下へ連れて行ったぞ。」
「……そう、よかった……」
ならば、彼の身は大丈夫だと飛鳥は安堵した。
安堵したところで、「ん?」と疑問がよぎる。
「……ところで、あなたはどちら様?」
目の前に立っている、裾が膝まで届かないほど短い白い着物を身にまとい、天の羽衣を彷彿とさせる、宙に浮いた布を纏った、身長一三〇ほどのちんまりとした少女が、飛鳥の前には立っていた。
肌の色は白く、また髪も白い。長さはセミロングとでもいうのか、肩の辺りまで伸ばしており、眠たげな瞳と、身長相応の可愛らしい顔。そして、顔の左半分を隠すように付けられた、奇妙な狐面が特徴か。
飛鳥はそんな少女――むしろ幼女ともいえる彼女に問いかけた。
この布はおそらく、業天だ。天児であろうということはわかるのだが、飛鳥の知り合いにこれほど小さな天児はいない。もっとも、飛鳥の知り合いの天児といえば、桜花と嚆矢を除いて、他にいないような気もするが。
「衣か? 衣は、衣だ。そういえば初めましてだったな、水無月飛鳥。大日本帝国異常災害特別対策機関“天神”第一級災害直接殲滅活動部隊“金色夜叉”所属、衣だぞ。」
半分しか開かれていない瞳で、飛鳥の顔を下から覗き込みつつ、彼女は言う。
第一級災害直接殲滅活動部隊“金色夜叉”といえば、桜花と、もう一人の天児で構成された部隊だ。その桜花は“天神”の中でもかなりの実力を誇る戦闘向きの天児だが、彼女と同等であると噂されるほどの実力者が桜花のパートナーだと聞いていた。
まさか、こんな小さな子が、桜花に並ぶ実力者……?
いやいや、まさかそんなあり得ない。
「むぅ、先に桜花と知り合った者は、衣と会うと絶対同じ顔をする。なんだ、文句があるなら聞いてやるぞ。こう見えて、衣は桜花とほぼ同い年なんだからな。」
「桜花と同い年? うそぉ」
飛鳥が以前、桜花と話した時には、彼女は平安の生まれがどうたらと言っていた。記憶が正しければ、平安時代後期のことも知っていたように思う。もし同い年であるとするならば、彼女も軽く一〇〇〇年近く生きているということに――。
「なんだ、文句あるのか。」
「いや、文句はないんだけど、その……わたしのほうが年上なのかと思っていたから……」
「はぁ? そんなに衣は幼く見えるか。」
「正直、頑張っても小学生にしか見えないよ……」
「うそだろぉ!」
なんだかんだと会話していると、衣が「あ」と何かを思い出した。
「そういえば飛鳥、あの小僧……時神鈴とか言ったか。奴が天児ではないのではないか、という意見が出た。」
明らかに今の今まで続けていた会話よりも大事なことでしょ、と思いつつ、飛鳥はどういうことかと問う。
「うむ。どうやら、奴は業天を纏わずして、人の域を遥かに超えた力を発揮していたようなのだ。これはすなわち、天児ではない可能性が浮かんだということ。その結果、“天神”が割れた。割れた理由は、時神鈴を生かすか、否か。」
「……え?」
なにを、言っている。どうして彼が、生死を問われなければならない。
彼が、何をしたという。
開いた口が塞がらない飛鳥に気付かないまま、衣は続けた。
「もしもの話だが、飛鳥。お前には時神鈴の守護、及び監視をしてもらうことになるかもしれないぞ。」
――これは、一体。何の冗談だ。
「また、場合によっては――時神鈴を殺してもらうことになるぞ。」
わからない、彼女が何を言っているのかわからない。わかりたくない、知りたくない。どうして、そうなるの。彼は、わたしたちの味方になるんでしょう。なのにどうして、わたしたち天児に命を狙われなければならないの。
衣は細かく飛鳥に説明するが、今の飛鳥の耳には彼女の言葉は届かない。
悪い夢なら、早く覚めて。そう願わずにはいられなかった。
しかし願っても、彼女に突き付けられる現実は非常である。一週間後、飛鳥は、鈴の監視役を桜花より命じられることになった。
☆
「なぁ、辰人」
ああ、これは、いつのことだっただろう。
「どうした、鈴。なんかいつもと雰囲気違うぞ」
……思い出した、確か、小学校高学年の頃だ。ちょうど、飛鳥が学校に来れるようになったときのことだ。
「……俺、ちょっと行ってくるわ」
「ん、どこに?」
この時期、鈴と辰人はいつも一緒だった。登下校は飛鳥を含めた三人だったし、学校が終わると、辰人に塾や習い事などの用事がない日ならば、いつもどこかで遊んでいた。
そんな二人がトイレから戻った時、教室の外で飛鳥が数人の男子生徒に囲まれているのを鈴は見かけたのだ。
飛鳥はようやく学校に行けるようになり、クラスとも馴染んできた。だというのに、この馬鹿共は飛鳥を苛めることを止めない。ならば、やることは一つしかないだろう。
「……いや、愚問だったな」
飛鳥がいるのを見た辰人は、納得してニヤリと笑う。
「ぐもんって、なんだ?」
「愚かな問いってことだ」
「……どういうことだ?」
「なぁに、聞くまでもないってことさ」
「なるほどな」
そこから先、言葉は要らない。
「だらっしゃァアアアッ!」
廊下は走らない。そう書かれた張り紙の隣を爆走して、鈴は飛鳥を囲む男子生徒の中へ突入した。
「オーバァアーヘッドォオ・キィイーーーッックぅううぁああああああッッ!」
盛大にいじめの主犯格に突っ込んだ鈴は、思いっきり跳躍。そのままの勢いでドロップキックを、頭に向けて食らわせた。ああ、これほど見事な悪意あるドロップキックなどは、如何なるサッカーの試合でも見ることはできないだろうな、と思いつつ。
「ぱぶぁっ!」
蹴りつけると、彼は数秒間空を舞った後に廊下に倒れこんだ。倒れた後は、ぴくぴくと痙攣したまま動かない。
ハッ、ザマァねぇぜ軟弱者が。
もちろん、主犯格だけが悪いわけじゃない。他の者も同罪だ。
辰人が続く。
「よォし鈴、オレも続くぜッ! ミッドナイト・スライディング・フライトぉおおッ!」
わけのわからない技名を叫びつつ、辰人もまた、残るいじめっ子をスライディングで薙ぎ払う。運動神経抜群の鈴と比べれば、辰人のスライディングはまだまだ良心的だ。無様に転んだいじめっ子たちは床に頭を強打し、痛みに頭を抱えながら苦悶している程度である。
「あの、さすがにやりすぎじゃ……」
彼らから嫌がらせを受けていた飛鳥が、逆に申し訳なさそうにあたふたし始め、なにを思ったか、いじめっ子に「大丈夫?」などと心配し始めた時だ。
「何をしとるんだぁ時神! そして風間!」
飛鳥に対して行われていた虐めを知っていながらも、いじめっ子の親が市長であるために手出しできないという、無能のアラフォー担任。通称ハゲがやってきた。
いじめっ子の親は、俗にいうモンスターペアレントであるため、「鈴や辰人に罰を与えろ」と度々言われているらしいハゲは、いつも鈴と辰人だけを叱る。クラスの人気者を敵に回したハゲは、クラスの生徒たちから快く思われていなかった。当然、鈴と辰人からも。
――このクソハゲ無能教師が。てめぇが飛鳥を守らねぇから、俺たちが守ってるんだろうが。そのカツラ蹴り飛ばすぞ。
鈴はあと一歩ででかかった言葉を、なんとか飲み込む。
「何をしていたんだと聞いている!」
再度唾を飛ばして問いかけてきたので、二人は声をそろえて答えた。
「「サッカーです!」」
「人の頭を蹴りつけるような野蛮なスポーツを、サッカーとは呼ばん!」
「「サッカーです!」」
また、ある日。
「なァ、辰人」
「どうした、鈴」
「ぐもん、だろ?」
「あぁ、愚問だったな」
「だらっしゃァアアアーッッ!」
やはり鈴は、飛鳥を守るために廊下を爆走した。
続く辰人は、変わらず奇怪なセリフを述べながら鈴を追う。
「喰らえよ、鈴! これが呪われた血族……吸血鬼の生きる道! ドラゴンブレス・エクスプロージョン!」
「当たるかよォッ!」
鈴が辰人の拳を、完全に計算しつくしたタイミングで回避すると、虐めの主犯格の頭部に直撃する。
「ぱくぁっ!」
思い切りバランスを崩し、鈴の隣に転んだ。
あわあわと右往左往している飛鳥を尻目に、鈴と辰人は茶番を続けた。
「くらえよ、辰人! これが俺の力、吸血鬼狩りの力だっ! 振り回せ鉄槌!ギガント・トール・ハンマーッ!」
「え? 何すんだ! やめろおおお!」
がしりと主犯格の足を掴んだ鈴は、ジャイアントスイングで回りに立っていたいじめっ子を薙ぎ払い、飛鳥には当たらないようにと最新の注意を払って、振り回し続ける。
残りのいじめっ子たちは、無能のハゲを呼びに行くのだろうか、その場から走って逃げだした。
仲間に裏切られる惨めなやつめ。文字通り、このまま投げ捨ててやる。
「灰は灰に、塵は塵に……そしてゴミはゴミ箱に!」
ありったけの力を込めて、鈴は教室に向けて少しずつ進んでいく。
ゴミはゴミ箱に。その意図を察したのか、廊下を通りかかった男子生徒たちがニヤリと笑みを見せたのち、教室の扉を開いた。鈴の位置から、教室の入り口のすぐ左手に設置してある大きなゴミ箱が見えた。
「逝っとけやコラァアアアアアアアアアア!」
絶妙なタイミングで鈴はいじめっ子を放り投げ、見事ダストシュートする。
「時神! 風間! またお前たちか!」
「「テレビアニメ、ヴァンパイアハンター“ザキラ”ごっこです!」」
やってきた担任教師に何をしていたのかと問われる前に、鈴と辰人は答える。
「クラスの友達を振り回してゴミ箱に突っ込む野蛮な行為を、ごっことは言わん!」
友達だ? ふざけろ。喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「「ザキラごっこです!」」
「何度言えばわかるんだ、お前たちは! いつもいつも迷惑ばかり!」
……それはお前にとっての迷惑だろうが。だったらあんたは、何度言えば飛鳥を助けてくれるんだ。
「先生の身にもなってみろ」
お前こそ、飛鳥の身にもなってみろ。立場が上だからって、調子乗ってんじゃねぇ。
「先生はな、お前たちのことを思って……」
なにが「俺たちのため」だ、ふざけんなよハゲ。全部自分のためだろうが。
何度飛鳥が苛められていると申告しても、この教師は聞く耳を持たない、きっと気のせいだとか、被害妄想だとか、自分の都合のいいように総てを片付ける。結局、いじめっ子の親に目をつけられたくないからだ。
己を顧みずに他者を助けられるのが、正義の味方。だというなら、他者を顧みずに己の保守だけを考える者は、なんと呼ばれるべきなのだろうか。それがどうであれ、担任教師が自分たちの味方ではないのは明白だった。
だから、俺たちがやるしかないんだ。俺たちが、飛鳥を守るんだ。
「なぁ、鈴。俺たちが守っていこう。助けてくれない大人たちの代わりに、俺たちが飛鳥を助けていこう。だから、なぁ……俺に付いてきて、くれるか」
お前といつまでも、飛鳥を守っていけると思っていた。
「何言ってんだ。それこそ、ぐもん、ってやつだろ」
そう、俺たち龍神兄弟が、いつまでも守っていこうと誓った。
「……そうだな。愚問だったな」
親友と呼べるほど信頼できる彼と、鈴はこのとき約束した。互いに誓い合った。
俺たち二人で、飛鳥の笑顔を守っていこうと。
――だというのに。
『なにをやってんだテメェはァッ!』
なぁ辰人、どうしてお前がそんなところにいるんだ。
ほんの刹那が、永遠と思えるほど長い。ゆっくり、ゆっくりと、辰人の姿が巨大な口に呑み込まれていく。伸ばされた手を残して、大きな口の中に。その口の中はさながらトンネルのようでもあったが、トンネルというにはあまりにも暴虐的な形をしている。その犬歯はさながら、死神の大鎌。その舌はさながら、赤い血の池。その巨大な口はさながら、黄泉への扉。
俺は手を伸ばす。手を伸ばしても、届かない。辰人も手を伸ばしているのに、どうしても掴めない。走っても走っても辿り着けず、ほんの僅かな距離がどこまでも遠い。まるで、水平線だ。限りなく近い場所にいるのに、どう足掻いても辿り着くことはできない。己が進むだけ、辰人もまた離れているようだった。
助けるから。俺が助けるから。だからほら、手を伸ばせって。掴めたら、一気に引っ張る。そうすれば一緒に助かって、二人で逃げられるだろう。なんたって俺たちは龍神兄弟だ。俺らにできないことはない。
しかし無情にも、扉は閉じられる。
おい、待ってくれよ。俺が間に合わないわけ、ないだろ。辰人が■ぬわけ、ないだろ。だって俺が助けるんだ。助けるんだから、■ぬハズないんだ。助ける。今助ける。必ず助ける。もしもその手を離してしまっても、必ず再び掴んで見せる。
しかし、現実というものは非情であった。
バキバキと、骨を砕く音がした。グチャリと、肉が潰れる音がした。
伸ばしていたために扉に収まりきらなかったその腕は、死神の鎌によって引き裂かれ、ブチリと大きな音を立てて、鈴の後方へと血液をまき散らしながら飛んでいく。
バリバリ、バリバリ。
骨が砕かれる音を聞きながら、アスファルトに転がった腕を見た。
その腕は、つい先ほど鈴の命を救った腕だった。その腕は、今まで数多くの悪者を鈴と共に捕まえ、共に歩んできた者の腕。そして――共に飛鳥を虐めから救い、これからも飛鳥を救うと誓い合った腕だった。
「――う」
風間辰人の、腕だった。
「うぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!」
時神鈴は、涙を流して絶叫した。
怖いとか、苦しいとか、そういう感情は既に消え去った。
悲しいとか、悔しいとか、そういう感情も胸にはない。
ただ、失ってはならないものを失ったという喪失感だけは、強く胸に刻まれていた。
――。
――――。
「――ぁぁあああああああああっ!」
ハッと、彼は目を覚ます。
何か夢を見ていたような気がする。とてもとても、悲しい夢。けれど、どうにも思い出せない。思い出そうとするけれど、刻一刻と記憶が薄れてしまう。まるで、脳が思い出すことを拒んでいるかのようだった。
ぼんやりと重い瞼を開くと、
「目が覚めたかのう、時神鈴。」
何者か、女の声がする。そちらを鈴は見る。
金色の髪、金色の尾。そして綺麗な顔立ち。見とれるほどに完璧な美しさで、しかしどこか恐ろしい。不思議な雰囲気を纏う女が、寝かされていた鈴の隣に座っていた。
「……なんだ、桜花かよ」
また化け物が襲ってきたのかと思って、無駄に警戒して損をした。
「なんぞ、妾では不服であるというのか。男という生き物は、妾のような美少女に起こされることが夢であるとと聞いておったのだが、つくづく、汝は妾が苦手のように見える。アレか、汝は俗にいう『ほも』とかいうやつか。」
「ホモじゃねーよ」
言って、鈴が周りを見渡すと、得体の知れない場所にいた。てっきり自分の部屋の布団かどこかだと思っていただけに、驚いた。
此処には、かつて桜花に閉じ込められた結界というものとは違い、色がある。けれど、何かと問われると答えられないが、普通ではない気配が空気に満ちていた。
森、それとも山だろうか。
照り輝く太陽が空を照らし、緑の木々が風に揺られている。太い根が大地に張り巡らされ、その根の隣で鈴は寝かされていたらしい。
その場の空気はとても綺麗で、不思議と心が落ち着いた。
「……桜花、ここは?」
「此処は嚆矢様の作りだした特殊結界の内だ。この結界には並ならぬ治癒の力がある故、ここまで汝を運び込んだのよ。」
「嚆矢……?」
「我ら天児を束ねる組織を作った、偉大なお方だ。」
「組織って、なんだ」
「大日本帝国異常災害特別対策機関“天神”。明治時代、来るべき敵を迎え撃つために作られた組織よ。公には秘密とされているが、多くの人間と天児が属しておる。その組織が日々、この星を脅かす外敵と戦こうておるのだ。」
「ああ、なるほど」
初めて会ったとき、桜花は我らと戦ってほしいと言っていた。その“我ら”というのが、今言っていた、大日本帝国うんたら機関の天神、だとかいう組織なわけだ。
「俺をそこに入れたいわけか」
「然り。もっとも、本人の意思は尊重するつもりではあるがな。」
「俺がそこに入ったら、どうなるんだ」
「ふむ、そうさな……戦地へ駆り出され、死闘を繰り広げるだけであろうな。利点など、汝にはほぼ無いと言って良い。」
「そんなとこに入れようとしてるのか。驚きだな」
「されど、これは汝にしか成せぬこと。今の日本人は、自分だからこそできる仕事に就きたいという人間が多いと聞く。汝は、そうは思わぬのか。」
「……大方の人間は、平凡な仕事について、安定に満ちた生活を送りたい思ってるだろうけどな。俺もだけど」
将来のことなんて、考えたこともない。
ただ飛鳥がいて、辰人がいて、みんなで笑っていられる世界を――。
そこまで考えて、ピシリと、何かが割れた。
何かが、おかしい。
今は何月何日だ。どうしてこんなところで寝ている。どうして桜花が隣にいる。そもそも桜花は気付けば自分を結界の中へ閉じ込めているが、それにしても何かがおかしい。桜花がいつもと違うとういう意味ではなく、何か大切なことを自分は忘れているのではないだろうか――。
いくつもの疑問が頭を駆け巡り、鈴の記憶は混乱する。
みんなが、笑える世界。ああ、確かにそれは鈴の夢。けれどその夢に、決定的な何かが欠けたていたような気がした。
「なぁ、桜花――」
桜花は、鈴をこの場に運び込んだと言っていた。それは、この空間内に並ならぬ治癒能力があるからだ、とも言っていた。ならば、どうして鈴はその空間に運び込まれたのか。
「俺は、怪我をしてたのか」
鈴は、そう結論付けた。
それも、並ならぬ治癒が必要なほどの怪我を、したのではないだろうか。
鈴の疑問に、桜花は「はて。」と首を傾げる。
「なんだ、もしや忘れておるのか。」
「……何を?」
「汝、もうすぐで死ぬるところであったのだぞ。」
「――し?」
シ? シ。し。――死。
俺が、死にかけていた?
まさか。冗談か何かだろうと思い、鈴は「嘘だ。」と笑う桜花の悪戯な微笑を待つ。
けれど桜花の口は、いつまでも笑わない。
「どうやら、記憶が一部抜け落ちているようだな。時神鈴、汝は最後に何をしたと記憶しておるのだ。」
「最後? そうだな、俺は……」
鈴は、何があったのかと思い出す。
確か、辰人と猟奇事件の解決に乗り出した。それで、最初に第五地区に行った。結局その時はなにもわからなかったけれど、美月に、もうこの事件に関わるなと言われた。それから、辰人と喧嘩して。でも一人では危険だから、鈴は辰人を止めようと、学生通りの細道に走って、辰人を見つけて――。
「……」
鈴は、思い出した。思い出して、しまった。
辰人を追いかけ、怪人や化け物と遭遇し、足が動かなくなり、そして辰人が鈴を助けようとして――。
「思い出したか。」
焦点の定まらない瞳で、鈴は桜花を見る。
「俺、辰人が殺されるのを見てた……」
「……汝のみが悪いわけではないよ。あの場に汝らがいることを知らなんだ、我らの責もある。」
「違う、俺のせいなんだ。俺がそもそも、辰人に宇宙人の話なんてしなければ……」
「背負うのは悪いことではないが、背負い込みすぎるのは問題だ。まずは落ち着け。」
「けど、俺は……」
「……そうさな、ちょうど今、その者の葬儀が行われておる。……行ってみるか。」
「……」
辰人の葬式が行われている。
となれば、鈴は一体、どれだけの日にちを眠っていたのか。本来、葬式が、死後何日で行われるものかどうかは知らないが、それでも、数日は経過しているだろう。
「今、何日なんだ?」
「ふむ、現在における人の暦でいうならば、一〇月一九日といったところか。」
となると、鈴は約五日ほど寝ていたということになる。
行かなければ。鈴は唐突に、何かに急かされるように思った。
今すぐに確かめなければならない。あの夜の真実、敵の存在、――そして辰人の生死を。
「桜花、連れて行ってくれ。辰人の……」
葬式、という言葉を使えなかった。
どうにも辰人が死んだという意識が持てなかったからだ。否。もしか、鈴が認めたくなかっただけかもしれない。
「……辰人の、所へ」
この不思議な結界の世界同様、あの日の出来事はすべて夢だったのではないかという考えが、鈴の頭を離れない。ただ単に、認めたくないだけかもしれないけれど、それでも、信じられなかった。
身近な人間があれほど非日常的な死に方をしたのだから、無理もないことだろう。
「構わぬよ。」
桜花は鈴の手首を掴んで立ち上がると、金色の尾を一つ、くるくると回転させ始めた。
桜花の尾が描く円。その縁の中心から、景色が揺れ始めた。初めは空気に波紋が起こって視界の一部が揺れているだけだったが、やがてその波紋は別の景色を映し出す。
そこには大きな建物の内側が映り込んでいた。多くの人がいて、誰もが黒い服で。ああ、自分が想像する葬式とはまさしくこれだと思った。その景色がどこか、鈴は知らなかったが、なんとなく、葬儀場ではないかと直感する。
「さぁ、征くが良い。」
桜花は掴んだ鈴の手首を穴の中へ近づけた。
しかし踏みとどまった鈴は、穴の目の前で立ち止まる。
「行くって、この中に?」
この空間の隅にできた穴に、入れということだろうか。
「他に何処がある。時間はもうないぞ、征くが良い。」
とんとんと尻尾で鈴を押す桜花だが、鈴は無駄に優れたバランス感覚で、穴に入らないよう耐えている。
「……俺が、一人で行くのか?」
「戯け。何故妾が征かねばならぬ。」
いや確かに、桜花は辰人を知らないだろうし、葬式に出る義理はない。けれど、この得体の知れない穴の中に一人放り込まれるというのには、いささか抵抗がある。
渋る鈴に、「早よう征け。」とだけ言って、桜花は鈴を無理やり穴に押し込んだ。
「わ、ちょっ!」
――。
――――。
思わず瞑った瞳を、徐々に開いていった鈴は、信じられない光景を目にする。
鈴は、葬式の会場の中にいた。
そこは会場の中でも入口よりの場所で、すぐ後ろには大きな扉が、関係者以外は立ち入り禁止と述べているかのように、そびえ立っている。
鈴は後方にいるために、葬式に参加している人々のほとんどが見渡せた。
まるで、今の今まで桜花の言う特殊結界にいたことが夢のようだ。夢と現の堺があいまいになり、自分が今どこにいるのかもわからなくなりそうだった。
此処は、自分の中のイメージにあった葬式の通り、たくさんの人々が制服やらスーツやらに身を包んでおり、暗い空気を醸し出している。それを見ると、自分がいるこの場所は、本当に葬儀場なのだと感じさせられた。
五日前、偶然制服で家を飛び出していたこともあって、この場で浮いていなかったのが不幸中の幸いか。服に染みついていたはずの血痕も消えていた。
下を向いて歩く人々の多くは、見知った顔で、学校のクラスメイトも多くいる。
すでに葬式はほとんど終わっているようで、もう葬儀が終わろうとしているところだった。
「……辰人」
本当に、辰人は死んでしまったのか。
棺の前に飾られている、写真に閉じ込められた辰人の笑顔から、鈴は目が離せなかった。もうあの笑顔は見られない。もう喧嘩することも、共に飛鳥を守ることもできない。
これからは、ずっと一人なんだ。永遠の片割れ、それが自分。
ああ、今の自分は、一体どんな顔をしているのだろうか。
唯一無二の親友をなくし、悲しみに涙が潤んでいるのか。辰人を死なせてしまった自分の無力さに嘆き、悔しそうな顔をしているのか。それとも、死んだのが自分ではなかった事実に、安堵した表情を浮かべているのか――。
「……鈴くん?」
不意に、声をかけられた。
悪いことをしていたわけでもないのに、ドキリと心臓が飛び跳ねる。
誰だろう。恐る恐る振り返ってみると、そこには見慣れた幼馴染みの顔があった。
「ああ、飛鳥か……」
思わず、安堵のため息をついた。
「鈴くん、どうしてここに?」
「……え?」
どうして、此処に?
思えば、自分はしばらく姿を消していた。当然、飛鳥は俺が行方不明か何かだと思っていたのだろう。
「辰人の葬式だ。欠席するわけにもいかないだろ?」
「そうなんだけど……大丈夫?」
「……大丈夫って、何が」
「心と、体は……」
「……」
なにも、答えられなかった。
正直、今でも辰人の死が信じられない。すぐでも辰人が現れて、
『おいおい、みんな縁起でもないことしてんなよ。ほら、こうして俺は生きてるぜ?』
なんて言いながら、みんなを安心させる姿が目に見えるようだというのに。
鈴が何となく辰人の写真を眺めていた時だった。
「何をしに来たのよ、アンタは!」
ヒステリックな女性の声が聞えた。
その声は自分に向けられているようであったし、あまりにも場違いなモノであったために、鈴の心臓が再度跳ねた。
振り向くと、辰人の母親がそこにいた。
「今更どの面下げて、アンタは此処にいるのよ!」
辰人の母親――風間晴子は再び大声をあげて、鈴の胸倉を思い切り掴み上げ、後ろの壁へと鈴を押し付けた。
ざわざわと、人々の視線がこちらへ向けられる。だというのに、彼女の頭は完全に冷静さを欠いており、止まらない。
「あの、晴子おばさん……?」
何が何だかわからない鈴は、恐る恐る晴子にどうしたのかと問おうとした。けれど、鬼女の如く怒り狂う晴子にその声は届かない。
「どうしてあの日、辰人を止めなかったのよ!」
あの日……辰人が死んだ、あの日。どうして止めなかったのかといわれても、困る。俺は止めようとした。俺の制止を振り切って出かけたのは、辰人で……。
「俺は、辰人を止めました。なのに辰人は……」
「辰人のせいだっていうの? あの子は頭がいい。本当に危険なことには手を出さないはずよ。なのに辰人が、制止を振り切ってまで危険な場所に行ったっていうの?」
「……それは……」
それは多分、俺が怒らせたから。どうして怒ったのかは解らなかったけれど、俺が辰人の触れてほしくない部分に触れてしまったから。だから辰人は、冷静さを欠いてしまって、いつもみたいに、考えることができなくなって。
「ほら、何も言い返せない! アンタが悪いんじゃないの!」
ダンと、壁に肩を打ち付けられた。
「アンタが止めていたなら、あの子は死ななかったのよ……。どうして、あの子が死ななきゃいけないの? まだ若くて、頭がよくて、人望も……なのにどうして……」
泣き崩れた晴子は、鈴の制服を涙で汚した。
そして最後に、鈴に告げた。
「あなたが、辰人を殺したのよ……」
☆
「俺が、殺したんだ」
時神鈴の呟きは、暗く閉ざされた部屋に溶けていく。
時刻は昼だが、明るい太陽の光を見ることすら拒まれて、鈴は雨戸ごと窓とカーテンを閉めた。何も目にする気分にはなれず、灯りもつけないでいるから、部屋は暗い。暗い部屋の中で、時神鈴は自責の念に囚われていた。
生死というものは、さながら根引きである。
毎日、毎日、何者かによって、我々の生命という命の芽にねびきが行われ、その存在を審議され、必要か不必要か決定される。そして行われるふるいによって、死の宣告は唐突に訪れる。何者かの振ったふるいによって、我々の生死が左右され、運が悪ければ死ぬのである。
ああ、確かに残酷なことではあろうが、これもいわゆる天命だとか運命だとかいうモノの導いた、単なる一つの結果に過ぎない。そこに情は無く、慈悲もない。そのものにとって、その日が死すべき時だった。この世界に置いて、その生命のやるきことは終えた。ただ、それだけのことだ。
始まりがあれば終わりがある。誕生があれば最後がある。生があるのならば、やはり死がある。それは極々自然なことで、もはや自明と言うべき世界の真理。
そんなことはわかっている。けれど、死ぬことが当たり前などとはどうしても思えない。思いたくない。鈴は、自分を責めずには、いられない。
「俺が、辰人を……」
初めに辰人が現場に向かうと言ったとき、ヤケにならず、意地でも辰人を止められていたのなら。怪物が現れたとき、固まらずにちゃんと動けていたのなら。そうしたら、辰人はきっと、死ぬことはなかっただろうに。
もしも、こうなら。もしも、こうしていれば。無意味だとわかっていても、「もし」という仮定の考えが鈴の頭から離れない。
正義の味方であろうとした鈴。それなのに、結局周りの人達を心配させるだけで、結局、鈴自身は、なに一つできてはいないのだ。
それどころか、巻き込んで、不幸にしていただけだ。両親にしても、辰人にしても。
散々心配かけて、辰人を助けようと意気込んだはいいが、結局助けられたのは鈴だった。なんのために生きているのか、自分は。なんで生きているんだよ、自分は。
辰人の母親――晴子から言われた言葉が蘇る。
『アンタが止めていたなら、あの子は死ななかったのよ……』
鈴があの時、止められていたのなら、辰人は死ななかっただろう。
だから、自分のせいなんだ。全部全部、自分のせいなんだ。
――世界は、俺に優しくない。
どこかで聞いたことのある言葉を噛みしめて、鈴は暗闇を見つめた。
「俺が、辰人を殺したんだ」
覚悟はしていた。辰人をお前が殺したのだ、と言われる覚悟は。それなのに、どうしてこうまで、自分は苦しいのか。人の死というものを、自分は軽く考えていたのかもしれない。人の死を背負うのは、こんなにも、重い。