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時神鈴の夜

 肉が、抉れた。

 骨が、砕けた。

 体内の血液は沸騰。身体を構成していたモノは分裂。

 二つの拳が、大穴を空けた。

 ――死ぬのか。

 否。この身は既に一度死んでいる。ならば死ぬという表現は適切ではないか。

 消える、とでもいうべきか。

 蟲たちは死ぬ。細胞が死んでゆく。

 しかし、それにしても……ああ、つまらない生だった。

 人を殺した。人を憎んだ。虚栄欺瞞偽善で彩られた世界が、堪らなく醜かった。

 それを壊した。汚いものだから、壊した。

 悪意も善意もない。気に喰わなかったから、壊した。

 父を、母を、そして妹を殺したから、壊したのだ。

 父は死んだ後、どんな想いでいただろう。

 母は死んだ後、どんな思いでいただろう。

 妹は、どれほど苦しめられて死んだのだろう。

 惑星の記憶には、その総てが残っていた。

 父は、自分が死ぬことで家族を助けられるならと、死んでいった。

 お前が死ねば家族は助けるという約束の下、殴られ引きずられ、殺された。

 母は、自分がひどい目に合うことで家族を助けられるならと、死んでいった。

 汚い男たちに身を犯され、心を侵され、それでも家族のためにと恥を忍んで、殺された。

 妹は、家族を求めて死んでいった。

 熱い、冷たい、気持ちが悪い。嘆きながら目を潰され、大衆の眼前で、殺された。

 裏切った。

 やつらは、父と母を裏切った。

 父との約束を破り、母との約束を破り、それでも自分たちが正義であると言わんばかりに、笑った。笑って犯した。大切な家族を、踏みにじった。

 それは、違う。正義ではない。

 笑止、何がみんなのためだ。笑って殺すな。

 この世に神がいないのならば、おれが正義(かみ)になるまでだ。

 ――殺した。

 みんな殺した。

 動植物の悉くを破壊した。

 あのような穢れた世界は、この世に必要ないのだ。


 醜い世界を抜けたと思った。これから目に映るのは、美しい世界だけだと思っていた。

 違った。

 醜い。世界は醜い。人は醜い。

 自分のために他者を使う。自分の都合で殺し、踏みつけ、蜜を絞る。

 だから殺した。

 人の掲げるそれは正義ではない。虚栄欺瞞偽善の塊、悪なるものだ。

 この世界に醜いものは不要だ。殺すべし。

 

 醜い。醜い。醜い。

 この世は醜い。醜い汚物に満ち溢れている。

 裏切る。騙す。かつて受けた辱めを、弱者に与える。

 生きるために殺すのではない。生きるために喰らうのではない。

 己のために、快楽のために。私利私欲のために、奪うのだ。大切なものを、奪うのだ。

 殺した。殺した。みんな殺した。


 新しい国へ征く度、力を求めた者に救いを与えた。

 虐げられた弱者に武器を与え、奪われた者に力を与えた。

 正義のために行使されると思われたそれらを、最後は皆、私利私欲のために使った。

 また、裏切られた。

 どうして、私利私欲のためにしか動かない。

 どうして、かつての屈辱を他の者に与える。

 わからない。わからない。わからない。自分の家族ならば、決してそんなことをしないのに。


 ――疲れた。

 信じることに、疲れた。

 殺すことに、疲れた。

 裏切られるたび、自分の中の何かが摩耗していくのを感じた。

 摩耗した精神はやがて、人を信じることを止めた。逃げ惑う人々を殺すことに快楽を覚えるようになっていった。そしていつしか――狂っていった。

 狂わずには、いられなかった。

 幾度も裏切りを見た。幾度も闘争を見た。

 裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。裏切られた。

 悪のいない世界にしたいのに。皆が笑顔でいられる世界が欲しいのに。

 はびこる害蟲が、世界を悪に染めていく。

 平和な世界が欲しいと願ったかつての心は、やがて薄れてしまった。

 代わりに生まれたのは、醜いものを壊すという気持ち。そして、この世界に確かに存在した、最初で最後の愛を証明したいと願う心。


 勧善懲悪。善は勧めるべきもの。悪は懲らしめるもの。

 この世には懲らしめるべき悪しか存在しないのだから、この世を壊すしかないだろう。


 笑って壊した。

 笑わずには、壊せなかった。

 人が泣いた。人が苦しんだ。それでも、醜いものは残せない。穢れ一つ許せない。

 泣くのは止めた。悲しむのも止めた。孤独であったが故に狂いだす歯車。それに気付けないまま、壊し続けた。

 もう、殺し続けるだけの生に耐えられなかった。狂わずには、いられなかった。狂い笑うしか、なかった。

 愛が壊れた。お前らの愛など所詮そんなものと、笑う。

 友情が崩壊した。お前らの絆など所詮はそんなものだと、笑う。

 悪、悪、悪、悪、この世は悪に満ちている。

 自分のために、自分のために、自分のために。何もかもを自分のために。その本性が現れる瞬間、その者を殺す。殺して、笑う。

 ああ、人など所詮こんなものかと。

 とうに枯れ果てた涙を隠して、笑い狂う。

 故に、畜生。

 故に、外道。

 地獄の鬼より醜悪で、殺戮機械よりも残忍だ。この世の如何なる言葉を持ってしても表現しきれる言葉はなく、故に醜悪の災禍。どこまでも純粋に、どこまでも際限なく、人の愛が壊れゆく様を笑い貪る姿はさながら暴食の崇り。

 人畜無害という言葉の対象になり得る、万象有害とでもいうべき存在だ。

 崩れる友情、ヒビ入る愛。血に塗れた貴様らがこれまで築いてきた大切なものを自ら捨てるその様を、このおれの前で見せておくれよ。さぁ始めろ、塵屑同士喰らい合え。自ら愛を壊しておくれ。

 そして、この世に輝く愛はただ一つのみであると、証明しておくれ。


 ――――――。

 ――――――――――――。

 ――ああ。

 一つだけだ。この汚泥にまみれた世界に輝くのは、一つだけなのだ。

「垂れる蜜。」

 ――大切だったものがある。幸福だった時がある。

 それらは今では色褪せているけれど、けれど何より尊いものであったことを覚えている。

「舐める舌。」

 ――他の何にも代えられない、宝石だった。

「愉悦を満たしたその口は、次なる蜜を求めて他者を踏む。」

 ――狂ってしまった自分に残された、最後の記憶。

 道を開く父。微笑む母。そして妹。

「助けを乞うて伸ばした手を踏み、赤子を殺して親捨てる。」

 あの幸福な日々が、大切な絆こそが、他の何にも劣らない、宝であると。

 それを証明するのだ。今、此処に。

 ならば、ここでは終われない。偽善に覆われた総ての愛を破壊し、その醜き正体を晒すまでは。

「彼は仮面をかぶりて、天使の顔して人喰らう。嘲り笑って蜜啜る。」

 万象、輝くものは一つのみ。

 もし我が宝を超えるものがあるならば、それを壊そう。壊して、我が宝を至高としよう。

「其れは悪。人の皮を被りし害蟲よ。」

 例え歪んでいるとして、たとえ己の行為が悪であったとして。

 それでも、証明したいのだ。

「世を見よ世界は悪に満ち、人の心は穢れを零して地を染める。」

 彼らは、本当に素晴らしい人であったと。

「故に天罰、此処に下さん。」

 胸を張って誇れる、最高の家族であったと――。

「穢れた世界に粛清を。無法の世界に審判を。――地震津崇(ハメツノタタリ)。」

 静かに大地に触れた吽禍、その指先が与えた並ならぬ振動はすなわち――地震だ。

 これこそ、吽禍がこれまで文明ごと人を破滅させるほどの力を秘めた最強の事象。万象を喰らう破壊の牙。

 揺れる。揺れる。世界が揺れる。

 大地が崩れ、地が裂け、海は割れて空は黒ずんだ。

退()くぞ鈴!」

 吽禍の起こした地震に恐怖を覚えた辰人は吽禍の肉体から腕を引き抜き、鈴の襟首を掴んで吽禍から離れる。

 吽禍の胸には、大きな穴が二つ空いている。

 その穴からは多くの蟲が零れだし、落ちていく。

 吽禍は、零れる命に目もくれない。ただゆらりと幽鬼のように身体を揺らし、赤い複眼でこちらを見る。

 肉体はより蟲のような甲殻に覆われ、その顔の半分はもはや人のそれではない。

 恐ろしいと、思った。

 吽禍は強い。そして吽禍は残酷だ。もともとそういうタタリだったし、それを知って尚吽禍に立ち向かったのは鈴と辰人だ。

 なのに、怖い。目の前の化け物が、どうしようもなく怖い。

 力が強いとか、痛い目に合わされるとか、そんな稚拙な恐怖ではなかった。何が恐ろしいのか、自分自身に問いかけても答えは出ない。けれど、恐ろしいのだ。

 それは、人が暗闇に恐怖を抱くのと同じもの。

 理由は分からない。けれど、怖い。

 ただ、怖い。

「おい辰人、なんだアレは……」

 蟲が零れる。命が零れる。

 確かに一瞬毎に吽禍の命は削れているハズなのに、なのに一瞬毎に吽禍への恐怖が高まっていく。その力が、増していく。

 ソレは悪意のためか。はたまた殺意のためか。もしか、得体の知れない宇宙物質のためか……。

 いずれにせよ、吽禍は目に見えて力を増していた。

「俺に聞くな、俺にもわからん……」

 なんだ、あれは。

 そう言うしかなくて。答えなど出なくて。

 故に――恐ろしいという他ない。

「サネモリさんのお通りじゃ、サネモリさんはどこへ行く。西の国の果てまで。」

 吽禍が、歌う。

「サネモリさんのお通りじゃ、先除さきのけ先除け、先下がれ。」

 不気味に、唄う。

「サネモリさんや、どんと西の国へ行く。サネモリおっとんとん。稲の虫さろうて、米ばっかり残して、さんてこ、めんてこ、うってんとう、稲の虫や、ひっしゃいだ。」

 一歩。

 一歩。

 吽禍が足を進める度に、大地が沈む。

 この空間が、惑星が――崩壊を始めた。

 どうやら、吽禍の大地震が惑星本体を崩壊させたらしい。

「泣けよ叫べよ。この世に、悪は栄えぬ。」

 刹那――。

 吽禍の姿が、掻き消えた。

 即座に視線を振り舞わず鈴と辰人だったが、その姿はない。

 どこだ、どこだ――。

 吽禍の姿が見つからず焦りばかり募る中、突如鈴の眼前に吽禍が現れた。

 逃げろ、鈴。

 辰人が叫ぶ間もないまま、吽禍の拳が鈴の顔面に食い込んだ。

 鈴の声は上がらない。

 代わり、メキメキという骨が軋む音、そして爆音。

 時神鈴の肉体が吹き飛び、遥か遠くの氷山へと突っ込んだ。

「おい、鈴……」

 頭からは血を流し、鈴は動かない。閉じられた目は、開かない。

「冗談、だろ?」

「次は、お前だ。」告げる吽禍の声も耳に入らず、辰人はただ時神鈴を見ていた。

 白銀の業天『白煌』は赤い血に濡れ、氷山に張り付けられたその様はさながら、公開処刑された罪人だ。

 彼はただ、己の大切なものを守ろうと戦った。正義の味方として、戦った。

 それが、死んでいいはずがない。それが、報われないハズがない。

「嘘だと、言ってくれ……」

 ただ一人の親友を、みすみす目の前で死なせたなんて――。

 辰人がわなわなと震えた時に、鈴の目蓋がピクリと動いた。

 生きている。まだ、生きている。ならば、死なせるものか。絶対に、死なせるものか。

「さらばだ。」

 眼前で呟いた吽禍に向き直り、辰人は渾身の拳を振う。

 顔に当たった。しかし、今度の攻撃は通じなかった。

 まるで意に介さない吽禍は、塵でも払うかのように腕で辰人を薙ぎ払う。

 咄嗟に後方へ下がった辰人だったが、その風圧、その威力は圧倒的すぎた。

 何が吽禍をここまで強くしたのかと、辰人は後退しつつ考える。

 そも、鈴や辰人の拳が届いたのは、嚆矢が吽禍に矛盾を指摘し、吽禍がその矛盾に己の存在意義を見失っていたからだ。

 しかし先の瞬牙散によって肉体に大打撃を与えられた吽禍は、正常な思考を保てなくなった。その結果、胸に残ったのは殺戮の記憶でもなんでもなく、かつて存在した幸福な日々。そして、それを守りたいと願う絶対の意志。

 今の吽禍に、矛盾はない。

「瞬牙散で倒しきれなかったことが、裏目に出たか……」

 吽禍には、己の総てを犠牲にしてでも譲れないものがある。

 ならば、自分には?

「――ある。守りたい約束がある。助けたい人がいる」

 ルゥとの約束がある。

 飛鳥との約束がある。

 助けたい、人がいるんだ。

 迫る吽禍の拳が、辰人の頭上を通過した。

 身をかがめた辰人の眼前には、吽禍の膝。膝蹴りを避けようと状態を起こすと、膝から飛び出した蟲が辰人の顔面に喰らいつかんと飛来する。

 蟲を弾けば、今度は吽禍の胸から巨大な角が突き出した。

 避けようと横へ跳ぼうとするも、判断が追いつかない。否。辰人の判断は完璧だった。判断が追いつかなかったのではなく、そもそもの速度が圧倒的に違うのだ。今のは、避けられない一撃だった。

 それでも。

 それでも――。

「俺にだってなァ……譲れないモンがあるんだよ!」

 肉体を削られることを覚悟で飛び込んだ辰人は、数本のあばら、そして肉を犠牲に一歩踏み出し、吽禍の顔面を叩く。

 やはり、効かない。先の傷によって、吐血した。だが止めない。

「助けてくれって言われたんだよ! 助けるって約束したんだよ! だったら、助けるしかないだろうが!」

 鈴を、助けたい。死なせたくない。

 例え何十年と会えなくなっても、それでも構わない。飛鳥が悲しむ顔だけは、見たくないから。

 吽禍を、助けたい。その呪縛から、解き放ってやりたい。

 ルゥが待っている。お前が地獄の苦しみから解放されるその時を、待っている。吽禍を救う術が倒すことしかないのなら、倒すだけだ。

 しかし辰人はなによりも、認めたくなかった。

 正義の味方が行き着く先が、吽禍のような未来だということを。

 時神鈴の目指したものの成れの果てが、眼前の殺戮機械であるということを。

 正義の味方は、正義の味方だ。自分が憧れた存在が、自分の目指した存在が、最後は皆お前のようになるなんて認めない。救ってやる、必ず。助けてやる、必ず。

 そして、証明するのだ。

 そして、示すのだ。

 最高にかっこいい、正義の味方という存在を。

 決して諦めない、最後には誰も彼もを幸せにしてしまうような最高の主人公を。

 だって、悲劇の主人公を助けるのは、いつも正義の味方だって相場が決まっているんだから。

「だから俺だって、譲れない!」

 辰人の考える、自分がなりたい自分とは、時神鈴のような自分だ。

 どれだけ焦がれたところで、人は人で、己は己。それは結局変わらないから、自分が変わるしかない。羨ましいのなら、本気で自分を変えたいと思うなら、努力をするしかない。自分を変えようと歯を食いしばって変わるしかない。人間には、それしか自分を変える術がないんだから。

 だから辰人はここで、努力をする。歯を食いしばる。

 自分を変えるべきは、きっと今だから。

 そして時神鈴ならばきっと、どんな状況でも吽禍を助けようとするだろう。だから、助ける。今助ける。必ず助ける。

 諦めるには、まだ早いのだから――。

「おおおおおおおおおおおおおおおッ!」

 全身全霊、渾身で振るった辰人の拳は。

「譲れないから、なんだ。」

 吽禍に届くことは、なかった。

「――ごはッ」

 吽禍の胸から突き出した角は、情けも容赦もなく、ただ殺戮機械が如く無情に。

 風間辰人の肉体を、貫いた。

 届かなかった。

 変わろうと歯を食いしばった。けれど、届かなかった。

 ゴプリ。

 口から溢れた血を拭うこともできず、辰人は吽禍の手によって空へと投げ出された。

「ああ……」

 自分は、変われたのだろうか。

 薄れていく景色の中、かつての記憶が、蘇る。

 あの日、あの時、あの公園で。

 惚れた女の子が、泣いていた。

 多くの子供たちに囲まれ、泣いていた。

 殴られ蹴られ、泣いていた。

 何も、できなかった。見ているだけで、なにもしなかった。

 自分には何もない。勇気とか、正義感とか、人として大切な何かがきっと欠けている。現に、辰人は暴力を振るわれる女の子を見てもなにもできなかったのだから。

 ああ、正直ビビっていた。

 ビビって、何もできなかった。ただ黙って、静かに涙する女の子を見ているしかなかった。好きな女の子は誰より辛い立場にあったハズなのに、あの場で女の子を庇う勇気がなくて。情けない自分は、握った拳を震わせてるだけだった。

 怖い。嫌だ。見たくない。逃げ出したい――。

『どんな時でも友達を助けられるのが、正義の味方だから』

 誰かが、言った。

 こいつ、なに馬鹿なこと言ってんだって思った。お前、怖くないのかって思った。

 相手はクラスのほぼ全員だ、勝てるわけがない。

 けれど、その誰かは恐れなかった。

 女の子の為に歯を食いしばって、一人でクラス全員にに喧嘩を売った。

 敵わないと思った。どんだけ強い心持ってんだよと思った。お前、友達の為にどこまでバカになれるんだよと思った。

 同時、自分がとても薄情な人間なのだと知った。

 惚れた女の子一人ぐらい守れると思ったのに、保守のために好きな女の子を生贄に捧げた自分が、堪らなく嫌になった。

 周りに流されるなんて、誰にだってできる。けれど、その場から浮くことがわかっていながら、大切なものの為にその流れに逆らっていける人間が、心底羨ましいと辰人は思ったのだ。

 だから辰人は、憧れた。

 その誰かのように、強くなりたいと思った。

 正義の味方になりたいと、思ったのだ。

「なぁ……」

 どさりと、氷山を崩して辰人は落ちた。

 そんな辰人に、ふらふらと駆け寄る、誰かがいた。

 ようやく動けるようになったのだろう。時神鈴が、涙を流して辰人の身体を抱き起した。

「なぁ、鈴……」

 泣きながら、鈴は何かを言っている。

 声は聞こえない。触角も嗅覚も味覚も聴覚も既に無く。

 残る視界だけが、鈴の意図をくみ取る最後の感覚だった。

 泣いている鈴に、辰人は微笑んだ。

 バカ野郎。敵が目の前にいるんだぞ。戦場で敵を無視して泣く奴があるか。

 けれど、そんな想いすらもどうでもよくなって。

「おれ、は……変われ……た、かな……」

 なりたい自分に、なれたかな。努力、できたかな。

 少しでもお前に、近付けたかな。

 問いかけると、鈴は、また泣いた。

 泣いて、泣いて、けれど口は確かに、「ああ、お前は変われたよ」と、しきりに叫んでいるような気がした。

 それなら、よかった。

 お前がそういってくれるなら、きっと俺は変われたんだな。

 辰人は、何故か笑った。

 身体は壊れる寸前だ。胸に穴が開いて、呼吸する度に死に近づいていることが分かるほど。

 それでも、最後に一言、まだ言える。

 何を伝えるかと、辰人は迷う。

 みんなに『ありがとう』、だろうか。

 それともルゥや飛鳥に、『ごめん』だろうか。

 いや、どれも違うな。今の自分が告げるのは、そんなことじゃない。

「れ、い……」

 伝えたい言葉はたくさんある。『ありがとう』や『ごめん』なんて、何度言っても足りやしない。

 だから、本当に一つだけ。

「う……か、たすけ、ってくれ……」

 助けてやってくれ。

 人を信じられず、人に裏切られ続けて狂ってしまった、可哀相な正義の味方。そいつを、助けてやってくれ。そいつに、見せてやってくれ。

 お前の正義。お前の救い。

 吽禍を、助けてやってくれ。

 辰人は、最後にそう言った。

 最後に、笑った。

 くたりと力なく、そして――死んだ。

 笑って、死んだ。

「ばっか、野郎ォ……」

 死んだ。

 目の前で、失った。

 それも、三度も。

 親友が死んだ。死んだ。助けられなかった。この手が届かなかった。

 もう、風間辰人が蘇ることはない。鈴は、何故かそう感じた。

 泣きたかった。泣き叫びたかった。

 自分の無力に。自分の不甲斐なさに。

 けれど、堪えて。

 ああ、わかったと心で頷いた。

 お前の最後の願い。これで二度目になるけれど、死の間際に願ったその祈り。叶えてやるよ、この俺が。

 吽禍の過去は、既に見た。酷いと思う。可哀相だとも思う。だけど、だからといってコイツを見逃すわけにはいかないし、結局のところ、吽禍の死こそが、吽禍にとっての救いになるのだろう。恨みつらみなどの負の感情を糧に生まれたタタリ神に、幸福などないのだから。ならば、すべきことはただ一つ。

 此処に、目的と彼の祈りが重なった。

 彼の目的――『助ける』こと。

 彼の祈り――『助けたい』と願う救いの手。

 であれば――。

「おーけー」

 涙がにじんだ声で立ち上がり。

「俺は、吽禍を助けよう」

 そう、小さな声で在りながらも、強く、強く告げた。

 それは、辰人に向けてか。姿が見えない、少女に向けてか。もしか、己の決意を固めるためか。――いずれでも構わない。

 なぁ。力を貸してくれ、神。お前の力が必要だ。

 助ける。今助ける。必ず助ける。

 目覚める。

 大切なものを救えない。其の業が繰り返されるとき、再び此処に『彼』は完全に目を覚ます。

『千年もの時を超え、また奪われるか。』

 奪われたものは、取り戻せない。だったら、お前はどうする。

 鈴の問いに、神は答えた。

『無論、次を失わぬためにこの手を伸ばす。』

 ああ、その通りだ。だから寄越せよ、その力。これまでの力じゃ、足りない。勝てないんだ。更なる力を、俺にくれ。

『其は、何が為に。』

 愚問だろ。助けるためだ。

 ああ、助けるためだ。

 二度と目の前で大切な人を失わないために。そして、目の前に立つタタリ神――敵すらもを、呪われた呪縛から助けるために。

『ならば、良し。』

 神の声が鈴の頭に響くと同時、鈴の全身に銀の光が走り、業天『白煌』に埋め込まれた水晶が白銀に輝きを放つ。

 鈴が閉じた瞳を開くと、その瞳には奇妙な紋章が刻まれていた。

『此の力で、救えるものがあるならば救うが良い。』

 神が言い終えると同時、鈴は祝詞を紡ぎ出す。

――天地(あめつち)に来ゆらかすはさゆらかす。

 なぁ、辰人。

――神わがも神こそは()ね聞こゆ来ゆらかす。

 やっぱお前、すげぇヤツだよ。

――皇神(すめがみ)のよさし給へる大尊(おおみこと)、踏み行くことぞ、神ながらなる。

 なんで死の間際に、他人の心配ができるんだよ。なんで死ぬときに、自分を殺した奴を助けてやってくれ、なんて言えるんだよ。

――寄り返し打ち返す波は凪ゆき、(わた)()も静けし。

 絶対お前、おかしいよ。

 頭、どうかしてる。

――ひとふたみよ。

 だけど、カッコいいよ。お前の生き方、最高にカッコいいよ。

――いつむななや、ここのたり。

 お前、俺に「変われたかな」って聞いたよな。

 そんなの、聞く必要ないぐらい、お前はきっとなりたい自分になってるよ。

――ふるべ。

 それでも、もしお前の手が届かなかったなら、俺が繋ぐから。お前が成せなかったことを、俺が引き継ぐから。

――ゆらゆらと、ふるべ。

 だって俺たちは龍神兄弟。二人いたら、出来ないことなんて何もないハズなんだ。

 だから。だから――。

――特殊結界『鎮魂』。

 だからお前は、もう休め。

 お前の意志も、お前のやるべきことも、俺が繋いでいく。お前の親友で、片割れであるこの俺が。

「待たせたな、吽禍」

 全部、全部、助けるから。

「――む。」

 異変に、吽禍が気付く。

 夜が、訪れた。

 皆が寝静まる夜、闇のはびこる魔の時間、誰もが知らぬその時の中で、彼は総ての悪を滅ぼすだろう。心配は無用だ。誰にも傷はつけさせない、指一本たりとも触れさせない。彼が総てを守るから、だから皆は気にするな。これはただの悪夢だ、些細な夢だ。目が覚めれば総てを忘れるだろうから、今はどうか眠っておくれ。皆が目を覚ます前に悪夢は終わる。彼が総てを終わらせる。

 明けない夜は、ないのだから。

 すなわち――。

 これより始まるそれは、悪しきモノがはびこる、悪夢の夜。

 これより始まるそれは、悪しきモノを零に返す、終焉の夜。

 これより始まるそれは、悪しきモノの存在せぬ世界が始まる夜明け前。

 これより始まるそれは、悪しきモノを葬り去らんとする彼が創り出した、彼の夜。

「さぁ、始めようか――」

 グッと突き出された右拳。

「――時神鈴の夜を」

 彼の業天『白煌』に埋め込まれた水晶が、白銀に煌めいた。

 瞬間、時神鈴は加速した。

 この世界に時間という概念はない。

 にもかかわらず、時神鈴は加速した。

「――ッ。」

 吽禍が、鈴を見失う。

 刹那、顎に衝撃。

「おらぁああああああああああああああああああッ!」

 吽禍の顔が意図せぬところで上を向き、脳と首に並ならない負荷がかかった。どうやら下顎を蹴り上げられたらしかった。

 しかし、耐えられないほどではない。

 即座に鈴に視線を向けようとした吽禍だったが、再び鈴の姿が消えた。

 振るった爪が、空を切る。

 次は後方。

 背中に衝撃。

 しかし姿は視認した瞬間に消えた。

 次、左。

 次、右。

 衝撃、衝撃、衝撃、衝撃、衝撃――。

 何度も何度も何度も何度も、追えない。時神鈴の姿が追えない。己の爪が届かない。

 この神の世界において、もっとも重要なのはその精神。多くの概念を超越した天の国には、人の知る概念など通用しない。

 ただ、大地がある。ただ、海がある。氷山があり、砂漠があり、荒廃した土地がある。

 距離という概念がない故に、精神の距離、強さ、方向性が実態を持ち、そして人の知る概念を形作る。例えば時であったり、空間であったり。

 故に、精神一つでその強弱が大きく左右される。

 吽禍は時神鈴とは比べものにならないほどの――単体でタタリ神へと至るほど強い精神を持った存在だ。なのに、どうして鈴の姿が追えないのか。どうして、鈴に追いつけないのか。

「簡単なことだ――」

 吽禍への攻撃の手が休まぬまま、鈴が言った。

「概念がないのなら、その概念を創ればいい!」

 最後に一発、鈴の拳が吽禍の顔面を捉え、その肉体が大地に転がった。

 転がった吽禍は、久々に痛みを感じた。

 心の痛みではない、肉体の痛み。これは、ああ――さながら千年前にこの星で味わったものでは無いだろうか。

「なるほど、なるほど。」

 倒れたまま、吽禍は楽しげに頷いた。

「この世界(じげん)に己の知る新たな概念を創る、か。確かにそれならば、貴様の速度を殺さずに済む。」

 概念を創りだす。

 ――そも、神とは何か。

 万能の存在か。

 人の願いを叶える便利屋か。

 否、神は創造主。世界の創造主。故に。

 概念の創造は、神にとっては容易いモノだ。

 そして時神鈴が内に宿す神は、世を創造した偉大な一柱の神である。

 であるならば、時間という概念をこの場に創り出すことに、なんの疑問があろうか。

「面白いことを考えたものだ。そうでなければ張り合いがない。」

 起き上がった吽禍は、圧倒的不利な状況下で尚、笑う。

「が。貴様の土俵が速度であるように、おれの土俵は距離にある。」

 突如、吽禍の腹部がはれ上がり、幾つもの針が四方へと飛び出した。

「――くッ」

 迫る無数の針を、時神鈴は避ける。右へ、左へ、後方へ。

 避ける、避ける。鈴は地を蹴り空を蹴り、空を縦横無尽に駆けて針を避けていく。

 速度は遅い。どれだけ強力な一撃だろうと、当たることが無ければ意味はない。しかし、しかし――。

「これ全部、避けられるワケねぇだろ……!」

 その数、実に数万。

 細かい針が、次々と鈴を襲う。否、鈴だけではない。

 鈴の行き場を奪うため、四方八方へと針が飛び出し、時神鈴を引き裂かんと喰らいつく。

 避ける。拳で逸らす。後方へ下がる。

 しかし避けても避けても、らちが明かない。

 ならばと、鈴は針の一本に手を伸ばす。掴もうと試みるが、針から更に無数の針が飛び出した。

 掴めば、あの針に腕が貫かれる。

 であれば、仕方ない。

「ちっとばかし疲れるが、そうも言っていられない状況だもんな――」

 鈴に遠距離攻撃手段はない。近づいて、殴ることしかできない。故に遠距離戦は不利でしかなく、これ以上距離をとっては此方の攻撃が当てられない。

 ならば、如何にこの針を回避するかだが。

 鈴は、眼前の空間――おおよそ一メートル平方の時を遅延化、凍結させた。

 グッと、拳を握る。

「行ってこいッ!」

 そして、凍結させた空間そのものを殴りつけた。

 すると空気の壁ともいえるものが吽禍の針へと迫り、動きを止める。

 この空気の壁は一瞬しか効果はない。その隙を縫い、鈴は空を駆けた。

 駆けて駆けて吽禍へ迫り――。

「もう一丁ァッ!」

 再度、殴る。

 吹き飛ぶ吽禍に、今度は隙を与えない。

 二撃、三撃、四撃、五撃――。

 鈴は神速で次々拳を吽禍の肉体へと叩き込む。

 しかし七撃目を与えようとしたところで、吽禍の手が鈴の拳を掴んだ。

「これ以上は、させぬ。」

 吽禍の槌のように変化した腕が、鈴の頭蓋を叩き、激しく揺さぶった。

 かつての鈴であれば、確実に死んでいたハズの一撃。しかし、死なない。どころか、怯むのは一瞬で、次の瞬間には再び吽禍の視界からその姿を消す。

 今度は、吽禍は探さない。

 己の視覚に死角はないことを思い出す。

 目が追いつかないのならば追わなければいい。視界に入らないのならば入れればいい。すなわち――目が足りないのならば増やせばいい。

 ギョロリ。不気味な複眼が吽禍の背を、肩を、腕を頬を額を割って開き、三六〇度を超える視野を持って時神鈴の姿を追う。

 そも昆虫の複眼――それは広範囲のモノを視覚に捉えるだけでなく、モノの動きを捉えることにも適しているとされている。故に、その複眼は高速で移動するモノを捉えることに最適だ。

「そこだ。」

 複眼より時神鈴の姿を捉え、その行動パターンを割りだし、そして移動先へ巨大なカギ爪となった左腕を振るう。

 しかし空を蹴り上げ、時神鈴は回避する。

 だが、吽禍もそれでは終わらせない。

 鈴が空を蹴った後に着地したその大地。そこからアリジゴクのような蟲が飛び出し、巨大な顎で鈴を挟む。

「しまッ――」

 しまった。その声が発せられる前に、吽禍の槌となった左腕が鈴の胸元を強打した。

 衝撃が体内を走り抜け、息が出来なくなる。

 しかし気合いで意識を保った鈴は、再度叩き付けられる槌に向けて拳を振う。

 衝突。互いに傷つき、互いに拳を引いた。

 再び吽禍は槌を振わんとすると同時、鈴もまたその拳を振う。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」

「ぬぁあああああああああああああああッ!」

 今度は、拳同志がぶつかることはなかった。代わり、互いの拳が互いの顔面を強打する。

 眩暈がした。吐き気を堪え、苦悶の声を飲み込み、二者は再び拳を振う。

 再三の衝突。

 今度は鈴の拳が浅かったか、その肉体が業天と共にアリジゴクの顎に引き裂かれつつ、後方へ吹き飛び海へと落ちた。

「浅い――か。」

 嘆息する吽禍の眼前の海から、水柱。その頂点には鈴の姿があり、再び吽禍へと空を駆けて向かって来た。

 吽禍は咆哮し、鈴と対峙する。

 伸ばした吽禍の右手からは弾丸のような蟲が幾匹も飛び出したが、鈴はそれらを悉く弾き飛ばし、気付けばその拳は目前だった。

 時神鈴の拳が、吽禍の肉体を殴り飛ばした。

 大地を削り、吽禍の肉体は砂漠に道を造った。

 素早く体勢を立て直し、大地を踏みしめた吽禍は、その複眼で時神鈴を視る。しかし、発見が僅かに遅かった。

「まだ終わらねぇぞォッ!」

 吠える時神鈴の拳が、ブレた。

 この拳は、総てを分解し砕き伏せるもの。この拳は、彼の勝ちへの王手――瞬牙散。

 吽禍の胸を、鈴の拳が貫いた。

「か――はッ。」

 都合三つ目の胸の穴。吽禍が、膝をつく。しかし、倒れない。この程度では、終われない。

 証明、しなければならない。この世の総ては醜いものであると。

 証明しなければならない。この世にただ一つ、輝くものがあると。

 壊れかけた身体に出来るのは、それのみだ。眼前の少年(せいぎのみかた)を倒し、己の宝が万象ただ一つのモノであると証明するために、この命を懸ける。

 正真正銘、最後の最後。この一撃に、乾坤(けんこん)()す。

「垂れる蜜。舐める舌。愉悦を満たしたその口は、次なる蜜を求めて他者を踏む――。」

 吽禍が口ずさむそれは、破滅の唄。

 先は大地に向けたために大きな影響はなかったが、人に当てることがあれば紛れもなく粉々に粉砕する震源地――大地すらも崩壊させる破滅の振動。

 それを感じ取った鈴は、吽禍から腕を引き抜こうと試みる。しかし、抜けない。吽禍の体内にある蟲たちが、鈴の動きを封じている。

 自らを地震の震源地とされては、さしもの鈴も無事では済むまい。ならばどうすると考えるも、案はない。

 否、ただ一つ、在る。

 地震が起こる前に、震源(プレート)を叩けばいい。

 こんなところでは、終われないんだ。

 待っている人がいる。助けたい人たちがいる。なにより、眼前のコイツを助けたいんだ。

 なぁ、吽禍。お前一体いつまで、そんな負の感情の殻に篭ってるつもりだ。そんなところにいたって、孤独なだけだろうが。

 人は一人では生きられない。俺が飛鳥に助けられたように、俺が辰人に助けられたように。人は支えなしには生きられないんだよ。

 だから孤独のままじゃ、人は何もすることはできない。自分が間違っていることすらも、わからないし気付けない。

 人を信じることを止めて、人を助けることも止めて、ただの殺戮機械となったお前を、過去のお前が見たらどう思うだろうな。結局、お前は自分がされて嫌だったことを、知らない誰かにやってんだ。

 その行為は一体、お前を裏切って来た奴らと何が違うんだ?

 やられたからやり返す、お前はそれを繰り返してきただけだろうが。それで、人は醜いってか。それでこの世は汚泥に塗れてるってか。てめぇ勝手な理屈で世界解釈して、わけわかんねぇ悦に浸ってんじゃねぇよ蟲野郎。

 お前の愛は深すぎた。それ故に、愛を奪われたときの恨みは並みならぬものとなり、そして今、最恐のタタリ神として此処に居る。本来残るハズの無い幸福という感情を、お前は思い出してきている。だったら、全部思い出させてやるよ。昔の愛を、幸福な日々を。タタリ神となって失ったものを、思い出させてやる。

 それが俺の、救いの手。

 時神鈴の、祈りだから。

「此の身は天津神より賜りし天之麻迦古弓(まかこゆみ)。即ちこの(かいな)は、天津神より賜りし天之波波矢(あめのははや)なり――」

 吽禍とほぼ同時、高速の思考の後に時神鈴もまた祝詞を口ずさんだ。

 吽禍が、手を伸ばす。

「助けを乞うて伸ばした手を踏み、赤子を殺して親捨てる。」

 誰も彼もが、人を裏切る。

「彼は仮面をかぶりて、天使の顔して人喰らう。嘲り笑って蜜啜る。」

 自分の利益の為だけに、己の力を振りかざす。

「其れは悪。人の皮を被りし害蟲よ。」

 この世は汚泥に塗れている。

「世を見よ世界は悪に満ち、人の心は穢れを零して地を染める。」

 輝きの無い世界に、価値はない。

「故に天罰、此処に下さん。穢れた世界に粛清を。無法の世界に審判を――。」

 右手を――伸ばす。

 己の為でなく。己の信じた輝きのために、その手を伸ばす。

 あの幸福な日々は、確かに森羅万象総てを凌ぐ宝石であったと証明するために。


 時神鈴が、拳を握る。

(なんじ)何用(なによう)にて、()()(もち)いたりや――」

 なぁ、吽禍。お前は一体何のために、その力を使ってきた。

()()しき(もの)()つる()(きた)りしならば、汝に災ひなし」

 正義のためだろ。自分のような人を出さないためだろ。なのにお前は目的をはき違え、狂ってしまった。そしてきっと、大きな罪を背負った。だったら、因果応報だろう。今こそ、お前がしてきたことの報いを、受けるべきなんだ。

「或し(きたな)き心有らば、天網恢恢(てんもうかいかい)()にして漏らさず、汝此の矢に(まが)れと()返下(かへくだ)さむ――」

 拳を――握る。

 己の為でなく。己の信じた輝きのために、その拳を握る。

 お前の背負ったは、人が裁くには重すぎた。だから神が裁く、この拳で。


「――地震津崇(ハメツノタタリ)。」

神魔応報(しんまおうほう)――瞬牙無双懺(しゅんがむそうざん)


「ぬぉおおおおおおオオオオオオオオッ!!」

 吽禍の右手が、鈴の頭を捉え。

「おぁああああああアアアアアアアアッ!」

 突き刺さったままの鈴の右拳が、全ての障害を破壊せんと分解を開始する。

 鈴の身には、途方もない振動。大地を引き裂き、海を割り、空すらも黒く染める破滅の厄災、その衝撃。

 砕けると、思った。

 血管が爆ぜる。細胞一つ一つが分解される。惑星すらも砕くほどの揺れが、彼の意識を崩していく。

 しかし、諦めない。まだ、生きている。まだ、この拳の真なる力を見せていない。時神鈴の宿す神、もう一つの特性。それこそがすなわち――断罪。

 (まが)れ。禍れ。罪深きものよ、(まが)あれ。

 ここに天之麻迦古弓(まかこゆみ)、在る。ここに天之波波矢(あめのははや)、在る。その矢は、偉大なる神が与えたもの。再び天に戻りしその矢は、裏切りを確かめるために突き返された。

 或し(きたな)き心有らば、天網恢恢(てんもうかいかい)()にして漏らさず、汝此の矢に(まが)れと()返下(かへくだ)さむ、と。

 時神鈴の断罪の一矢、瞬牙無双懺は――瞬牙散とは似て非なるものである。眼前の壁、障害を突破するため、時という概念を駆使して神だろうが悪魔だろうが、怨敵を刹那の間に散らす牙――それが瞬牙散。

 対する瞬牙無双懺は、ただ滅するだけではない。神だろうが悪魔だろうが、如何なる存在にさえも因果応報の断罪を与える。時神鈴が罪深いと思えば思うほどにその威力は上昇し、これまで対象が行ってきた悪行全ての報いを受けさせる。

 これこそが断罪の一矢。神の突き返した天之麻迦古弓(まかこゆみ)

 ただ破壊を目的とする吽禍のタタリに対して、時神鈴は破壊のみならず断罪という特性を付加したものだ。瞬牙散ならば相討ちで終わっただろうが、しかし断罪の特性がこの状況において勝利を呼び込むものとなる。

 時神鈴の相手は何だ。

 タタリ神、吽禍。これまでどのような生を送ってきたかどうかは関係ない。吽禍は惑星を破壊した。結果多くの人々の命を奪い、その不幸を笑って喰らった。其は如何ほどの罪なのか。

 正義の味方を志す鈴から見れば、赦されないほどの罪だ。

 故に――。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」

 鈴の『断罪』は吽禍の地震すらもを弾き返した。それだけに留まらず、吽禍の肉体に途方もない『地震』の衝撃を叩き込む。

「ごばッ。」

 吽禍は吐血し、膝を着く。

 途方もない時間の中で狂った正義の味方は、ようやくその悪行を止める者と出会った。

 ああ、過去の自分に殴られた気分だ。

 そんなことを思いながら、いくつもの惑星を喰らった暴食の崇りは倒れた。

 時神鈴の夜は此処に終わりを告げる。。

 悪のはびこる魔の時間。暗闇の世界。悪夢の中に、光が差した。

 その光はきっと、誰もを祝福する夜明けの明星。


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