変わらずにはいられない
「おはよ、鈴くん」
「おう、おはよ飛鳥」
いつものように、朝、迎えに来た飛鳥と共に、行ってきますと鈴は家を出た。
飛鳥と二人で、いつもの通学路を歩く。
「なぁ、飛鳥」
二人そろって歩く中で、不意に鈴は呟いた。
「ん、なあに?」
「お前さ、親に迷惑かけたなーって思うことある?」
「どうしたの、突然」
キョトンとした顔で鈴をみた飛鳥だったが、やがて「うん、あるよ」と、はにかんだ。
「へぇ。飛鳥って優等生だから、親を困らせることなんてほとんどないと思ってた」
「むっ。なにそれ、意地悪のつもり?」
「え?……あぁ、すまん。そんなつもりじゃなかった」
小学校の頃、彼女が不登校だったことを思い出す。今でこそ誰にでも優しく、男子生徒からも人気の厚い飛鳥だが、小学校の頃は虐められていた。
そりゃあ、不登校だったなら、いくら子供とはいえ親に引け目だって感じるだろう。
要らぬトラウマを掘り返したと、鈴は苦い顔をする。
「いいよ、もう昔のことだから」
けれど飛鳥は優しく、鈴に笑いかけてきた。
「それに、あのときの鈴くん、かっこよかったし」
「あの時?」
「あのさ、私が不登校のとき、鈴くんが遊びに誘ってくれたでしょ? 『みんながお前と遊びたいって言ってる』って言ってた時の――」
「あー、アレか……」
頭を抑えるように、鈴は髪をかきあげた。
飛鳥のヤツ、よく暗い思い出を笑顔で語ってくれるものだと思う。
小学時代――それも、風間辰人が高天原第一小学校に転校してすぐの頃だ。
辰人は頭が良く、多くのことを知っていた。たちまちクラスの人気者になった辰人だが、彼と誰よりも仲が良かったのは、時神鈴――すなわち、虐められている飛鳥の味方だった。
ただでさえ人気者であった鈴が飛鳥の側に回っているというのに、辰人までもが飛鳥の味方に回ってしまったら、今度は自分たちが虐められかねない。加虐者たちはそう思ったのか、ある作戦を計画する。
それが、鈴や辰人を含めたクラス全員で、飛鳥に暴力を振るうというものだった。
表向きは、クラス全員で不登校の飛鳥も誘って公園で遊ぼうというもので、人を疑うことを知らない鈴は言葉を鵜呑みにした。部屋から出ることを頑なに拒んでいた飛鳥を無理やり引っ張り出し、公園へ連れて行った。
もう、虐めは行われないのだと。みんながお前と仲直りしたがっていると言って。
鈴は加虐者のことを信じきっていたせいで、自分がこれから飛鳥を地獄に連れて行こうとしているのだと欠片も思わなかったのだ。思い返してみれば、この事件は、鈴にとっても飛鳥にとっても、本当の地獄だった。
裏切られたとか、悲しいだとか辛いだとか、そのような言葉では表現できないほどの絶望を味わった。どうしてこんなにも、世界は残酷なのか。そんなことを、子供ながらに思ったものである。
クラス全員が集まった場で、加虐者たちは全員で飛鳥を殴れといった。一人づつ、順番に飛鳥を殴れといった。男も女も関係なく、ただ本気で殴れといった。殴らない奴は、飛鳥と一緒にみんなで囲んで殴るといった。加虐者が怖くて、殴られるのが怖くて、幼い彼らは、一人ずつ、飛鳥に殴る蹴るなどの暴行を加えていった。
飛鳥ともう一度学校に行けると信じた鈴。
一番信用できる幼馴染を信じ、公園まで足を運んだ飛鳥。
どちらの期待も大きく裏切る行為だったのだから、これほど残酷なことはないだろう。
飛鳥を庇えば、今度は自分がクラス全員から虐められる。それが怖ければ、飛鳥に暴行を加えなければならない。そしてクラス全員に彼女をいじめたという秘密を共有させ、辰人、更には唯一飛鳥の味方である鈴すらもを虐めに加担させようという計画。
子供ながらに、えげつないことを考えたものだ。
しかし、この圧倒的な数の暴力に抗う者がいた。
――それが、時神鈴である。
一刻の感情のまま動いたとはいえ、クラス全員を敵に回してでも――親友とまでいえるほど仲良くなった辰人を敵に回してでも、時神鈴は水無月飛鳥を守ると宣言したのだ。
結果的に、クラスの半分以上はいじめに対して非道だと感じていたため、加虐者たちに手を貸すことに否定的であったし、鈴が驚異的に喧嘩が強かったこともあり、加虐者たちは逃げ出した。その日、飛鳥はクラスの大半と和解することができ、やがて学校へ行けるようになったのだ。
結果はどうであれ、鈴からしてみれば、悪い奴の誘いに乗って飛鳥を悲しませてしまったという認識しかなく、非常に耳の痛い話である。
「あの時の、『飛鳥は俺が守ってやる。だからお前は傷つかなくてもいい』っていうセリフ、痺れたなぁ」
「それはもう忘れてくれよ……」
「ヤダ。わたしすっごい嬉しかったもん。一生の宝物」
えへへ、無邪気な笑顔を飛鳥は見せる。
「そんなモン、ドブに捨てちまえ」
照れくさくなった鈴は、道に転がる石ころを蹴り上げて、ドブに落とした。
「ひっどーい。ドブに捨てるなんてもったいないよ。わたし、あの時鈴くんが言ったたセリフは、ほとんど覚えてるんだよ?」
「やめろ本気でやめろよそれさっさと忘れてくれよ頼むから!」
「いじめっ子にパンチされて『痛いか?痛いだろー?』って聞かれても、『痛くねぇよ。身体の痛みなんか、これっぽっちも辛くねぇよ。飛鳥の心の方が、よっぽど痛いんだよ!』って言ってたね」
「やめてぇえええええええええええええ!」
古傷を抉られるよりも遥かに苦痛である。
「『正義の味方は、悪には絶対負けない!』とか『女のために身体張るのが男だろ!』とか」
「忘れてぇえええええええええええええ!」
耳を押さえて、次に来る被害を最小限に押し止めようとするが、もう飛鳥はあの時のセリフをいうつもりは無いようで、顎に人差し指を当てていた。
「実際、本当に一人でいじめっ子みんな倒しちゃうんだから、すごかったよねぇ」
「あー、それなぁ。自分でもビビったよ」
耳を押さえていた手を離して、鈴は言う。
「なんつーかな、体感速度が遅くなるって言うの? あいつらの動きが遅く見えてさ。後半戦は負ける気しなかったわ」
「ふーん……。車に引かれかけたり、命の危険にあったりすると脳に特殊な物質が流れて一瞬が長く感じるって聞くけど、鈴くんのもそういう感じなのかな」
「さぁ……。わかんないけど、とにかく飛鳥がまた学校に来れてよかったよ」
「鈴くんと、辰人くんのおかげだよ」
「そんな大層なことできてないよ、俺は」
謙遜なんかじゃなくて、鈴は本当に何も出来ていないと思っている。行ったのは喧嘩ぐらいだ。実際になんとかしたのは、辰人であったから。
「ううん、鈴くんがいてくれてよかったよ、ホントに。ありがとう」
「ホントに感謝してるなら、あの時のセリフを忘れてくれ」
「それとコレは話が別なのです」
暗い過去の話をしながらも笑顔でいられる飛鳥を見ると、彼女の中では本当の意味で『過去』として記憶に残っているようで、鈴は安心する。一時期は鈴以外の人と会話するのも怖がっていたほどだが、今では鈴や辰人の他にも、男友達も女友達も多くいる。
飛鳥がこうして笑うことで、自分のしてきたことは無駄ではなかったのだと思えて、このくだらない会話でも、自分にとって幸せなことだと思えた。
「しかし、アレだ。俺の恥ずかしい話ばかり掘り出されるのは不公平だから、俺も飛鳥の恥ずかしい話を掘り返そう」
防戦一方では不利なので、鈴は攻勢に出る。
「ど、どんな?」
「そうだな……。確かお前を助けた後、お前に『鈴くんはわたしの王子様だね』みたいなことを言われたような……」
「わ、忘れて!昔の話だから!」
三年ほど前だから、いうほど昔の話でもないだろう、と、ほくそ笑みながら、鈴はその時のことを思い浮かべる。
「あー、だんだん思い出してきたぞ……。確かその日の後、『なんか怖いから一緒に寝る』って聞かなくて、俺はお前の家で寝たんだよな。同じベッドだっけ。俺が嫌だって言っても、お前は全く聞いてくれなかったな」
「気のせいだよ! そんなことないよ! きっと夢だよそれ!」
「んで朝になったら、お前にベッド占拠されててさ。布団も毛布も取られた上に床に放りだされた俺が、次の日風邪ひいて寝込んだんだよな」
「もう意地悪言わないから勘弁してください……」
「よう、今日はやたら仲良く登校して来たじゃないか。なんかいいことあったのか?」
昨日に引き続きニヤニヤした顔で、教室で待っていた風間辰人は、鈴と飛鳥を茶化す。
「えー、わかっちゃう?」
含みのある言い方で冗談に乗る飛鳥の頭を、
「全然わからねーよ」
鈴は笑いながら、ペンと叩く。
「あう」
あんまり昨日とは異なる態度だったためか、辰人は目を丸くしていたが、自然に笑顔を浮かべて、笑い始める。
「はははっ。あ、そういや聞いてくれよ。昨日家に帰ったらさ、なんか母さんがボーっとしてたらしくて、電子レンジで卵温めてさ――」
他愛もない時間。
けれど、鈴にとってはかけがえのない時間。
こんな時間が、いつまでも続けばいいのに。
いや、きっといつまでも続くだろう。この先もきっと、いつまでも三人で一緒にいられるだろう。それぞれが結婚して、子供が出来ても、きっと子供同士で、また今の自分たちみたいに仲良くしているんだ。今みたいに、三人で笑っている。
それで、いつかジジイやババアになったら、今度は、孫たちが仲良くしているのを、三人で見つめているんだ。光り輝く、太陽の下で。
――『ああ、昔の俺たちみたいだな』って、笑いながら。
学校が終わる。
帰ろうと鞄を持つと、鈴は大きく欠伸をした。
辰人は今日、毎週通っている塾へ行く。よって、部活に所属していない鈴は必然的に暇になる。
本当は、辰人に『猟奇殺人事件について調べるのは止めよう』と言おうと思っていたのだが、どうにも言い出しづらかった。
辰人は塾で時間が惜しいだろうし、今でなくとも機会はある、と自分自身に言い訳をして、鈴は飛鳥の席へ歩いて行った。
「飛鳥、今日はどうする?」
飛鳥に問いかけると、
「ごめん、今日は学校で用事があってね……」
「あ、そうか。んじゃ、待ってたほうがいいか? それとも先帰ったほうがいい?」
「うーん……。今日は、先に帰ってて欲しいかな」
「おーけー。んじゃ、また明日な」
辰人も、またな。
手を振って鈴が教室を出る。ほかの生徒たちも、ちらほらと教室の外へ出て行った。
鈴が出ていくのを確認した飛鳥は、辰人に問う。
「――辰人くん、話ってなに?」
「すまん、場所を変えさせてもらっていいか」
☆
学校の校舎の影まで歩いて、辰人は歩を止める。「この辺りでいいだろう」と振り向いて、後ろに付いてきた飛鳥に目を向けた。
「なぁ、飛鳥」
「うん」
「……鈴って、すげぇヤツだよな」
どうしてかわからないけれど、そんな言葉が辰人の口から零れた。
こんな話をするために、飛鳥に無理を言って呼び出したわけではないのに。
「……うん、鈴くんはホントにすごいと思うよ」
「本気でみんなの幸せを願ってさ。そのために本気になれてさ。自分の正義をしっかり持っててさ。んで、どんなヤツが相手でも立ち向かうことができちまう」
自分にはそんなことはできないと、辰人は思う。
風間辰人には、何もない。勇気とか、正義感とか、人として大切な何かがきっと欠けている。辰人には、その辺りで拾ったような知識しか、持っていない。人は辰人の知識が羨ましいだのなんだのと言うけれど、こんなものは、その気になれば誰だって身につけられるものだ。いざという時に役立つものでもなければ、大したものでもない。現に、辰人は暴力を振るわれる飛鳥を見てもなにもできなかったのだから。
辰人は、三年ほど前の出来事を思い出す。
クラス全員で遊ぼうと誰かが企画して、それに不登校であった飛鳥も加えようと誰かが言った。鈴が引きこもっていた飛鳥を無理やり連れ出し、いざ遊ぼうとなったとき、それは始まった。
加虐者たちが、クラスの全員に飛鳥を本気で殴れと言ったのだ。
加虐者らはガタイがよかったし、クラスの誰もが歯向かえなかった。辰人も、同じだった。ただ、虐めの様子を見ているだけだった。
「飛鳥が虐められてたあの時だって、真っ先に啖呵切ったのは鈴だったよな」
見ているだけだったクラス全員の中でただ一人、虐めの流れをぶち壊す存在がいた。
それが、時神鈴である。
勝てるわけがないのにクラス全員に喧嘩を売って。たまたま、クラスメイトの多くが虐め反対派であったために、鈴の相手は加虐者だけだったけれど、それでも一〇人弱の人数を相手にして。
「俺なんか、鈴を止めようとしてたんだぜ、あの時。この人数に勝てるわけないからやめとけってさ。飛鳥だって、鈴がボコされるの見たくないだろうからって」
――ああ、正直ビビってた。
辰人は突如行われた虐めの様子に臆してしまって、何もできなかった。ただ黙って、静かに涙する飛鳥を見ているしかなかった。飛鳥は誰より辛い立場にあったハズなのに、あの場で「飛鳥に酷いことをするな」という勇気がなくて。情けない自分は、握った拳を震わせているだけだった。
怖い。嫌だ。見たくない。逃げ出したい。助けたいけれど、助けた結果、自分も虐められたらどうしよう。どうすればいい。わからない。嫌だ。逃げ出したい。ここに居たくない。だけど助けたい。助けていいところを見せたい。けど立ち向かえるほどの力がない。どうしよう、どうしよう、どうしよう――。
どうしようもなく、一人、辰人は震えるだけだった。
「でも、アイツは言ったよ。どんな時でも友達を助けられるのが、正義の味方だからって」
それを聞いた辰人は、なに馬鹿なこと言ってんだ、と思った。お前、怖くないのか、と思った。相手はクラス全員だ、勝てるわけがなかった。
けれど、鈴は敵を恐れなかった。
飛鳥の為に、恐怖に震える歯を食いしばって。飛鳥の為に、クラス全員に喧嘩を売った。
小学生という、狭い世の中しか知らない年代の子供たちからしてみれば、クラス全員という人数は、世界の総人口の半数ほどに匹敵する。にもかかわらず、たった一人の少女の為に、時神鈴は、己の小さな全世界を相手に、喧嘩を売ったのだ。
「敵わないって思ったさ。どんだけ強い心持ってんだよって。お前、友達の為にどこまでバカになれるんだよって思った」
みんなは辰人のことを羨ましいと言うけれど、彼自信はそうは思わない。
本当に羨ましい人間というのは、おそらく、自分でやりたいことが出来る人間の事だ。意思を強く持って、己が正しいと思えることが成せる人間のことだ。周りに流されるなんていうのはきっと、誰にだってできる。けれど、その場から浮くことがわかっていながら、大切なものの為にその流れに逆らっていける人間こそが、心底羨ましいと辰人は思う。
「同時に、俺ってすげぇ薄情な奴だと思った」
惚れた女の一人ぐらい、守れると思っていた。
けれど、その勇気もなかった。惚れた女が殴られ、蹴られている様を、見ていることしかできなかった。惚れた女が泣いているのに、自分はその場から逃げることばかり考えていた。クラスの何人かが無理やり飛鳥を殴ってているのを見て辛かったけれど、自分が殴る番になっていたら、多分殴っていた。
「最低だよ、俺は」
本当に最低の、ゲス野郎だ。
結局のところだ。辰人は惚れた腫れただとかいうのを一人で大騒ぎして、けれどやっぱり、自分が一番大切だった。そりゃあ人間だから、自分が一番っていう気持ちはあるだろう。けれど、そういうことじゃない。自分よりも大切にしたいと思った人よりも、自分を優先してしまったというエゴが、彼はどうしても許せなかった。
――話が、逸れてしまった。
「ごめん、本題に入るよ」
一度深く息を吸って、辰人は気持ちを落ち着け、口を静かに開いた。
開いた口から声が出ると思ったけれど、何故だろう、うまくいかない。渇いたのどが、声を出そうと息を吐くばかりで、その吐息が音になることはなかった。
もう一度深呼吸して、唾を飲んで喉を潤し、辰人は今度こそ、声を出した。
「飛鳥は、鈴のことが好きなんだろ」
単刀直入に、辰人は言った。
「……え?」
最初こそ動揺していた飛鳥だったが、やがて落ち着きを取り戻して、頬を赤く染めながら、小さな声で尋ねた。
「やっぱり、わかりやすいかな……」
「ああ、わかりやすいよ。びっくりするぐらい」
「……うう……鈴くんも、気づいてるのかな……」
「いや、アイツは間違いなく気付いてないから安心してくれ」
それは、ともかくとして。
息を飲んだあと、辰人は問う。
「飛鳥が鈴のことを好きなのは知ってる。けどさ……」
――俺と、付き合ってみないか?
この一言が、今の三人の関係を壊すことを辰人は知っていた。けれど、もう止めることはできない。
今までは、飛鳥には鈴が相応しいと思っていた。飛鳥が鈴のことを好きだというのは前から気付いていたし、飛鳥に見合う男は鈴ぐらいで、自分とは釣り合わないと辰人は思っていたから。
だから、三人で集まった時も二人きりにさせてみたり、鈴に飛鳥を意識させるよう会話してみたり、飛鳥と鈴がくっつく様に茶化したり。本当に、多くの手を尽くしてきた。
それなのに、結果はこのザマだ。
いつまで経っても友達以上恋人未満、飛鳥は鈴に好意を抱いているのに、鈴は一向に、そのことにまるで気づく様子がない。
どうしたら飛鳥と鈴をくっつけられるのかと辰人が考えていたときに、彼はふと気が付くことがあった。
――もともと幼馴染である二人が付き合ったとき、そこに、辰人の居場所はあるのか、と。
自分の居場所がなくなったら、もう三人で過ごすことができなくなる。それは鈴の望むところではないだろうし、自分だって望んでいない。
結局のところ、好きな女に幸せになってもらいたいなどと言っておきながら、辰人は自分が幸せになれなければその状況に耐えられないのだ。
それがわかったとき、自分がエゴの塊であることを自覚した。
時神鈴に嫉妬して、嫉妬して、嫉妬して嫉妬して嫉妬して。どうして風間辰人が時神鈴として生まれることができなかったのだと嘆いた。
鈴がいなければ、自分は飛鳥と結ばれていたかもしれない。鈴ではなく、自分が飛鳥の幼馴染だったら、自分は飛鳥と結ばれていたかもしれない。けれど、鈴がいたからこそ、不登校だった飛鳥と出会うことができた。鈴がいたからこそ、あの虐め問題から飛鳥を救うことができた。鈴がいなければ、辰人はただ勉強ができるだけの木偶の棒だったのは事実である。鈴の喧嘩の強さがあったからこそ、飛鳥を助けることができたのだ。
鈴の存在によって生まれた恋。けれど、鈴の存在によって叶わない恋。
どうしようもない気持ちが心の中で渦巻いた。嫉妬、友情、恋、嫌悪、悲しみ、エゴ、様々な感情が、辰人の中で、いくつもの美醜さまざまなものが絡まった、宝石が沈んだ沼の如くに混沌としている。ネバネバした黒い何かが、辰人の心を掴んで離さない。
その結果、辰人は、自分が一番幸せになれるであろう未来を選択した。
飛鳥の気持ちだとか、鈴の気持ちだとかは気にしない。辰人にとって一番の理想だと思う未来を選択したのだ。辰人の事だけを考えた未来を、選択したのだ。
「俺は、飛鳥のことが好きだ。友達としてじゃなく、一人の女として好きなんだ」
もう戻れないと分かっていても。今の心地よい関係が崩れるだろうと思っても。
辰人は、どうしてもこの選択を捨てきれなかったのだ。
ああ、自分はクズだ。この行為は、きっと誰も幸せにしない。どころか、誰もが望まない結末になるだろう。本当に好きな女の幸せも考えない。無二の親友すらも、裏切る形になるだろう。
辰人の問いに、飛鳥は――。
☆
いつものように学校へ行って。
いつものように他愛ない会話をして。
またいつものように、帰宅して。
そんな生活がいつまでも続くと思っていただけに、時神鈴はこの状況がイマイチ掴めなかった。
朝はいつも通りだった。けれど、学校ではなんだか違和感を感じる。辰人はいつもと変わらないようだけれど、飛鳥の様子がどこか違った。なにかあったのかと聞いても、なにもなかったよ、とはにかむばかり。
いや、絶対なんかあっただろう、と問いかけたかったけれど、聞いたところで、飛鳥はなにも教えてくれないだろう。
なにがあったのかと気になって、授業にもロクに身が入らない。
本当は、辰人と話をしたかった。昨日母親の美月に言われた、『事件について調べるのはやめよう』という話だ。
けれど、なんだかギスギスとした関係の中で、余計にギスギスしそうなその話を切り出すのには、どうにも気が引けた。
飛鳥が帰宅したあと、先に飛鳥と辰人の間の何かを解決しておこうと、鈴は辰人に問いかけた。
何かあったのかと。
「いや、なんもないさ。お前は気にするな」
それだけ言うと、辰人は鞄を片手に立ち上がる。
「もう帰るのか?」
「ああ、ちょっと家で調べものがあってな」
「そっか。んじゃ、またな」
「……おう、またな」
それだけの会話をすると、辰人は鈴に背中を向けて去った。
辰人の背中は、今はなにも聞くな、と訴えているような気がして、それ以上、鈴は何も問うことができなかった。
☆
夜。
誰もが寝静まった夜。
一人の年配の男が暗闇の中を走る。
なんなんだ。何が起きているんだ。
思い出せ、思い出せ――。
さっき酒飲んで、タバコ吸って。部下と一緒に入った居酒屋の帰りに、「あのクソ上司をブッ飛ばせるような力が欲しいよなぁ」などと叫んで、それから、それから――一体、なにをしたんだったか。とにかく、なにをしたか覚えてはいないが、なぜか突然、変な怪物に追いかけられて……。
「ああ、どちらにせよわけわからんだろうが!」
ただひたすらに逃げて、逃げて、逃げて、ようやく壁の影に背を預けた。
高校時代、陸上部で鍛えた身体は無駄ではなかったのかもしれない。昔と比べて体力の低下を嫌でも思い知らされるが、それでも、走り方だけは体が覚えていた。まさかこの年になって、若い頃に積み上げた陸上経験が役に立つとは。
追手――ツギハギだらけの変な怪物を、振り切れただろうか?
背後をそっと覗くと、何も追ってくる気配はない。
ほっと一息ついた瞬間だった。
「……え?」
ズプリという、鈍い音が聞こえた。
なにかと思えば、男の身体に腕が突き刺さっていた。
それは、自分の体から新しい腕が生えたのかと錯覚するほど、見事なまでに男の体を貫いていた。皮を破り、骨を砕き、臓器を裂いて、突き出していた。
たしか、昔見ていた忍者のアニメに、今の自分のような忍者がいたな。その忍者は『五つ』と呼ばれていて、両手、両足に加え、奇形として生まれたが故に、隠している胸から生えた三本目の腕を使う。その忍者は、そのすべてを腕と同等に使いこなすことができたので、五つの腕を持つ男というところから、『五つ』と呼ばれていたのだ。
いまいち状況を把握しきれないぼやけた頭で、男は思う。
「――あ」
こぽりと、口から液体が零れた。
初めは唾液かと思ったが、どうも違う。なんだか鉄のような味がするし、唾液とは比べ物にならないほど粘っこい。口からヨーグルトでも垂れているのかと思ったが、それも違う。
――赤い。
その赤いヨーグルトのようなものは、ポタポタと服に垂れてシミを作る。
ああ、まるで事件現場みたいだな。と、男が楽観しているときに、気付いた。
これは、血液だ。
ならば一体、誰の血なのだろうか。
考えている間に、男の意識は薄れていく――。
『……帰投シマス』
ずぽりと、血に染まった腕を引き抜いた人の形をしたソレは、生物のものとは思えない電子的な音で呟いた。
ソレ――彼、それとも彼女だろうか――が背を向け、その場を去ろうとした時だ。
「むぅ。一足遅かったか。」
どこから現れたのか、金色の女が闇より姿を現した。
赤い日本古来の着物のような服装に、腰を越えるほど長い狐色の髪。金の瞳に、ちらつく犬歯。そして……生えているのだろうか、金色の尾が尾てい骨の辺りから伸びている。
『……《天児》ヲ確認シマシタ。駆逐シマス』
怪物が、再度機械音声のような音で言う。
人のようでありながら、人とは似ても似つかぬその容姿は、いたるところに縫い目のような傷跡のような何かが体に刻まれており、人造人間の実験体――フランケンシュタインの怪物を思わせる。
「なんだ、その話し方は。さながら機械ではないか。元は人の子が、随分と様変わりしたものだな。」
――されど奴等は、既に人に非ず。なれば、こちらも容赦なく征かせてもらおうか。
相手は人とは思えぬ所業で、人に仇なす化物だ。人の子であったが故にくれてやる同情こそあれど、戦闘における慈悲は無い。
仁王立ちのままソレを見た金色の女は、視線を横にずらした。
「コレを仕留められるか、乙姫。」
金色の女が問うと、上空より舞い降りた乙姫と呼ばれた少女が、金色の女の隣へ着地した。
透き通るような水色の髪、そして水色の瞳。ところどころに水晶が埋め込まれた、着物のような、巫女服のような……どこか神聖という言葉を彷彿させる服装。
ふわりと立ち上がった彼女は言う。
「やれるかどうかは、戦ってみないと」
「左様か。なれば、汝は後方を抑えておれば良い。殺しは妾が担う故。」
「うん、わかった。よろしくお願い」
「なに、汝ほどの力があれば奴等程度、軽くひねり潰せるであろう。では、征こうか。」
「了解。――純情可憐に、参ります」
☆
『――曇りはほとんどありません。今宵は、綺麗な満月が見られることでしょう』
ぼーっと朝の天気予報を思い出しながら、鈴は教室から、窓の外を見る。教卓の方では教師がいつものように授業を行っていたが、どうにも耳に入らなかった。
三人の関係がどこかぎこちなくなってから、一週間が経過した。
猟奇事件は相も変わらず続いており、高校生の次は年配のサラリーマン、その次は一人暮らしの老婆。そしてつい先日、見回りでもしていたのだろう警察官の一人が犠牲者となった。いずれも、外出していた路上で起きた事件である。
一か月もしないうちにこれだけの出来事が起こったうえ、事件現場がこの高天原中学校の方向へ近づいているとなると、流石に学校も無視できなくなったらしい。休学にまでは至らなかったが、総ての部活は休部、授業も五〇分から四五分授業へ短くなり、加えて、集団登校、及び集団下校が、生徒たちに義務付けられた。保護者からは休校の声もあったらしいが、テスト前ということもあり、学校側からしてみれば苦汁の選択だったようだ。
「つーわけでさ、塾休みになったわ」
授業は終わり、教室に残る生徒たちが帰路に向かおうとしている中、風間辰人が時神鈴に言った。
どうやら辰人の両親も、辰人の身を案じて、塾を休むようにと言ったらしい。
「そっか。俺はなんも変わんねぇからなぁ……」
「いやいや、授業時間短くなった分授業のペース若干上がってんだろ。時神くんがひいこら言ってるの、ぼく知ってるよ」
「うるさい。黙れ辰人」
「もしかしてだけど、今の授業ペースに追いつけないんじゃないの」
「……」
「もしかしてだけど、ホントは俺に勉強教えて欲しいんじゃないの」
「先生おなしゃあああっす!」
ああ、いつも通りだ。
いつものように辰人と馬鹿やって、いつものように下らない日々を繰り広げて。本当にいつも通りの景色。風景。
ただ唯一、飛鳥がいないことを除けば。
いつもなら幼馴染が座っているはずの空白の席を見て、鈴は不安を感じた。
飛鳥の母親は体調不良で休むのだといっていたけれど、実際のところはどうなのだろうか。そりゃあ、こんな事件ばかり起きている近頃だ。外に出ないのはいいことなのだろうけれど、果たして、それが安全だと言えるのだろうか。
事件が起きているのは決まって深夜で、決まって住宅街。
未だ誰かの家で事件が起きたということはないけれど、鈴はなぜか、焦燥感に駆られた。
なにか、嫌なことが起きようとしているような気がした。うまくは言えないけれど、飛鳥に危険が迫っているというよりは、飛鳥がこの事件に絡んでいるような……。
あの飛鳥に限って、事件に関連しているなどとはあり得るはずのない事態である。であるにも関わらず、この焦燥感は一体――。
「――い。おい鈴、聞いてんのか」
辰人に呼ばれ、現実に引き戻される。
「あ……ああ、すまん。なんだって?」
「ちゃんと話ぐらい聞いてくれよ。ま、いいや。こないだから俺ら、あの事件について調べてるだろう? そのことに関して、ちょっとしたことが解ってな」
あの事件――連続猟奇殺人事件のことか。
『危ないことに関わってほしくないの』
悲しげな瞳で鈴に語る、美月の顔が浮かんだ。
「あのさ、辰人――」
「……んで、この事件現場なんだがな」
この件に関わるのはやめよう、そう言おうとしたが、辰人の声に押し切られて、鈴は口をつぐんでしまった。
そのまま、辰人の話は続く。
「高天原第五地区が最初の現場だろ? 次が第十五地区、その次が第四地区、そしてこの間が第三地区だ。被害者も高校生だったり、おっさんだったり婆さんだったりとバラバラ。けどよ、この事件にはある規則性がある――事件現場だ」
「……現場?」
「ああ、現場だ。ちょっとばかし調べてみりゃあ、高校生も、おっさんも、婆さんも、警察も。みんな外で殺されている。それも、第五地区から一直線に、事件現場はほぼ均等な間隔で、此処、第一地区に向かって進んでるんだよ。次に事件が起きるとしたら、これまでの事件の間隔からして――此の学校の目の前、学生通りの細道のどこかじゃないか?」
――ざわりと、胸騒ぎがした。
ここまで聞いて、鈴は辰人がとてつもなく危険なことをしようとしていることに、ようやく気が付いた。
「辰人……お前、まさか……」
なんだかんだと言っても、鈴と辰人はもう何年も付き合いがある。その付き合いの中で、辰人の言葉が冗談か否かなど、鈴にだってわかるようになっていた。
その予感を、悪い意味で裏切らないことを、辰人の笑みが証明していた。
「ああ、すでに準備は整ってる。犯人が通るだろうコースも、おおよそ検討はついてる」
となれば、結論は一つ。
「正気か? お前、それがどれだけ危険なことかわかってんのか!」
「なに、大丈夫だろう。犯人の動向は、俺にだって推測できるほどわかりやすい。おそらく警察だって、それなりに現場にいるだろうしな」
「けど、相手は……」
「一目見たら終わりにするさ。宇宙人がいるかどうか確かめたらな。それで、もし来たいなら、お前も来るかって話だ」
一目見るとか見ないとか、そういう問題じゃないだろう。
相手は何人も常人では考え付かないような、残酷な殺し方をしてきた猟奇犯だ。目が合えば、おそらくそこで殺される。そもそも、その犯人が人間であるかかどうかもわからない。化け物だったらどうするつもりなのか。太刀打ちするだけの力が辰人にあるのか。
だいたい、その場に警察がいない可能性だって十二分にあり得る。そのときはどうするつもりなのか。辰人一人で何とか出来るのか。例え警察がいたとして、警察がその殺人犯を捕まえられる確証もないし、そもそも人間にはどうにもできないほどの化け物かもしれない。事実、警察官も一人殺されているのだから。
――行かせるわけには、いかない。
鈴は、くっと歯を噛んで、吐いた息と共に、緊張を吐き出した。
どくどくと脈打つ心臓が、少しばかり大人しくなってくれた気がした。
「なぁ、辰人。俺は行かない。だから、お前も行くのはやめてくれよ、頼むから」
いつもの笑顔で鈴が言うと、案の定、辰人は疑問を浮かべた。
「今更何を言ってんだ、お前。もともとこの話は、お前の宇宙人がいるいないって話の真偽を確かめようとしたから出てきた話だろうが」
「ああ、そうだけど……」
「そもそも、この日のために、どれだけの時間を費やしたと思ってる。危険だってもちろん承知の上だ。だけどよ、その危険を冒してでも知りたいと思った。知る価値があると思ったのさ。この事件の犯人がなんなのか、お前だって興味があるだろう」
あるかないかと問われれば、興味はあると鈴は答える。人間の所業なのか、それとも人ならざる何者かの仕業であるのか。桜花という女の言葉からは、非日常の有無を確かめたくなるような、何かを感じた。
けれど、この問題は、ただの興味本位で、自分たちのような子供が首を突っ込んでいい問題ではないことを、鈴は知っている。
自分たちの命の危険があるかもしれない。命というのは、そんな簡単に捨てていいものではない。好奇心を満たすためだけに、捨てていいものではない。
「興味あるとかないとか、今はいいんだ。とにかく、俺たちの探偵ごっこはもう終わりにしよう。これは危険すぎる」
「危険だって? ハッ、笑わせんなよお前。今まで龍神兄弟として暴力団すらノしてきたことのある俺たちは、今更怖いものなしだろう。それこそ、無敵ってヤツだろうが。ま、いいさ。……怖いなら怖気づいてろよ。俺は一人でも行くぜ」
「怖いとかじゃなくて……だから……ああもう、行くのは止めろって!」
なんとかして、辰人を止めなければならないと、鈴の中の勘のようなものが、強く警鐘を鳴らしている。
絶対に行かせちゃならない。それはわかっているけれど、こういう時どうやって説得すればいい? もともとそういうのは頭がいい辰人の役割で、自分には向いていないことだってわかってる。それだけに、どういえば納得してくれるのかもわからなくて、鈴の口から気の利いた言葉の一つも出てこない。
行くな、やめろ。うまく言えないけど、行ったらダメなんだ。
自分でも呆れるぐらい幼稚な言葉しか出てこなくて、それこそ小学生でも使えるような言葉しか扱えない自分に、鈴は腹が立つ。思うように説得できない自分に、やるせなさを感じる。
この立場が逆であれば、幾分も楽であろうに。
「なんで俺を止めようとする。お前が来たくないなら来なければいい、それだけの話だろうが」
「俺は、お前にも危ない目に合ってほしくないんだよ」
「別にいいだろ、俺の勝手だ」
「違うだろ……違うだろ! お前だけの体じゃないだろうが、お前だけの命じゃないだろうが! お前の両親だって心配するだろうし、俺や飛鳥だって心配を――」
自分の名を出してからか、それとも飛鳥の名前を出してからだろうか。辰人の表情が、少しばかり変わった。冷たく鋭い目つきで、鈴を見る。
今まで向けられたことのない視線に、鈴は思わずひるんでしまう。
ぐっと拳を握りしめた辰人は、「それこそ」と絞り出すような声で言った。
「それこそ、お前らの勝手だろうが。誰も心配してくれなんて頼んじゃいないんだからな。だったら、俺がどうしようと勝手だろう」
「お前、そういう言い方は――」
「……それに、俺なんかはむしろ、いなくなった方がいいのさ」
虚し気につぶやいたその一言に、一体どんな意味が込められていたのか。
それは鈴にはわからない。きっと、一生かかっても鈴にはわからない。
誰もが幸せになれると信じている鈴には、辰人の気持ちはわからない。
「――ふ」
わからないけれど、鈴には許せなかった。
「ふざけてんじゃあねぇぞ辰人ォッ!」
思わず辰人の胸倉をつかみ、鈴は叫んだ。
なんだ、それは。自分なんていない方がいいだと、ふざけるのも大概にしやがれよクソメガネがと、鈴は激昂する。
なんで、そうなるのか。なんでそういうことを言うのか。鈴には辰人が必要だ。龍神兄弟というのは、名ばかりではない。彼ら二人は、本当の兄弟のようにぴったりの相性で、二人いればなんだってできる、と言われたほどの名コンビだ。その片割れがいなくなったら、残された者はどうすればいいという。
鈴は、辰人と一緒にいたいと願っている。飛鳥と三人、ずっと一緒に、仲良くしていけたらいいと思っている。だからこそ、「自分は不要である」と考える辰人が、どうしても許せない。
「みんなお前を心配してんだよ! お前が必要なんだよ! 俺だってそうだ、なんで自分はいないほうがいいなんて言うんだよ。意味わかんねぇよ。もう少し、他の人の気持ちも考えろよ……」
普段何も考えず、感情ばかりで行動する鈴だったが、今回はいつにもまして何も考えていなかったように思う。
そんな鈴に、辰人は、
「ふざけてんのはどっちだッ!」
拳に怒りを乗せて、思い切り感情と共に、鈴の顔にぶつけた。久々に振るった辰人自身の拳は、鈴の体を引きはがす。
辰人に殴られたという事実が理解できていないのか、鈴は驚愕に目を見開いている。
構わず、辰人は感情のまま鈴に言葉をぶつけた。
「いつまでもいつまでも、みんな幸せになれるとか信じてる理想の塊野郎が、自分の勝手なバカ丸出し思想を人様に押し付けてんじゃねぇぞォッ!」
いつも理屈が先にでて、物事を冷静に判断することを得意としてきた辰人が、鈴の前でここまで感情をあらわにしたのは初めてだった。
辰人も少しぐらいは思いなおすだろうと予想していただけに、この展開は完全に想定外だ。どうすればいのか、鈴にはまるでわからない。
開いた口がふさがらない鈴に、辰人は続けた。
「心配だ? 勝手にしてろよ。本当に心配してほしい人は、俺を心配なんかしてないんだ。その人だけいてくれればなんだってやれるのに、俺じゃあその人の『大切』にはたどり着けないんだよ。だったらもう、俺なんかに価値なんざねぇだろうが」
それだけ言うと、辰人は鞄を手に取った。
去ろうとする辰人に、鈴は何も言えない。
なにかを言おうと口をを開いたが、結局言葉にすることができずにいた。
「じゃあな。俺は行く。気が向いたら来いよ」
それだけいうと、辰人は教室のドアを開いた。
☆
怒りのまま閉めた教室の扉は、鈴を残して、バシリと悲鳴を上げる。
イライラする、一刻もこの場を離れたい。
その想いから、辰人は、早足で昇降口へと向かった。
「クソ、だっせぇな俺は」
自分の中にある汚いものを吐き出すように、辰人は毒づいた。
「ああクソ。だから嫌なんだよ、お前の隣は。眩しすぎて、汚れた自分が余計に目立つ」
辰人は、今の自分が何をしたのか客観的に理解している。これは、ただの八つ当たりであると。
好きな人に振られたから、鈴に当たっただけだ。
飛鳥に振られてから、さほど時間は経っていない。自分の気持ちの整理ができていなくて、辰人はもやもやした何かを、猟奇殺人事件について調べることで誤魔化してきた。けれど、誤魔化してきただけで、なにも解決なんてしていない。
総てわかっていたけれど、辰人は誤魔化すことをやめられなかった。そうしなければ、弱い自分は壊れてしまうと知っていたからだ。
「俺も、強くなりたいよ。お前みたいなバカに、なりたいよ」
頭の中で今日の計画を立てながら、辰人は廊下で呟いた。
☆
時神鈴は家に帰宅してから、何もする気が起きずにベッドに体を放り投げて天井を眺めていた。
脳裏に浮かぶのはすべて今日の喧嘩で、感じるのは辰人に殴られた頬の痛み。
心は心臓を切り取られたみたいに空っぽで、これからどうすればいいのかわからない。
とにかく気を紛らわそうと、ゲームでもしようかと考えたが、ベッドに放り投げた体を動かすことすら億劫になって、どうにもやる気になれなかった。
頭の中を支配するのは、やはり辰人のこと。「どうすれば止められたのだろう」とか、「あのときこういう言葉をかけていられれば、止められたんじゃないか」とか、今更考えても無駄なことばかりだった。
ああ、これって後悔っていうのかな。
思えば、鈴は辰人と喧嘩をしたことはなかった。いつも同じ気持ちで、感情を共有しているんじゃないかと思うほど息ぴったりで、鈴の常識は辰人の常識なんじゃないかと錯覚することもあった。
けれど、違ったのだと思い知る。
他人は他人。いままで辰人のことはわかったつもりでいたけれど、所詮はわかっていた『つもり』のだけだった。だから鈴には、どうして辰人が怒ったのかわからなかったし、どうすれば説得できたのかもわからない。
「あー、わかんね。なにもかも……わかんねぇわ」
天井に伸ばした拳で、鈴は、直接目に入るには眩しすぎる、部屋の電灯の光をふさぐ。
自分は、強い。この拳があれば誰にだって負けない自信がある。
けれど、この強さが一体自分に何をもたらしてくれるのだろうかと、ふと思う。
この拳があるからといって、人の心を自由にできるわけではない。この拳があるから、守れたものは確かにあるけれど。……けれど、その守れたものなど、たかが知れているのではないだろうか。
確かに、飛鳥は守れた。虐めを止めるきっかけにもなった。
――しかし、虐めを止めるには、本当にこの拳が必要だったのだろうか。
結局いじめを止めたのは辰人で、鈴自身はなにもしてはいない。当時の年齢らしく――子供らしく、感情のまま、気に食わない者を殴りつけただけだ。
確かに、万引き犯などを捕まえた。
――しかし、本当に必要な暴力だっただろうか。
もし鈴が倒さなくても、警察を呼べば捕まえられたことだ。
結局、鈴が欲しかったのは力などではなくて、辰人が持っているような、頭の回転とか説得力とか、そういう物理的な力とは無関係のものであったわけだ。
「すげぇよな、辰人は」
拳でしか語れない鈴と違って、辰人は頭が使える。口が使える。交渉ができる。
鈴は、みんなが仲良くできる世界を望んでいる割に、もっとも平和的解決である説得の力が、まるでからっきしだ。鈴が何かを言うと、大方のところ相手は怒り、結局最後は、殴り合いの喧嘩になる。
そう、今回のように――。
「俺は一体、何がしたいんだよ……」
辰人を止めたかっただけなのに、どうして、喧嘩などをしているのだろう。
「……救えねぇ」
頭の下に転がる枕を抱きしめて、鈴は考えた。自分は一体、何がしたいのだろうと。
決まっている。危険な場所に向かっている辰人を止めたい。
そこで、気付いた。
――ああ、自分がしたかったのは喧嘩じゃないだろう。
鈴はもちろん、おそらく辰人も、いつまでも喧嘩したいなんて思っていないハズだ。だったら、今すぐ動こう。こういうときこそ、自分らしく。
「俺に、何ができる」
この拳で、殴り倒してでも辰人を感服させて、引きずってでも、危険から引き離すことができる。
「なんだ、簡単じゃないか」
鈴に説得はできない。だったら乱暴でも、この拳を振って黙らせればいい。それしか、鈴にはできないから。野蛮な手ではあるけれど、それが正しいことだと信じてるから。
喧嘩して膨れていたって、何の解決にもならない。いつまでもウジウジと考えるのは鈴の性分ではないし、何かを起こせば、世の中、なるようになるだろう。どのみち、鈴の頭では、案などなにも思いつかないのだから、悩むだけ無駄だ。
考えるのはそれこそ、龍神兄弟の頭脳――風間辰人の領分なのだから。
「やりたいようにやる。なんか、そっちのが俺らしいよな」
考える前に動く。それこそが、龍神兄弟の肉体――時神鈴の役割だから。
謝るのは、後でもいいだろう。辰人は怒るだろうが、生きていればいつでも謝れる。何日、何か月、何年かかるかは知らないが、いつかは許してくれるはずだと思い至る。
考えるのは後でいい。今はとにかく、辰人を助けたい。
そうと決まれば、あとは行動を起こすだけだ。例え杞憂に終わったとしても、二人が無事なら万事解決だろう。問題など、どこにもない。
ベッドから飛び起きた鈴は、制服の上着を羽織ると、部屋を飛び出した。
「母さん、ちょっと出かけてくる!」
階段を駆け下りて、玄関の鍵を開け、
「今から? 今からは止めなさい!」
「ごめん母さん、すぐに戻るから家にいて!」
美月の制止も聞かず、鈴は玄関を飛び出した。
時刻は6時を回ったころ。しかし今日はまだ日は沈んでおらず、空は赤く染まっていた。