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天辰狐王 白月

 ――『門』の内――


 殻人の群れを抜けた鈴たちの前に広がる世界は、荒野。

 日はなく、影ばかりがそこにある巨大な荒野だ。群れる殻人が埋め尽くし、そこには生物どころか草木一つですら存在するようには見えない。ただ、蟲のように世界を埋め尽くす殻人が在るのみ。

 他者を排斥し、己のみを絶対とし、総てを喰らって奈落へ落とす悪魔の世界。

 その上空を、パラシュートのように広げた衣の羽衣に包まれた鈴たちは浮遊していた。

 『門』を埋め尽くす殻人を抜けた後は案外楽なもので殻人の総ては『門』に群れるために攻撃はしてこない。

 空中から、吽禍の存在する『門』の内という世界を見下ろす。

「殻人にまみれてロクな足場すらも存在しないとは、人口爆発も大概だな。これでも尚増えると言うのだから……やれやれ、想像するだけで気味が悪い。こんな世界に住む者の異常性が伺えるというものだ」

 ハワードが呻く。この世界に住む者の異常性という一点、こればかりは鈴も賛同した。

 足場が無くなるほど、『門』の周りは殻人に埋め尽くされている。右は殻人、左も殻人、何兆という単位すら超えて存在するのではないかと思うほど、膨大な数だった。

「これまで吽禍が殺してきた惑星の民たちの成れの果てがこれだ。地球の民がこうならないよう、衣たちは戦わなければならない。」

 誰に言ったか、もしか、自分自身に言い聞かせるためか、衣は呟いた。

 とにかく、時神鈴を吽禍の下へ。

 そのために空中を浮遊し前進を続ける中で、突如衝撃が遅い、全員が空から放り出された。

 何が起きた。

 考える前に、大量の殻人の中へ放り込まれた。

 その状況下で真っ先に動いたのは衣。群れる殻人に埋まりそうになる鈴たち全員をすぐさま羽衣で絡めとり、半径数百メートル周りの殻人を羽衣で押しのける。

「早くもお出ましだな、『暴食』。」

 キッと衣が空を見ると同時、桜花も衣の羽衣の外へ出る。

「ああ、なるほど。『暴食』とはよく言ったものよ。」

 遥か上空に存在する『暴食(それ)』は、あまりに巨大すぎるが故に気付かなかった。

 日がないのではない。巨大な何かが鈴たちに覆いかぶさるように存在し、巨大な影を落としていた。

「おい、なんだよアレは……」

 思わず鈴が口を開くと、鈴のすぐ真下に『門』を創り出した桜花が鈴を突き落とす。

 なにをすると怒る間もなく、鈴は暗闇へと落ちていった。

「なにを――」

 飛鳥が叫ぶが、桜花は「吽禍の下へ近付けたまで。」と、飛鳥も突き落とした。

「やれやれ、もう少し優しく通らせてやってもいいものを」

 ハワードが肩をすくめると、衣は「そんな時間があると思うか?」と問う。

「断言できるね、時間はない」

 空を見上げたハワードが見たその先には、巨大な『暴食(それ)』があった。

 人間など楽に踏みつぶせるような足、一本一本の指が人よりもはるかに大きな手、そして、小さな島など一飲みで喰らってしまえるであろう口。

 まさに巨人。山のように大きく、底の見えない穴のように広がる巨大な影。

 ああ、まさかとは思っていたが、嚆矢の述べていた化け物、『暴食』の象徴そのものではないか。

「曰く――入道(ニュウドウ)

 これが、眷属。吽禍と呼ばれるタタリの本質、その一つか。

 いくら守りに特化している桜花と衣といえども、この巨体から全員を守りきるのは不可能に近い。そう判断した桜花は吽禍へ少しでも近付けるよう、『門』を構築。吽禍の存在する深層心理へと鈴たちを運んだのだ。

「此方は先に行くぞ、ハワード」

 まるで入道には興味がないと言わんばかりに、無言を貫いていたオーガストが不意に口を開いた。

 そのまま桜花の開いた『門』へと飛び込むと、果ての見えない暗い穴へと沈んでいく。

「相方が先に行ってしまったか。ふむ、私も行くとするよ」

 次いで、ハワードも穴へ飛び込み姿を消した。

 残るは、桜花と衣、そしてアーヴァン。

「どうした、アーヴァン。先へ行かぬのか。」

 先ほど衣たちが落下したのは、あの巨人の一撃があったからだ。そして、巨人の拳は再び空を切り、桜花たちに振り下ろされようと持ち上げられていた。

「ここには入道だけじゃない。殻人だっている。お前ら、勝てるのか」

 問いかけるアーヴァンを、

「「阿呆」」

 二人は同時に笑い飛ばす。

「衣たちは金色の夜叉だぞ。心配する相手を間違えてくれるな。真に心配するべきは、あの巨体だぞ。」

「然りよ。次に汝があの化け物を見るときは、ただの肉塊の山になり果てているてあろうよ。」

 だから、お前は早く行け。

 ここに存在する総ての殻人をここで始末し、あの入道を退ける。

 我らには我らの役割があるように、お前にはお前の役割があるだろう。

 時神鈴を吽禍の下まで運ぶ。それができなければ、どのみちこの地球は終わりだ。ならば、我らは我らの役目を果たすのみ。他の心配は無用、己に与えられた役割をこなす事こそが、皆の勝利に繋がるのだから。

 あぁ、嚆矢は無茶な要求をしているだろう。

 いくら天児最強と謳われている彼女らでも、当然限界はある。これまで吽禍が殺してきた者たちの数だけ存在する殻人、そして体長数千キロはあると思われる、大きさも質量も桁違いな、吽禍の『暴食』の象徴と言われる巨人、入道。それらの総てを一人で相手しろと言われているのだから。

 けれど、無茶を言われているのは何も自分たちだけではない。

 吽禍の結界破壊を食い止めよと命じられた皇美龍、流川咲姫。

 吽禍の左腕を倒せと命じられた水無月飛鳥。

 吽禍の『使役』の象徴を倒せと命じられたハワードら草枕。

 吽禍の『破壊』の象徴を倒せと命じられたアーヴァン・ゲーテンブルグ。

 そしてなにより、吽禍そのものの打倒を命じられた時神鈴。

 これらの命令は総て無茶というしかなく、確率論ではとても勝率など語れない。

 それでも、やるしかない。

 無茶をしているのは嚆矢も同じだ。彼は彼で有り得ないほど大規模な結界を構築し、美龍が止めきれなかった吽禍の稲妻に耐えうるだけの耐久力を、結界に持たせなければならないのだから。

 どの勝負においても勝率はすべからく3割未満。鈴に至っては、吽禍に勝てる確率は1%もないだろう。それでもやるしかないのだ。この地球を守るためには、総てを捨てるだけの覚悟をしなければ勝てない。

「お前はお前の役目を果たせよ、アーヴァン。衣たちは大丈夫だぞ。信じろ、みんなを。」

 信じろ。

 その言葉は、殻人の群れを“舞姫”が切り開く際に、自分が鈴に言った言葉ではなかったか。

「……ああ、そうだな」

 呟き、口にタバコを咥え、取り出したライターで火をつけた。

「信じよう。俺たちには、夜明けの輝きがある」

 明けない夜がないように、晴れない絶望など存在しない。やがていつかは光が見える。

 時神鈴と水無月飛鳥。なぜだろう、実力は自分より下のハズなのに、彼らがまだ存在するというだけで、自分たちは負けないと思えるのだ。

 これもまた、明星と呼ばれる所以なのかもしれないな。

 思いつつ、アーヴァンは『門』へと飛び込んだ。

「皆が行った。もう遠慮することはないぞ、衣。」

「……そうか。ならば始めるぞ、“我ら”の戦。」

 衣の羽衣は守りの型から攻撃の型へ移行。針のように幾重にも分かれ、顔を反面隠す狐面は鬼面へと変化する。

「来いよ、入道。」

 振りかぶった拳をようやく振りおろし始めた入道。振り上げるのには多くの時間がかかったが、やはりこの場にも重力が存在するらしく、その加速と共に圧倒的質量を持つ拳が落下した。

 目測するだけでも、それはおそらく山のような高さからビルが落下するに等しいだけの威力だろうと予想できる。

 しかし大地ですらただでは済まないであろう一撃を前に、二人の天児は逃げもせず、ただ祝詞を口ずさむ。

「曰く我が信、外法行ひける聖らしき。」

「曰く我が民、外法成就の人らしき。」

 かつて人によって信仰されていた、少女と狐。

 彼女らが宿す神はそれぞれ、同一視される神であった。

 またその神は、他宗教において閻魔(エンマ)の眷属と同一視されていたと言う。

 その同一視された神――閻魔の眷属は、実に醜悪であるらしい。半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿で人には描かれた。あらゆる願いを叶えるほど強大な力を持つと同時、決して裏切りは許さない鬼のような神である。

 けれどその力は本物で、願えば万象どのような願いでも聞き入れるのだから、己の身を捨ててでも願いを叶えたいと思う弱き者がその神に縋ると言うのは、至極当然の結果であろう。

 その神を一度でも祀ると、自分の命と引き換えに最後まで信仰を受持することが前提となる。もし破れば没落する、あるいは災いが降りかかる。その法の厳しさ故に、外法とされていた。

(まなこ)に眼、(やいば)に刃。()(すなわ)同害報復(どうがいほうふく)(いにしえ)より在りき道理なり。幸障(さちさや)る百鬼、其れ外道なれば、其れを滅する者、此れまた外道たるべし。」

 目には目を。歯には歯を。

 鬼を倒すにはやはり鬼を、神を倒すのならば言うまでもない、神を。

二柱(ふたはしら)の姫異なる名なれど、其の御霊(みたま)等しくするもの在りき。」

 神話に登場する神において、異なる名を持つ、もしくはある神の別名であったとされる神が存在することは多い。いわゆる神の同一視で、名こそ異なるものの、特徴や逸話などが非常に似通っている神がこれに当てはまる。

 そして衣と桜花が天児として宿す神もまた、同一視される神である。

 であれば、その二人が合わさればどうなるか。

「此れ一柱となりて、三魂(みたま)宿らむ。」

 少女と狐。衣と桜花。「衣」と「妾」。

 そして、“我ら”。

 彼女こそが、第三天閻魔(エンマ)の眷属であり、強大な力を持ち裏切りは許さぬ神。

 衣という魂、桜花という魂が合わさるとき、二者の間に新たな人格が生まれる。それが“我ら”だ。これは衣ではなく、しかし桜花でもない。どちらでもない人格でありながら、確かに存在する人格、第三者とも呼べるべき魂。

 第三者である“我ら”が生まれることにより、彼女たちは三つの魂を宿す神となり、夜叉と呼ばれる神へと変貌する。

「此の神、数多(あまた)悪鬼(あっき)余さず(ことごと)殺し滅してき。即ち此れを以ちて、其の神「外道の夜叉」となりにけり――纏え業天、『神威(カムイ)』。」

 同害報復(どうがいほうふく)怨敵退散(おんてきたいさん)(めつ)、滅、滅。

 我は閻魔の眷属、罪を裁く白金の夜叉なり。故に罪人、首を差し出せ、その罪狩りて(たま)喰らう。逃がさぬ許さぬ、その罪余さず祓い清めん。

「あまり見せたくないのだがな、この姿は。しかし相手がタタリ神ともなれば、こちらも神とならざるを得ん。致し方ないか。」

 こ――――ん。

 狐が吠えた。

 白金色の狐。それを思わせる美しい白金の女がそこに居る。

 尾は消えた。白金色の長髪、白金色の狐耳、白金色の十二単。

 女は衣の『荒塩(あらしお)』にも似た業天『神威』を纏い、その針のような羽衣は衣の『荒塩』よりもはるかに暴虐的で鋭い。また狐面により隠された左目からは、赤く光る眼光が垣間見えた。

 しゃりんと広げた鉄扇で口元を隠し、くすくすと笑う。

 彼女は天児。衣であり、桜花であり、またそのどちらでもない。新たな人格、“我ら”。

 大日本帝国異常災害特別対策機関“天神”第一級災害直接殲滅活動部隊“金色夜叉”所属の、唯一永遠の欠員でありながら、最後の一人。

 名は、天辰狐王(てんしんこおう)白月(しらつき)

「ふぅ。久々のこの姿だ。美味なる空気を吸いたいと願ったが、如何せん吽禍の腹の内では不味いよな。」

 あまりに高く振り上げられていた、入道その拳。

 巨大なビルほどの質量を持ち、富士の山から落とされるほど重力加速に乗った巨大な拳を。

 しゃりんと広げた鉄扇で口元を隠し、狐面に隠された左目、残る右目で流し見て。

「たかが日を遮る程度の腕で、我をどうにかできると思うたか。」

 くすりと、赤い目を細めて笑う。

 伸ばした羽衣で、小さなマンションほどの横幅を持つ大穴を、その巨大な拳に開けた。

 穴、文字通り大穴。あり得ないほど巨大な影を落としていた白月(しらつき)の頭上に、日の光がまるでスポットライトのように当たる。それはすなわち、入道の巨大な腕を肩まで貫通するほど貫いたということ。山ほどの高さの腕に、刹那の間に巨大な風穴を開けたということ。

 痛がることもなく、唸ることもなく、入道は気にした様子もなく拳を振るう。

 ――ず……ん。

 地鳴り。

 まるで地震とも取れる大激動が発生し、大地がさながら波のように揺れ、数多の地割れを起こす。

 入道の腕が振り下ろされた。

 『門』を抜けようとしていたいくらかの殻人たちはたちまち地割れに呑みこまれ、いくつかは姿を消した。しかし多くの殻人は『門』を抜けようと、その場から走る。

「そこには守らねばならぬ者がおる。これよりは一歩たりとも進ませぬよ。汝ら今すぐに退け。退かぬならば応えよう、我が地獄を()せてやる。」

 美龍(メイロン)がいる。咲姫(さき)がいる。多くの天児がそこで戦っているのだから、行かせるわけにはいなかいだろう。

 遥か上空――入道の肩付近には、白月の姿。

 入道の拳に開けた風穴から腕を伝い、そこまで移動したらしい。その所有時間は僅か一秒ほどで、もはや瞬間移動ともいえる速度だ。

 その彼女は、入道の肩を蹴り宙を舞い、しゃりんと鉄扇を広げた。

 広げた鉄扇は巨大化する。その質量などを超越して、どこまでも巨大化する。まるで留まる事を知らず、入道とほぼ同等までの大きさの鉄扇となると、白月はその鉄扇を地面に突き立て、吽禍の『門』を塞いだ。

 数十の殻人は『門』の外へ抜けることに成功したが、しかし数百の殻人は鉄扇に押しつぶされ、残る幾億幾兆もの殻人は、入道と白月の残る吽禍の世界へと取り残される。

「なぁ、吽禍よ。」

 衣でもない。桜花でもない。“我ら”が問うた。

「なんの権利があって、我らの幸せを壊した。なんの恨みがあって、我らの居場所を奪った。」

 我が生きるは罪なのか。

 我が幸福になるは、許されぬことなのか。

 我の幸せを奪った。我の大切な人達の幸せも奪った。ただ無差別に他者の幸せを奪った。ならば一体、他の誰が幸せに生きられる。

 教えてくれよ吽禍。お前はどうして、そうまでして他人の不幸を美味いと貪るのか。お前はどうして、他人の幸せを悪とするのか。

 人は支えあわねば生きられない。人は人と人が支え合うと書いて『人』という漢字が成り立つと、誰かが言った。千年近く生きてきた少女と狐には、その意味がよくわかる。現に、千年を生きた自分たちも支えあわなければ生きていけないことを知っているから。

 少女には狐が必要だ。狐と共に生き、また多くの仲間に支えられて今此処にいる。狐がいなければいつまでも道具として親に使われていただろうし、今ある温もりを得られなかったハズだ。ただの一度も、「生きていてよかった」と思うことはなかっただろう。

 狐には少女が必要だ。少女と共に生き、また多くの仲間に支えられて今此処にいる。少女がいなければ、異色である狐はいつまでも仲間を知らないままであっただろうし、病弱な狐は何処かで人に殺されるか、野垂れ死ぬかの未来だったハズだ。ただの一度も、「生まれてよかった」と思うことはなかっただろう。

 けれど、少女と狐は出会った。支え、支えられ、共に先へと歩み、此処にいる。生きていてよかったと強く思い、生まれてよかったと喜び、また命を賭してまで守りたいと思うものが此処にある。

 我思う故に我あり、というのは有名な言葉であるが、二人は今「他者思う故に我あり」と唱えよう。

 少女と狐は、他者を想う。優しく、時に厳しく、大切に。そうすれば、自然と他者は幸せになれるもの。

 すると今度は、他者が自分たちを想ってくれる。優しく、時に厳しく、大切に。

 身から出た錆、自業自得に因果応報。世には己の悪行は必ず返ってくるという意味合いの言葉があるが、それは何も悪行に限らない。

 誰かの為を想って動き、その者を幸せにできたとき、その者も他者を想って幸せにしようとするだろう。この動きが波紋のように広がれば、きっと誰もが優しくなれる。きっと誰もが幸せになれる。

 衣と桜花が願う世界は、この幸せの波紋が広がる世界で、故に彼女らは『救いの手』という祈りを持つ時神鈴と、『恩返し』という祈りを持つ水無月飛鳥を明星と認めた。

 しかし、だからこそ彼女らには余計に吽禍がわからない。

 吽禍は御霊(ごりょう)。元は人の身でありながら、人を祟るための神となった存在だ。

「元は人の子であった汝ならば、人の心がわかるだろう。」

 人の喜びがわかるだろう。怒りがわかるだろう。哀しみがわかるだろう。楽しみがわかるだろう。なのにお前は、どうして人の営みを否定する。どうして人の愛を破壊する。

「自分の幸せを捨ててまで、何故お前は人を祟る神へと成り代わった。」

 そんなにも、人が憎いのか。

 千年の時の中で、彼女は吽禍への恨みだけでなく、疑問も募らせていった。

 元は人であったはずの神が、どうして人の愛を否定するのか。どうして、他人の不幸を至高とするのか。考えれば考えるほど、理解ができない。

 確かに彼女らは多くの者に裏切りを受けた。

 衣は、親から道具として使われた。自分は道具であり、以上でも以下でもなくただ道具。愛など知らなかったし、この世の中はそういうものなのだと思っていた。

 桜花は周りから排斥された。白色という異色な肌に生まれたがために区別され、そして人の宗教の道具となる。崇拝する者、そして宗教を否定する者。いずれにしても愛などは欠片もなく、人間の勝手な解釈により崇拝され、また命を狙われた。この世は残酷なもので、狐は狐色という当たり前の理を生まれ持たなかったことにより、己は幸せにはなれないのだと思っていた。

 けれど彼女らは、愛を受けることができた。

 小さな村であったが、人並みの幸せを感じた。

 なぁ吽禍よ、お前も幸せを知っているだろう。お前にも、あの暖かさがわかるだろう。

 幸せという概念を知らないのであるならば、吽禍は他者を不幸にすることにこだわらない。何故なら、不幸という概念は幸せの対極にあるものであるから。片方を知れば、必然ともう片方を知ることになる。

 吽禍が他者を不幸にすることを望むとはつまり、幸せを知っているということだ。

「考えても考えても、お前のことはわからない。わからないが――。」

 我らには我らの役割がある。守りたいものがある。例えこの身が鬼となろうとも、守るべきものが確かにあるから。

 二度と、奪われてはならんのだ。二度と、失ってはならんのだ。

 でなければ、この異能に意味はない。

 でなければ、この祈りに意味はない。

 でなければ、この命に、意味はない。

「我らは我らの存在証明として、この身朽ちても総てを守ろう。」

 故に。

 静かに告げた白月は入道を、そして多くの殻人を見た。

「汝ら、懺悔は済んだか。」

 静かに、しかしどこまでも冷たく白月は告げた。

 誰も返事は返さない。けれど、白月は続ける。

「この姿になるとどうも、怒りを抑えられぬ。汝ら、去ね。でなくば殺す。」

 視線は、冷たい。

 睨まれれば凍る、まさに絶対零度の冷たさを持つ彼女の視線。

 白髪の隙間から覗く右目は赤眼で、例え逃げたとしても逃げ切れなければ悉く殺すと語っている。

 狐面に隠された左目は狐面の内で不気味に光り、彼女の内に渦巻く憎悪が滲み出す。

 彼女が言葉を送るそれら殻人は人形だ、心を既に吽禍に喰われている以上、意思はない。唯一の例外であった吽禍の眷属であった風間辰人、それも時神鈴によって葬られた。意志の存在する者は、此処にはいない。意志無き人形が無数に蠢くばかりである。故に彼らは退かない。そこに火があろうが水があろうが、光を求めて電球に張り付く蟲のように、『門』を求めて鉄扇に張り付き、蠢くのみ。

 ――醜い。

 殻人、あれらは己の意志はなく、操り人形のように吽禍の手足として動き回り、総てを喰らい貪る害蟲だ。やはり、生かす価値はない。

 これまで己が行った悪行を悔いることもできなくなるほど、吽禍は人の魂を喰らった。己の行為の善悪もわからない、ただ命じられるままに動き、命じられるままに殺す。感情、心などというものは吽禍に奪われ存在せず、もはやただの肉塊となったその身を辱めた。

 であるなら、白月が彼らにできることはただ一つ。

「我は第三天閻魔(だいさんてんエンマ)の眷属、罪を裁く白金の夜叉なり。故に罪人、首を差し出せ、その罪狩りて(たま)喰らう。逃がさぬ許さぬ、その罪余さず祓い清めん。」

 二度と悪行を行えないよう、ここで彼ら殻人を葬ることだけだ。

 ――汝は外道。汝は鬼畜。()が民犯す悪鬼なり。我が民犯すこと許さぬ、(われ)が汝ら百鬼を退けよう。例え外道の法則、悪鬼の(ちぎ)り、如何なる法も結ぼうぞ。報いも裁きも受けようぞ。なればこそ力を寄越せ。我が民犯すこと、天津神(あまつかみ)とて見逃せぬ――。

 守りたいものがある。守りたい者たちがいる。それらを犯さんと冷徹無常な鬼畜外道があるならば、それらを退け守るのみ。例え同じ冷徹無常な鬼畜外道に成り果てても構わない。だから力を寄越せよ、第三天。我は第三天閻魔の眷属、罪を裁く白金色の夜叉なれば。

 そう、“金色夜叉”なれば――。

 落とした鉄扇から手を離し、入道の肩ほどの高さ――上空数千キロから雲を裂き落下する白月は、逃げる姿勢を見せない殻人と入道をその目に移す。

「汝らの意志は伝わった。ならば。」

 遥か上空から落下することに恐怖も見せず、白月は静かに「接続。胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)金剛力界(こんごうりきかい)」と呟いた。

「征くぞォオッ!」

 情けはない。容赦もない。

 奪われた幸せは取り戻せない。おそらく殻人総てを無残に殺したところで、彼女の怒りは胸に渦巻き続けて拭えない。だがだからと言って、此方に害を及ぼす輩を「はい、そうですか」と見逃すことはあり得ない。

「曰く外道、曰く夜叉……。なれば良し、我が身、我が(たま)、鬼にせむ。」

 ここで葬る、皆殺す。

「我、大欲界(だいよくかい)第三天(だいさんてん)閻魔(えんま)の眷属。閻魔の(まなこ)は我が眼。我が御前(みまえ)にて許さる罪は(あら)じ。天津罪(あまつつみ)国津罪(くにつつみ)現世(よこしよ)に数多の罪ありき。罪負う者許さる道理無し。然ればこそ皆悉滅してき。我が求むる安国がため、我が御前にて許さる罪は(あら)じ。」

 ちりちりと、彼女の羽衣が震えた。

 彼女の羽衣は、衣の『荒塩(あらしお)』にも似た羽衣は彼女の祝詞を受けてより細く、より鋭く、そして不気味に輝いた。

「顕現――神威之神咒(カムイノカジリ)胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)外金剛院(がいこんごういん)衆合地獄(しゅうごうじごく)一切根滅(いっさいこんめつ)(やいば)ァアッ!」

 告げると同時、羽衣はまるで牢から解き放たれた獣のように伸びて地上へ向かう。唸り、風を切り、彼我の距離などまるでなかったかのような速度で、殻人のもとへ幾千もの鋼の雨となって降り注ぐ。

 貫く。貫く貫く。

 一人貫けばそこから花火のように羽衣が飛び出し、周囲に存在する殻人を貫く。

 花火、花火、花火。

 鋼鉄の花が咲き乱れ、そして真紅の血しぶきがマグマのように大地から吹き出し、醜悪な雨を降らせる。血肉が舞う。しかし白月は構わない。

 我は鬼だ、皆殺す。我は鬼を狩る鬼だ。忌避され、嫌悪されるべきものだ。美しいものでは無いのだ。悪鬼を退け、しかし神聖な神としては崇められぬ、醜き神だ。我を崇めるは外法、我を崇める者は外法成就の民と蔑まれる。人界において半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿で描かれたこの姿。どうやら我は、守るべき人の目から見ても、醜き鬼と映るらしい。

 ――しかし、それでも構わない。

 我には我の役割がある。我には我にしか出来ぬことがある。ならば、それをこなすだけ。

 守りたいと願ったものを守る。守ると誓ったものを守る。それしか我にはないし、それしか我に出来ることはあらぬから。

 殺すことしか、能のない女だから。

 故に愛されぬ。故に許されぬ。幸など願うことは許されぬ。殿方の腕に包まれることを夢見ようと、心安らかな幸福を望もうと、其は所詮、儚い夢偽りでしかあり得ない。誰も彼も幸せにと優しげに微笑む世界には――我が望む安国(やすくに)には、我の居場所などどこにもない。地獄の門番、醜悪悪鬼、それが我。忌まれ嫌われ、天涯孤独、一人の地獄を知るだろう。

 それでも、我には殺すことしかないのだ。例え居場所がなくとも、それが我の役割ならば、我がこなすしかないであろう。

 だから白月は羽衣を止めない。殺して殺して殺しつくす。

 残虐な神と呼ばれた。

 ああ、結構。我は確かに残虐だ。

 憎むべき神だと蔑まれた。

 ああ、結構。我は殺すことしか出来ぬから、敵を滅することしか知らぬから。

 愛が欲しい。幸福が欲しい。ただの普通の幸せが、彼女にとっては何より尊いものだ。幸福な日々、幸福な未来への憧れ。誰もが抱いて然るべき願望を、しかし彼女の業が手に入れることを許さない。一時のみ訪れたそれは、所詮うたかたの夢だ。瞬く間に消え去り、目を開く頃にはどこにもない。

 同害報復、因果応報、自業に自得。悪は悪によって害される。因果は還り、己のしたことはやがて己に還る。己が敵を倒すことにより、敵が被る不幸。それらは巡り巡って己に帰り、故に彼女らは幸福を得られない。

 敵を殺すことしか出来ぬのに、敵を殺すことで被る不幸。抜け出すことのできぬ永劫輪廻。

 守るために戦った、守るために殺した。しかし間に合わず、奪われ失った。また手に入れても、敵が来る。戦い殺したが、間に合わぬ、失った。敵が来る。殺す。守り切れぬ、失う。敵。殺す。失う。敵。殺す。失う。敵、殺す、また失う――。

 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

 肉体を切り刻む。臓物をぶちまける。

 次を殺す。次を。またその次を殺す。

 例えどれほどの幸福が失われようとも。

「並べ、皆まとめて蹴散らしてくれるッ!」

 それでも我には、これしかないのだから――。

「こうして殺す(まもる)ことしか、出来ぬのだァアアア!」

『金色夜叉。君たちは不幸の業を背負っている。永劫、幸福が訪れることはないだろう。それでも一つ、可能性があるとしたら、君たちの業を振り払うことが出来るとしたら、それはきっと夜明けの光。明けの明星、その輝きの他にない。』

 かつて嚆矢の述べた言葉が蘇る。

 時は来た。明星は現れた。

 であるのに、吽禍という敵が現れた。己の幸福を破壊するべく、敵が現れた。

 ようやく、光が差したのだ。

「奪わせぬぞ……。」

 我らの光は奪わせない。我らの希望はやらせない。

 彼ら“明星”は光だ。夜明けの象徴、雨上がりの空。希望の光。誰もが幸せになれる世界を望み、誰もが笑顔でいられる世界を創るだけの御霊(みたま)を秘めた、この残酷な世界の救世主。

 “我ら”の望む、安国の創造主。

 奪わせるものか、絶対に。

 傷つけるものか、絶対に。

 邪魔をさせるものか、絶対に。

 彼らは美しい。また、守るだけの価値がある。皆を幸せにする力が、彼らにはある。故に穢してはならない。穢れるのは、この身一つで十分だろう。

「貴様ら如きを――明星に触れさせるものかァアアアアアアッ!」

 貫く。

 貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く。

 十、百、千、万、億……。

 次々と殻人は彼女の羽衣に貫かれ、そして鋼鉄の花が咲くと同時に数多の吽禍の眷属は消える。咲いた地獄の花は花弁を伸ばし、その花弁は新たな殻人を貫き花を咲かせる。

「数押せば勝てるとでも思うたか、舐めてくれるなよ雑兵風情がッ! いくら束になろうが群れようが、この御霊(みたま)は潰せんぞォッ!」

 次々と殻人を消していく白月だがやはり、殻人の数が多すぎる。

 数十億は貫いたと思ったが、未だ殻人の進撃は衰えない。群れて群れて、『門』を抜けようと、白月の鉄扇を破壊せんと殴りつける。

 あの数が相手では、流石に鉄扇だけでは保たないか――。

 未だ空中より落下している白月に向けて、巨大な何かが空を切って横凪される。

 ようやく動きを再開したらしい、入道の腕だった。

 アレは確かに当たれば脅威だが、ならば当たらなければいい。巨体の代わりに動きが遅いのであれば、当たらない。地上で花を咲かせる羽衣を一つ引き戻し、その腕に向けて振う。

 ぶしゃりと何かが零れだし、その腕は見事に分断された。丁度、肘の辺りがへし折れて、その切断面を覗かせる。切断面を見て、白月の動きが止まった。

「なんだ、これは……。」

 入道の腕の内には、骨がなかった。肉もなかった。ただ不気味な何かが蠢き、まるで入道の着ぐるみをかぶった何者かが存在しているかのように、何もなかった。

 よくよく切断面を見てみれば、蠢いているのは数え切れないほどの蟲。巨大な雲霞(うんか)であった。

 腕の切断面から零れた何かも、蟲。切断面からは不気味な蟲が飛び出し、群れとなる。零れた腕を繋ぎとめるように蠢く蟲たちはやがて、再び腕を繋げて白月に向けて腕を振るう。

 驚愕、恐怖、嫌悪に鳥肌。開いた口がふさがらない白月は、先ほど空けたハズの腕の大穴すらも塞がっていることを視認すると同時、巨大な腕によってその肉体を薙ぎ払われた。


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