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日常/非日常

 時神鈴は、走る。

 向かう先は学生通りの細道。おそらく、そこのどこかに辰人がいる。

 いつものこの時間なら、部活動から帰宅する学生が多く歩いている学生通りだが、今日は誰一人として学生がいなかった。学生どころか、通行人すらも見かけない。見かける者の多くは警察官ばかりだった。

 やはり、この辺りで猟奇殺人事件が行われるのではないかと、近所の住民は警戒して外出しないのだろう。加え、警察官も巡回しているのだから、よほどの事がなければ外出しないのも、当然といえば当然か。

 鈴も一度、見回りの警察に捕まった。が、「小学生の妹を塾まで迎えに行かなきゃいけないから」と、咄嗟に思い付いた嘘で誤魔化し、なんとかその場を切り抜けた。

「どこにいるんだよ、辰人!」

 走る、走る、走る――。

 赤くなった空は、もう既に半分が黒く染め上げられている。これから闇が始まるのだと、嫌でも理解できた。何故かはわからないが、夜はマズイと思った。とにかく、マズいのだ。どこから湧き出るかもわからない焦りが、鈴の胸に渦巻いた。

 浮かんだ月を見てみれば、今宵は満月だ。満月は古来より、人を狂わせるだの、凶兆の暗示だのと、その美しさからは想像できない闇を秘めているらしい。

「嫌な、夜だ」

 今は、その悪い暗示が外れることを願うばかりだった。


 ――夜。

 生涯のうち、人間は一体何度、この闇を体験するのだろう。

 古来、日本では昼と夜の堺目であるこの時刻――いわゆる“たそがれ時”という時刻は、人にとって恐ろしい時間とされていた。

 “たそがれ時”とは、漢字表記をすると“誰そ彼時”。(だれ)(かれ)――すなわち、夕刻、薄暗くて人の見分けをつけられない状況を表した時刻のことである。

 かつて、文字や言葉が似ていると、何かしらの関連付けがされた時代がある。その時代では、人の《見分けがつけられない》ということは、物事の《見分けがつけられない》ということにも繋がった。この物事の見分けがつけられないという時刻は、“逢魔(おうま)が時”とも呼ばれる。“逢魔が時”は、この世と異界との《見分けがつけられない》時刻ともされ、文字通りに、“魔”――つまり、異界の異形と“逢う”時刻とされていた。

 考えてみれば、なるほど。それは一理あるのかもしれない。異界なるものが存在するとすれば、逢魔が時なるものが存在するとすれば、どうして人が闇に恐怖を抱くのか、という疑問に説明も付くのではないか。

 そも、恐怖とは、『現実、もしく想像上の危険、及び喜ばしくないリスクに対する、生物学的な感覚』であるらしい。

 何故、人は、暗い何処か――闇に対して、現実もしくは想像上の危険を抱くのだろうか。

 なに、簡単なことだ。

 もし、本当に“逢魔が時”が存在するのなら。

 もし、本当に“異界”が存在するのなら。

 もし、本当に人のあずかり知らぬ“魔”が闇に潜んでいるのなら。

 ――であるなら、人が闇に恐怖するということは至極当たり前のことではないだろうか。

 闇の中には、人を害する何者かが潜んでいるが故に。


 息を切らしながらも、鈴は走る。

 どこだ、辰人はどこにいる。

 帰れ、今すぐこの場を去れ。ここは危険だ、お前の居ていい場所じゃない。

 そう叫ぶ胸の警鐘に無視を決め込んで、鈴が学生通りにある何本目かの細道、その十字路に差し掛かった時だった。

「よう。なんだ、お前も結局来たのか」

 風間辰人が、そこにいた。

 何故か彼は、十字路の手前で身を隠すように立ち止まっていたが、今の鈴は、そのことに何の疑問も抱かなかった。

「よう、じゃねぇだろ! ふざけ――」

 ふざけるな、どれだけ心配したと思ってる。

 言おうとした鈴の言葉を、辰人の手が塞いだ。

「あんまデカい声出すんじゃねぇ。死にたいのか」

 意味が解らない。説明しろ。

 もごもごと口を動かすが、辰人の手に阻まれてうまく伝えられない。

「とにかく、アレを見ろ。そして、察しろ」

 辰人が指を向けた左の曲がり角、その奥には、警官の姿があった。

 警官と聞いて、確かに巡回中の警官に見つかったら厄介だろうなと思ったが、覗いてみれば、なるほど、警官の様子がどうもおかしい。

 初めはこちらに背を向けて歩いているだけなのかと思ったが、違う。大きくビクビクと痙攣しているだけで、一歩たりともそこから進んでいないのだ。

 なにか、アレルギーの拒絶反応だとか、そういった体調不良の類かと思って見ていると、どうも、それも違うようだ。何かに抑えられていなければ、あれだけの痙攣をしながら立っていられるはずがない。

 何が、起きているんだ?

 好奇心からか、それとも、警官を助けた方がいいのではないだろうか、という正義感からか、鈴は警官の様子を見ていると。

 ――ぶしゃり。

 警官の背中から何かが突き出したのと同時、赤い水が弧を描いて、宙に舞った。

 辰人に触れていた左肩から、辰人が驚きに体を震わせたことが鈴に伝わる。

「え?」

 警官の背中からは、とめどなく赤い何かが流れ出していく。心なしか、赤い水が流れ出ていくことと比例して、警官の体の痙攣が治まっていくように思えた。

 警官から流れる赤い液体は、さながら命の源のようだと、ぼんやり感じた。

 よく見てみれば、警官に突き刺さった何かは、人の腕のようにも見える。

 やがて動かなくなった警官を、突き刺さった何かが、振り回すように揺すって、宙を舞う。どさり。と、動かなくなった警官が鈴の目の前に落ちた。

 何者かが警官の目の前に立っていたようで、どうやら警官を放り投げたのもその何者からしい。

 相手に気付かれないよう、鈴は何者かに目を向けた。

 その何者かは、体中がツギハギだらけで、やけに肉が少なく、スリムな点を除けば、ゾンビ映画などで現れる、典型的な異形(いぎょう)であった。腰は人のものとは思えないほど細く、腕も警官を持ち上げるだけの力がどこにあるのか疑問になるほど細い。その異形を見て、鈴は真っ先に、『フランケンシュタインの怪物』を連想した。

 ツギハギ怪人が片腕を振り払って、赤い液体を散らしたところを見ると、どうやら、ツギハギ怪人はその腕で警官の体を貫き、放り投げたようである。

 なんとなくその光景の総てを見ていた鈴だったが、今、眼前で何が起きたのか、まるでわからなかった。

「なんだよ、これ……」

 疑問ばかりが鈴の頭の中を駆け回って、正常な思考が行えない。あまりに日常から離れすぎた出来事に、脳が付いてこれていない。何が起きたのかはわかっていても、それを脳がすべて拒んで都合のいいように解釈してしまう。それこそ、主の精神を壊さないように。

 しかし脳の必死の抵抗も空しく、鈴は現状を少しずつ呑み込んでいく。

 目の前に放り投げられた警官を見ると、ドクドクと脈打つように赤い海が広がった。

 これは助からない。彼は、死んだ。脈など計るまでもない。一目瞭然だった。

 体は震え、かみ合わない歯は、かちかちと音を鳴らす。

 あの警官は、死んだ。今、人が死んだ。奇妙な腕を、その胸に刺されて、死んだ。

 助けられなかった。無敵と謳われた龍神兄弟は、成す術なく、人を見殺しにした。

 そもそもこの状況で――一体、どう助けろと言うのか。

 ――無理だろう。

 どうにもならないという結論が、鈴の中で真っ先に導き出された。それは諦めではない。確信である。

 人は空を飛ぶことはできないだろう。それは体から骨格から、陸地で生きる上で最も適した肉体に人が進化したためである。人が空を飛ぶことはできない。これは諦めではなく、事実だ。いくら自分が飛べると信じたところで、どうにもならない問題である。

 あの怪人を前にしても、同じ。

 勝てない。

 どうにもならないし、どうにもできない。

 まるで災害だ。どこに起きるか予測できないし、どのような被害が起きるかもわからない。死ぬか生きるかなど、天に任せるしかあるまい。アレは、そういうモノだ。

 無力な人間に唯一できることがあるとすれば、それは逃げることだ。彼らに見つからぬよう、この場を離れることだ。

「早く、逃げよう……」

 怪人から目を離さないまま、鈴は辰人に言う。

 けれど、辰人は動かない。制服の裾を引くが、辰人は動こうともしなかった。

「なぁ、鈴……」

 動こうとしない辰人の方を向くと、辰人の瞳は鈴を捉えていなかった。

 その焦点は鈴の奥――十字路の怪人が立っている左角、そこにはみ出て転がる警官の死体、その先の方を見ているようだった。なにかあるのかと、鈴がそちらへ振りを向くと、

「冗談……だろ――」

 ツギハギ怪人とは別の、五メートルほどもある巨大な化け物が、じっと、鈴と辰人を見つめていた。

 その姿はまさしく化け物。頭は猿、体は狸、手足は虎、そして蛇のような尾。まさしく日本の文献に残された和製のキマイラ――『(ぬえ)』という妖怪そのもの。

「ヤバいぞ、鈴。あの野郎、さっきからずっとこっちを見てやがる……」

 曲がり角の先にいるツギハギ怪人に聞こえないよう、そして眼前の和製キマイラ――鵺を刺激しないよう、小さな声で辰人が告げた。

 左手にはツギハギの怪人。正面には妖怪まがいの化け物。

 ――この状況で、一体どうしろというのか。

 さらに言えば鵺は、鈴たちの様子を、いつまでも伺っているのだ。ツギハギ怪人から逃げなければならないのはとうに理解しているが、鵺の前でうかつに動くこともまた、とうに理解している。下手に逃げようと背中を見せれば、ネズミを追う猫のように自分たちを追ってくる可能性があるからだ。

 今は、ツギハギ怪人がこちらに来ないよう、そして鵺が襲い掛かってこないよう、静かに祈るばかりである。

『高校生の一人は、食われていた』

 一週間ほど前の事件を、蓮の言葉を、鈴はふと思い出す。

『それも、とびきりデカイ哺乳類みたいな噛み付き口だったそうだ。身体の左半分がなくなってたんだとよ。噛み口はそれこそ、キングコングみたいな……ライオンなんか、比べ物にならないほどだそうだ』

 巨大な猿の頭を持つ、眼前の化け物――鵺を見て、鈴は確信する。

 あの高校生たちをを殺したのは、この鵺であると。

 鵺は、化け物らしく獣のような唸り声をあげて、鈴たちを睨み続けている。

 鵺に声を出されるのは、非常にマズい。すぐ近くには、ツギハギの怪人がいる。怪人が唸り声に気付いて、自分たちの存在に気付いたらどうなる? 人を容易く殺すツギハギと、どう見ても勝ち目のない鵺のような化け物を前に、圧倒的弱者である人間が生き残る可能性は――。

 生き残る可能性を、鈴は考えることができなかった。

 ――自分は、死ぬのだ。

 死を意識した瞬間、鈴の体は自分のものとは思えないほどに、硬直した。

「とりあえず、少しずつでも離れよう」

 辰人の言葉すらも耳に入らず、ただ、鈴は死を意識した。

 死んだらどうなる。人は死んだらどこに行く。死ぬときの痛みは、実際どのようなものなのだろう。どれほど苦しいのだろう。

 ――死にたくない。

 まだ、死にたくない。生きて何をするのかと問われれば何も言えない。自分の命にどれだけの価値があるのかも、わからない。けれど、死にたくないと思った。生きていたいと思った。

 苦しいのは嫌だ。痛いのは嫌だ。かといって、楽に死ねればいいのかといわれると、それも嫌だ。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。

 その思いが、鈴の体を極度の緊張へと追い込んでいく。さながらセメントのごとく、時間の経過とともに動かなくなっていく。

 蛇に睨まれた蛙というのは、まさしくこのような状態なのだろう。

 死と隣り合わせ、それも恐怖で動けなくなっているという状況なのに、鈴の頭にはふと、そんな考えがよぎった。

 動いたら、その瞬間に殺される。

 本能的に死を感じ取った蛙は、それを知っているからこそ動けない。かといって、動かなければ死なないという保証もない。相手が自分に興味を持つのか、持たないのか。相手が腹を空かせているのか、いないのか。なにもかも、ここで生き延びるために必要な要素、その総てが運頼み。

 神話の英雄たちならばきっと、揃ってこう言うに違いない。

『死にたくないのなら、戦えばいい』と。

 しかし、鈴は「バカを言え。人間が素手でコイツに勝てるものか」と即答するだろう。

 素手で人間が勝てる動物は、個人差はあるものの、おおよそ体重三十キロ以下のものであるといわれている。

 対し、鈴の正面に立っているのは、身長五メートル、体重は百キロを超えるであろう巨大生物だ。人間を雑巾のように捻じり切るほどの怪力で、人間の体半分をかみ切るほどの顎を持つ。ライオンにすら勝ち目がない人間が、素手でこの巨体と戦ってみろ、ものの数秒で殺される未来が目に見えている。

 そもそも、勝負になるかどうかすら怪しい、一方的な虐殺になること請け合いである。

 ならば、どうすればいい――?

 ただ立ち尽くしている鈴に、辰人は、鵺に見えないよう軽く蹴りを入れた。

「聞いているのか、鈴!」

 鵺を脅かさないギリギリの音量で叫んだ辰人は、鈴に言った。

「とにかく、この場を離れるぞ」

「けど……あの化け物がこっちを……」

 二人でひそひそと話していると、何かをしようとしていることを鵺も察したのか、じりじりと、すり足で滲りよってくる。

「いいか、よく聞け。俺が合図した瞬間、後ろに走れ、全力でだ。死にたくなけりゃ、足を千切れるほど動かせよ」

 こくこくと鈴が頷いたのを確認すると、辰人は小声でカウントダウンを始める。

「4、3、2、1……」

 ――0!

 叫んだ瞬間、辰人は最大音量でアラームを鳴らした携帯電話を、鵺の遥か後方を目がけて放り投げる。

 ほんの一瞬だが、鵺の注意が鈴たちから外れて、携帯電話へと向いた――刹那。

「走れッ!」

 辰人の張り上げた大声を合図に、走り出す。――ハズであったのに。

「あ、あれ……?」

 鈴の足は、動かない。足がすくんで、走れない。

 どうして、こんな時に。動けよ、足。走れよ、どうしてこんな肝心な時に動かない!

 焦りばかりが先に出て、鈴は今まで、どのようにして体を動かしていたのかすらをも忘れてしまう。

 鵺はやはり、見た目通りの化け物である。恐るべき跳躍力で一〇メートル超も跳躍し、辰人の放り投げた携帯電話を、手の一振りで粉々に破壊した。着地と同時に、その外見にこれ以上ないほど相応しく、またおぞましい獣の咆哮をあげた鵺は、鈴と辰人に向けて全力疾走を開始する。

 人の体など楽々呑み込めるであろう、巨大な口。骨すらも噛み砕くであろう、赤黒く巨大な犬歯。恐るべき怪力を秘めた、毛むくじゃらの腕。暗闇にうっすらと輝く、血のような赤い瞳。

 ――恐ろしい。

 恐怖だけが、鈴の全てを支配する。

 体の震えが止まらない。流れる汗が止まらない。まばたきすることすら忘れて、ただ鵺が、着々と彼我の距離を縮めて来るのを見ていることしかできなかった。

 気付けば眼前にキマイラの大口が迫っている。

「――ッ」

 あまりの恐怖に、声を出すことも叶わない。

 ――喰われる。

 そう、鈴が確信した時だった。


「なにをやってんだテメェはァッ!」


 瞬間、鵺のものとも、曲がり角の先にいるのであろう、ツギハギ怪人のものとも異なる声が、鈴の隣から聞こえた。

 この声は、今さっき合図をした声で。この声の主は、とうにこの場から離れているはずで。

 ――なのに辰人、どうしてお前が、俺の目の前にいるんだ。

 どさり、という音と共に、鈴の体がアスファルトに倒れこんだ。辰人が、鈴の背中を後方へ引っ張ったのだと、何となく理解する。

 助かった。そう思うと同時、信じたくない光景が鈴の瞳に映された。

 考えてみれば、至極当然の結果だろう。鈴を引っ張り、後ろに投げた分、辰人の体は嫌でも前に出てしまう。慣性の法則だ。そしてその時、鈴の正面にいたのは大口を開いた鵺である。

 必然、辰人の肉体はキマイラの口内へと飛び込むことになる。鈴を引っ張り、後方へ投げるために伸ばした腕を残して、辰人の体は巨大な(あぎと)に呑み込まれた。

「――え?」

 バキバキと、骨を砕く音がした。グチャリと、肉が潰れる音がした。

 伸ばしていたために口に収まりきらなかったその腕は、キマイラの鋭い犬歯によって引き裂かれ、ブチリと大きな音を立てて鈴の真横を通過し、鈴の隣へと血液をまき散らしながら転がった。

 逆に言えば、腕以外の部位は、キマイラ巨大なの口の中に呑み込まれたということで。

 倒れこんだ鈴の上を跳躍して通過した鵺は、バリバリと口に入った食料を咀嚼する。

 鈴に目を向けた化け物の口からあふれ出した赤い液体は、ボタボタと、アスファルトを濡らす。口の中ですり潰された肉からは、鉄のようなつんとした匂いを醸し出す。

「……は……?」

 一体、何が、起きたんだ。脳が理解を拒んでいる。咄嗟に判断ができない。

 なあ、今どうなってんだ。教えてくれよ、辰人――。

 バリバリ、バリバリ。

 骨が砕かれる音を聞きながら、鈴は隣に転がった腕を見た。

 その腕は、つい先ほど鈴の命を救った腕だった。その腕は、今まで数多くの悪者を鈴と共に捕まえ、共に歩んできた者の腕。宿題を手伝ってくれた腕。冗談を言い合ってきた者の腕。そして――共に飛鳥を虐めから救い、これからも飛鳥を救うと誓い合った、誰かの腕だった。

「――う」

 風間辰人の、腕だった。

「うぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああ――」

 時神鈴は、涙を流して絶叫した。

 怖いとか、苦しいとか、そういう感情は既に消え去った。悲しいとか、悔しいとか、そういう感情も胸にはない。

 ただ、失ってはならないものを失ったという喪失感だけは、強く胸に刻まれていた。

「――ああああああ……ああああああああああああああああああああああああああ!」

 彼が叫ぶ様は、まるで知能のない動物だ。

 言葉にできない感情を、叫ぶことでしか表現できない。言葉にできない絶望を、叫ぶことで発散しなければ、今の自分を保てない。

 ただ本能のままに、道端に転がった腕を抱きしめた。

 辰人の腕を抱きしめたからと言って、何がどうなるということもない。

 目の前の鵺は、辰人を喰らい終われば今度は鈴を狙うだろう。大声を出したことによって、曲がり角にいたツギハギ怪人には存在が知られただろう。その行為によって辰人が生き返るわけでもなく、かといって弔いになるわけでもない。

 無意味なことだ。どころか、自分を更なる危険に晒すだけの行為だ。けれど、鈴は溢れる感情を抑えることはできなかった。

 さっきまで、動いていた。さっきまで、生きていた。なのに、どうして。どうしてコイツが死ななきゃならない。

 慟哭する鈴を気にもかけず、千切れた腕から滴る血は、鈴の服を赤く染めてていく。

「ああああああああああああああああああああああああ――ぶッ!」

 叫んでいた鈴の腹部に、突如激痛が走った。

 体に満たされていた酸素が対外へ排出され、気付けば背中にも激痛。

 何が起きたのかまるで分らなかったが、どさりと落下することで、自分は何者かに殴られたか蹴られたかして、住宅の塀にぶつかったのだと理解した。

「う……ぐっ」

 抱きしめていた辰人の腕が、ない。どこに行った。どこに落とした。

 腹部の激痛も忘れて、霞む視界の中、鈴は這いずり回りながら腕を探す。

 あの腕だけはなくしちゃいけない。あの腕だけは失っちゃいけない。

 アスファルトからなかなか離れない顎を無理やり引きはがし、鈴は正面を見る。

『目撃者、有リ』

 そこには、辰人の腕を掴んだツギハギの怪人が立っていた。

 いつの間にそこにいたんだとか、キマイラに加えてコイツまで来たら、生きて帰れる気がしないとか、そういった考えはもう存在しなかった。

 ただ、胸に怒りがこみ上げた。

 ――なにしてるんだ、お前。それは辰人のものだ。お前みたいなツギハギのバケモンが、触れていいモンじゃあねぇんだよ。

「えせよ……。か、えせ……」

 その腕を返せよ、化け物。

 鈴がツギハギ怪人を睨み付けた時、怪人の後ろに、見知らぬ中年の男が現れた。

 服装や体躯からして一般人。この辺りの家に住む住民だろう。大きな音に驚いたのか、それとも心配したかで駆け付けたらしい。服装がパジャマだった。

「ど、どうしたんだい? 突然大きな声が聞え――」

 鵺が男を見た。男の目の前に立っていたツギハギ怪人が、振り返った。

『排除シマス』

 そういって、ツギハギ怪人は男へと歩を進める。

 男は状況を理解したのだろう。思わず悲鳴を上げようとした瞬間だった。ぱん、府抜けた音が聞えた。

 何かが弾けて、赤い雨がしとしととアスファルトを紅に染め上げる。

 ツギハギの怪人の振るった腕が、男の頭を砕いていた。

 死んだ。

 また、人が死んだ。

「お前ら……」

 こいつらは、一体、人の命をなんだと思っていのか。まるで、湧き上がる泡を潰すように、簡単に殺して。

「ふっ、ふぅっ……」

 腹部の痛みを堪え、喉まで出かかった胃液を飲み込み、鈴は立ち上がる。そして、無表情のまま鈴を見つめるツギハギ怪人と、その奥で辰人の肉体を咀嚼している鵺を見た。

『……《天児》ヲ、確認シマシタ』

 ツギハギの怪人の興味は、すでに辰人の腕から鈴に移ったらしい。機械的な音声でいうと、ぶちゅり――辰人の腕を、握りつぶした。

 ……ボタボタと、辰人の腕が零れていく。垂れる血液が、揺れる肉片が、アスファルトに溶けるように広がった。辰人の存在していた証が、消えていく。

 べたりと地に転がった右手を、ツギハギの怪人は特に感慨を抱くこともなく踏みつけ、顔色一つも変えずに砕いた。

 もしか、ツギハギの怪人はそこに辰人の手があると知らなかったのかもしれない。

 もしか、たまたま足元に握りつぶした手が落ちて、たまたま踏み潰してしまっただけかもしれない。

 いや、わざとだろうがそうではなかろうが、鈴にとっては、同じことだ。

「う……あ……」

 わざと踏んだということは、辰人の腕は、必要のないものだということ。

 意図せず踏んだということは、辰人の腕などは、気にするほどの価値もないということ。

 どちらにしても、許せるものではない。目の前で、原型を留めぬ肉片と化したものは、辰人の――龍神兄弟の片割れの――時神鈴の親友の、腕なのだから。

 鈴の視界が、赤く染まった。

「ぅおぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」

 目の毛細血管が切れた。あまりの絶叫に、喉が裂けた。握りすぎた拳に爪は食い込み、悔しさに噛みしめた歯は互いに潰しあう。

 今まで感じたこともない怒りが、鈴の中に渦巻いた。

「テメェ……」

 辰人、今、取り返すから。今すぐに、お前をあの汚れた化け物どもから引き離してやるから。これ以上、お前を穢させはしない。待ってろ、“助けて”やる――。

「――邪魔だどけッ!」

 腹部の痛みなど、とうに忘れた。

 動かなかった体は、先ほどまで恐怖で萎縮していたのが嘘のように滑らかに動く。鈴が足を踏み出した瞬間にはもう、、ツギハギの怪人の眼前へと移動していた。

 動く、体が動く。それも、今までにないほど明確に、かつ正確に機能する。一ミリの誤差もなく、完璧に仕事をこなした鈴の肉体は、次ぐ行動に向けて再び正確な動きを刻む。

 ここまでで、一体どれだけの時間が経過しただろう。

 数一〇メートル離れていたツギハギの怪人の正面に立つことに、コンマ一秒ほどの時間も有していない。ならば、次の動きはより早く完了する。

 この拳を、渾身の力を込めて振うだけなのだから。

『駆逐シマ――』

 ス。

 ツギハギの怪人が言い終わる前に、鈴の拳がツギハギの怪人の頭部に食い込んだ。

 その拳は骨を潰し、肉を裂き、怪人の頭を粉砕せんと振りぬかれる。

『ズゥウウ!』

 気味の悪い機械音声をバグらせながら、ツギハギ怪人は吹き飛んだ。その距離はおおよそ数百メートル。とても、人にできる所業ではなかった。

 しかし鈴には、『自分でも化け物に対抗できる』、『死ななくて済む』、『仇をとれるかもしれない』などといった喜びはなかった。

 胸に渦巻くのはやはり、怒り。そして、鵺の腹から“助け”出してやるという、絶対の意志。

 ツギハギ怪人が倒れたことによって、鵺が再び鈴に注意を向け、睨む。

 睨まれた鈴は、次はお前だと言わんばかりに睨み返した。

 鈴を睨む鵺の目は、先ほどまでのように獲物を狙う視線とは、もう違う。強敵を相手にし、その相手を必滅せんという意思をもって睨み付けている。

 巨大生物の殺意など意に介さない鈴は、ツギハギ怪人を沈めた拳を、強く握る。

 もう、恐怖だとか、余計な感情は無い。あるのはただ、辰人をコイツから取り返すという一心。

 辰人を返せよ。でなければ、その腹を引き裂いてでも、辰人を取り戻す。だから待ってろ、必ず“助ける”。

 駆け出し、鈴がその拳の射程範囲に走った。

 ――が、遅い。

 この鵺がもし仮に地球上に生息する生物であったのなら、おそらく鈴が勝っていたであろう。しかし、相手が悪すぎた。育った環境が根本的に違う以上、体の作りも根本的に異なっていた。

 加えて、野生動物の瞬発力は神速の域に達している。

 野生動物とは、常に命の危険にさらされている。そのためか、いつでも命の危険から逃れられるよう、瞬発力が並はずれて高い。人などが――ましてや平和ボケしている日本人などが、その域に到達できるわけもないだろう。当然、地球とは異なる星で育った野生動物の瞬発力などは、並みであるわけもなく――。

 ゴリラよりも太い腕が、鈴の顔面を捉えた。虎のような爪がこめかみに食い込んで、頭蓋骨を圧迫する。

「がふっ!」

 圧倒的速度で頭を掴まれた鈴には、どうすることもできない。そもそも、体躯からして大きく違うのだ。身長一六〇程度の中学生が、五メートルを超える化け物に頭を掴まれてしまっては、如何なる拳打も、蹴りも、加えることはできない。

 ――だというのに。

 頭を掴まれたことを、鈴は逆にチャンスだと考えた。

 頭を掴まれた次の瞬間、素早く両腕と両足を回し、四の字固めのような形をとる。

「らァアアッ!」

 その判断力、瞬発力は既に人のものではない。獣と同等の境地に達した鈴は――尋常ならざる力で、鵺の片腕をへし折った。

 いくらプロレスラーといえど、暴れる猛獣の腕をへし折ることは無理に等しいだろう。にもかかわらず、鈴は、そうあることが当たり前かのように、やすやすとその腕をへし折った。

 腕を折られたことによる激痛から悲鳴を上げた鵺は、折られた腕ごと、鈴を近くの塀に叩き付ける。

 塀が砕けたが、鈴は離れない。アスファルトをも砕いた鈴の頭は、もはや石頭などという言葉では済まされない。驚いた猛獣は犬歯をむき出し、激痛に歯を食いしばりながらも、幾度となく、鈴の頭を、その剛腕を振るって塀にぶつけ続ける。

 幾度となく頭を襲う激痛と、頭を強打されることで起こる脳震盪からか、一瞬、鈴の力が緩んだ。その瞬間を見逃さず、鵺は鈴の肉体を空へと放り投げる。

「――あぐッ!」

 空を舞った鈴に、鵺は容赦などしない。

 よくも、片腕を。

 そう叫ばんと咆哮し、跳躍。空中で鈴に並び、無事である左腕を振り上げる。

 眼前に迫る剛腕を尻目に、自分の頭から血液が大量に流れ出すのを、鈴はうつろな瞳で見ていた。

 ――ああ、これはあの時と同じだ。

 この現象は、クラス全員に喧嘩売って、その結果いじめっ子らと喧嘩をして、その時に感じた、体感速度が遅くなるアレだった。

 まるで、一時停止したビデオ画面をコマ送りしているかのように、パラパラと風景が移り変わっていく。

 視界の隅から目の前に、鵺が動いてきて、明確な怒りをもって、鈴に向けてその剛腕を振おうとしている。アスファルトを砕くほど頭をぶつけられたせいなのか。我を忘れて激怒していた鈴の頭は、やけに冷静だった。

 アスファルトを砕くほど頭を叩き付けられたのに、よくまだ生きている。けれど、あの剛腕で殴られたら生きてはいられないだろう。そんなことを思った。

 ――……ああ、くそ。死ぬのかよ、俺。

 鈴の心には、もう恐怖はない。

 代わり、謝罪の念が胸を覆う。

「辰人……」

 辰人の肉体は、すぐ目の前にある。なのに、どうして届かない。

 ほんと、情けない親友でごめん。泣きそうな顔で、「俺も、そこに行くから――」と、呟やこうとした時だった。


「――助けに来たよ、遅れてごめん」


 聞こえるのは、澄んだ声。

 感じたのは、慈愛の情。

 殺意でもなく、悪意でもなく、狂気でもなく。この場においておおよそ存在しえない、愛念とまでいえる心からの深い愛情が、鈴を包み込む。

 さながら、幼子を抱きしめる母親のような、さながら、生涯を共にした敬愛する恋人のような、暖かく優しい何かが、宙を舞う鈴を優しく抱き留めた。

 頭を強打したためにハッキリとしない思考に、曖昧模糊とした身体の感覚。だけれど、鈴を包んだ何かからは敵意も、悪意も、一片たりとも感じない。完全に第六感で感じたものであったが、しかし敵でないことを鈴は確信した。

 頭痛が治まらず、激しい脳震盪に襲われた後のぼやけた視界の中で、鈴は暖かい何かに目を向ける。

 鈴を抱き留めたのは、どうやら少女。しかし月明かりが邪魔をして、服は見えても、その顔を見ることは叶わない。

 彼女の服は、暖かい雨を彷彿とさせる。色は、透き通りそうなほどの弱々しさを含めながらも、流れる穢れ無き水を象徴したかのような、美しい水色。彼女の服装は着物のようであり、また巫女服のようでもある。ただ大きく異なっている点は、(はかま)の色が水色であり、その長さが膝ほどもない点だろうか。その短い袴の代わりをするかのように、白く太ももまである長い靴下が素脚を晒さない。背中の肩甲骨に当たる部位に二つと、両袖の部分に計四つ、淡い水色の水晶のようなものが埋め込まれており、両肩には、天の羽衣というべき薄く美しい生地の布が彼女を守るかのように漂っている。

 長く美しい髪、そして月明かりに劣らないほどに輝く瞳は、水晶に同じく淡い水色で、とても綺麗だった。

「もう、大丈夫だからね」

 彼女が鈴を抱きしめると同時、鈴を殴りつけようとしていた鵺の剛腕が、少女に迫る。

「危な――」

 鈴が彼女に危険を教えようとした時だった。鵺の顔面に水晶のような何かが食い込み、その身体を遥か前方へと弾き飛ばした。

「もう傷つけさせない。あなたは、わたしが守るから」

 一体、この少女は何者か。人間をやすやすと殺すほどの力を持つ鵺を、触れることもなく吹き飛ばすこの少女は、何者か。

「あんたは、一体――」

 誰なんだ。

 問おうとした鈴の意識は、とうに限界を迎えていた体に呑み込まれていく。

 どうしようもなく、眠くなる。ここで眠ってはいけない、辰人をまだ取り戻してはいない。それを頭では理解していても、体がどうにも、いうことを聞いてくれはせず。

 何処か、暗い何処かへ、落ちていく。

「わたしは、大日本帝国(だいにっぽんていこく)異常災害(いじょうさいがい)特別対策機関(とくべつたいさくきかん)天神(あまがみ)”、第一級災害(だいいっきゅうさいがい)直接殲滅(ちょくせつせんめつ)活動部隊(かつどうぶたい)所属、水無月飛鳥。純情可憐に――参ります」


        ☆


「もう傷つけさせない。あなたは、わたしが守るから」

 宙に舞っていた鈴が、地に落下する前に抱きかかえた少女は、状況を見渡した。

 目に入るのは、誰に沈められたのか、頭からアスファルトに埋まっているツギハギの怪人、『殻人(からびと)』。血まみれになりながらも、涙を流して化け物と対峙していた鈴。

 そして、人一人のものとは思えないほどアスファルトにまき散らされた、血液。

 ……辰人くんの姿が、ない。

 ぎゅっと少女――水無月飛鳥は唇をかみしめた。

 抱きかかえた鈴を優しく下ろした飛鳥は、はるか遠くへ落下した和製のキマイラ――(ぬえ)を見る。

「大日本帝国異常災害特別対策機関“天神”、第一級災害直接殲滅活動部所属、水無月飛鳥。純情可憐に、参ります――」

 それだけ言うと、飛鳥は鵺との距離を一気に詰める。

 先ほど、ツギハギ怪人を殴り飛ばし、鵺の腕をへし折った鈴の動きは相当人間離れしたものであったが、彼女のそれは、もはや比べものにすらならなかった。神速、そんな言葉ですら生温い。比べることすらおこがましいと思うほど、圧倒的な差がそこにある。

 人は、自動車と競争をするだろうか。

 理論的に秒速約一四メートルが限界であるとされている我々人類と、構造上は秒速約五〇メートルの移動が可能である自動車。計算しようがしなかろうが、限界突破して壊れる身体に見向きもせず死ぬ気で走ったところで、我々人類が生身で自動車に追いつこうなど、到底不可能な話だ。

 つまり、彼らの差はそういうものなのである。

 ああ、確かに時神鈴は速かった。人ならざる怪人を吹き飛ばし、次いで既に地球のものですらなくなった怪物を相手に、よくやったと言えるだろう。現に、彼は人の域を大幅に超えていた。人間は常にリミッターをかけて生活をしているというが、そのリミッターを解除したにしても、時神鈴は速かった。

 ――だが。

 水無月飛鳥は、それを遥かに超える速度で鵺へと迫る。

 先ほどの時神鈴と、今の水無月飛鳥を比べるならば、それこそ、人の足と自動車を比べるようなものだ。話にならない。比べものにならない。それほどの、速さ。

 鈴の動きならば捉えられた鵺だが、彼女を前にしては太刀打ちができない。圧倒的な力の差を誇示するかのように、水無月飛鳥は鵺に向けて突貫する。

「あなたが、鈴くんを傷つけたのね」

 鵺が、鈴を、泣かせた。鈴を、悲しませた。

「あなたが、辰人くんを……」

 のみならず、かつて己を助けてくれた恩人を。

 この場に辰人がおらず、鈴が血と涙を流していたのだ。言われなくても、飛鳥は風間辰人を失ってしまったのだと知る。

 ぎゅっと、拳を強く握らずにはいられない。

 守ると誓った大切な人を守れなかったのは、己の罪。だとしても、守ると誓った大切な人を傷つけたあなたの罪は、軽いものではない。その罪を己が裁くなどと、そんな大層なことは言えない。けれど、二度とあなたを彼に触れさせはしない。

 飛鳥は誓う。

 この身砕けても、二度と彼は傷つけさせない。

水玉(すいぎょく)一閃(いっせん)

 飛鳥は、己の人差し指の先に超高密度で水蒸気を集め、圧縮する。

 すると辺りの空気はたちまち乾燥し、彼女の指先には小さな水の玉が出来上がる。更に空気中の水分を吸収し、飛鳥の指先に集まる玉はみるみる大きさを増していく。

 飛鳥の指先に集められた水が一体どれほどの密度かはわからないが、普通の水がここまで圧縮されたのならば、たちまち凝固して氷となり、さらに圧縮されて小さな宝石となることだろう。しかし、彼女の指先に集められた水は、彼女が超高速の回転を水自身に行わせていることで凝固が行われていない。かといって、水だから大したものではないということでもなく、野球ボールほどの超高密度のミキサーのようなものが、彼女の指先に形作られているわけである。

 圧縮された水を乗せたまま鵺に指先を押し付けた飛鳥は、それを一気に放つ。放つと同時、超高圧力より解き放たれた水が、一直線に伸びていく。

 先ほども述べたように、彼女の指先から放たれた水は超高密度のミキサーだ。鵺の腹部を易々と、削る。削る、削る、削る削る削る。

「グァアアアアアアアアアアアアアア」

 鵺は顔を苦悶の表情にゆがませながら絶叫した。

 飛鳥の放った僅か一閃の水は、五メートルを超える鵺の巨大な肉体を、数十メートル後方にまで退けさせた。でありながら、尚も勢いを緩めぬまま鵺を押しつづけ、後退させるほどの威力を持つ。そんなものが、ドリルのごとく体を削り取るというのだから、たまらない。

 対し、未だ人一人を喰らった鵺の胃袋が健在だというところを見ると、鵺の耐久力もまた、相当のものであると言える。

 後方へ押されながらも、鵺は一閃から体を少しずつずらしていたのか、彼女の一閃から辛うじて逃れることに成功する。

 鵺が水玉・一閃から逃れたのを見ると、飛鳥は凝縮した水を、再び水蒸気へと気化させた。

 本来存在する鵺の気性の荒さからすれば、ここで飛鳥に向けて攻撃を仕掛けるのが常なのだろうが、鵺はその選択をせず、警戒を解かないままその場に止まっている。

 鵺は彼女の瞳を見て直感する、彼女の攻撃が終わりではないことを。

 敵に圧倒的な力の差を見せつけた飛鳥だが、彼女の攻撃は鵺の直感通り、まだ止まらない。続く攻撃は、鵺を確実にこの場から退場させるための、彼女の切り札であった。

「撃ちてし止まむの鋭心(とごころ)()ちて、此の戦、怯む事なく臆する事なく、鍛へ鍛へし大和魂以ちて、戦法(いくさののり)正しく、今、(ほまれ)勝鬨(かちどき)を上げむ――」

 彼女が祝詞(のりと)――天児が力を開放する際に使用する言霊(コトダマ)を歌うように口にすると、どこからか現れた文字が、彼女の体の周りを回転する。やがて文字は小さな水滴となり、ビー玉程度の水の弾丸が彼女の周囲を、さながら惑星を包み込む衛星が如く、くるくると回転を始めた。その数は、十から、二十から、三十、四十――今尚、次々と増えていき、留まることを知らない。

 水の弾丸の数は、ものの数秒で百を超え、たちまち数百にまで上った。

 飛鳥は、準備は整ったと言わんばかりに、決意を秘めた瞳を鵺へと向ける。

 標的を見据えた彼女の淡い水色の瞳は光り輝き、彼女の特徴的な服――“業天(ごうてん)”に埋め込まれた水色の水晶もまた、淡い光を放った。

「生成――無双水玉(むそうすいぎょく)五百箇いおつ

 水玉・一閃は、敵の一点のみを狙う貫通型の弾丸である。対し、この無双水玉・五百箇は、貫通などという生温いものではない。完膚なきまでに敵を破壊するための全体攻撃。また、五百箇の弾丸は一つ一つが彼女の(こと)()――祝詞(のりと)によって生成された特注品の弾丸だ。一つでもアスファルトを障子の如く軽々と突き破ることができるというのに、それが五百箇(いおつ)――すなわち五〇〇。 まさに、必殺の名に相応しい彼女の切り札である。

穿(うが)て」

 彼女が呟き、その人差し指を鵺へと向けた時、一定周期で彼女の周りを回転していた水の玉は、牙を剥く。

 これほどの弾丸を、鵺ほどの巨体がよけられるハズがなく、また耐えうるほどの耐久力も持ち合わせてはいないはずである。

 飛鳥が勝利を確信した時だった。

『システム再起動。状況認識。タイプキメラ、援護スル』

 気味の悪い機械音声が鳴り響いた。

 すると、飛鳥の前方数一〇メートルの位置でアスファルトが爆発する。と同時、飛鳥の眼前に、ツギハギの怪人――飛鳥ら天児が『殻人(からびと)』と呼んでいる存在が姿を現した。

 この殻人は、今先ほどまでアスファルトに顔を埋めていた個体だ。もう動くことはないだろうと思い込み、鵺だけに焦点を絞っていた飛鳥は、この想定外の事態に対処しきれない。

「――っ!」

 無双水玉・五百箇を放つことを放棄し、咄嗟に後方へ飛びのくと、殻人はその拳でアスファルトと叩く。おそらく、殻人が飛鳥を殴り損ねたのではなく、意図的にアスファルトを狙った。そうすることで大量の砂煙が蔓延し、飛鳥が鵺を狙えないと考えての行動だろう。

 殻人の想定通り、飛鳥の視覚は一瞬にして奪われた。

 見えない。敵がどこにいるかわからない。また、遠距離から中距離で主に戦闘を行う飛鳥からしてみれば、敵がどこから現れるのかわからないこの状況は、危険すぎる。

 これだけの砂塵に包まれては、視覚がまるで役に立たない。飛鳥が標的を定めることはままならない。のみならず、飛鳥には敵を倒すという目的に加え、鈴を守るという最優先事項があった。この砂塵の中で鈴を襲われては、守れるものも守れない。

 後方へ飛び退きつつ、その過程で鈴を抱えた飛鳥は、さらに後退。砂塵の外へと飛び出した。

 敵の追撃は無し。もし追撃されたときを想定して、念のために牽制用の水の弾丸を空気中の水分より二・三個生成する。いつ、どこから襲われてもいいように、飛鳥は注意を張り巡らせ、ぎゅっと鈴を抱きしめる。

 しばらくして砂煙が治まると、そこには荒れ果てた通路だけが存在していた。殻人どころか、鵺の姿すらも見当たらない。どうやら、彼らは撤退したらしかった。

「……終わった?」

 呟いて、もう敵はいないのだとわかると、ふにゃりと飛鳥はその場に座り込んだ。

 いつ殺されるかもわからない戦場。その戦場の中で鈴の命を背負う責任感。極限のプレッシャーの中で戦っていた飛鳥の心身は、共に疲れ果てていた。

 使用した技が少なければ、体に受けた傷こそないものの、もう一度戦えと言われても無理だと即答できるほどの疲労が、今になって飛鳥に襲い掛かる。戦闘中には聞えなかった心臓の音が、今になってバクバクと脈打ってうるさい。鵺を相手に抱いた恐怖も今更やってきて、体が小さく震えていた。

「でも、なんとか一人だけは守れた……」

 飛鳥は、鈴の胸に顔をうずめた。

 例え血まみれでも、脈がある。心臓の音が聞こえる。呼吸をしている。腕に眠る少年は、生きている。

「……ごめんね、鈴くん」

 辛い思いをさせてしまった。辰人くんを助けられなかった。

 自分の身勝手のせいで、鈴は辰人を守ることができなかった。目の前で辰人くんを失った。鈴はきっと、自分のせいだと後悔する。苦しむ。

 全部、自分のせいだ。自分の我がままで、結果あなたを苦しめることになってしまった。

「本当に、ごめんね……」

 呟いて、水無月飛鳥の意識は、そこで途絶えた。


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