誇り
「爾に高天の原皆暗く、葦原中国悉に闇し」
潰鬼と撃ち合いつつ、アーヴァンの口から洩れた言葉はそれだった。
アーヴァンはこれを知っている。この祝詞は、彼の肉体を極限まで強化し、その神の力を最大限発揮する必殺を放つモノだ。
「此れに因りて常夜往きき。太陽、稍戸より出でて臨みます時に、その隠り立てしし神、その御手を引き出しき」
己は世界を救えない。けれど輝くべき誰かにはその力がある。であるなら。
――才無き己は輝けないことを知っている。だから己は、才ある者を輝かせよう。
「太陽出でましし時、大三千世界、自ら照り輝き――」
ここで潰鬼を落とすことこそが、吽禍討伐作戦において任された自分のすべきこと。『俺を置いて先に行け』と言った。先にはまだ、倒すべき敵がいる。とすれば、ここで眼前の敵を倒しても主役の輝きになんら支障はない。
であるならば全霊だ。加減はない。
「――森羅万象・山砕腕」
対する潰鬼は、アーヴァンの異常を感じ取る。
これから放たれるのは、これまでで最大至高の破壊の拳。ならば、破壊の具現として、己も最強の拳で臨もう。そのうえで、貴様を上回ろう。
「ぅおらあああアアアアアアアアッ!」
「ぬぉああああアアアアアアアアッ!」
拳が激突し――ピシリとひび割れた。
アーヴァン・ゲーテンブルグの拳は、血を噴き出した。
「――ぐぅッ!」
腕が、砕ける。
骨がへし折れ、皮膚は裂け、二度とこの拳は握れなくなることを咄嗟に悟る。
それでも、負けられない。此処での負けは許されない。
脇役には脇役のプライドがある。
俺を置いて先に行け、と言った。殿を務めるわけでも、前線の特攻を行うわけでもない。
必ず勝つから、心配せず先に行け。
その意味を感じ取ったからこそ、“明星”は先へ進んだ。だったら、ここで勝たなきゃ嘘だろう。
「神ィ! 今こそ力捻りだせやぁあああああアアアアアアアア!」
まだまだこんなものじゃない。天児最強の拳は、こんなところでは砕けない。
ピシリと、更にヒビ入る。
苦悶の声を漏らすことすら惜しい。
歯を食いしばる。
「ぬぉあああああああああああああああああああッ!」
眼前には、未だ砕けぬ拳を押し込まんとする潰鬼。
劣勢なのは目に見えて分かる。
それでも。それでも――。
ここで負けたら何にもならない。ここで死んだら、帰れない。
自分の勝ちを待ってる奴らがいる。自分の勝利に、星の未来がかかってる。
この星の輝きを見たい。彼らの――“明星”の輝きを見たい。こんなところで終わったら、何も見えないし支えられない。終われない。主役じゃないからこそ、主役を引き立てるために最高の仕事をしなければならないんだ。
「壊すだけが取り柄の筋肉バカが、この星の輝きを穢してんじゃあねぇぞぉおおおおおおおおオオオオオオオオオオオッ!」
これまで出会った人たちの顔が、アーヴァンの脳裏に過る。
“天神”の者たちの顔が浮かんだ。
多くの天児たちの顔が浮かんだ。
美龍と咲姫の顔が浮かんだ。
衣と桜花の顔が浮かんだ。
ハワードとオーガストの顔が浮かんだ。
鈴と飛鳥の顔が浮かんだ。
嚆矢の顔が浮かんだ。
そして――。
愛すべき妻の顔が、浮かんだ。
皆のあの輝きを、あの笑顔を、曇らせるものか。
自分はどうなっても構わない。ただ自分を優しく包んでくれる光だけは、霞ませちゃいけない。世界を包むあの光だけは、絶対に守りきる。
「負けらんねぇ理由が、あんだよ――」
アーヴァンの拳が、潰鬼の拳を押し込んだ。
「――むぅ」
潰鬼の食いしばった歯の隙間から、苦悶が漏れる。
壊れた拳で、徐々にアーヴァンは攻勢に持ち込んでいく。
押されている。我が。何故だ。
呟く潰鬼の姿は見えない。その声も、アーヴァンには聞えない。
ただ見えるのは、己が守るべきモノ。己が輝かせると誓った、掛け替えのないモノ。
――自分は恒星になれないことを知っている。ならば自分は、他の光をより強く輝かせよう。
それこそが、神の願いで。
それこそが、己の願いで。
そしてそれこそが、“俺たち”の祈りならば――。
この肉体、そして魂。この心に確かに存在している『誇り』に、恥じぬよう在るべきだ。
この肉体はゲルマンの誇り。
ここで敗北すれば、ゲルマンの肉体はその程度であったということ。
この精神は大和魂。
ここで敗北すれば、大和魂はその程度であったということ。
他のものを輝かせたいと願う自分がどうして、輝いているものを穢すことが許される。
故に今だけは。この刹那だけは。
女神よ、脇役に祝福を。
――あなたに、恩を返したい。
女神の報効は、アーヴァンに力押しをしなかった。
運を与えることもなく、腕の治癒をすることもなく。ただ、戦いの後に後遺症が残らないようにと、願掛けをした。
彼の誇りを守るため、戦いには手を出さない。その代わり、戦いの後にアーヴァンの拳が必ず治るようにと、運気を与えた。
この戦闘の局面において、彼女の祈りは何の意味も成さない。
――けれど、それで十分。
ただ女神が自分に微笑んだ。必ず勝てと、己の未来に祝福をした。それだけで、アーヴァンにとっては十分すぎることだった。
「ぶち抜けぁあああああああああッ!」
アーヴァンの拳は潰鬼の拳をたちまち砕き、文字通りその肉体を貫く。
彼を勝利に導いたその拳こそは、ゲルマンの誇り。
彼を勝利に導いたその精神こそは、大和の誇り。
彼はアーヴァン・ゲーテンブルグは、自分自身の誇りのため、そして輝かせるべきモノのため、此処に勝利を刻んだ。
☆
暗い世界。
霞む視界。
赤、赤、赤。黒、黒、黒。闇、闇、闇。――どこまでも、闇。
闇に、飲まれる。
ぐじゅりと、気味の悪い水音。
キチキチと、不気味な足音。
此処は、闇。
暴食された者が行き着く、魂の墓場、黒い世界。
這いずり回る蟲。それらは心を奪い、残るその身を、失った眷属の代替として使役する。
消えていく。
時神鈴を時神鈴たらしめていた総てが、消えていく。
誰かを助けたいと願った。
……ああ、そんな過去もあったような気がする。
守りたい笑顔があった。
……それは一体、誰の笑顔だったか。
取りこぼしたくないものがあった。
……なんだったか、それは。どうでもいいや。
正義の味方に、なりたかった。
……セイギノミカタって、なんだっけ。
蝕まれていく。その心が、精神が。時神鈴の『大切』が、吽禍に侵されていく。
その場所に日はない。光はない。ただ闇だけが広がり、行く先はどこにもない。
――何もない。
唯一存在するとすれば、それは一つの事実。
時神鈴は、吽禍に敗北したという事実である。




