第一級災害直接殲滅活動部隊“舞姫”
吽禍の『門』が開き、鈴たちはその中に突入する予定である。
が、しかし桜花たちは動かない。彼女らだけでなく、他の天児も動かない。――否、動けない。
『門』から零れ出る吽禍の眷属、その群れはさながらカマキリの卵から幼体が生まれるが如くにあふれ出しているのだ。 あまりの数、あまりの質量。『門』から飛び出す殻人の数は途方なく、巨大な門ですら所せましにと互いを押しのけつつ、この地を凌辱せしめんと這い出して来る。その場の何処にも、侵入するスペースなどが存在しない。
無理やり突っ込めばなんとかなるかと考えるが、しかし圧倒的な質量に押し戻されるだけだと結論が出る。まるで、穴を開けた巨大水風船の中へ飛び込めと言っているようなものだ。水風船の中へ入りたいのに、穴を広げるほど勢いのある水が浸入を阻む。また、もし入ることに成功したとして、圧倒的な量の水と共に外へ押し出されるのがオチだろう。
「おい、これどうすんだよ!」
これでは、嚆矢の作戦が無駄になる。他に案がない以上、他に吽禍を倒す術もない。ここで門に侵入できなければ意味がないのに。吽禍を止めることが出来ないのに。
焦る鈴だったが、衣は落ち着けと告げた。
「想定内だぞ。突破口はある。」
言った途端、屋上に二人の女が姿を現した。
片や小柄で、衣同様小学生にしか見えないサイドポニー、緑のチャイナ服を着た中国人らしき少女。
片や大人の容姿で、メイド服に黒縁眼鏡、おさげで長身の日系の女性。
その二人だ。
「お待たせしました」
メイド服の女が、メガネをくいっと上げた。
「これより我ら大日本帝国異常災害特別対策機関“天神”第一級災害直接殲滅活動部隊“舞姫”所属の皇美龍、及び私、流川咲姫。高天原の天児を支援します」
メイドが言い終わると、仁王立ちの少女がズンと胸を張る。
「本来ならば朕が乗り込みたいところであるが、しかし時は一刻を争う上に、適任は貴様らと聞く。であるなら、その役目は譲ろう。この皇美龍、貴様らの道を切り開く」
行くぞ咲姫。
畏まりました、お嬢様。
言うが早いか、二者は多くの殻人が流れ出る『門』へと跳躍した。
その『門』には変わらず殻人に溢れており、今尚殻人の群れが留まる様子は見られない。
もはや決壊したダムの引き起こした津浪にも等しい数多の殻人を前に、美龍と名乗る少女は臆さず中国拳法らしき構えを取る。
「心を持たぬ化け物らよ。この皇美龍が冥土へ送ってやろう」
水が流れるような動きで迫る殻人を受け流し、手刀や掌底でその群れをかいくぐる美龍。時折山のように力強い一撃が放たれ、少しずつ『門』への道が出来ていく。
また、咲姫と名乗ったメイドもどこからか取り出したハンマーを担ぎ、振り回す。
その一振りで数体の殻人は吹き飛び、空に散っていく。彼女は、美龍の切り開いた道を、更に大きく広げていた。
が、所詮はその程度である。
確かに二人は、殻人から一切の傷を負うことなく着々と『門』からあふれ出る殻人を打ち、鈴たちの道を切り開いている。がしかし、敵の数があまりに多すぎた。
開いても開いても、すぐに殻人でその場が埋まる。まるで瞬間的に再生する力でも有しているかのようだった。瞬く間に穴は別の殻人によって埋まる。その様はさながら、水風船から流れ出る水が留まる事を知らず、尚も激しい勢いで内に篭る水を押し出そうとするが如く。
『門』は絶えず、殻人を吐き出している。
空中で留まっていられない彼女らでは、明らかに無理だ。空中での移動手段を持たない以上、水風船の水に押し負ければ、地球の重力に引かれて落ちてしまう。
よって、一度屋上に足を着き、再度跳躍する。跳躍、落下、跳躍、落下、跳躍、落下。
彼女らが一度落下し、再度跳躍するまでには、切り崩した場所もすべて、刹那の間に殻人に埋まる。
「やはり、この数は多すぎますね」
跳躍し、鉄槌を振り回しつつ、無表情のまま咲姫はボソリと呟いた。
それを聞いた美龍は手を休めることもないまま、「なに、構わんだろう」と笑う。
「この程度でどうにかできる相手ならば、朕が直々に吽禍を迎え撃ってやろうと思っていたところだ。こうでなければ、朕が裏方に徹するに値しない」
「では、どうしますか」
「そうだな、ここいらでサービスタイムは終わりとしよう」
跳躍した二者はやはり、空を駆ける術を持たない。殻人を殲滅する力を有していても、その数が暴力的なまでに多すぎる。破壊しても破壊しても、退かしても吹き飛ばしても倒しても、おびただしい数で溢れる殻人には押されていた。
その中で、彼女らはやはり押し返され、重力に引かれて落ちていく――かに見えた。
体は確かに重力に引かれている。だが落ちない。どころか、宙を駆けている。
零れ落ちるかの如くに生れ落ちる多くの殻人を足場として、二人は空中を駆け昇っていた。
敵の驚異の質量を足場にすることにより、二者は幾度の跳躍を抜きに、そのまま殻人の群れの内へと飛び込むことに成功した。だが、遠目からは殻人の群れに呑み込まれたようにしか見えない。
二人は埋もれていく。まるで二人の絵が黒い絵の具で塗りたくられているかのように、その姿は殻人の群れの中へ埋もれていく。
「おい、助けた方がいいんじゃないのか!」
二人を助けようと空へ跳ぼうとする鈴だったが、アーヴァンが鈴の肩を抑えた。
「なに、あの二人はこの程度で終わるタマじゃない」
完全に二人が殻人の群れに呑み込まれ、幾万もの殻人が鈴たちに目を向け、食らおうと迫った時だった。
「やはり信用はされないか。しかし、いいだろう。信を勝ち取ることこそが、朕の――皇美龍の業なれば」
空中に少女――皇美龍の声が響く。
「開きます、飛んで下さい!」
次いで、殻人の群れの内から、メイド――流川咲姫の声が聞えた。同時、“舞姫”の二人の祝詞が空に広がった。
「――妾、其に坐し坐す姫ならば、今其の力行使せん」
「雪零り風吹くとも、恒に石の如くに、常はに堅はに動かずまさむ――」
「舞えよ神風、踊れや国花。神木・五百桜」
「御嶽浅間・雲見ヶ嶽」
瞬間、鈴たちの眼前に直径百メートルにも及ぶ大穴が、『門』へ道として切り開かれた。
美龍から『門』までは桜の花びらが儚く舞い、咲姫から鈴たちの眼前にはまるで山が落下したかのように殻人が四方にかき分けられている。その殻人の数、実に幾億。圧倒的質量の中心に、直径二十メートルほどもある大穴が即座に形成された。
あれほど遠く見えていた『門』への道が瞬く間に切り開かれ、今では近くに見える。
彼女たちを助けなければと一瞬でも思った鈴だったが、それらはすべて杞憂であったと知る。
「す、すげぇ……」
この高天原中学校から遥か上空に開かれた『門』までの距離は、有に千キロは超えている。そこまでの道のりを、たった二人で、それも一瞬のうちに文字通り切り開いた。
唖然とするのは鈴だけでなく、飛鳥も同じだった。
他の天児たちは彼女たちを知っているようで、アーヴァンは流石だと頷き、ハワードは興味深げに眺めている。
「今だ、行け貴様らッ!」
空を見上げる鈴たちに空から声が投げられる。
美龍の声を聞くと同時、すぐさま次の行動へと移るべく「衣の周りに集まれ。」と衣が叫んだ。
全員が衣の隣へ寄ると、衣は羽衣を大きく広げ、その場の全員を包み込んで跳躍する。
「すまない、“舞姫”。待っていろ、必ず勝つぞ。」
「当然だ、この朕が協力したのだからな。必ず勝て」
空中、すれ違いざまに会話を交わすと、美龍と咲姫の切り開いた大きな穴の中へ、衣の羽衣に包まれたまま鈴たちは突入する。
「行ったか、咲姫」
鈴たちが『門』の中へ消えたことを視認した咲姫は、「はい」と答える。
すると、まるで糸が切れた人形のように美龍は落下していく。それを抱き留めた咲姫は、静かに中学校の屋上へと着地した。
「思いのほか堪えるな、あれだけの距離を切り開くというのは」
咲姫から離れた美龍が額ににじむ汗を拭うと、先ほど自分たちが弾き、蹴散らした幾万もの殻人たちを、シラミでも潰すかのように残らず殲滅しようと奮闘する天児たちの姿が見えた。
「彼らには申し訳なく思いますね。まるで、私たちの尻拭いをさせているようで」
美龍の視線に気づいたのだろう、咲姫は静かに告げる。
「致し方ないことだな。凡夫に出来ぬことを行うのが朕らエリート。エリートを出来うる限りに輝かせるのが、奴等凡夫の役割だ」
「……凡夫だとか、エリートだとか、如何様な表現は慎んだ方がよろしいかと」
「何故だ。アーヴァンとかいうヤツは、『俺ら凡夫はお前らエリートを輝かせるために生きている』とか言っていたが」
「彼は少々特殊なだけですよ。彼の業は正直、私が同情するほどに惨めなモノですし」
「それを決めるのは咲姫じゃない、あの男だよ。もっとも、朕にもヤツの喜びは死ぬほど理解はできないがな」
「でしょうね。私たちにはどうも、あの男が理解できない。それはきっと、私たちの祈りが、彼と似ているようで全く異質なるものであるからでしょうが」
「まぁ、それはいい。それより、朕たちの本当の見せ場が始まるぞ」
鈴たちが飛び込んだ『門』を見れば、やはり殻人たちが再びあふれ出していた。しかし今の“舞姫”には別のすべきことがある。これもまた人任せになるが、『門』の閉鎖は高天原の天児に、流れ出る殻人はやはり他の天児に頼むしかない。
ここからが、美龍と咲姫がこの場に留まる理由――真の役割を全うする時なのだから。
「いつでも行けますよ。私は万全です。お嬢様はどうでしょうか」
「朕も準備はできているよ」
呟く咲姫のメガネには、空から降り注がれる一筋の光が映る。
貞観地震。
それはかつて吽禍がこの地球上に於いてもたらした災害の一つで、吽禍がたまたまこの地球でもたらしてしまった事象である。その記述には、『五月二六日癸末の日。空を流れる光が夜を光のように照らし、人々は叫び声をあげて身を伏せ、立つことが出来なかった』とある。
この空を流れる光、その正体こそは稲妻。吽禍の殺意が体現された、懺滅の剣。
かつて吽禍が起こした貞観地震という災厄は、本来神の造りだした結界『空繰』に吽禍ごと閉じ込めた。故に災厄は『空繰』にのみ起こる災害であるハズであった。がしかし、『とあるモノ』が『空繰』に穴を開けたため、現実世界にも災厄が流れ込むことになる。その『とあるモノ』こそが、吽禍の懺滅の剣――稲妻であった。
かつてと同じ災厄が今ここに起きようとしている以上、同じ災いが起きてもなんら不思議はない。ということはつまり、この多くの殻人や天児が戦を行うこの場所に、吽禍の殺意の体現が降り注いでも、なんら不思議はないということである。
殻人が吽禍の剣に殺されるのはまだいいとしても、しかし天児を殺されること、そして嚆矢の展開した空繰が破壊され、殻人が現実世界に流れ込むという事態は見過ごせない。かつての貞観地震と同規模の災厄が発生することを予見した嚆矢は、天児の中でこの殺意の剣を防ぐ力のある天児を『門』の外へ残さざるを得なかった。
吽禍の数多の剣を退ける盾を持つ者こそが、すなわち小学生にして現役天児として活躍する少女、皇美龍。
そして、その美龍の盾を最大限に生かせる者こそが、彼女の従者であり“舞姫”という所属部隊を同じくする女、流川咲姫である。
強力な力を持つ彼女らが、鈴たちと同じ攻撃部隊に加われなかったのはそういう背景があったためだ。
「来たぞ。まるで流星だな、アレは」
一筋の光が、嚆矢の造りだしたモノクロの結界の中に閃いた。
それが大地に着地した瞬間、結界によって構築されたものとはいえ家が吹き飛び、その辺りをさまよっていた殻人総てを吹き飛ばす。爆心地を悉く燃やし尽くし、焦土と変える。と同時、モノクロ世界の間に色のついた世界が垣間見えた。
どうやら、あの一撃で嚆矢の造りだした強固な結界に、人一人分とはいえ穴を開けたらしい。
そも、『空繰』という特殊空間は、現実世界とは次元の異なる、いわゆる別世界。俗にいう世界に隣り合うが異なる世界というもので、その壁を超え、元の世界へ行くためには手段が三つ。
一つ。結界を造りだした術者が自ら結界を解く。
そうすることで当然別世界は消滅し、また別世界に存在していたという世界の記録は抹消され、別世界に隔離されていた人たちはもとの世界に変わらず存在していたと処理される。結界を解くと、結界を構築する前とほぼ同じ時刻に元の世界へ戻る大きな理由がこれである。
二つ。術者を倒す。
術者が結界を維持できなくなった時、その結界は消え、先述と同じく結界という別世界は存在しなかったものと処理される。
そして三つ。結界そのものを破壊する。
それは今現在、吽禍が行っている物事でもある。先も述べたように、結界はいわゆる別世界、パラレルワールドのようなものだ。そもそもの次元が違うため、結界破壊は先ほど述べた二つとは比べものにならないほど困難である。最低条件として次元の壁を破壊するだけの力が備わっていなければ、結界を破壊することはできないのだ。
結界というのは、巨大画面の映像の上に、自分のイラストを手で押し付けているようなものだ。
術者のイメージという紙を、己の手で画面に押し付けて、映る映像を一時停止し書き写す。世界という巨大な映像の一部を結界という『裏透け紙』によって模写し、そのコピーを一時的に己の所有物として画面に押し付けるのである。
新しく己の絵という世界を構築したとして、もとある映像にも画面にも、なんら影響はないため、当然ながらもとの映像は変わらず動く。術者がその絵から手を放せば、画面から絵は離れ、絵はまるで存在しなかったかのように消える。術者が力尽き、絵から手を放すことになっても、結果は同じだ。どちらにしても、結界は消え、しかし変わらず世界は回る。
がしかし、結界に穴を開けるということはすなわち、術者が画面に押し付けている絵を破壊するということだ。これはイラストが描かれるべき絵にとってイレギュラーな事態であり、それ故に術者は対処する術を持たない。
また、結界を破壊するという行為が如何なるものであるにしろ、絵と同時に画面そのものも傷つける可能性が少なからず浮上する。現在吽禍が嚆矢の『空繰』に対して行っているのも、つまりはそういうことである。
嚆矢が世界という壁に張り付けた巨大な図式――高天原全体の設計図。それは吽禍の『門』と殻人、多くの天児、そして高天原総てが描かれたイラストである。当然、裏側には模写として使用した本来の高天原が存在する。にもかかわらず、吽禍はそれに剣を突き立てる。背後に存在する画面の存在を厭わず、情けも容赦も遠慮もなく、嚆矢のイラストを切り刻もうというのだ。
あまりに常識外れ、そして次元すらも超えて物体を破壊する強大な吽禍の力は、とてもではないが恐ろしいという一言では語れない。
嚆矢は、世界という画面に両手を挙げて飾る絵を画面ごと切り刻む剣戟、それを、所詮は嚆矢の設計図に描かれるだけの存在の一人――皇美龍に止めろと言うのだ。
自分の描いたイラストに向かって絵を切る剣を、描いたキャラクターの一人に、後ろに控える画面を傷つけないために止めろと言うのだ。
「あの稲妻から総ての天児と高天原を守れとは、無茶を言う……」
「あら、お嬢様も弱音を吐くのですね」
「流石の朕でも、今回ばかりは無理を言われたとわかる」
「激しく同感ですね」
「しかし、だ」
吽禍のこの稲妻、火力は十分、殺傷力も文句なし。この地球上の事象ではなく、吽禍の造りだしたものであるため、その威力は本来の稲妻と比にならないほど強力であるし、そもそも無意識とはいえ吽禍の殺意が具現化したものである。一発程度ならば止める自信があるが、しかしその数は流星群の如く数え切れない。
正直なところ、これを防ぐなど到底無理だろう。
嚆矢は止めるべき稲妻の座標を特定し、咲姫に伝える。咲姫は美龍を座標まで運び、美龍が稲妻を止める。この場に於いてすべての天児と高天原を吽禍の殺意から守ることは最優先事項であるし、この世界を壊されるわけにもいかない。やらなければならないことはわかる。が、それにしても無理を言われたものだ。
キミたちならばできるよ、やってもらわなければ困るよ。と言われても、困るのはこっちだと言い返したい。
確かに、現状他に適任はいなければ、多くの人々の死を良しとするほど、美龍も咲姫も良心を捨てていない。それに、吽禍とその眷属を高天原に入れてしまえば、この地球が滅ぶこともわかっている。にしても、小学生とメイドにこんな重大な仕事を押し付けるものかと美龍と咲姫は思うのだ。
あまりに一方的で無茶な要求、けれど、二人はその要求を断ることをしなかった。
それは、最後に嚆矢から発せられた一言のため。『信じている』と、言われたから。
「信じていると言われて、朕が奮い立たぬわけがなかろう」
はぁと、美龍はため息をつく。
そも、彼女の業は『信じられないこと。疑いを掛けられること』である。故に、その祈りは『信じてほしい』。おそらくそれを見越して嚆矢は信じているといったのだろう。もしか利用するための嘘かもしれない。けれど、美龍は嬉しかった。
期待を受けたなら気合いを入れるのが、世の常であり人の道理。であるなら、もし信じられたのならば、全力で応えるしかないだろう。
それを美龍は望んでいるし、彼女の内に眠る神もそれを望んでいる。ならば、嚆矢の『信』を拒む理由は何処にもない。
「――来ました」
唐突に、咲姫は右耳に手を当てた。
「嚆矢からか」
「はい」
嚆矢は人の心を読むだけでなく、己の言葉を相手に伝えることが出来る。言ってみればテレパシーのようなもので、その言葉を吽禍に読まれないよう咲姫にだけ伝えているようだ。
始めます。
静かに目を閉じた咲姫は、静かに祝詞を歌い上げる。
「我生れ落ちた彼の日、世界は我を拒みぬ。我生まれしは白き世界、我生まれ持つは黒き身故に。世界白色なれど、我黒色。拒まれし我が求むる孤独の水辺の空に、月光に照らされし白色を見る。彼の折、我が眼は真なる我が身を見たり。世界は言いぬ。あな、かくもお前は美しい。移行――業天『雪花』」
業天の移行。
己の業天の本質を変革させ、新たな力を得る。
彼女の願い、そして彼女の宿す神の願いを『祈り』として変革させる、本来身に宿す神には備わっていない恩恵をもたらす祝詞――創造型祝詞。鈴の『瞬牙』や、飛鳥の『五百箇』などもこれに当たるが、しかし鈴や飛鳥の必勝への祈り以上に彼女の願望は強力だ。
かつて受けた辱めを胸に、彼女と彼女に眠る神は強く美しくありたいと渇望する。
すなわち、彼女の業天『雪花』は、己を美しく変革させるための祝詞である。
彼女の業天は、先ほどの黒いメイド服から白色の着物へと変貌した。
白色の十二単、地に付くほど長い黒髪。長い睫、艶やかな唇。髪の影に隠れた大きな眼に、整った鼻――端麗な容姿。身体の凹凸もバランスがよく、決して今までも醜かったわけではないが、しかし今は比べものにならないほどに美しい。この空も、海も、大地も自然も何もかも、彼女以外の物質は総て悉く彼女を引き立てるために存在していると錯覚するほどに、彼女はその場に適応し、美しかった。もし世界総ての男が彼女を見たならば、皆が皆「美しい」というであろうほど美しい女が、そこに居る。
「お嬢様」
どこか上品さを感じさせる声で呟いた咲姫は、どこからか、白色の薙刀を取り出しその刃を美龍に向ける。
咲姫が伸ばした薙刀の刃上に美龍が飛び乗ると、美龍はニッと笑った。
咲姫が微笑み返したか否かの刹那、空から飛来する第二の光の柱が見えた。
「行きますよ!」
光の柱――稲妻の落下予測地点を嚆矢より伝えられた咲姫は、その地点に美龍を運ぶべく、手に持った薙刀で空を凪ぎ、突き出した。瞬間、彼女の薙刀は急激に伸び、美龍を目的地点へと運ぶ。
迫る二つ目の稲妻。自分の真上にある光の剣を見た美龍はたじろぐこともなく、静かに祝詞を唱える。
「其は、天雲もい行きはばかり、飛ぶ鳥も飛びも昇らぬもの。燃ゆる火を雪持ち消し、降る雪を火持ち消ちつつ、言ひも得ず名付けも知らず霊しくも、います神かも。妾、其に坐し坐す姫ならば、今其の力行使せん――」
美龍の左腕が水色に輝いた。しかし、まだ放たない。
迫る、稲妻。しかしまだ、放たない。ギリギリまで引きつける。ミスは許されない。耐えろ、耐えろ、耐えろ、耐えろ。まだ早い。まだ、まだ、まだ――――今だ。
空より飛来する金色の閃光に向けて、美龍は溜めに溜めた左掌を突き出した。
「六根清浄ォ、禊ぎ清めよ、其の穢れ!『伏流水・湧玉』ぁあああッ!」
彼女の右は物理の無効、五百の桜吹雪である。故に殻人たちを一斉に一定空間より排斥することが可能となった。そして、現在振るった彼女の左は異能の排斥。
確かに吽禍の剣は恐ろしい破壊力を秘めている。正直なところこれを防ぐのは、桜花や衣ですら一度がやっとだろう。しかしそれは、攻撃に対して防御を行っているからである。片や美龍の左は異能の排斥。攻撃に対して攻撃することで、その威力を大幅に減少させる。言ってみれば、技に対抗するための技なのだ。
例えば剣道などで振るわれた竹刀。相手が面を狙ってくるとして、ならば自分はどうするか。桜花や衣は竹刀で己の面を守るであろう。それに対し、美龍は己の身を守るのではなく、相手の竹刀を攻撃、破壊することで己の身を守る。
相手に攻撃することで隙を出したり、怯ませたりするのではない。相手への攻撃は二の次で、なにより優先すべきは敵の攻撃への攻撃。攻撃手段の破壊、確実に敵の攻撃を無効化するだけの盾としての矛。
地上における攻撃が水の中では鈍るように、彼女の左掌は異能による攻撃を浄化することで、その威力を失くす。
しかし、それはあくまでも同次元の攻撃を前提とした話である。
イラストとして描かれた二次元のキャラクターに、三次元を生きる我々人間の悪意ある剣が止められないのは常識だ。イラストのキャラクターはどこまで突き詰めたところで所詮は絵であるし、動ける動けないは別にして、それは紙というひ弱な世界に存在しているから、上の次元を知らないから、なにより世界を破壊するものを止める術を持たないからである。
立体という世界に存在する我々からしてみれば、どんな摩訶不思議な世界であろうと、二次元は所詮二次元、紙は所詮紙。彼ら彼女らが物語の世界の中でどれだけの強さを誇ろうが、どれほどの質量で防御を固めようが、彼ら彼女らの存在する世界が紙で、我々が『破る』『切る』などの紙を切断する『力』を有している以上、そして二次元のキャラクターがこちらを攻撃する手段を持ち得ない以上、紙にはなんの脅威も感じない。
皇美龍と吽禍の差も、そういうものだ。
二者の力の差は歴然、それこそ次元が違う。この次元というのはあくまで例えとして用いられることが多いが、今回に限っては至って適切な表現だ。そう、文字通り意味通り次元が違うのだ。
我々三次元の人間が何の危険も警戒もなく二次元の世界を破壊できるように、吽禍にもまた、三次元の人間を何の危険も警戒もなく破壊するだけの力を有している。
嚆矢の描いた低次元のイラストを切り刻むなど、上の次元を生きる吽禍にとっては造作もないことなのである。
――だが。
例え彼女が、嚆矢の描いたイラストに存在するキャラクターであったとしても。
例え吽禍の稲妻が、嚆矢の描いたイラストを軽々破壊するだけの『力』を有した剣であったとしても。
彼女の左は異能を排斥する力を持っている。吽禍の剣がイラストから見たイレギュラーである以上、その相性や状況には関係なく、彼女の左は総てを洗い清める。
どれほど次元の差があろうとも、異能は異能。吽禍が紙を切断できる『力』を持っているとして、けれど美龍はその『力』が知覚できる。そしてその『力』に触れられる。であるならば――。
――ならば止められる。
「止まれぇええええええええええッ!」
己が存在する次元の、更に上の次元からの攻撃を防ぐ。それは本来知覚できないものであるし、また知覚できたとして、本来は到底止められるものでは無い。
止められないものを止める。不可能と言われた物事を可能にする。――奇跡を起こす。
それこそまさに、神の所業であると人は言う。
しかし、彼女は何だ。
皇美龍は日本人の血を混ぜた中国人であり、少女であり、小学生。そして彼女の家が独自に編み出した八卦皇山流の使い手で、中でも流水の型での戦いを得意とする。
しかしそういうことではない。それ以前に、彼女は何だ。
彼女は人間であるか? 否。彼女はそう――天児だ。
人の器を持ちながら、神の御霊をその身に宿した人を超えし者、天児だ。
神の御霊を宿し、その力を行使できるというのなら、彼女が神の所業を行うことに何の疑問があろうか。ましてや彼女の左手は異能を打ち消す魔法の左手、イレギュラーな事態には慣れている。例え高次元からの攻撃だろうが、自分たちの次元を破壊するだけの力を有していようが、彼女の左腕の前で重要なのは二つだけ。『異能』か『否』か。
無理だとか、できないだとかは関係ない。彼女が異能と判断した以上、それは異能である。異能である以上は彼女の浄化の対象であり、その威力は瞬く間に奪われる。
故に。
「それが異能であるのなら、朕に止められぬものはない」
嚆矢の造りだした『空繰』という世界を破壊するハズであった稲妻は、美龍の腕に吸い込まれるように姿を消していった。最後に彼女が拳を握ると同時、その姿は完全に消え去り、跡形もなくなる。
これこそが、皇美龍の真骨頂。そして、彼女が結界守護のために選ばれた理由であった。
「さぁ、次だ咲姫!」
「畏まりました、お嬢様」




