悪夢
夢を見る。
時神鈴は、夢を見る。
この夢は、一体誰のものか。
自分のものでは無いことだけは分かるけれど、しかしそれが誰なのかわからない。
時神鈴の夢の中には、とある惑星があった。その惑星はとある恒星から見た第四惑星で、恒星のもつ光と熱によって動植物が生まれた。
地球に同じく水があり、大気があり、やがて生まれた生物は進化し、『人』となる。
やがて『人』は、地球と同じく国という概念に近いものを作り、そして多くの『国』は発展させる。その『国』の中の一つには平等を謳うものがあった。
その『国』はまだ大した発展をしておらず、地球における弥生時代程度のようなものである。ようやく道具を手にして田畑を耕し、農作物を育てることを覚えたばかりだったのだ。
彼らが地球でいう日本人と異なる所があったのならば、それは他者を思う気持ちが欠けていると言うところか。この『国』において大切なものは何より自分だ。自分よりも他者を優先するというのは、異端者のすることであった。
そんな彼らの多くは、やはり農民である。それ故にほとんど差別のない民主国家であった。
たまに占い師のような存在が現れたり、僅かながら権力を握る豪族などが現れたりはしたが、大きく体制が変わることはなかった。
多少大きな力を持つものがいる程度の民主主義。多数決が総ての世界だった。
――これは夢の世界。
時神鈴が見た、誰かの夢にある不思議な世界。
夢の世界であるが故、誰に説明されるでもなく、時神鈴はその世界の法則を知っていた。
なにしろ夢だ。どんな奇妙な事実だろうと、夢の中では疑問にすら思わない。
そんな夢の世界には主人公がいた。
異端とも言えるべき「他者を助ける」ことを家訓とした貧しい家に、主人公――『彼』は生を受ける。
『彼』は、四人家族だった。
父がいた。
少しばかり年をとっていたが、背中で語り、人としてどうあるべきかを教えてくれる、誰より強く優しい父だった。
母がいた。
父に比べると若く、そして美しかった。努力を怠ることを嫌い、父の背中を見守りつつも時に支える、そんな母だった。
妹がいた。
年は十三、それなりに育ってきたもののまだまだワガママで、よく母に怒られている。けれど『彼』を信じ、尊敬し、慕ってくれる妹だった。
『彼』は、幸せだった。
年はとっていたとしても、誰より強くかっこいい父が好きだった。まだ若いのに父と共に家族をまとめ、背中を支えてくれる母が好きだった。童心が残るものの、ただ一人の可愛い妹が好きだった。
他の家に比べれば、土地も田畑は少ないかもしれない。家族も少ないかもしれない。食べるものが、貧しいのかもしれない。
それでも、『彼』は幸せだった。
生活に多少不便はあれど、住む家がある。田畑があり、食べるものがある。少し離れたところには井戸があり、衣食住には困らない。なにより大好きな家族がいるだけで、『彼』は幸せだと感じることができた。
そんな最中、一六になった『彼』には許嫁ができた。
彼らの国では許嫁というのはごくごく普通の存在である。どころか、一五で成人と認められる『彼』らにとってはむしろ、一六で許嫁を決めるというのは遅いぐらいだった。
『彼』はこの許嫁と結婚するのだろうと思っていた。
しかしある時、許嫁は殺された。
目覚めたとき、『彼』は土木づくりの牢にいた。
『彼』だけではない、『彼』の家族は皆、ひとつの牢に閉じ込められていた。
昨日の記憶を掘り返すと、少年のいた村の何人かが突然家に押しかけ、頭を棍棒か何かで殴り倒された情景を思い出した。
どうして牢に入れられたのかわからない。
けれど、家族が牢に閉じ込められている。それが事実であり、全てだった。
牢の前には、『彼』たちを囲むように多くの者たちが現れた。
「現在貴様らは、とある罪により投獄されている」
一人の男が言った。
曰く、許嫁殺害の容疑が『彼』とその家族にかけられているらしかった。
当然『彼』にその覚えはないし、父も母も、妹もそのようなことをする人間ではなかった。むしろ許嫁を早く嫁に迎えたいとすら皆が思っていたのだから、彼女を殺すなどありえない。
父は無実を訴えるも、誰もが聞く耳を持たなかった。
この国は民主主義によって統治されている。少しでも力のある誰かが「悪」と告げたとき、他の誰かも賛同すれば、それは事実とは無関係に「悪」となる。
皆が黒と言えば、白いものも黒くなる。つまりは、『彼』たちの投獄の件もそういうことだ。
「なに、心配するな。俺がお前たちの無実を証明してくるさ」
それが、父の最後の言葉。
まず、父が審判にかけられ、そして姿を消した。
その日は、耐えず街中を馬が走り回った。その馬を見ようと国民は集まり、馬にくくり付けられたモノを見て笑ったという。
父が姿を消したというのはどういうことなのか、『彼』と母は嫌でも理解した。なにより、父は家族を見捨てることなどない人だったから。
次に、母の審判が行われることとなった。
「あなたたち、体調管理に気をつけなさいね」
牢の中で体調管理を気をつけろというのも変な話だが、この言葉には多くの意味が込められていたのだろう。『彼』は泣いて頷いた。妹は「お母さん行かないで」と泣いた。
母は、姿を消した。
その日は、小さな古小屋に大きな行列ができた。多くの男たちは行列に並び、それは数日ほど途切れることがなかったという。
次に、妹が呼ばれた。
怖い。離れたくない。お兄ちゃん。
妹は、これらの言葉を繰り返していたように思う。
その日は、無数の大人たちに刃物で切り付けられ、両目を潰され、兄と親の名を呼び泣く少女の姿が全村民の前で晒されたという。
彼女の瞳には、誰の姿が映ることもなかった。
最後は、『彼』の番だった。
「お前の家族は、散々家族の心配をしてから死んでいったよ。中でも妹は、最後までお前の名を呼んでいた」
全身を縛られ青銅の断頭台に繋がれた『彼』は、獣のように縄を振りほどこうともがき、最大の呪詛を込めて、事実を語る少女を睨みつけた。
少女の隣に立っていた男は睨みを利かせる『彼』の頭を地面に押し付けたが、それを少女は止めさせた。
「そう怖い目で睨むな。この件を起こしたのは私ではない。私はただの厄祓い。大した力も持たない、一人のしがない呪術師だよ」
言った彼女は、しかし、と人差し指を顎に当てた。
「お前はなかなか私の好みの顔をしている。私の力は大したものではないが、けれどお前一人ならばなんとか生かせるだろう。さて、どうする。よければ、私の男にならないか」
「断る。お前にかけられる情けはない」
「……そうか、残念だ」
「これよりこの忌み子には禊祓いを行い、その汚れた生を断つ」
隣に立つ老婆から、少女は青銅でできたスズと青い木の葉のついた枝を受け取り、周りの者を退かせた。
「此のかれ、汚れた血。おぞましき人殺しの血。如何なる理由があろうとも、人殺しは許されぬ。かれ、月満る国の悪である――」
舞いの中で少女が少年を指差すと、周りの男たちは担いできた木樽をひっくり返し、『彼』の頭に水をかけた。少女が指示すると、無理やり開かれた口の中にも水を流し込まれた。激しく咳き込む少年を見て、少女は微笑む。
「穢れを払い給え……」
少女が少年の顔に両手を添え、顔を近づける。「最後の餞別だ」と、接吻をした。
少女は強く唇を押し付け、その舌を無理やり『彼』に突き入れる。驚き抵抗を試みようとした『彼』だったが、顎が外されているために閉じることが出来ない。それをいいことに、少女は飢えた獣のように『彼』の唇を求め、そして唾液を流し込む。
「気分はどうだ」
一度唇を離した少女が少年に何か語り掛けるが、『彼』は睨むだけ。
そうか。小さく動いた唇は再び『彼』のそれに重ね合わされた。
今度は、唇が触れるだけのものだった。
その光景を見て、周りの老若男女は「よかった、よかった」と口々に言う。
これで救われる。これで助かる。あとはアイツが死ねばいい。人殺しは消えてくれ。妻殺しは許されない。穢れの存在は許されない。
多くの人々の前で、少女との接吻が終わった。
『彼』の口元には、彼女のものと思われる唾液が垂れていた。またそれが土にしみこみ、濡れている。
顔を赤らめながら『彼』から離れた少女は、「ではな。くれぐれも私を恨んでくれるな」とだけ告げて後ろへ下がる。
ああ、お前だけを恨みはしないよ。
思って、『彼』は世界を恨んだ。
「汚れた首を、落とす」
少女が大衆に向け言うと、大衆は歓声を上げた。
「落とせ、落とせ、落とせ、落とせ」
そいつは妻殺し。生きてはいけない汚れた存在よ。
「落とせ、落とせ、落とせ、落とせ」
狂気的なまでの万人の歓声が、『彼』の死を望んでいることを告げている。
「落とせ、落とせ、落とせ」
『彼』は、家族が好きだった。
『彼』は、自分の人生が好きだった。
けれど、出る杭は打たれるもの。幸せであったがために、自分という杭は打たれた。皆が黒といえば、白であろうとそれは黒。皆が黒く染まったとき、己も黒く染まれなければ、それは確実な異端となるのが民主主義。
父の主義が問題だったのかは知らないが、気付かぬうちに『彼』ら家族は異端となっていたようだ。
「皆の幸せがため、異端者は排斥すべし。落とせ、落とせ、落とせ」
これは、どの宗教にも存在する、仲間意識の最後の形。
ソレに、家族は殺された。
異端のレッテルを貼られ、偶然か必然か、起こった身近な不幸を利用され、罪を擦り付けられ、殺されたのだ。
――あぁ、ふざけるな。
自分は悪いことはしていない。なのにどうして不幸を自分たち家族が被らなければならないのか。所詮他人を道具としかみていないのだろう、お前たちは。同意を求め、賛同を求め、それが正しいか間違っているか考えることもないまま、求められるままに長いものに巻かれるだけなのだろう。
「皆の幸せがため、汚れた家族の首落とせ。落とせ、落とせ、落とせ」
長いものに巻かれるだけの奴らが、自分の家族を間接的とはいえ殺したことが許せなかった。
異端の排斥。そんなことのために、殺されたのが我慢ならなかった。
「これで皆が救われる。これで皆が助かる。あとはアイツが死ねばいい。人殺しは消えてくれ。妻殺しは許されない。穢れの存在は許されない。皆の幸せのためならば、奴らも本望であろうよ」
自分たち家族はお前たちと違って仲がいい。それぞれがそれぞれを思いあった家族だった。それがお前たちにとっての異端だったとしても、自分たちにとってはその異端が幸せだったのだ。
大した絆を持てないお前たちが、どうしておれたちの絆を断ち切ることが許される。
お前たちはお前たちで、勝手に罪を擦り付けあえばいいだろう。そこにどうしておれたち家族を巻き込んだ。
「人を殺すは罪悪。因果は総て還るべし。であるなら、その命、断たれて然り。これもすべては皆が幸せがため。落とせ、落とせ、落とせ」
落とせ。殺せ。その行為がさも神聖な儀式であることのように、『彼』を望む総てが声をそろえて歌う。
落とせ、殺せ。誰かの犠牲のもとに己の幸福が成っていることも知らず、無知なまま無垢なまま民衆は万人の幸せを唄う。
自分は幸福になりたい。それで誰かが不幸になろうとも、自分は幸福でありたい。もし犠牲が必要ならば、死んでくれと彼らは言う。
――ふざけるなよ。
どこまでも自分のためだけに生きているくせに、「皆が幸せがため」だと。なんだそれは。貴様らは己の幸一つあればいいのだろう。他の者など知らぬ存ぜぬ、己以外は目に見えておらぬだろうが。どこまでも自分のために、己以外の全てが不幸であろうとも、己一人幸せであれば、それが己の望むもの。
ああ、これがこの世か。これこそが人間か。
強きに巻かれ、弱きを虐げる。危険を退け安定を求めて、必要であれば媚び諂い、必要であれば虐げ侮蔑し、他者を持ち上げ他者を見下し、情すら利用し総てを切り捨て天を獲る。
神は問う。
ここに倒れた人間、踏みつければ金が出る。なればお前は如何とす。
救いの手を差し出すか、目には見えぬ『正義』、目に見えぬ『道徳』だとかいう思想の下に、救いの手を差し出すか。
それとも、遠慮容赦なく踏みつけるか。己の得のために他者を踏みつけ蹴落とし、零れる金を諸手に笑い喜ぶか。
金が手に入るに越したことはないよなと願う、それこそが人間だ。
人は、己の幸福のために他者を踏む。
金出る金出る、これ踏めば金が出る。その蜜の味を知り、嬉々として他者を蹴落とし踏みつけ、吐き出された血と共に零れる金から富を得る。
己がために他者を蹴落とす痴愚どもは、其の血と共に零れる金塊を、蜜が如くに啜り行く。あな美味し。あな甘し。人の不幸は蜜とはよく云った、あな素晴らしき味かなこの蜜は。
恥を知らずに高らかに、さも清らかに、「これも皆のため、皆の幸せがため」と謳いあげ、いつか己が踏まれるとも知らず、無知蒙昧な痴愚どもは、今日も明日も他者を踏む。
それが人間、それが人。
己が良ければ総て良し。
なのに奴らは、「皆が幸せになれて幸福だ」とのたまう。
真に求めるは自分の幸福。もし己が皆のために生贄になるとなれば世界を呪うくせに、奴らは「皆のために生贄となれ」と、さも「皆のために死ねる。それは幸福なことだ」と当然のように言う。
何が皆のためだ、真に欲しいのは己の幸福のみであろうが。
そんな貴様らが他者の幸福を語るだと。
――ふざけるなよ、醜い塵芥どもが。
貴様ら人間、すべからく外道であるべきだ。愛を語るな、情を語るな、貴様ら余さず根は悪魔、所詮は己の幸せ在りきの人生よ。偽りの正義を掲げて自分は正しいなどとのたまうな、気持ちが悪いのだ。――故に、今ここで死ね。
極大の憎悪の中に、何かが目覚めた。
勧善懲悪。
善は勧めるべきことであるが、悪は懲らしめねばいかんよな。しかしこの場に善などはあり得ないのだから、貴様ら皆懲らしめねばならんよな――皆殺さなければいかんよな。
切り落とされたハズの『彼』の首は、新たなカタチを持ってこの世に降臨する。
――貴様ら所詮は有象無象の塵芥、自己のために互いを排斥し成り上がるだけの存在だろう。それがどうして、おれたちの絆を断ち切ることが許されるのか。
降臨したソレは、憎悪を乗せて咆哮する。
貴様ら皆悪、故に残らず皆死ねよ。貴様ら皆、絶望の淵に落としてくれる。さぁ、泣けよ喚けよ、その醜い命を散らしてくれる。
その恐怖に引き攣った顔でおれの空腹を満たせ。愛するものを殺したくないと泣き叫びながら、自分の命可愛さにその手で愛するものを殺すところを見せてみろ。
崩れる友情、ヒビ入る愛。血に塗れた貴様らがこれまで築いてきた大切なものを自ら捨てるその様を、このおれの前で見せろ。さぁ始めろ、塵屑同士喰らい合え。自ら愛を壊すがいい。それが貴様ら人間の本性だろうが。
仮面は要らぬ。道化も入らぬ。醜い本心一つあればいい。この世は総じて醜いものに溢れていれば良いのだ。例外、この世に輝くものはひとつだけ。我ら家族の絆のみ。残りはすべからく無用の産物、汚れた泥だ。
この刻をもって、タタリ神は誕生し、一つを除く全ての愛を否定するため、極めて醜悪な勧善懲悪を顕現する。
数多の蟲が吽禍の肉体より溢れだし、それは瞬く間に人を喰らった。
蟲から我先にと逃げ惑う人々を吽禍は見る。
他者を踏みつけ、押しのけ、己がよければそれでいいと逃げ回る。
あぁ、なんと醜いことか。笑った。腹を抱えて笑った。
自分たち家族の絆に比べれば、お前たち家族の絆など底がしれたもの。偽りの正義、偽りの絆、偽りの善などは捨て去って、己のために逃げるがいい。
子供は残らず捨てられた。老人は押し倒された拍子に怪我をした。丈夫な若者ばかりが、我先にと姿を消した。
まさに崩れる友情。まさに、ヒビ入る愛。
「愛した者を裏切るか。」
だがそれが貴様らの本質、罪人の証。ならばその罪、このおれが裁いてやろう。
「自ら友情を捨てるか。」
泣きやまぬ子供たち、呻く老人たちに、吽禍は諸手を広げて叫んだ。
「さぁ憎め。さぁ呪え。その恨み、このおれが晴らしてやろう。」
己の細胞である蟲によって彼らは身を『暴食』され、心を『破壊』され、そして後に殻人と呼ばれる存在として『使役』される。
――殻人は命じられるままに、そして本能のままに喰らった。
わざわざ人を探して殺すことはしない、ただ喰らった。動物を、植物を、あまねく全てを余さず喰らった。
残るのは、草ひとつない荒れ果てた荒野のみ。
結果起こるのは、食料不足による人間同士の醜い抗争だ。隠れていた人間たちは互いに殺し合い、互いを喰らった。そうでもしなければ、生きる術がなかったからだ。
その様を見て、吽禍は笑う。
これが人の言う絆であると。これが人の友情、これが人の愛であると。己のために他者を利用することこそが、人の本性であると。
それと同時、知る。この世界に『善』はない。唯一存在していた『善』は、貴様らがその手で奪ったおれの絆だ。故に、善を殺した悪はすべからく懲らしめよう。
「死ね、残らず死ね。醜いのだよ、貴様らは。」
全てを喰らい、絆を破壊し、残る亡骸すらも己の手足として使役する。
「はッ。」
故に畜生。
「はははッ。」
故に外道。
「ははははは――。」
地獄の鬼より醜悪で、殺戮機械よりも残忍だ。
「はははははははははッ。ははははははははははははははははははッ!」
この世の如何なる言葉を持ってしても表現しきれる言葉はなく、故に醜悪の災禍。どこまでも純粋に、どこまでも際限なく、人の愛が壊れゆく様を笑い貪る姿はさながら――。
「血に塗れた貴様らがこれまで築いてきた大切なものを自ら捨てるその様を、このおれの前で見せておくれよ。さぁ始めろ、塵屑同士喰らい合え。自ら愛を壊しておくれ。」
――さながら、暴食の崇りであった――。
――――。
――――――――。
――『かれ』のものがたりはおわり。それは『かんぜんちょうあく』のものがたり。だれかのために生きた人たちが、「お前たち、へんだ」って言われて、わるいことなんてしてないのに、わるい人たちにころされて、おこった神さまは、わるい人たちをこらしめる。
このものがたりは、そんな、かなしいものがたり。
もし、一人でもだれかをたすけようとする人がいたのなら、神さまはこんなにもおこらなかったのかもしれない。けど、その人たちが生まれたところがダメだった。
みんな、じぶんのことしか考えない。じぶんが幸せになることしか、考えない。だから、神さまはもっとおこった。どうして、じぶんのことしか考えないの。じぶんのことしか考えないのに、どうして人の幸せをねがうふりをするの。
それは、まちがったことだって、神さまはおこる。
人の幸せを心からのぞまないくせに、人の幸せをねがうふりをする。それは「ぎぜん」で、「ほんものをくもらせる」ことなんだって、神さまはおこる。
ほんとうに人をたすけたい人がいるのに、「ぎぜん」をする人がいるせいで、いい人もみんな「ぎぜん」にされる。
「ぎぜん」はいらない。「かめん」もいらない。ほんとうのじぶんをかくして、いい人ぶるなんて、わるい人のすることだ。
ぼくも、そうおもう。ぼくも……そう思った。――俺も、そう思っていた。
――「善」を唄って醜い自分を隠し、心の底では「悪」を持つ。
人にはいい顔をしておいて、けれど内心では自分の事しか考えない。誰かを犠牲にしてでも、自分一人助かればそれでいい。己の幸福のために他者を利用する癖に、善人の仮面をかぶって、上手く綺麗に蜜を吸う。それこそまさに、悪魔の所業。
そんな人間は、要らないだろう。許されなくて、当然だろう。
過去が、蘇る。時神鈴の過去が、再びその目に蘇る。
あの日。あの時。あの公園で。
皆で遊ぼうと、誰かが言った。
公園で待ち合わせだと、誰かが言った。
見知った少女は一人、部屋にいる。
だから少年は、彼女を外へ連れ出した。
けれど、行われたのは集団による暴力行為。
「みんな、あいつと仲良くするんじゃなかったのかよ。どうして、殴るんだ。どうして、嫌だ、嫌だといいつつ、あいつを殴るんだ」
――なに、簡単だ。こやつらは我が身が可愛いだけの事。他者を踏むことで己が不利益を被らぬのなら、情け容赦なく他者を踏む。そういう生き物なのだ、人というモノは。
誰かが、言った。それは悪魔の声か。それとも、神の声か。
「だからって、こんな……」
――見るが良い。これが人。これが人間。これが奴らの本性だ。己のために他者を侮蔑し他者を見下し、蔑み貶し我が身可愛さに他を捨てる。
少女が、怪我をした。女の子なのに、皆から顔を殴られた。
彼女の笑顔が。喜びの表情が。己の思い描いた幸福が、皆の拳に壊される。
皆の「自分は痛い目に合いたくない」という一心に、壊される。
「ごめん」と一言告げて、皆は少女を殴っていく。
「なんでだよ。嫌なら嫌といえばいいだろうが。嫌ならやめればいいだろうが。辛そうに殴るな。辛いなら止めろよ。嫌々殴ってんじゃねぇ。さも自分は悪くないみたいな顔で、あいつに謝るな。仕方ないなんて言うなよ……」
「鈴くん、わたしを殴って……」
そうすれば、あなたは痛い思いをしなくて済むからと。
そうすれば、あなたが苛められることはないからと。少女は、笑顔で微笑んだ。
辛いのに。苦しいのに。わたしは大丈夫と、笑って言った。
一人でいた時、親すら含む誰もが敵に見えていた時、あなただけはわたしの味方でいてくれた。親がいなくなって落ち込んでいたわたしに寄り添ってくれた。それだけで幸せだったから、今度はあなたに幸せを返したい。けれどわたしには、これくらいしか返せないから。せめてあなただけでも、傷つかないで、と。
見ている此方の心臓が抉れるような、痛々しい笑顔を彼女は向ける。
「やめ、ろ……」
「あなたの幸せのために、わたしを踏んで」
――踏むぞ。お前以外の輩は、これを……この娘を容赦なく踏むぞ。では、お前はどうか。お前は一体どうするか。
「やめろ……」
「踏んで、鈴くん。わたしから零れる金を、甘い蜜を、あなたにあげる」
――見ろ、毎朝顔を合わせたあいつは、恐る恐るながら娘を踏んだぞ。零れる金を広い集め、甘い蜜を美味そうに啜ったぞ。
「やめてくれ……」
――見ろ、あの少女を。なんの躊躇いもなく娘を踏んだ。不必要なまでに繰り返し踏んだ。嬉々として踏み、その甘い蜜を啜り行く。
「もう、やめろよ……」
――そして、ああ、やはり。あの娘を守ると誓った者ですら――風間辰人ですら、娘を踏みつけ蜜を啜っているではないか。
「やめろ。やめろ、やめろ! やめてくれ、やめろよ、やめろ、やめろ……やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ――ッ!」
少女は告げる。わたしを殴れば、すべて終わるからと。泥だらけで怯えた顔で、今にも涙が零れそうな瞳で、切れて血がにじむ小さな唇で、告げるのだ。
「やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
ふざけるな。
なんだこれは、ふざけるな。
これが世界か。これが人の世か。
――然り。これが世界。これが人の世。金出る金出る、この他者踏めば金が出る。ならばと人は他者を踏む。滲むこの蜜あな美味し。他者を踏みて金を拾いて蜜啜る。他者はもれなく道具だ。己の意見を通すための道具。そして踏めば金出る道具。
――憎かろう。壊したかろう。これがお前の守ろうとしたものだ。これがお前の生きる世界の秘密だ。守る価値はあるか。お前が血反吐を吐いて助ける価値は、果たしてあるのか。
時神鈴は、なにも、答えられない。
ソレは静かに、そして優しく囁いた。
――真に美しきものを守るために、お前はどうしたのだったか。
この時、娘を守るために、かつての時神鈴は一体、どうしたのだったか。
確かに覚えている。今でも誇りとして、その行為はこの胸に刻まれている。
時神鈴は正義の名のもとに、加虐者たちを攻撃した。
――それは、間違っていたと思うのか。
「……間違っていたとは、思わない」
――其れで良し。因果応報、自業に自得。勧善懲悪、世の道理。悪は罰せられねばならんよな。悪は懲らしめねばならんよな。真に美しきものは、守り抜かねばならんよな。なァ――『助け』なければ、ならんよなァ。
「助け……る?」
助ける、今助ける、必ず助ける。
助けることに執着する魂は、ついと悪魔の甘言に耳を澄ませた。
その隙を、悪魔は逃さない。
――然り、美しきものを、助けなければならぬ。穢される前に。この世の汚泥をかぶる前に、救わねばならぬ。それが正しき心を持つ、おれたちのすべきことだとは思わぬか――。
「はて。さて。お前はおれにどれほどの笑顔を運び来るのかな。」
笑う吽禍の前には、時神鈴。
肉体は再生している。何の気まぐれか、吽禍が筋の一本、細胞の一つに至るまで完全に修復したらしい。しかし、開いた鈴のその目は虚ろだ。吽禍を見ているようで、吽禍を見ていない。
「世界を壊せよ、助けるために。」
告げたタタリの言葉に。
「……」
時神鈴は、静かに頷いた。




