桃源郷
片腕を失い、そしてその能力までもを封じられたハワード。能力を封じられてはいないものの、ハワードを庇いながらの戦いになるオーガスト。
となれば、傀儡が有利に戦いを進められるのは言うまでもない。
「その首捧げテたもレ。クレッ、たモレ」
首をカクカクと動かしながら、その片腕に取り付けられた断頭台の刃は振るわれる。
鎌とはそもそも、稲を刈り取るための農具である。しかし現在では、巨大な鎌は死神の象徴、その所有武器という印象が受けられる。これは鎌が稲を刈りとるためのモノ――すなわち『刈り取る』という特性を有したものであるということ、そして東欧の風習などに由来すると言う。
鎌が稲を刈り取る様。それはなるほど、一見すればただの草刈りにしか見えないだろう。だが稲刈りは根元から刈り取るものだ。葉のついた茎を刈る、米の実った上部を奪う。葉と根を切り分ける――この行為は確かに植物にとって肉体と魂を切り分けられるに等しい行為ではないだろうか。そう考えてもみれば『刈り取る』特性を有していると言える。
つまり鎌は、ただ『斬る』だけではなく、『切り離す』ための武器というわけだ。
故に、肉体と魂を切り離すと関連付けられ、その特性を帯びている。
であれば、この攻撃は喰らえない。
咄嗟に判断したのだろう、ハワードは首を狙った一撃を身を倒して回避するが、傀儡の連撃は止まらない。
特殊結界の展開が不可能。
ただそれだけの事実は、多くの天児にとって多少不利な戦いを強いられる程度のものであるが、特殊結界を軸に戦うハワードにとって、丸裸にされた気分だった。
もともと特殊結界が展開できなければ何もできないと言って差し支えないほど能力を特殊結界に依存しているハワードは、その分結界を張ることに長けていると言うのに、まさか結界の構築ができないとは。完全に予想外である。
故にオーガストは、ハワードを守りながらの戦いを強いられる。
オーガストの能力は『逃避』。自分の存在する次元軸をずらし、別世界へ肉体の核を置くことによって行う攻撃回避である。次元軸をずらしている間は、肉体は霊体のように扱われる。これを発動している最中、次元干渉を覗く攻撃は、如何なるものであろうとオーガストを倒すための決定打とは成りえない。かすり傷一つ与えることが出来ないだろう。倒す術があるとすれば、吽禍や嚆矢のように神と同等の存在と呼べるだけの、次元干渉を可能とする上位存在となるしかない。
しかし、対する傀儡は所詮は眷属。強力な『使役』の具現化したものではあるものの、他の眷属とは違って幻覚を見せるという方向にステータスが割り振られているため、個々の戦闘能力は高くない。それ故に次元干渉ほどの力も持つことはない。
だが、オーガストの能力にも欠点はある。
それが時神鈴と水無月飛鳥――“明星”との戦いの際に見せたものだ。
自分の存在する次元軸をずらして肉体の核を置くというのはつまり、『そこに存在していながら存在していない』、先述した霊体になるようなものだ。確かに彼はそこに存在しているが、しかしそこには存在しない。ありとあらゆる物理干渉が不可能になるのだ。
これの欠点は、敵がオーガストに触れられないだけでなく、オーガストもまた敵味方に触れることが出来ないと言う点である。オーガストの攻撃方法は、祝詞を使用しての大技か、殴る蹴るなどの物理攻撃の他にない。故に、攻撃及び物理防御の際には次元軸を戻す必要があるわけだ。“明星”との戦いでは時神鈴にそれを見破られ、オーガストは傷を負った。
今回はハワードを守るという行為が、オーガストの肉体を傷つける。
本来オーガストは傀儡との戦いでかすり傷一つ負うことはないはずなのだが、しかし現状、彼はハワード同様に血みどろだった。
先述したとおり、果実が生成できないハワードは荷物にしかならない。しかしオーガストには、彼を見捨てるという選択肢はなかった。
故に、“草枕”はかつてないほどの苦戦を強いられる。もはや最弱の天児といって差し支えない状態のハワードを守りながら戦う……二対二という状況下では、これだけで既に苦戦は必至である。それに加え、オーガストの特性は『逃避』だ。己の存在する次元軸をずらし攻撃を回避するのが取り柄だというのに、ハワードを守るために物理干渉を可能とするべく、次元軸をずらせない。攻撃を回避することが彼の専売特許だというのに、回避してしまってはハワードが守れず殺される。だから回避できない。存在の次元軸をずらせない。
ハワードの能力を封じられることにより、オーガストの能力をも封じられてしまったわけである。
二対の傀儡、その絶妙なコンビネーションに追い込まれ、遂にハワードとオーガストは背中合わせになり、互いの正面には傀儡の姿。
挟まれた。
「オーガスト、私を切り捨てろ。左腕を差し出したのは私の失態だ。戦えないのも、私の過失だ。もうお前が傷つく必要はない。お前だけならば生きられるだろう」
絶望的な状況下で、ハワードは何度目かわからないセリフを吐いた。
「何度と言わせるな。断る」
しかしオーガストは、ハワードを切り捨てられない。
「約束があるだろう」
かつて二人は、誓ったことがある。
己が求める桃源郷、その到達へは二人で成そう。偶然にも彼らが目指したそこは、同じものだった。
――自分が幸福になれる世界。
それこそが、彼らの目指した場所である。
☆
ハワード・マクラウドは、平凡な生活を送っていた。
平凡に生き、そして平凡に自分は死んでいくのだと思っていた。
ハワード自身、そのことに抵抗は無かったし、逆に平凡に生きることこそが社会に順応していることだと思っており、疑問も不審も目標もなく、咀嚼するように人生を生きていた。
やがて会社に入り、仕事を始めた。
苦労はしたが、しかしそれは現代を生きる社会人たちが皆体験する程度の苦労で、言ってみれば『当たり前の不幸』というやつだ。人は歩けば石に躓く。犬が歩けば木に当たる、猿も木から落ちる、といったことがあるように、人間様とて転ぶことはあるだろう。誰しもが必ず体験する小さな不幸。これが乗り越えられずに何が大人か。
人並みに働き、人並みに努力し、人並みの信頼を得て、人並みの生活を営む。
それがハワードにとっての幸せで、ハワードにとって生涯大切にするべき生き方だと思っていた。
そのように普通に生きる中で、ハワードは恋をした。
相手は近所のボロいパン屋の娘で、お世辞にも美しいとは言えない服装をしていた。
髪は正直それほど綺麗でないし、髪型は古臭いおさげであるし、大きな丸メガネだって似合ってない。
けれど、美しかった。
客である自分に笑顔を与えてくれる。何故かわからないけれど、彼女が今を生きる一瞬一瞬が輝いているように見えた。何事にも一生懸命に、そして誰にでも優しく暖かく。そのけなげな姿がたまらず愛しくて、ハワードはこの女の為なら何でもできると思った。
生きる理由をくれた。彼女のために生きたいと、思わせてくれた。
ハワードはパン屋に通った。下心丸出しだなと自分で思いつつ、けれど充実した日々を送っていると感じていた。いくらか彼女にアプローチをして、断られても、挫けず何度もアプローチをした。
四苦八苦しつつ、ようやく何度目かの交際の申し込みでハワードは彼女の心を射止めることが出来た。
何度も挫けそうになったけれど、どうやら努力が実ったらしい。自分は世界で一番の幸せ者だなとハワードが思ったときに。思ったときに――娘は死んだ。
結婚を知りたかったと言った。子を成したかったと言った。妻として、親として、女として……人としての幸せを知り、人並みの幸せを知りたかったと、娘は言った。
「ああ――もっと、生きていたかったなぁ……」
そうハワードに言い残して、娘は死んだ。
娘がハワードとの交際を断っていたのは、彼女がやがて死ぬことを知っていたからだ。
どうやら彼女は不治の病にかかっていたらしく、本来は働けるものでもなかったらしい。
けれど、最後に出来る親孝行の機会だからと、娘は無理に働いていたのだ。
娘の隠していた事実を知り、ハワードは泣いた。
おそらく、生まれて初めて、心からの涙を流した。
ハワードの体験は、テレビなどではありがちな、悲しい物語だ。
彼の言葉でいうならば、これはきっと『当たり前の不幸』。生き物には必ずいつかは訪れる、当然の別れ。誰しもが必ず体験する小さな不幸。
だけれど、ハワードはその不幸を認められなかった。
彼女を思う気持ちは本気だった。彼女を幸せにしたいと言う気持ちは、誰にも負けていないつもりだった。
もっと、生きたかったと言った。もっと、幸せを知りたかったと言った。なのにどうして、あの娘が死ななければならなかったのか。
何故、気付けなかった。もっと早くに知っていれば、相応の対応が出来たのに。
これから、彼女から受けた幸せを、彼女に返していきたいと思った。たくさんたくさん、プレゼントをしたかった。近所の公園で、くだらない世間話でもして盛り上がりたかった。彼女が知らないたくさんのことを教えてあげたかった。世界はこんなにも広いよと語りつつ、共に旅行へ行きたかった。本当にありきたりな幸福の中で、二人で年をとっていきたいと思っていたのに。
悔やんでも、悔やみきれない。後悔ばかりが、彼の心を蝕んでいった。
「――認めるものか」
彼女の死は、認められない。彼女がいなくなった世界に、価値はない。
蘇れ。
甦れ。
よみがえれ。
黄泉返れ。
ヨミガエレ。
ああ、しかしそれは叶わぬ願い。
他の誰より、ハワードがそれを知っている。ならば。ならばこそ彼は願うのだ。
幸福な世界へ。彼女がいるであろう楽園へ、私を導いてくれと。
誰も死なない、悲しまない世界へと、私を誘ってくれと。
――愛する者を死なせるのは嫌だ。失うのは嫌だ。故に、私が望むは桃源郷。私が望んだ理想の世界。果実の実る、誰もが望んだ夢のような楽園だ。そこはきっと、誰もが死なない神聖な場所であるから、幸福一つあればいい。そこに死は要らん。そこに悪意は要らん。故に滅びよ、悪なるモノよ。――
愛する者を失う、それこそがハワードに課せられた天児としての業だったのだ。そしてそれを認められないこともまた、彼の業。
「私の楽園が、欲しい……」
愛する者を失った直後、病院で涙を流したハワードに、包帯だらけの手が一つ、差し伸べられた。
「貴様も望むか、楽園を。奇遇だな」
此方も、楽園を望んでいるのだ。
包帯だらけの肉体でハワードに手を差し伸べた男こそが、オーガスト・ステファン・カヴァデールだった。
彼もまた、大切なものを失くしたらしい。
それは家族。
もともとオーガストの家はそこそこ名の知れた名家であり、その権力争いによって家族同志の殺し合いが行われ、そしてオーガストを除いた全員が死んだと言うのだ。
まるで小説の中の物語のようだと、ハワードは思った。
「楽園を望む者同志、仲良くしてみないか」
どうしてオーガストが、この時このようなセリフを言ったかはわからない。
もともと人と打ち解けようとはしないオーガストだ、自ら関わろうとすることは本来あり得ない。後に聞いても、どうしてこの時声をかけたのか、オーガストにすらもわからないらしい。
おそらく、運命の悪戯というヤツだろうと、オーガストは言う。
ああ確かに、これは運命の悪戯だ。
愛する者を失ったハワードとオーガスト。
この二人が求めたモノは、この世の理が通じない不思議の世界――神話の楽園。
争いはなく、悪意はなく、ただ自分が幸福でいられる幸福の世界。
自分と、自分を取り巻く総てが幸せで在れる、理想の桃源郷。
二人は、死んだ者が生き返ると願うには余りに成長しすぎた。けれど、代わりに死後の世界に夢を見た。故に祈るは死後。故に願うは常世――すなわち天国。
そこでなら、きっと誰もが幸福でいられる。そこでなら、きっと自分が生涯手に入れることができなかった幸福を手に入れることが出来る。
「共に願おう、楽園を」
二人が出会い、少し話をしたのちに、狐の女が現れた。
「その願い、叶えてみるか。」
桜花という女の言葉、魅せられた天津国。そして嚆矢という男の語る――いつか現れるという“明星”の存在。
二人の語った大人の夢物語は、希望の光を見る。
やがて二人は“草枕”として、天児になった。
そして今、己が待ち望んだ楽園のために此処に立っている。
時神鈴は夜明けの象徴。
水無月飛鳥は雨上がりの空。
“明星”ならば、あの祈りならば、彼らが望む楽園を築くことが出来るかもしれない。
あの日二人が誓ったのは、共に戦い、守り、そして楽園を見ると言うことだった。
だから、それまでは負けられない。
――――。
――――――――。
「共に戦うと決めた。共に守ると決めた。そして共に楽園を見ると、誓った」
迫る傀儡を前に、オーガストは言う。
「……そうだね、そうだった。あの時誓ったのだった」
大人一人では、大きな夢は語れない。同志がいたからこその、今の自分。
「では存分に私を守れよオーガスト。私は全身全霊、吽禍の内であろうが果実の一つは作って見せよう」
「二言はないな」
「任せておけよ」
言って、ハワードは笑う。
――愛する者を死なせるのは嫌だ。失うのは嫌だ。故に、私が望むは桃源郷。私が望んだ理想の世界。果実の実る、誰もが望んだ夢のような楽園だ。そこはきっと、誰もが死なない神聖な場所であるから、幸福一つあればいい。そこに死は要らん。そこに悪意は要らん。故に滅びよ、悪なるモノよ。――
愛する者を失い後悔の淵に沈んだ魂は、楽園を目指し、悪なるものを滅ぼすと誓う。それこそが己の存在証明となり、また意義となる。であるなら、悪と見定めた吽禍、その眷属を倒せないようで己の存在価値を語れるものか。
「我が君申さくまま、我、時じくの香の木の実求めしたまひき――」
目覚めろよ、神。
こんなところで終わるわけにはいかんのだ。
「特殊結界――『常世』ォ!」
……しかし、結界は展開しない。
吽禍の圧倒的なまでの生命に対する拒絶は、ハワードが楽園を望む以上に強すぎた。
そして敵がどのような状態だろうと、傀儡の鎌は待ってはくれない。
定められたように、鎌を振るって殺すのみ。




