アストロメリア
「……問う。人は、醜い。人は、裏切る。何故貴様は、人のために命を懸ける。」
胸に大穴が空いた吽禍は、立ち上がることもないまま、眼前に立つ鈴に問いかけた。
「それがきっと、正義の味方だから」
ふらつきながら、なんなく、鈴は答えた。
「正義の味方など、都合のいいだけの存在だ。人は己の易しか考えぬ。誰も彼もを利用し、天を目指す醜い生き物だ。」
吽禍の言葉に、鈴は喉が詰まる。
「ああ、確かにな。この世には悪いヤツなんて腐るほどいる」
悲しげに、頷いた。
けれど優しく、告げる。
「でもさ、悪いだけじゃないだろう。悪いヤツにだって、大切にしたい人はいるんだ。守りたいものぐらいある。逆に、良いヤツにだって、嫌いな人はいる。だからきっと、本当の悪人なんていない。本当の善人なんてのも、いないんだよ」
光と闇。
善と悪。
相反する存在は、互いに存在しなければ、互いに成り立たない。
また、完全な白、完全な黒などというものも存在しない。人の心はさながら白と黒の勾玉、どちらにでも傾くものだ。
善人にだって、悪に走ることもある。
悪人だって、善行を行うこともある。
嫌な考えだって、浮かぶだろう。嫉妬に妬み、嫌な感情が胸に渦巻くこともあるだろう。けど、それは普通の事なんだ。世の中上手くいかないことばかりだから、上手くやってるヤツが羨ましく見えて、嫌な感情が浮かぶだけなんだ。
だけど、人はそれだけじゃない。
ただ悪いだけの存在なんて、きっといない。誰もがみんな、輝く何かを持っている。
人を思う心であったり、人を慈しむ心であったり。誰かを助けたいと思ったり、誰かに笑ってほしいと思ったり、誰かに幸せになってほしいと思ったり、誰かを幸せにしたいと思ったり。――自分が、幸せになれますようにと願ったり。
その気持ちにはきっと、守るべき価値がある。
「だから俺は、守るんだ」
辰人が死んだときに、考えた。
人は死んだとき、何もあの世へ持っていくことが出来ない。
ならば、どうしてこの世を生きるのか。
それはきっと、『心』を残すため。
誰かの心に、自分という存在を刻むため。
誰かを幸せにして、誰かの心に自分という存在を残すためだ。
「俺は」
時神鈴も、一人の人間だから。
憧れた生き方がある。なりたい自分がる。
それはきっとたくさんの人に迷惑や心配をかけるだろうし、望まれるだけの存在ではないだろう。それでも、残したいものがある。
人の心に残るような自分。
誰かのために生きられる自分。
「俺は――正義の味方に、なりたいから」
人の記憶に残りたい。人のために生きていたい。人に「キミに会えてよかった」と言って欲しい。つまりは――自分の存在価値を、誰かにに認められたいだけなのだ。
結局そんなエゴが、鈴の中に在る。
だけど、それでもいいと抱きしめてくれた人が、いたのだ。
水無月飛鳥が、誰かのために馬鹿になれる、そんな自分を好きでいてくれたのだ。
風間辰人が、誰かのために馬鹿になれる、そんな自分を好きでいてくれたのだ。
ならば、応えるしかないだろう。
きっとそれが、自分の生きる道。
時神鈴が、歩むべき道だから。
「みんなを幸せにするような、正義の味方になりたいんだ」
強く、鈴は言う。
吽禍は、「そうか。」と呟いて。
「ならば、己の道を歩めば良い。おれと同じ道を、辿れば良い。」
興味がなさそうに、天を見た。しかし、「いや」と鈴は否定する。
「俺は、お前と同じ道は歩まない」
「――なに。」
鈴の言葉に、耳を疑う。
「何回裏切られても、何百、何万、何億と裏切られても――俺は」
すべてを敵に回しても、弱きもののために。
それが仮面ヤイバーの示した最高の正義で、最高にカッコいい生き方だった。
――皆も、悪すら許せる心を持て。そして、悪にさえも優しくあれ。裏切られることはあるだろう。悲しくなるときもあるだろう。それでも、自分の道を正しいと信じて進むことが、人として最高にカッコいい生き方であるとは思わないか。
そんな道を。時神鈴が目指したものを。
――信じる道を、進めばいい。
時神蓮だって、認めてくれたのだ。だから。
「俺は、正義の味方で在り続けるよ」
言い切った鈴に、吽禍は笑った。
「――くく。」
笑って、笑って、笑って、笑った。
「くははははははははははははははははははははははッ。」
嘲っているのか。馬鹿にしているのか。
わからないけれど、次に吽禍が鈴に向けた視線は、もう笑っていなかった。
正義の味方を目指した少年がいた。
少年は、何より家族を大切にした。しかし大切な家族を、人の理不尽な裏切りに殺された。恨んだ。タタリを起こすほど、恨んだ。それでも、正義の味方であろうとした。弱きモノを救おうとした。
けれど、ダメだった。
裏切られた。何度も何度も裏切られた。信じられなくなった。人を信じられなくなった。己の正義を正しいと信じられなくなったのだ。
かつての少年は、鈴に告げる。
「後悔するぞ。」
その言葉には、どれほどの意味が込められていたのだろう。
どれほどの重みが、あったのだろう。
時神鈴には、よくわかる。
あの日あの時、あの公園で。世界の裏切りを受けた鈴には、少年の苦しみも、狂ってしまったその訳も、痛いほどよくわかる。
だけど。
それでも。
さながら親友に向けるかのような笑顔で、時神鈴は言うのだ。
「途中で諦めたお前には、言われたくないね」
しばらく、吽禍は何も言わなかった。
呆れているのだろうか。
けれど、その時神鈴の笑顔を見て。
「そうか。ならば、好きにするが良い。」
かつて家族に向けたような笑顔で、吽禍は言った。
その笑顔にはもう、恨みつらみなどは存在しなかった。
肉体は蟲のものではなく人のそれへと還り、数メートルもあった図体は鈴よりも少し大きな程度の少年の肉体となる。白かった髪は黒くなり、いつか存在した少年の姿となった。
憑き物が落ちた吽禍には、祟りを振りまく理由がなくなった。存在意義を失った肉体は、自然と消滅を始める。
さながら春先に溶ける雪のように、儚く、吽禍の肉体は解けていく。
吽禍が消える前に、鈴はしっかりと頷いた。
「ああ、好きにするさ」
その言葉を聞いてからか、吽禍の顔には安心が見えた気がした。
消えるその肉体に、寄り添う何かが見える。
初めは、幻か何かかと思った。けれど、違った。
吽禍と共に、どこか飛鳥に似た少女と、そして風間辰人がいるのだ。
――ありがとう。
飛鳥に似た少女が、告げる。
少女は、吽禍であった少年を連れ、天へと昇って行った。
「……辰人」
残るのは、時神鈴と、風間辰人。
「すまなかった」
助けられなくて、すまなかった。
鈴の言葉に、辰人は首を横に振った。
――なぁ、鈴。お前は前へ進め。俺の分も。
多くは語らなかった。
辰人はそれだけ言って、空へと昇って行った。
空には、まだ少女と少年がいた。辰人を待っていたのだろう。辰人が彼らに並ぶと、三人は共に空を昇っていく。
「おい辰人!」
待ってくれ。鈴は手を伸ばす。けれど、届かない。
空を駆ける力すら残されてはいない鈴には、追いかける手段がない。
このままでは、ダメだ。まだ、言いたいことがたくさんあるんだ。
だから、叫んだ。伝えられなかった言葉を、伝えるために。
「ありがとう!」
俺なんかと、仲良くしてくれた。
「辰人と、出会えてよかった!」
お前の日々は、俺にとってのかけがえのない幸福な日々になった。
「辰人と、親友になれてよかった!」
辰人との日々が、蘇る。
一緒に虐めを止めた。
一緒に人助けをした。
一緒に万引き犯を捕まえたりもした。
一緒に遊んで、一緒にバカやって、一緒に怒られて――。
ずっと、ずっと一緒にいたかった。ずっと遊んでいたかった。けれどそれはもう、叶わない。
「だから、だから――」
自分の夢はもう叶わないけれど、けれど、進んでいくから。
お前の分も、進んでいくから。
「ありがとう!」
何度言っても、言い足りない。
辰人と過ごした思い出。例えそれがどんなに小さなモノであったとしても、それはかけがえのない思い出だ。
無理やり知らないところに連れていかれたり、嫌なこともたくさんあった。けれど、それすらも今ではいい思い出になっている。
「本当に、ありがとう!」
宝物だ。
この思い出たちは、時神鈴の宝物だ。
風間辰人が残した『心』――時神鈴に刻んだものだ。
――俺の方こそ、ありがとう。
声が、届いた気がした。
風に乗って、風間辰人の声が時神鈴に届いた気がした。
やがて世界は、崩壊する。
吽禍の起こした地震によって死の惑星は崩壊し、黒かった空に、新しい朝が来る。
夜明けの光が、その星を優しく包み始めた。
☆
辰人の声を最後に聞いた鈴はその場で気絶し、駆けつけた飛鳥も安心で眠るように気絶。やってきた桜花と衣がどうしようかと迷った末に、衣の羽衣に二人仲良く包まれた。
その後、桜花が巨大な鉄扇によって封じていた『門』を鉄扇をどかしてこじ開け、アーヴァン、ハワード、オーガストと共に帰還した。
帰還した彼らには、盛大な祝福が待っていた。
ありがとう。
よくやった。
ありがとう。
大切なものを守るために戦った天児たちから礼を述べられ、大切なものを守るために祈った人間たちから賛美が贈られた。
吽禍は、倒れた。
正義の味方を志した少年はその日、世界を救った英雄となったのだ。
――ちゅんちゅん。
鳥が鳴く、いつもの朝。
ぼさぼさになった髪を手櫛でとかしつつ、少年は階段を降りる。
居間からは、やはり朝のニュースが流れていた。
「……おはよ」
ドアを開き、居間へ入ると、「おはよう」と声が返ってくる。
食事を準備する母親と、コーヒー片手に「苦い」と文句を垂れる父親の声だった。
「よう、鈴。結局泊まりはせずに帰ってきてたんだな」
コーヒーの入ったコップから口を離した父親、時神蓮が鈴に言う。
昨晩の吽禍との死闘のことは、二人には話していない。
友達の家に泊まるかもしれないと、飛鳥と共に外出したのだ。
「お帰り」
何気なく、蓮が言ったその言葉。
いつもの風景。そのはずなのに、当たり前という日々がとてつもなく脆いものに感じて、そしてこれが己の守ったもの、守るべきものなのだと思って。
幸福な日々を噛みしめて。
未来への憧れを胸に秘め。
「ただいま」
告げた鈴の声が、空気に溶けた。




