最恐の敵
「犬死にかどうか、試してみやがれ!」
時神鈴は駆ける。
業天『白煌』を白銀に輝かせ、かつてない光を灯して駆ける。
しかし、吽禍は鈴の動きを寸分たがわず見て取った。
「なんだ、お前。それしか能がないのか。」
お前には加速しかできないのかと、吽禍は問う。
それに鈴は答えない。
ただ、加速する。
加速加速加速――なにより速く、眼前の敵を打倒する。
だが――吽禍は時神鈴と同等の速度で移動した。否、鈴よりも速い。
駆ける鈴の隣に並び、吽禍はその拳を振った。
避けようとした鈴だったが、無理だった。己よりも速い敵の攻撃を避ける術が、加速以外、鈴には存在しない。しかし加速しても敵の速度が己を上回っている以上、それは不可能。
鈴は咄嗟に両腕を交差させて身体を庇う。
構わず、吽禍は握り拳を開いて鈴の頭を掴もうとする。鈴は吽禍の手から避けようと動くが、間に合わない。頭を掴み損ねた吽禍だったが、その手は髪を掴んだ。
「お前、忘れているだろう。ここに時間は存在しない。」
言われて、鈴は思い出す。
此処は鈴たちの存在していた人間界とは異なる世界。直線、平面、立体。果ては空間、そして時間の概念すらもが存在しない天の国。
時間という概念が存在しない以上、時神鈴に加速は訪れない。
「は――ぐッ」
吽禍の膝蹴りが、容赦なく鈴の腹部に叩き付けられた。
逃れようとするが、吽禍が手を離す気配はない。再度、吽禍の膝が鈴の腹部に食い込んだ。
激痛。
幾たびの激痛が鈴の肉体を苛み、次こそは耐えられないと警鐘を鳴らす。しかし、吽禍は止めない。もとより、やめる理由がない。
「如何した、如何した。先の威勢は何処へ消えたのか。」
白い髪は揺れる。赤い瞳は嗤う。膝蹴りが鈴を襲う。
「笑止。」
膝蹴り。
「笑止、笑止。」
膝蹴り、膝蹴り。
「笑止、笑止、笑止。」
膝蹴り、膝蹴り、膝蹴り。
「笑止、笑止! 笑止、笑止、笑止、笑止、笑止、笑止、笑止笑止笑止笑止笑止笑止笑止笑止笑止――笑止千万ッ!」
膝蹴りが幾度も鈴の肉体を浮かし、トドメとばかりに髪を離した腕で、吽禍は鈴の顔面を殺すつもりで殴りつけた。
どさりと落下し、転がり、鈴は咳き込み吐血した。
あばらは半壊、その幾つもがおそらく内臓に突き刺さっている。
「この程度でおれを止めるだと。冗談は大概にしろよ小僧。」
転がった鈴の下へ歩みを進める吽禍の顔はもう、笑っていなかった。
「痛かろう。苦しかろう。ならば良し、ここで死んでおけ。」
ただ、鈴に死を与えるために、手を伸ばす。
「――断る」
もはや死に体でありながら立ち上がった鈴は、吽禍の手を跳ね除ける。
「まだ、終わりじゃない。諦めるには、まだ早い」
言って、脇腹を抑えながら吽禍を睨む。立つこと、口を開くことどころか、意識があることですら奇跡に近い時神鈴。その視線に興味を持ったか、吽禍は笑う。
「ほう、己の無力を知って、尚立つか。」
「生憎、諦めるのが下手糞でね……」
「ならば、耐えて見せろよ。」
吽禍が、消えた。
「――ッ!」
どこだ。
吽禍はどこだ。
辺りを見回しても、その姿はない。――後ろか。
勘か、それとも微妙な気配を感じたか。鈴は動き、迫る吽禍の腕を脇で掴んだ。
このまま、折る。
力を込めた鈴だったが、この腕はピクリとも動かない。
折れない腕をいつまでも抱えていたところで、有利なのは吽禍だ。折れないと判断した瞬間に鈴はその場を離れ、距離を取る。
「……悪くない。状況判断はできるようだな。」
吟味するように鈴を見た吽禍の視線には、余裕が映る。
もし時神鈴が吽禍を倒せる瞬間があるとするならば、今だけだ。悔しいが、吽禍が本気を出せば、鈴に勝機は完全になくなる。
本当に、圧倒的な力の差だった。
時神鈴は神の魂を宿す天児。対する吽禍は、その『呪い』を以て単独で神格へと至ったタタリ神。
以前戦った辰人などは、とても吽禍の足元にすら及ばない。
これが、タタリ神。
惑星ごと文明を破壊するだけの力を持った化け物。
「どうした。余興は終いか。」
もっとおれを楽しませてみろと、吽禍は笑う。
「――くッそ」
鈴は激痛を、肉体の警鐘を無視し、吽禍へ走る。
吽禍、その顔面に右拳打。
吽禍は、人差し指ひとつで鈴の拳打を弾いた。どころか、鈴の骨に亀裂が走る。
吽禍、その足に蹴り。
鈴が蹴りつける前に、吽禍は足を持ち上げ鈴の蹴りを受け止めた。
その心臓に、左正拳突き。
当たる前に、吽禍の拳は鈴の顔面を強打した。
脳が揺さぶられる、どころではない。頭蓋が破壊されたのかと錯覚するほどの衝撃に眩暈がした。
鈍る頭、揺れる身体でなんとか立っていられる鈴の肉体を、吽禍は情け容赦なく蹴り飛ばす。
再び、鈴は地に附した。
今度は、立てない。
頭痛に吐き気、飛び降り自殺に失敗でもしたかのような、辛うじて息があるほどの肉体の損傷では、当然身体は動かない。
「負けられないんだよ……」
けれど、その闘志は確かにそこに在る。
「勝って帰るんだよ、俺は……」
辰人のためにも。
飛鳥のためにも。
父がいて、母がいて、学校のみんなが、多くの人々が住む高天原のためにも。
――みんなの笑顔のためにも。
倒すんだ、お前を。
助けるんだよ、みんなを。だから。
「お前なんかに……負けちゃ、いられないんだよ……」
身体は動かない筈なのに。時神鈴は再び立った。
「――ほう。中々に見上げた精神力だ。ただ殺すには惜しいな。」
吽禍の言葉は聞こえない。
ただ立つことがやっとの鈴に、吽禍が迫る。
――あなたに恩を返したい。
吽禍の声は聞こえない。その動きは見えないし、また攻撃されたという痛みはない。
ただ、身体は動いた。
ならば、動けよこの身体。
せめて一発、こいつにデカいのをくれてやる。
「攻むは稲妻、守るは堅石。此の身は天津神より賜りし天之麻迦古弓。なればこの腕は、天津神より賜りし天之波波矢なり――」
自覚せぬ間に飛鳥の助けを受けた鈴は、祝詞を唱える。
これは辰人を倒した一撃必殺の拳。当たれば万象、破滅は免れない。
今しか勝機がないのなら、今ここで勝機を掴むしかないだろう。
「神魔滅裂・瞬牙散――ッ!」
ブレた拳。時間の理すら超越した拳は、偶然吽禍に当たった。
これこそ飛鳥の天運報効、その本領。何かをすればしただけ、その何かが己に有利な展開となる。
これに対する吽禍は――しかし何もしなかった。
例え鈴の拳が必殺であったとして。例え飛鳥の天運報効が最高の力を発揮して、吽禍の急所と言えるべき場所に必殺が当たったとして。
如何なる隣接世界にも吽禍を倒したという事実が存在しなければ、その幸運は得られない。如何に神であろうとも、毒すら持たない塵虫一匹に、武器も与えず人を殺す機会を与えるなどとは不可能だ。圧倒的力量差を覆す奇跡は、起こせない。
すなわち、それが時神鈴と吽禍の実力差であった。
どれほど足掻いたところで、『時神鈴に吽禍は倒せない』という事実がただそこに在る。
吽禍は首から血を吹いた。
しかし、それまで。
ずるりと、時神鈴の肉体は吽禍の前に崩れ落ちる。
吽禍の首に瞬牙散を当てた鈴だったが、必殺の一矢は吽禍を倒すには至らなかった。傷を与えることが精一杯である。そしてその傷も、たちまち塞がった。
足元で倒れた時神鈴を、吽禍は眺める。
初めは気味の悪い害虫を見るような視線だった吽禍の瞳は、今では面白い玩具を見つけた子供のように輝いていた。
「誰かを助けたいと願う救いの手。これが己の世界を破壊したら、さぞ楽しめるだろうな。」
邪悪な笑みと共に、時神鈴の肉体を吽禍の内から零れ出た蟲が、包み込む。
金色の羽は時神鈴を救おうと運を降ろすが、しかし無駄なことだった。
如何なる物事が起きようと――吽禍が足を踏み外そうが、天児の誰かが駆け付けようが、それこそ隕石が吽禍を直撃しようが、この事象は止められない。
鈴は瞬牙散を当てることに総ての運を使い切り、飛鳥の天運報効はここに効能を消した。
☆
金色夜叉――勝利。
草枕――勝利。
アーヴァン・ゲーテンブルグ――勝利。
水無月飛鳥――勝利。
時神鈴――――敗北。
くっと、嚆矢は歯を噛んだ。
やはり、吽禍と時神鈴の力量差は大きすぎた。無謀ともいえる戦いに赴いた彼の勇気は讃えたいところであるが、しかし地球を犯されては讃えられるものも讃えられない。
時神鈴には息があるが、このままでは闇に染まるのも時間の問題だ。
どうする、どうする、どうする――。
思考する嚆矢の目には、金色の翼を広げた水無月飛鳥が見える。
駄目だ、彼女を吽禍の下へ行かせてはいけない。
おそらくそこには、汚染された時神鈴が立つ。彼女に時神鈴は殺せない。
だが、だとするならば誰を行かせるべきなのだ。
他の皆は満身創痍、とてもではないが戦えない。
かといって嚆矢の結界に残る“舞姫”の二人を除いた天児は吽禍と戦うなど確実に拒否するし、かといって“舞姫”はもう度重なる稲妻を止めることに力を使い切っている。
ならば。
「ならば、ぼくが行くしかないな。」




