その首ささげてたもれ
「うぁぁぁぁあああああああ――っってェッ!」
桜花に押し込められ、無理やり『門』を潜らされた鈴は、吽禍の深層心理の遥か奥へ落下し、その後頭部を大地に激しくぶつけた。
「おぉああああああ! 痛い痛い、痛いってこれマジでふざけんなよ桜花ァッ! 目玉飛び出るかと思ったわ!」
まるで肘をぶつけた時のように痛みがジンジンと波のように訪れ、口を開くたびに激痛が頭の内に走る。
桜花に文句の十、二十は言ってやりたいところだったが、状況が状況だ。文句ばかり言ってもいられない。
立ち上がった鈴の後頭部に、空から落下した何かによって再び激痛。
「いってぇえええええ! 何すんだコラァ!」
倒れこんだ鈴がすぐさま後ろを振り向くと、体を丸め、後頭部を抱えてガクガクと震えている幼馴染の姿があった。
「……なにやってんのお前ェ」
あまりの激痛に悶えているのか、思って彼女に近寄ると、何かぶつぶつと言っている。
何を言っているのかと耳を澄ます。
「――ぃの……ぃ。――ぃの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖い暗いの怖――」
「俺はお前が一番怖いよ!」
思わず叫ぶと、びくりと体を震わせた飛鳥が、恐る恐る鈴を見た。
「れ、鈴くん……?」
「お、おう。そうだけど……」
「よかっだよぉ! 一人やだよ暗いのやだよぉおおおおおおおお!」
鈴の腰に両腕を巻き付けて強く抱き付いて来た飛鳥は、鈴の腹部が千切れそうになるほど締め付けて来た。
「わかっ、た。怖か……ったの……は、わかった、から。苦し……」
背中をぽんぽんと叩いてやると、落ち着いて来たのか飛鳥は平静を取り戻していく。
ハッと我に返った彼女は立ち上がり、業天『乙姫』の袴に付いた埃を払いながら涙を拭いた。
「……コホン。今の全部演技だから、そこの所よろしくね」
「ウソつけ」
言うと、キッと睨まれる。
「あの……はい。演技だね演技。うん、演技」
「そうそう、演技なの」
まだ涙声だぞと言いたかったが、喉まで出かかったところで飲み込んだ。
「ところで、ここはどこなんだ」
鈴が周りを見渡すと、やはりそこは荒野。先ほどまでいた場所と見比べると、その違いは日が沈んでいるといったところだろうか。しかしそれにしては明るい。まるで、空だけが塗りつぶされて黒くなり、大地だけが昼のままのようだ。飛鳥の顔は真昼のようによく見えるし、景色だって見渡せる。星も何も見えない黒い空だけが、異様な空気を放っていた。
「不気味なもんだな、星が無い空ってのは」
それも、この空はただの黒というわけでなく、総ての色をごちゃ混ぜにしたような、汚い黒だった。
鈴が空を見上げながら呟くと、左手の裾が何かに触れた。
顔を向けると、飛鳥の指が裾を掴んでいた。
「どうした、飛鳥」
「いや、離れ離れになったら危ないと思ってね」
こんな荒野でどうやったら離れ離れになるんだよと思いつつも、飛鳥の肩が小刻みに震えている上に顔色も青ざめていたので、鈴はそのままにさせておく。
「手を繋いでもいいんだぞ」
「それは恥ずかしいから、いい……」
「そうか。繋ぎたくなったら言えよ」
正面を向くと、やはり広がるは荒野のみ。桜花のように『門』を開けることは鈴には出来ないし、吽禍がいる様子もない。どうしたものかと考えていると、飛鳥が唐突に抱き付いて来た。
「鈴くん、なにこれ。おかしいよ……」
「どうした」
何かと思って振り向くと、
「え?」
視線の先には、多くの通行人が鈴たちを押しのけようとのそのそ歩いてくる。通行人の邪魔にならないよう、飛鳥は抱き付いて来たのだろうか。
――いや、それも違う。
飛鳥は、この通行人たちに怯えていた。
彼ら彼女らは、歴史の授業で習うような弥生時代に似た服装をしていた。しかしその表情はまるでわからず、まるで顔だけをくり抜かれているかのようで、不気味だった。
顔は確かにそこにある。目があるし、口があるし、鼻がある。なのに顔全体が闇に包まれているかのようにくり抜かれ、表情だけが伺えない。
――のっぺらぼう。
顔のない妖怪を民俗学者はのっぺらぼうと、そう呼ぶが、これがまさしくそれではないだろうか。確かに顔の部位はあるのにも関わらず、不思議なことに、それがどんな顔なのかがまるでわからないのだ。鈴と飛鳥を押しのけつつ、先へ先へとせわしなく歩き回る彼ら彼女らを見て、鈴も背筋を震わせた。
しかし通行人以上に不可解なのは、彼ら彼女らよりもその場所だ。
先ほどまで自分がいたのは、確かに荒野だった。星が見えない黒い空。そこでどうして、まるで初めからいたかのように、通行人が現れた――。
立ち止まっていると、多くの人々がどこかに向かっているのが分かった。
通行人が向かう先にきっと、何かがある。鈴は歩き出すが、飛鳥は動かなかった。
「飛鳥……?」
「え、あ……ごめんね。この場所、なんか変な感じがして……」
「変な感じ?」
「……うん。なんていうか、作り物みたいな。うまくは、言えないんだけど」
「ああ、なるほどな」
言われてみれば。
彼女が言いたいことは、言葉には出来ないが鈴にも理解できた。ここはなにかが違う。ニセモノ、ツクリモノ、ウワベ、ウソ。奇妙な何かに包まれて、そのヴェールで正体を隠しているように思う。
なにが隠れているのかはわからないが、此処は吽禍の心理の内だ。ロクでもないものが待っているに違いない。警戒する心はそのままに、鈴と飛鳥は通行人たちの向かう先へ歩き始めた。
しばらく歩くと、通行人が一斉に立ち止まり、遠くに馬のような鳴き声が聞えた。パカラッ、という独特の蹄の音は近づいてくる。同時、表情のなかった通行人たちに表情が現れた。
やはり顔のパーツがあり、それぞれの顔は暗闇に包まれているが、しかし確かに笑っているのが分かった。笑い、歓声を上げ、人と人の隙間から何かを見ようと隙間を探している。誰もが、その馬らしきものがこちらへ来るのを待ち焦がれているようだった。
攻撃されるか? 鈴は思って体をこわばらせるが、音はすぐ隣を駆けていく。音の正体を、鈴は偶然通行人の隙間から垣間見ることが出来た。
まず見えたのは、馬のような生物。その鳴き声と容姿は限りなく馬に似ており、色は藍色で、尾は紐のように長くなっている。その先に、何かが括り付けられていた。
一人の男だった。男には他の通行人たちとは異なり、顔があった。その顔は苦痛にゆがんでいた。馬のようなものに引きずられたせいか、皮という皮がめくれ上がり、見るからにも痛々しい。ほんの一瞬のうちに去ってしまったために詳しく見ることはできなかったが、引きずられる以外にも鈍器で殴られたような跡があったようにも思う。
「どうだ、どうだ」
通行人たちは愉快そうに笑う。
男は答えない。ただ痛みに耐え、引きずられていく。
「どうだ、どうだ」
心底、人が虐げられるのを見るのは面白いとでも言わんばかりに通行人たちは笑い、馬のようなものの姿が見えなくなるほど遠くへ行っても、その目で追おうとしていた。
「なんだよ、これ……」
これは、なんだ。吽禍の深層心理にこんなものがあると言うことはつまり、どういうことなんだ。
おそらくこの場所は、吽禍の記憶にある一シーンだ。それも、吽禍がまだ人であった頃の記憶。彼が生まれ育った惑星の一部。
かつて日本では、農具や家畜など、人のものを盗んだ罪人には厳しい罰が下ったという。もしかしたら、これも罪人に対する刑罰なのだろうか。
「どうしたの? 何か見えた?」
飛鳥が問うが、馬に人が引きずり回されていたとも言えず、なんでもないと答えた。
気付けば、通行人たちは消えている。前後ろを見回してみても、広がるのは荒野。星一つない黒い空。
わけがわからないまま後方を振り返り見つめていると、今度は正面から誰かがぶつかった。
見れば、通行人。今度は逆方向に彼らは歩いていく。
まるで先ほどの出来事は無かったかのように、彼らは先へと歩いて行った。
気付けば鈴たちは、彼らの流れから逆らうかのように、でこぼこした道の上に立ちすくんでいた。
鈴は、彼らが進む先を見た。
「行ってみるか」
問うと、飛鳥はこくりと頷いた。
☆
ある程度歩くと、小屋が見えた。まるで家畜を入れるような貧相かつ小さなボロ小屋だ。そこには、ボロ小屋に入る為なのか、何十人もの男たちが多くの列を作り、数列に並んでいた。
思えば先ほどの通行人たちは、人数は圧倒的に先の方が多かったとしても、子供や老人も含まれた老若男女であった。が、ここには男ばかりが並んでいる。それも皆若い男のようであった。誰もがニヤニヤと笑いを浮かべ、「まだか、まだか」「楽しみだ、楽しみだ」と口々に述べている。
「あの小屋か……」
「なにか、ありそうだよね」
飛鳥が小屋に目を向け、鈴もそちらを覗こうとすると、飛鳥が慌てて振り向き、無理やり鈴の顔を掴んで自分の方に向けた。
「痛ッ! なにすん――」
「ダメ!」
文句を言おうとする鈴に、飛鳥は今にも泣きだしそうな顔で叫ぶ。
「見ちゃ、ダメ」
一体何が見えたのか。鈴にはわからなかったが、飛鳥は断固として鈴の顔を掴んだ顔を離そうとしない。絶対に見せるつもりはないようだ。
「……わかったよ、見ない。けど、一体何が見えたんだ」
「ひどい行為。多分、人間として一番ひどいこと」
「ひどいこと?」
殺人か何かが行われているのだろうか。鈴には想像がつかなかったが、唇をかみしめて震える飛鳥に、とても何が見えたのかを問う気にはなれなかった。
とにかくあの小屋から離れようと反対方向を向くと、風が吹いた。
あまりの風に砂が舞い、砂漠地帯のように吹き荒れるために思わず目をつむる。
よくよく考えれば業天を纏っている自分たちに目をつむる必要はなかったのだが、何故かその時は、目を開いてはならないと思った。
目を開くと、そこには処刑台があった。一目でわかる。見事なまでの、断頭台――ギロチン。
あの刃はおそらく青銅のようなもの、鉄ほど固くはないが、おそらくギロチンの役割は果たせるだろう。そこには、一人の少年が縛りつけられ、処刑されようとしていた。
その少年は鈴たちより少しばかり年上で、高校生ほどの年齢に見える。しかし体は痩せ細り、その瞳にはほとんど生気が見られない。まるで、自分が死ぬことになんの抵抗もないかのようだ。
鈴たちはギロチンの周りにたかる大衆の一部で、大衆の中心にあるギロチンの隣には処刑者と思われる男、ギロチンの正面にはこの処刑を執り行っていると思われる、少年と同程度の年の少女が立っていた。
痩せ細った少年とは異なり少女は美しく、この場にいる総ての者よりも優雅な服や装飾を身に着けており、この場を仕切る存在であることが伺える。
「――――――――。――――。さて、どうする」
少女が問う。
問いに応えず、少年は少女を睨む。
「断る」
吐き捨てるように、本当は口も利きたくないほど嫌悪した相手に向ける視線と口調で、少年が言った。
少年の態度に少女は困った顔を見せるが、彼女は少年の顔に自らの顔をよせ、じっと少年を見つめた。
「――――――――」
少女が少年の耳元に顔をよせ、何かを言った。
「――――ッ!」
少年が激昂する。
殺してやる。殺してやる。おれがお前らを殺してやる。
縛られて動かない両腕、断頭台に寝かされて動けない身体を無理やり動かそうとするも、やはり何も変わらない。動けない。
叫び続ける少年の頭を、少女の隣に立っていた男が地面に押し付ける。
地面に押し付けられモゴモゴとしか言えなくなった少年を見て、少女は男にやめろと命じたのだろう。男はしぶしぶ少年から離れた。それを確認したのち、少女は鈴たちのいる方向――大衆の中心を向いた。
諸手を広げ、語り掛ける。
「これよりこの忌み子には禊祓いを行い、その汚れた生を断つ」
隣に立つ老婆から、少女は青銅でできたスズと青い木の葉のついた枝を受け取り、周りの者を退かせた。
「此のかれ、汚れた血。おぞましき人殺しの血。如何なる理由があろうとも、人殺しは許されぬ。かれ、月満つる国の悪である」
カラン、青銅のスズが鳴る。
祝詞、だろうか。少女は言葉に合わせ、舞い落ちる木の葉の如く華麗に舞い始める。
「あな神よ、かれのその首、かれのその魂、御身の坐し坐す御元へと捧げ給う。故に許し給え、我らを許し給え。あな神よ、かれのその首、かれのその魂、御身の坐し坐す御元へと捧げ給う。故に許し給え、かれを許し給え」
舞いの中で少女が少年を指差すと、周りの男たちは担いできた木樽をひっくり返し、少年の頭から水と思われる液体をかぶせた。
やがて舞いを続けた少女が少年の前へ立ち、しゃがみ込むと、少年は唾を吐く。
ぴっと少女の頬に唾がかかり、少女は静かに唾を拭った。
少女の隣にいた男が何かを言って、少年の顔面を殴りつけた。
少女が何かを言うと、男は少年の下あごと頭をひっつかみ、顎を外す。
痛みに顔を歪めた少年に、再び大量の水がかけられた。少女が指示すると、無理やり開かれた口の中にも水を流し込まれた。激しく咳き込む少年を見て、少女は微笑む。
「穢れを払い給え……」
少女が少年の顔に両手を添え、顔を近づけると、接吻をした。
少女は強く唇を押し付け、その舌を無理やり少年に突き入れる。驚き抵抗を試みようとした少年だったが、顎が外されているために閉じることが出来ない。それをいいことに、少女は飢えた獣のように少年の唇を求め、そして唾液を流し込む。
それはまるで、蛇のような接吻だった。
無理やり舌を絡め、己の欲望のままに相手の総てを摂取し、嫌がる相手に己を押し付けるような、気味の悪い接吻だった。
「――――」
一度唇を離した少女が少年に何か語り掛けるが、少年は睨むだけ。
そうか。小さく動いた唇は再び少年のそれに重ね合わされた。
その光景を見て、周りの老若男女は「よかった、よかった」と口々に言う。
「これで救われる。これで助かる。あとはアイツが死ねばいい。人殺しは消えてくれ。妻殺しは許されない。穢れの存在は許されない。皆の幸せのためならば、奴らも本望であろうよ」
第三者である鈴と飛鳥からしてみれば、これは異様な光景だ。彼らからすれば、極めて常識的かつ善行的な宗教儀式を行っているのかもしれないが、鈴と飛鳥はそんな時代を生きていない。故に彼らの宗教を、二人は異常だとしか思えない。戦時中の日本の姿勢すら――「天皇陛下万歳」「お国のために」と死んでいく兵士の気持ちすらわからない二人が、この状況を良しとできるわけがない。
何度もこの状況を止めようとした。お前らおかしいだろうと叫ぼうとした。
しかし、身体が動かない。まるでお前はこの世界の住民ではないのだから関わるなとでも言われているかのように、身体が動かない。
何度も叫ぼうとする中、少女の接吻が終わった。
少年の口元には彼女のものと思われる唾液が垂れていた。またそれが土にしみこみ、濡れている。
顔を赤らめながら少年から離れた少女は、「禊は終わった。下ろせ」とだけ告げて後ろへ下がる。
「汚れた首を、落とす」
少女が大衆に向け言うと、大衆は歓声を上げた。
「落とせ、落とせ、落とせ、落とせ」
やめろ。
その少年を殺してはいけない。
何故か、鈴はそう強く思った。
「落とせ、落とせ、落とせ、落とせ」
やめろ。
叫ぼうとするが、口は動かない。
ギロチンの隣に立つ男が、刃を持ち上げていた綱を斧で断つ。
悪魔を縛る鎖と枷が、砕かれた。
断頭台の爪が、少年に振り下ろされる。
「やめろぉおおおおおおおおおおおおおおお!」
「ダメぇええええええええええええええええ!」
声が出た。
鈴と飛鳥がほぼ同時に叫んだ瞬間、時が止まった。
振り下ろされた刃はその場で止まり、民衆も少女も、誰もが時を止められたとしか思えない位置で止まっている。
そして、鈴と飛鳥の時も、止まった。
何故かはわからないが、自分たちの時が止められているということが分かった。
動けない。
思考はできる。しかし視線は動かない。足を前に出そうとしても、腕を前に伸ばそうとしても。口を閉じようにも、動かない。あのギロチンを止めようと踏み出した身体は中途半端な位置で止まっていると言うのに、転んだりもしない。周りの声は残らず消え去り、歓喜の表情で下ろされる刃を瞳に移すだけで、彼らの時もまた止まっている。
ひたひた、止まった時の中で、足音一つ。
「囲めェ、囲メ。籠の中の蟲ハ、いィつ、いぃつゥ、でやァる」
ひたひた、ひたひた。
「夜明けノ晩に、長寿の樹木が折ォレェた」
ひたひた、ひたひたひたひた。
何かが近づいている。この凍結した世界の中で動く何者か――おそらく時を止めた存在が、後ろから近づいてくる。
「ウシロの正ォ面、だァァれ」
動けない、動かない。避けることも、何が迫っているのかもわからない。ただ敵がいる、そして敵の攻撃が動けない自分たちを狙っている。それだけが明確に理解できて、恐怖から冷静な判断ができない。
「ヤメロというならバ、その首捧げテたもレ。汝のそノ首、捧げテたモれ。ソの首くレ、クレッ、くれェエ、たもレ」
ギロチンが、来る。
何故か、そう思った。
首を狩る何かが迫り、己の首を切り落とそうとしているのが分かった。では、どうする。
どうする、どうしようもない。――ここで、死ぬのか。
体は動かない。しかし確かにギロチンは迫っていて、あの少年が死ぬより早く、自分たちが殺されるということが理解できた。
何故ここまで明確に理解できるかはわからない。実際目にしたわけでないのに、まるで見てきたような確信があった。
しかし考える間にも迫る、刃はせまる。
――首を、断たれる。
「彼らに触れることは許さんよ、傀儡」
突如、鈴と飛鳥の正面に現れた声は、並んだ二人とギロチンの間に左腕を突き出した。
血が舞う。瞬間、血が舞ったことが影響しているのか、鈴と飛鳥に自由が戻った。
すぐさま足音から離れた鈴と飛鳥は、自分たちを助けた者の背中を見る。
「……ハワード」
飛鳥が、複雑そうな声で言った。
「やぁ、“明星”。まったく、この程度の罠に簡単に掛かるとは。まさか、コレらが傀儡と呼ばれる所以を知らないのかね」
ハワード・マクラウドが、眼前の敵を右拳で殴りつけ、遥か後方へ吹き飛ばす。
その先を見ると、操り糸の存在しない人形がふにゃふにゃと起き上がろうとする様が見えた。
頭には子供の落書きのような顔が描かれており、目尻には涙のようなものが一滴。鎌のような左腕に、やけに大きな右手。不気味なアンバランスさを持つ、気味の悪い人形。
「こいつが、嚆矢の言っていた敵の一人……」
「そう、傀儡。コレらは人の感情に潜り込み、幻覚を見せ、恐怖を植え付ける。その恐怖に呑み込まれれば最後、夢を見る間に殺されるのだよ」
周囲を見渡してみればなるほど、先ほどまで周りで歓声を上げていた民衆は消え去り、少年少女に男たち、断頭台すらも姿を消し、この場はもとの黒い空が広がる荒れ地になっている。
「断頭台が見えなかったかね。もし見えていたのなら、それは現実の己が視覚に捉えていた刃の姿だよ」
笑ったハワードは、不意に顔をしかめて左腕を抑えた。
その左腕は血に濡れている。業天を纏っていたにも関わらず、二の腕は半分以上も切り裂かれ、骨が覗いていた。
「その傷、痛むんじゃ……」
飛鳥がハワードに駆け寄ると、右腕で来るなと制止する。
「大したことはない」
「けどそれ、わたしたちを庇って……」
「言っただろう、君たちの味方であることは、行動で示すと。私は自分の言葉を守っただけに過ぎないよ。それよりも警戒したまえ、言ったはずだぞ、『コレら』と」
「コレら?」
鈴が首をかしげると同時、背後で爆発が起きた。
何かと目を向けると、そこにはもう一体の傀儡と肉弾戦を繰り広げるオーガストの姿がある。
「消しマス斬りマス、殺しマス。駆逐しマァアアアアアアアアスッ!」
「人形如きが口を開くな。耳障りだ」
今度の傀儡は、初め襲って来た傀儡と比べて左右対称になっている。鎌の右腕、異様に大きな左腕……。
右腕の鎌を弾いたオーガスト・ステファン・カヴァデールは拳を握り、傀儡の顔面へと叩き込む。
吹き飛んだ傀儡はもう一人の傀儡と背中合わせに衝突し、倒れこんだ。
「先へ進め、“明星”。この場は此方、“草枕”が引き受ける」
「なに、安心したまえ。キミらには指一本触れさせはしないよ」
オーガストとハワードは言うが、一体何処へ向かえと言うのか。今の今まで幻覚に惑わされていた上に、吽禍の深層心理の奥へは、どう進めばいいのかもわからない。
問おうとする鈴を、飛鳥とともに抱きかかえる者がいた。
アーヴァン・ゲーテンブルグだった。
「よォ。坊主に嬢ちゃん。待たせたな」
いつからその場にいたのだろう。もしか、彼は今来たのかもしれない。
アーヴァンはその巨体で鈴と飛鳥を抱え込み、傀儡の方向へと走る。
「ちょっと、敵の方向かってるけどいいの!?」
飛鳥が問いかけると、構わねぇとアーヴァンは走り続ける。
「お前ら、ちっと目ェ瞑ってな」
走るアーヴァンは、やはり傀儡の方向へと走る。それも、傀儡と傀儡の間を走り抜けようとしているかのようだった。
目を閉じた鈴と飛鳥にはわからないだろうが、現在彼らには傀儡の鎌が迫っている。それを止めるべくハワードとオーガストが動き、傀儡を止めて両サイドへと押し込み、アーヴァンの通るべき道を開いた。
「助かったぜ、お二人さんよ」
言って、アーヴァンは大きく跳躍。ハワードたちの瞳には、徐々に小さくなっていくアーヴァンの姿が映っている。
走り去ったアーヴァンが完全に視界から消えたことを確認して、オーガストが言う。
「その腕は大丈夫か、ハワード」
「なに、信頼を得られるのなら、片腕など安いものさ」
「信頼のために勝ちを失っては、元も子もないだろう」
「それを言われれば言い返せないが、“明星”に傷を付けずに通すにはこれしかなかったのだよ。それに、無くなったものを悔いても仕方ない。今できることを考えよう」
「ならば、此方からこれを離せ」
いまだ傀儡の両腕を抑えているオーガストだが、もともと彼の能力は肉体強化などではない。次第に傀儡に力で押し負けてきている。
「了解した」
言ったハワードは、傀儡の腕を残る右腕で掴んで回し、オーガストに向けて投げつける。
傀儡に押し負ける――と見せかけて後ろ向きに倒れこんだオーガストは、足に傀儡を乗せて、傀儡に向けて投げつけた。
二人の中間点で衝突した傀儡は互いに絡まるが、人間を遥かに超え関節可動でぐるぐると回り、見た目同様に人形らしく立ち上がる。
「敵か。敵ダ、敵ッ、敵ッ。死刑じゃ極刑ジャ、そノ首此処ニ捧げテたもレ。その首クれッ、クレ。捧げ、クレッ、たもレェエ!」
「消しマス斬りマァす。殺しまァアス。異端者ァ、排除しまァアアアアス」
ゆらゆらと動く彼らを見、ハワードとオーガストは互いに目配せをする。
「人形如きに構っている時間はない、手っ取り早くケリをつけよう」
「同意する」
手早くケリをつける。
言い切った二人だが、しかしそれが難しいことを彼らは知っている。
傀儡は見た目ただの人形であるが、言ってみれば吽禍の『使役』の属性が具現化したモノであると嚆矢から聞いている。その見た目がどうであれ、もとは吽禍の眷属の名に相応しい存在である。それが弱いはずがない。
吽禍の属性が一、『暴食』の具現化、入道。『使役』の傀儡。そして他者への拒絶が具現化した、『破壊』の潰鬼。
当然、『暴食の崇り』と呼ばれるタタリ神、吽禍の属性で最も強力なものが『暴食』である。故に、それは高天原最強と呼ばれる金色夜叉が相手をする。
心を操る――すなわち「幻覚を見せる」という部分に重点が置かれた『使役』には、トリッキーな動きが可能であり、また応用力のある“草枕”が。
残る『破壊』は吽禍の中でも弱い属性であるがしかし、その象徴から対することができるのはおそらく、アーヴァンぐらいであるとして選ばれたのだろう。
いずれにしても、吽禍本体ほどの力は持たないが、その元は吽禍であるのだから、簡単に片づけられるものでは無い。
けれど二人は、叫ぶのだ。
「「掛かって来いよ、吽禍の切れ端。打ち砕いてやる」」
傀儡が動いた。
鎌を振り上げ、ハワードとオーガストにそれぞれが襲い掛かる。
左腕を負傷したままのハワードが正面に立ち、一体の攻撃を再び左腕で鎌を受け止めた。
受け止めたと言っても、拳ではない左腕は、凶器を砕けない。のみならず、先ほど鈴たちを庇った切り傷に再び鎌が侵入し、骨のほとんどを切り裂かれる。
もう一体の攻撃はやはり、オーガストには届かなかった。吽禍でなければ、オーガストは倒せない。まるで陽炎のようにゆらりと揺れるのみ。
「離れろ、貴様ら邪魔なのだ」
拳を実体化させて傀儡を殴りつけたオーガストは、ハワードに切りかかっていた傀儡も蹴り飛ばす。
「何をしている、早急に腕を治せ」
オーガストは言うが、対するハワードは困った顔をする。
「いやね、先ほどから試しているのだが……」
「だが、なんだ」
いちいちもったいぶるな、早く言え。睨むオーガストに、ハワードは乾いた笑いを漏らした。
「果実が、出んのだ」
「は」
開いた口がふさがらない。
なにを戯けたことを言っている、その言葉すら、喉を通らない。
「此処は吽禍の体内。どうやら、奴の内では草木がタブーらしい」
これは参ったな。はっはっは。笑うハワードに、笑いごとかとオーガストは激昂する。
「そりゃあ、笑いごとではないよ。しかし笑う以外に何ができると言うのだ」
ハワードの能力は、実に強力だ。
その気になれば速度や防御力は『守りたい』と願う桜花や衣に匹敵するほどであるし、攻撃力であっても天児最高の物理攻撃力と言われるアーヴァンに次ぐ力を発揮できる。それが彼の持つ果実の特性で、単純な身体能力上昇ならばお手の物である。
しかし何より強力とされているのが、彼の持つ再生の力である。これもまた並はずれたものでは無く、如何なる攻撃を与えられても、特定の果実を口にするだけですぐさま再生する。これこそまさに神の所業。天児の中でも相当に優れた再生能力であると言える。
しかしその非常に強力な能力には、寿命を減らすだの小さな制約は置いておいて、中でも一つ大きな制約がある。
果実を口にすることである。
戦いの隙間を縫って果実を口にするなど容易いと皆は考えるだろう。確かに口にするだけならば楽かもしれないが、その前に行わなければならないことがある。
それが、果実の生成。
鈴や飛鳥と戦った際には特殊結界『常世』を、また殻人と戦闘を行った際にも『常世』をハワードは展開していた。
しかし、今は展開できない。果実が、手に入らない。
その理由が、この場所――すなわち吽禍の体内――結界の内ということである。
本来特殊結界というものは、結界を展開した者に有利な戦闘場所を与えると言うのが常である。時神鈴の特殊結界『鎮魂』は鈴の願望の具現化……創造型祝詞の結界であるため少々特殊で引き合いには出しずらいが、しかし最低条件として、皆が寝静まる時間――すなわち「夜になる」という条件が架せられる。となれば、「日が出ている」が条件の特殊結界とは相反するものとなり、どちらかの条件が満たされない。すなわち、これらの特殊結界のどちらかが展開できないことになる。
その時にカギとなるのが、天児としての精神力と、身に宿す御霊である。
より強く己の願いを祈ることにより、戦闘を有利に進められるか否かが決定するわけだ。
しかし、ハワードの特殊結界『常世』は、彼自身が認めるほど特殊――曰く、特殊の部類の中でも特殊な結界である。
理由の一つが、他の空間ごと特殊結界とする天児らとは異なり、果実を実らせる草木そのものが特殊結界と成り得ること。これは非常に特殊なもので、現在天児において彼のような特殊な特殊結界を構築する者はいないとされる。
その理由のもう一つが、特殊結界の最低基準が低いこと。彼は特殊結界ありきの戦闘スタイルで、結界を構築できなければロクに戦えない。故に、彼は結界を構築することにに長けているのだ。
そして彼の結界構築の最低条件は、「草木」が存在できることだ。
朝だろうが昼だろうが夜だろうが、雨だろうが嵐だろうが、もしか台風だの竜巻だのが起こっていようが、閉鎖された部屋の中だろうがなんだろうが、問題はない。
朝昼晩に草木が生えて何故おかしい。雨嵐台風竜巻が来ても、育つ果実は育つ。閉鎖された部屋の中でも、窓さえ割れればそこから草木は生い茂る。
草木が生えることが想像できさえすれば、彼の結界は構築できる。すなわち、彼の結界は、他の特殊結界と共存が前提の特殊結界というわけだ。
もっと言えば、彼の言う『果実』とは、桃源郷に存在するこの世にあらざる魔法の果実である。常識の枠にとらわれないため、どんな場所だろうがなんだろうが、生えると信じれば生えて来る。
例え砂漠や荒れ地に草木は生えないと言われようと、オアシスという伝説がある限り楽園は存在する。彼がそう信じる限りは生えてくるはずなのだ。
しかし、生えない。
これは吽禍とハワードの実力差もあるだろうが、なにより吽禍が荒れ地を己の領土としているところにあるのだろう。草木の一つすら許されない砂だけが広がる世界。それが、吽禍の特殊結界、望む風景、理想郷。なるほど、歪んでいる。ついでに言えば、嚆矢と真逆だ。
今は嚆矢のことはいいとして、しかし果実ありきで天児として活躍するハワードは、果実なくして通常の天児以上の力は見込めない。
「どうしたものか……」
肉体を強化できない。
のみならず、再生もできない。
再生を見越して時神鈴と水無月飛鳥を助けるために捧げたこの左腕は、治らない。
「まさか、この腕を本当に彼らに捧げることになるとはね」
「ならば、どうするのか」
「戦うしかないだろうね。例え片腕になったとしても。力を使えずとも」
私たちには、私たちの願いがある。祈りがある。
そこへ行くつくためならば、この程度の困難ぐらいは乗り越えて見せるよ。
偶然か嚆矢の計画通りなのかは知らないが、傀儡は幻術を見せることに多くの力をさき、他の能力はそれほど優れてはいない。これは決して傀儡が弱いと言うことではないが、他の『暴食』や残る『破壊』に比べれば、まだマシな相手ということだ。




