進む先、塞ぐ鬼
アーヴァンに抱えられたまま、鈴と飛鳥は先へ進んで行く。途中、下ろされて、再び三人で先へ先へと進む。
進む先はやはり荒れ地で、黒い太陽がどす黒く空を染めた夜だった。
草木はない。朽ち果てた砂があるのみで、まさに死の星といっても差支えないほどに荒廃した場所だった。
建造物も草木も、方向を示すことのできるものも何ひとつ存在しないこの場所で、アーヴァンはただ前へ走る。鈴と飛鳥は、それについていくだけだった。
「なぁ、アーヴァンのおっさん。一体、どこに向かって走ってるんだ?」
かれこれ、体感時間からすれば数時間は走っただろうか。
しかし一向に目的地は見えず、また敵の姿もない。
敵の動きがないというならそれに越したことはないが、しかし流石にこれだけ動きがないと逆に不安になるものだろう。鈴の問いかけに、飛鳥も「それはわたしも聞きたいです」と付け足した。
「ここからアーヴァンさんが抜けるとなると、わたしと鈴くんは二人で進むことになります。特に鈴くんなんか、最後は一人で吽禍の下へ辿り着かなければなりませんから」
「あ、そうだったなそういえば……」
鈴はポンと手を叩く。
「何も考えずに進んでいただけで、どこをどう行けば吽禍の下へたどり着けるのか皆目わからないな」
はっはっと笑うと、キッと強い目つきで飛鳥に睨まれた。
「鈴くん、何も考えてなかったの?」
「いやだって……初めてのことだし?」
「初めての事なら、尚更注意を配って、少しでも有用な情報を探すべきだよ」
「いやまぁ……はい。おっしゃる通りでございます……」
「大体これ、鈴くんだけじゃなくて地球の運命が左右してるんだよ。流石に危機感がなさすぎだよ」
軽く飛鳥の説教が始まろうとしたときに、アーヴァンが「まぁまぁ」と飛鳥を宥めた。
「ここは既に敵の腹ん中だ。危機感がないのは、こんなところで説教はじめる嬢ちゃんも同じだと思うぜ」
アーヴァンの言う通りだ。お前も危機感足りてねーよ、バーカバーカ。
心の中で呟くと同時、何か冷たいものが飛んできたのを感じる。敵の攻撃かと振り向くと、飛鳥の放った水弾らしきものが頬を霞めた。もう少しで頭が吹き飛んでいたと思うと、恐ろしい。
何すんだコラ。
視線で訴えると、頬を膨らませたまま飛鳥はそっぽを向いた。
「お前ら仲良いのは解ったから。流石に喧嘩は止めろ」
飛鳥はアーヴァンに気付かれないよう鈴に攻撃したようだったが、どうやら気付かれていたらしい。顔を真っ赤にして俯いた。
鈴は鈴で、流石に緊張感が無かったと反省する。
「それより、だ。俺がどうやって進んでいるかだったな」
二人は走りながら、アーヴァンの話に耳を傾けた。
「ぶっちゃけ、方向なんてなんも考えねぇで走ってるよ」
「は?」
「え?」
アーヴァンの一言に、二人の身体が硬直する。
「待ってくれよ。……何も考えてないってなに?」
「ちょっとそれおかしくない? じゃあ一体どこに向かって……」
「 知 ら ん 」
いや。いやいや。
いやいやいやいや。
知らないって何ですかそれ。そんなんで吽禍のとこにたどり着けるんですか。あんまりちんたらやってたら吽禍が嚆矢の結界を破って高天原に進行するかもしれないし、多くの天児が疲れ切って殻人に倒されてしまうかもしれないんですよと、鈴は心の中でつっこんだ。
考えたくはないが、桜花や衣、ハワードやオーガストの誰かが倒されてしまったら、今度は彼らを倒した化け物を別の誰かが相手をしなくてはいけなくなる。でなければ、鈴と吽禍の戦いに割り込まれてしまう可能性があるからだ。
吽禍を倒さなければ、どの道この地球に未来はない。非常に難しい条件ではあるが、結果的に吽禍を倒せば総てが解決するのだから、一刻も早く吽禍を倒しに行きたいのが本心だ。
なのに吽禍を倒せる可能性を秘めたという鈴がこんな荒れ地でひたすら走っていたら、守れるものも守れない。助けられるものも助けられない。
不審がる鈴と飛鳥に、まぁ待てよとアーヴァンは言う。
「お前ら人の話は最後まで聞け。いいか、俺らが向かってるのは吽禍っつータタリ神の深層心理、つまりヤツが存在する場所だ」
「……なぁ、質問していいか?」
アーヴァンが口を開こうとしたとき、鈴が静かに手を挙げた。
だから話は最後まで聞いてくれよと言おうとしたアーヴァンだったが、しぶしぶ「なんだ」と鈴に問う。
「いや、最初から疑問に思ってたんだけどさ。そもそも吽禍の深層心理に行くってなんなんだ?」
問いかけると、アーヴァンは「そこからなのかよ」とため息をついた。
「お前、桜花の言う『普遍的集合無意識』ってのは解るか?」
「ああ、あの嚆矢がいるってとこだよな」
「そうだ。地球総てが見渡せる、現在過去総ての地球が存在する地球の記憶――古来日本の文献曰く“天津国”。あそこは確かに地球上に存在している場所だが、正確にいうと人間には知覚が不可能な別の次元軸に存在している。ちなみに、どうして嚆矢は常に天津国に引きこもっているか知っているか?」
「他の外敵から身を守るため、って聞いてるけど。嚆矢は優秀な司令塔だからってな」
「その通り。だが、理由はそれだけじゃない。嚆矢はな、あまり長い間、現世にその姿を留めていられないんだ」
「……え、どういうことだ?」
問いかける鈴をおいて、アーヴァンは飛鳥に目を向ける。
「嬢ちゃん、分かるか?」
「嚆矢はわたしたち天児とは違い、オリジナルの神――すなわち別世界の住民です。神と人はそもそも、生きる次元が異なる。仮に別次元に干渉ができたとしても、余程高位の存在でない限りは、人間が紙に行える程度のものであると聞いています。だから嚆矢さまは、わたしたちを同じ世界に住むことはできないと」
飛鳥の回答に、アーヴァンはその通りと言った。
しかし鈴は、やはりわからないという表情で首を傾げた。
「つまりだ、言ってみれば二次元と三次元の話なんだよ、坊主。俺たち三次元の人間は、イラストやテレビという触媒を通して、二次元に触れることが出来るだろう」
「二次元ってのは、アニメとか漫画とかの?」
「ああ、お前が分かりやすいならそれでいい。……あー、面倒だな。嬢ちゃん、説明できるか。俺は脳みそも筋肉で出来ているタイプでな、説明ってのは苦手なんだ」
頭を掻いたアーヴァンは、飛鳥を見る。
飛鳥がアーヴァンに何かを言うと、「そうそう、そういうこと」と手を叩く。
「頼めるかい」
わかりました、言って、飛鳥は静かに頷いた。
「ねぇ、鈴くん。そもそも二次元と三次元の違いって何かわかる?」
「あーっと……X軸Y軸が平面、それにZ軸がどうたらってヤツか?」
「なんでその例えなのかわからないけど……つまりは、そういうこと。XYの平面、つまり紙の中の世界が漫画やアニメだとしたら、XYZで構成された立体の世界が、わたしたちの生活する三次元って言われてるの」
「それはわかる」
「わたしたちは二次元よりも上の次元、三次元で生活する生き物だから、絵を書いたり、テレビに映し出したりすることで漫画やアニメに触れられるよね」
「そりゃそうだろう。もともと人間が造ったモノなんだから」
「なら、わたしたち人間を造ったのは誰だろう?」
「……それは――神?」
「そう、神。神は神でも、吽禍はタタリ神だからちょっと違ってくるんだけど、わたしたちは言ってみれば神の創造物、神様からみたアニメや漫画のようなものなの」
「そりゃあスケールでっけぇ作品だな」
「それはいったん置いておいて。わたしたち人間はアニメや漫画を造ることはできるけれど、その世界に干渉はできないでしょう?」
「俺らが二次元に入れない、ってことか」
「それだけじゃないよ。アニメや漫画をわたしたちが見たところで、その世界で起きた物事を変えることはできないよね」
「そりゃあ、作者じゃないからな」
「そうよ、わたしたちは創造主じゃないから、その世界に干渉はできないの。二次創作というカタチで干渉することはできても、それはあくまでパラレルワールド、別世界になってしまうから。でも創造主だからって、その世界の住民になることは不可能でしょう。実質、次元が異なる生命に干渉することは不可能といっていいの」
「……確かに。俺らは漫画やアニメに干渉はできないが、逆に漫画やアニメのキャラクターだって俺たちに干渉できないもんな……」
「そうなの、つまりはそういうこと。だから、三次元の創造主である神様――嚆矢さまたちみたいな存在は、わたしたちの世界に直接の干渉はほとんどできないの」
飛鳥がそこまで説明すると、アーヴァンは「そういうこった」と鈴を見た。
「つまりだ。嚆矢は俺らより次元が高い世界に存在している。そして、それは同じ神という位階に存在する吽禍も同じなんだよ。嚆矢が天津国に存在しているように、吽禍はあいつが存在していた惑星の過去現在の記憶――いわば別惑星の天津国といえる場所に存在しているのさ。そこには地球と違って他の生命は何もない。あるのは、吽禍一人の世界のみ。ぶっちゃけ、惑星の記憶は吽禍の繰り返してきた破滅の記録に埋もれちまって、あってないようなモノなんだよな。それ故の、『吽禍の深層心理』ってわけだ」
「……なるほど。わかったような、わからないような」
つまり、今現在、鈴たちがいるこの場所は、正確には吽禍の深層心理とは異なるものであるということだ。吽禍が人であった頃から存在していた惑星の記憶――惑星に存在していた生物総ての普遍的集合意識に直結する、人にはおおよそ知覚できない神の世界。
長い間、死の星として存在していたかつて生命の宿った惑星は、もはや見る影はない。いくら生命が宿っていた惑星の記憶だとしても、生命が消え去ってからもう何億年が経過したことだろう。生命が存在していた記憶が埋まるほど昔から吽禍はその惑星を掌握し、その深層世界に玉座を降ろしていたわけである。一惑星に存在する生命が一個体であれば、それはもはや普遍的集合意識などではなく、吽禍一人の深層心理と呼べるものだ。故に、吽禍一人の深層心理と嚆矢らは呼んでいる。
この惑星の普遍的集合意識が吽禍の深層心理と呼ばれているのは、そういうわけだ。
「嚆矢や吽禍が俺らの世界に来られないのはわかった。けど、だったら、なんで俺はこの間嚆矢のいる天津国へ行けたんだ? それって、漫画やアニメのキャラクターが俺たちの世界に来るのと同じぐらいあり得ないことなんだよな?」
鈴の問いに、アーヴァンが嫌そうな顔をして飛鳥を見た。
どうやら、「説明してくれ」ということらしい。
静かに頷いて、飛鳥は口を開いく。
「その通り、次元を跨ぐなんて普通はあり得ない。けどね、わたしたちは天児なんだよ。天児って、普通の人間とどう違うかわかる?」
「神の魂を、身に宿す……か」
「そう。つまり、わたしたちは人でもあり神でもあり、ってことなのね。わたしたちは都合のいいように、人であること、神であることを許されているの」
「おーけー、だいぶ理解できてきた」
神という次元に存在するものは、基本的には直接人に手を出すことはできない。その際に吽禍が手足として使役するのが、己の力を分け与えた、しかし神ではない特殊な存在――すなわち眷属――殻人である。
『門』を開き、圧倒的なまでの殻人の質量で他惑星を食い潰し、またそこでも新たな眷属を手に入れるため、その星の総てを食い潰す。まずは農作物を喰らい、飢饉を招き、人を殺し合わせる。まだ人が残るのであれば、元は人であった殻人と今を生きる人、それを共に殺し合わせる。そして、敗北し死んだ者たちの肉体を殻人として使役し、消えた分を補給する。
『暴食』、『破壊』、『使役』。これらを用いて、醜い人間の『心』を徹底的にまで排除する究極的な勧善懲悪。それが、吽禍というタタリ神の祈りの本質であり特性である。
吽禍は長時間の間、直接地球に手を下すことはできない。がしかし、天児もまた、吽禍と戦うには、彼が存在する天津国と似て非なる天津国――『惑星の深層心理』へ至らなければならないというわけだ。
ついでに言えば、吽禍もまた、嚆矢と同じく特定の存在を天津国に近しい存在――祖惑星の普遍的集合意識へ招くことが可能である。故に、風間辰人、鵺などの吽禍に気に入られた眷属たちは吽禍によって招かれ、神より次元が下の存在でありながらも、吽禍の手によって天児のような存在へ――荒御魂へと変貌することが出来た。それには、吽禍の特性が意味を持つ。
吽禍は『暴食する蟲』のタタリ神だ。その肉体は数多の蟲によって構成されており、その一つ一つに『全』という概念が存在し、同時に『個』という概念が存在する。一匹一匹が吽禍でありながら、しかし吽禍ではない。故に、吽禍の蟲は三次元に干渉が可能であり、風間辰人ら眷属を普遍的集合意識へ招くことが可能になる。
これは、多細胞生物と同じ原理だ。一部微生物などの単細胞生物は、その細胞を構築する『個』こそが総てである。が、多細胞生物はそうではないだろう。例えば多細胞生物の一種である人間は、数え切れないほどの細胞によって肉体を構築されている。その細胞一つ一つが『人』を構築し、人という生物を形作っているわけであるが、その細胞の一つ一つが人とは呼ばれない。これが吽禍にも当てはまる。特定細胞の集合が人とみなされるように、特定の蟲の集合が吽禍である。蟲の一匹一匹は細胞の一つ一つと同じで、それは吽禍でありながら、吽禍として認識されない。故に、吽禍は一匹の蟲としてならば低次元世界の干渉が可能となる。
しかし干渉できるといっても、それは低次元生物を普遍的集合意識に招く程度のものである。が、『使役』という特性を持つ吽禍にとってはそれで十分。あとは己でありながら己とは異なる蟲を使役対象に潜り込ませ、使役するのみであるのだから。
風間辰人の内に大量の蟲が存在していたのはそういうわけで、吽禍に精神を奪われそうになったのも、吽禍とは異なりながらも吽禍そのものである蟲が、彼の体内に存在していたためである。
「とにかく、話を戻してまとめるぞ」
既に話が終わったような空気の中で、アーヴァンが不意に口を開いた。
ある程度話が完結した中で何を言い出すのだろうと思ったが、そもそもの話題の発端が、どうしてアーヴァンが適当に走っているのか……だったか。
「俺らが向かう先――吽禍がいる場所は、天津国の深部にも似た場所ってことだ。それで、だ。ここまで話せば、嬢ちゃんはもう理解できていることだろう。……坊主」
アーヴァンが鈴を見た。
「俺が適当に走ってる理由が分かったか?」
「天津国へ至るのと同じで、意識の持ちようでその移動距離も時間も短縮できる。だからアーヴァンは、進んでいるっていうイメージを持つために、こうして走ってる……ってとこか?」
「大正解だぜ、坊主。そこまでわかれば、お前らもどうすればいいかわかるだろ」
ただ走るだけでなく、先へ進むと言うイメージを。吽禍の下へたどり着くと言う、イメージを。
「おーけー、任せとけ」
だいぶ走ったと思うが、しかし未だに吽禍の下へはたどり着けない。
流石にこうも走り続けていると体が疲れて来るが、かといって休むわけにもいかず、三人は先へ進み続けた。
「まぁ、仕方ねぇな。そもそも吽禍が生まれたのは地球が生まれるよりも前の話らしい。だってんなら、そんだけ深い場所に潜っていても不思議じゃあないわな」
走りながら器用にタバコを咥えたアーヴァンは呟いた。
鈴や飛鳥の「まだか、まだか」という焦りを見、お前らもう少し冷静になれという意を込めて言ったのだろう。
アーヴァンの一言で、鈴は自分のこわばった肩が少し軽くなった気がした。
「そういやお前ら、傀儡の幻覚は見たかい?」
走りながらタバコに火をつけようとしていたアーヴァンだったが、鈴を見て火をつけるのを止めた。再びタバコを箱へ仕舞い、ポケットへ突っ込んだ。
「幻覚っていうと、あの変な通行人たちのアレか?」
言って、鈴は先ほどまで見ていた幻覚を思い出す。
「ああ、それだ。傀儡ってのは吽禍の眷属。元は吽禍の一部だったものだ。だから、あの幻覚にはおそらく吽禍に関連する何かがあると思えるんだが……お前ら、一体何を見た?」
「俺は……馬みたいな生き物に引きずられる男を見た。その人は痣だらけで、引きずられる以外に殴られたような跡があった。それを、観客みたいな人たちは楽しげに眺めてた」
鈴が言うと、アーヴァンは飛鳥を見た。
「わたしは……」
俯き、鈴を一瞥した飛鳥は、二人から目を逸らして吐き出すように言った。
「たくさんの男の人に囲まれる、綺麗な女の人を見ました。小さな小屋で鎖につながれて、ボロボロの服を着せられて……」
そうか。
アーヴァンは髪をガシガシと掻いていった。
「俺は、殺される小さな女の子を見た。丁度、嬢ちゃんに似た女の子でな。年齢はもう少しだけ小さいみたいだったが、俺から見たらどっちも子供だ。そんな女の子がな、複数の大人から刃物で切り付けられてたんだ」
言い終わって、沈黙した。
誰も何も言えない。
人とは思えない所業の数々、その人がもしか大罪人かもしれないが、それにしてもやり過ぎではないだろうかと思う。思わず目を逸らすほど、その行為は血に濡れている。
「あと、ギロチンで処刑されるのも見た」
鈴が言うと、飛鳥はわたしもそれ見たと続く。
「それは、女の呪術者らしきやつが祭儀儀礼みたいのを行うヤツか?」
アーヴァンの問いに、「そう、それだ」鈴は頷く。
「そうか。んー……やっぱ俺じゃダメだな、全く関連性が思いつかん。もしかしたら何かあるかと思ったんだが……。ただ吽禍の住んでいた惑星で行われた刑罰か何かの一環かもしれんな」
アーヴァンがため息をつくと、走るのを止めて、顔色を変えて立ち止まった。
「おいおい、何だ突然――」
「一体どうしました――」
鈴と飛鳥もまた止まろうとしたとき、上空から何かが降下してくるのが見える。
体長約三メートル。巨大な腕、巨大な足。肉体その総てが硬い殻に覆われているように見える。赤い皮膚、頭から飛び出す角。それは――鬼だろうか。
ドズン。
この世界に無数と存在する砂粒を巻き上げて、それは巨大な図体を落下させ立ち上がる。
不気味な赤鬼は、ギョロリと蟲のように瞳を動かした。
「お前が、『破壊』の潰鬼ってヤツかい」
立ち止まったアーヴァンが問うと、潰鬼と呼ばれたソレは頷いた。
「如何にも。我は『破壊』の象徴。万物を潰する鬼である」
それを聞いたアーヴァンは、ニッと笑った。
「そういうことらしい。つまりこいつは俺の相手だ。行けよ、“明星”」
くいっと顎で行けと指示するアーヴァンを見て、鈴は飛鳥の腕を引く。
「行くぜ、飛鳥。俺たちはここで止まってなんかいられない」
「……うん」
後ろを振り返ることもなくこの場から離れた鈴と飛鳥を見て、それでいいとアーヴァンは頷いた。
残されたアーヴァンと潰鬼。
二人は構えをとることもなく、ただ佇んでいる。
鈴と飛鳥が居なくなったことを確認して、アーヴァンは葉巻を取り出し、火をつけた。
「それは、『タバコ』とやらか」
潰鬼が問いかける。
「あァ?」
白い飛行機雲を空へ吐き出したアーヴァンは、「そういえば」と思い出したように呟いた。
「お前ら眷属は――それとも殻人だけか? タバコが好きみたいだな。『門』を開く前に狩りまくってたよな、喫煙者ばかりを。」
吸うか。
対する相手とは殺し殺されの関係であるハズなのに、アーヴァンはついと葉巻を差し出した。
「要らぬ、彼ような雑草に興味はない」
「そうか」と葉巻をしまったアーヴァンは、「ならどうして喫煙者ばかりを襲った」と問いかける。
「殻人に不健康体など不要である。吽禍はただ、不要物のねびきを行っただけにすぎない」
「……なるほどな。ねびきを行った後、健康体のみを殻人として使役したいのか」
「然り。その他病人、怪我人、老人や児童なども今の吽禍には不要である」
「ちなみに、殻人は血液を多少吽禍のとこへ届けてたみたいだが、それはどうした」
「吽禍は血液のみで肉体を構築することが可能である。故に、強くなりたいと願った者を優先して眷属――お前たちの言う『カラビト』へと変えてやったまで」
自分たちは望みを叶えてやったまで。感謝されど、憎まれる覚えはないがな。と潰鬼は付け足した。
「そうか……」
肺に白い煙を取り込んで、
「他の眷属はロクに話すこともなかったが、お前は話すことが出来るんだな」
煙を吐き出しながらアーヴァンが言った。
「他の眷属にしても、会話は不可能ではない。必要がないだけだ」
「その割には、お前さんはよく喋る」
「我は『破壊』の象徴。破壊の対象は物質のみに非ず、精神もその限りである」
「その口で、この俺の精神を壊すっていうのかい」
「否、汝を砕くのはこの拳。我が望むは、汝の命乞い。故に言おう。乞えば見逃す」
つまり、命乞いをしろよと潰鬼は言っている。そのために、相手と会話をすると言っている。なかなか面白いヤツだと、アーヴァンは思うが、
――命を乞え。己の命が大切なのだろう。ならば貴様が受けた愛を総て壊して、己一人で逃げ惑え。
そう言って笑う何かの影が、潰鬼の蟲のような視線に含まれているように感じた。
「……なるほど、お前も立派な吽禍の眷属ということかい。だが、命など惜しければこの場に来たりはしない」
「これまで此処へ訪れた戦士たちも、同じことを言った。しかし、敗北を確信すると同時に乞うた」
「そいつらは戦士じゃないな。そりゃあ、ただのヘタレだ」
その言葉に、潰鬼は顔をしかめ、そして笑った。
ならば、お前は戦士なのかと、その目で問うている。
「お前らに理解できる概念とは思えないが、俺にはドイツと、そして日本という国の血が流れている。この身はゲルマン、この精神は大和魂ってやつだ。当然この強靭な肉体は俺の誇りだが、しかしこの精神も俺の誇りでね。――壊せるものなら、壊してみろよ」
不屈の肉体、そして不屈の魂。
砕けるものならば、やってみろ。
アーヴァンの視線には、嘘など垣間も見えなかった。
ならば砕いて見せよう、潰鬼は視線に視線で返す。
「我と対峙する者は、皆似たことを言う。壊せるものならば、と。しかし、我に壊せぬものはない。我が名は潰鬼。万物を潰す戦の鬼なれば」
「口だけは達者だなぁ眷属。そうまでいうなら試してみろよ」
アーヴァンが肩を竦めると同時、口に咥えた葉巻が粉々に砕けた。
速攻だった。
潰鬼の拳が葉巻を散らし、避ける間もなくアーヴァンの顔面に食い込んだ。
普通の人間ならば野球ボールのような速度で飛んでいくはずの首だったが、アーヴァンの肉体は彼が言ったように強固なものだ。首は跳びはしなかった。しかし、潰鬼の圧倒的攻撃力の成す術なく吹き飛んだ。
だが潰鬼は、この一撃では終わらせない。
走り、アーヴァンの肉体を追いかける。
首を掴み、腹を殴る。頭を殴る。殴る殴る殴る、ただ殴る。
潰鬼が殴るたびに空間に振動が起こる。空気が爆ぜ、砂が爆ぜ、アーヴァンの肉体が未だ原型を保っているのが不思議なほどの激しい攻撃を繰り返す。
アーヴァンの服は破れ、その肉体がさらけ出された。
天児にとって、業天は内に宿る神と接続するために必要不可欠な媒体である。天児の盾、天児の矛、そして天児の祈りを叶えるための儀式場――社となる。それが業天。
業天が破れることはほぼ無いが、しかし圧倒的な力量差の攻撃を受けた時、業天は破壊される。もし業天が破壊されれば、天児は天児として成りえず、その耐久性は人のそれと大差なくなってしまう。
アーヴァンの服が破れたということはすなわち、そういうこと。今現在、アーヴァンの耐久力は人のそれと大差ない。もはや勝機など微塵もなく、命を乞う暇のないまま次の一撃で沈められ――。
――否。
「なんだァ、そんなもんかよ」
劣勢に見えたアーヴァンの拳が、潰鬼の頭部に食い込んだ。
頭蓋を打ち砕き、その勢いのまま殴り飛ばす。
「大したこたァねぇな、吽禍の眷属ってのもよ」
ボロボロになった上着を投げ捨て、アーヴァンは首をバキバキと鳴らす。
遥か遠くへ吹き飛んだ潰鬼に視線を向けて、グッと足をバネのように縮め、そして解き放つ。
「逃がさねぇぜ。おらよォオオオオッ!」
彼、アーヴァン・ゲーテンブルグの業天はかなり特殊である。
ハワード、オーガストらの“草枕”もスーツという他に類を見ない業天であるが、真に特殊な業天を有するのは彼、アーヴァン・ゲーテンブルグである。
業天とはそもそも、天児が神聖だと考えるイメージを具現化し、それを服というカタチで纏うというものだ。しかし彼の場合、神聖だと考える服がなかった。それは、彼が己の肉体に誇りを持っていたからで、その肉体こそが真に神聖だと信じて疑わないからに他ならない。
服を纏う必要はない。己が肉体こそが最強。
そしてその拳は、最強の攻撃力を誇る、万象総てを砕く神の拳。
大地を蹴って潰鬼の下へ近づいたアーヴァンは、再びその拳を振う。
拳は風を切る。その風圧に砂地程度の軽く細かい砂では耐えきれず、小さな竜巻を発生させる。構わず、アーヴァンはその拳を潰鬼へと打ち込んだ。
再び吹き飛ばされた潰鬼は砂の山へ激突し破壊し、大爆発が発生する。砂は空へ舞いあがり、その場所は小さなクレーターと化す。
パラパラと舞い落ちる砂の量は圧倒的で、たちまち潰鬼は埋もれていった。
「なんだ、思ったよりも早く片が付いたな。……いや、この程度で終わるなら吽禍の眷属は名乗れないか」
アーヴァンが巨大クレーターへ歩き出すと、クレーターから赤い手が伸びた。
手を伸ばし、大地を掴み、赤い手は己の肉体を地上へと引き上げる。
「まだ乞う気はないか」
起き上がった潰鬼を、アーヴァンは鼻で笑う。
「馬鹿にすんなよ、タァコ」
「ならば余興は終わりだ」
潰鬼の肉体が更に赤く、更に暴虐的に膨れ上がる。雰囲気が変わった。
例えるならば、これまでの潰鬼は鷲といったところか。大きな警戒もなく、ただ餌を狩るために拳を振い、敵を打つ鷲。
しかし今の潰鬼は違う。例えるならば獅子だ。
獲物に反撃される危険性、命を懸けての狩り。
鬼とは元来より、打たれるために存在する悪である。
酒呑童子、茨木童子、両面宿儺に悪路王。多くの鬼は英傑に打たれ、そして伝説の糧となる。それら鬼たちは人を喰らう、殺す、さらうなどの悪行を繰り返してきた鬼どもであるが、彼らはなにより人を下に見た。人を見くびり過ぎた。故に打たれた。
しかし潰鬼は違う。戦いの鬼だ。人殺しの鬼だ。敵を打つ、それだけのために存在している『破壊』の具現、戦いの化身。楽しまず、容赦せず、ただ己の使命のままに立ちはだかる敵を破壊する――故の戦鬼。
「悔いても遅い。乞う前に、汝は消える」
「さて、どうだかね」
視線の交錯、刹那の世界。二者の拳が、互いに向けて放たれた。




