キツネノオンナ
その。
時神鈴は一人で歩いていた。
大方一緒に帰っている飛鳥は家の用事、そして辰人は塾。同じ家の方向の生徒たちに一緒に帰らないかと誘われたが、帰りがけにカラオケに行くらしい。カラオケは止めておこうと思ったので、断った。
久々に一人の下校だった。周りには多くの知らない生徒たちが友人たちと下校しているが、鈴だけは一人で下校していた。
日はもう落ちかけていて、この葉も緑から紅色へと変化しつつあり、夏はもう終わったのだと感じさせる。
ああ、もう少しばかり夏休みの雰囲気を楽しんでみたかったと鈴は思う。
夏休みの思い出に何が残ったと問われて記憶を掘り返すと、頭に浮かぶのは辰人の顔ばかり。辰人は彼女に「ホモとは知らなかった」とか言われて振られたらしいが、これでは自分も変わらない。せっかくなので、海にでも行きたかったと思う。
この際、幼馴染みの飛鳥でも誰でもいいから、家族と辰人以外の誰かと思い出を作りたかった。
飛鳥とは家が隣だし、親同士がかつての友人であったということもあって、共に夕食を食べることも、共に旅行するというのもよくある話だが、今年は何もなかった。……というのも、鈴が龍神兄弟として活動せねばならず、ことごとく、おじゃんになってしまったのだ。
大きくため息をついた鈴に向けて、秋の風が吹く。頬を撫でる風はもう暖かくはなく、冷たかった。風に吹かれた木の葉が大きく舞い、空に昇っていく。その様を何となく見つめていた時に。
――お主が、時神鈴だな。
声が聞こえた。
声は若い大人の女性のもので、しかし話し方は年寄りのよう。
鈴は自分に話しかけられたのだと思って周りを見渡すものの、誰もいない。学生通りと呼ばれるこの辺りは、車五台が並列して走行しても楽に通れるほど広い一本道だ。大きな分かれ道など近くにはない。あるのは、立ち並ぶ家と、木々――銀杏と桜。そして舞い散る木の葉だけ。木の影に隠れているのかと思ったが、先ほどの声は耳元で聞えた。木の陰にいてあれだけ明瞭に聞こえるとは思えない。
気のせいだろうか。
そう思って、止めた足を再び持ち上げた時だった。
異変に気付いた。
――どうして、俺は今の声だけがはっきりと聞き取れた。
思えば、彼の周りには多くの下校中の生徒たちが騒いでいる。部活のこと、恋のこと、クラスのこと、将来の夢のこと。実に多くの言葉が、この空間に飛び交ってる。現在学生通りを歩く生徒たちの数は、実に五〇を超えている。だというのに、どうして鈴は、その中から今の声だけが聞き取れたのか。
――しばし汝の時間を貰い受ける。なに、さほどはかからぬ。
再び声が響く。
誰だ? そう言おうと口を開いた瞬間――視界が白く染まった。否、黒く染まった。
――否、それも違うか。
世界総てが灰色に染まった、とでもいうべきか。
鈴の視界の総てが、モノクロに塗り潰され、ありとあらゆる音が消え去った。先ほどの五月蝿いザワザワとした雑音も、かすかな風の音も消え去った。
何が起きているのか、わからなかった。
困惑していると、銀杏の葉がパラパラと舞う。その葉は既に紅葉などではなく灰色で、とても先程までの銀杏の葉とは思えない。
あたりを見渡すと、下校中だったはずの生徒たちの姿が消え去り、代わりに得体の知れない空間が広がっていた。
灰色の空、灰色の木々。そして、灰色の太陽。
自分の手の平を見つめてみると、いつも目にしている己の手が視界に入った。体を見渡してみると、制服やら鞄やらに変化はない。異常が生じているのは、己以外の全てであるのだと鈴は悟った。
足元にあるアスファルトは今までと比べてより無機質的なものを感じるし、風に揺られる灰色の木々さえも、どこか機械的に感じた。
――風なんて、今は少しも吹いていないというのに。
また、先程までワイワイと下校していた生徒たちの声も突如途絶えた、今はもう、なにも聞こえない。その姿すらも、どこかに消えている。
無音の世界。誰一人として他者は存在せず、風一つない世界。
まるで、先ほどまでの風景を切り抜き、モノクロ写真の中に収めたかのようだった。
そして、そのモノクロ写真の中に自分という異物が存在しているように感じた。唯一音を発し、色のついている自分だけが、明らかにこの世界から浮いている。
「お……おいおい、」
動揺を隠せない鈴は、思わず鞄を手から落とした。
何が起きているのか。わからない。夢なのかと思って、頬を本気でつねってみたけれど、一向に夢が覚める気配がない。ヒリヒリと、頬が痛むだけだった。
「どこなんだよ、ここは……」
思わず呟いた鈴。その問いに答えるように、声。
「特定の存在を、特定の区画に閉じ込めるための特殊空間だ。」
女の、声がした。
声のした方向――後ろを振り向くと、妖艶という言葉が具現化したような、怪しい美女が鈴の目の前に立っていた。彼女だけは鈴と同じく色があり、この世界から確立しているのだと理解する。
にしても、だ。一体、いつからそこに居たのだろうか。先ほど周りを見渡した時には、誰もいなかった。確かに、人一人として居なかったはずなのに。
赤く日本古来の着物のような服装――十二単だろうか――に、腰を越えるほど長い金色ともいえるほど美しい狐色の髪。同じく金色の瞳に、ちらつく犬歯。そして……生えているのだろうか、やはり金色の尾が、人間でいう尾てい骨の辺りから伸びているのか、着物の裾から顔を出していた。
彼女は、この上ない美女だった。生憎、鈴には彼女を表現するだけの語彙が無いため、上手く表現することは出来ないがしかし、絶世の美人というに差し支えないほどの美貌。街を歩けば、男女の関係なく百人が百人とも振り向くであろうほど、美しい女。
それほど美しい美女を見て――鈴は恐ろしいと思った。 どうしてなのかはわからない。しかし、本能が鈴に告げている。この女は、普通ではない。
「そう脅えるな。妾は、お主に危害を加えようなどとは思っておらぬ故。」
彼女は言うが、鈴は警戒を解くことは出来なかった。
頭では安心しろと思えているのだが、心の奥底では『警戒せよ』と警報を鳴らしている。
わけがわからないのは、この女のこともあるが、そもそもこの世界からわけがわからない。
どうして、鈴とこの美女以外のモノは総て、無彩色で表されているのか。
先ほどまで、すぐ後ろで和気藹々と歩いていた生徒たちは、一体何処へ消えたのか。
此処は何処だ。此処は何だ。
――此処は本当に、自分が先ほどまで立っていた世界なのか。
夢と現実が混ざる奇妙な感覚に、鈴は僅かな吐き気を覚えた。
「だから言うたであろう。ここは特殊空間の内。お主が先ほどまで“存在”していた世界とは異なる。いわゆる『結界』と呼ばれる世界の内だ。」
美女は、まるで「此処は何処か」と問いかける鈴の心を読んだかのように、平然と言った。
「なんで、俺がこんな世界に……?」
「聞いておるぞ。お主、天児なのであろ?」
「……は?」
――『アマガツ』とは、なんだ。
「ふむ……天児という言葉も分からぬか。なればまず、自己紹介より行うとしよう。妾は桜花。神の御霊をこの身に宿した妖狐である。」
何を言っているのか、鈴にはまるで意味が分からない。
いや、そもそも先程からわからなかったというのが正しいが、ならばなおさら理解できない。心底、意味を理解したいとも思えない内容だ。オカルトと宗教を足して割ったような内容の話を、ひたすら口から垂れ流しているようだ。
アマガツ。
神のミタマ。
ヨウコ。
意味の解らない単語がひしめいて、アニメとかにありがちな設定か何かの話をしているとしか鈴には思えない。
「お主、ずいぶんと失礼な事を考えるな。いくら妾とて、許し難いものがある。」
「うるせぇ。ちょっと黙ってろ」
この状況、夢がやはり的を射ているか。……そう、夢だ。夢なんだ。むしろそれ以外には有り得ないだろう。
そう自分に言い聞かせた鈴は、「夢なら何でもありだろ」と呟いた。
「ほぅ……あくまでも夢であると言い張るか。まぁ、それでも良い。なれど、妾の言葉には耳を貸せよ。」
唐突に身を寄せてきた桜花と名乗った美女は、鈴の顎をなぞるように指を動かした。
その動きは、あまり女性に興味を抱いていない鈴ですら、艶めかしいと思うほどであった。
「その昔、この土地は海に沈んだ土地であった。」
艶やかな唇を開いて、女は語り始める。
こんなやつの話なんか聞いてやるか。子供故の意地からか、鈴は桜花から目をそらし、聞かないようにと意識を集中した。
構わず、桜花は話を始める。
「遠い、遠い昔の話になる。当時は多少の異星間交流が行われていたそうであるが、突如、地球を破壊せんと多くの異星人がこの地に迫った。地球を守るべく、その異星人らと戦ったのが、地球の神々。彼らは多くの異星人らを追い払うことを代償に、多くの仲間の命を失った。その際にこの高天原を創り出し、地球を異星人の驚異から守ったと伝えられている。」
聞かないよう意識していた鈴だったが、あまりに破天荒な内容だったために、思わず聞き入ってしまった。
かつての愛知県には、この高天原という地は存在しなかったとされている。それが戦国時代頃、何かしらの理由によって出現したそうだ。どのように出現したのかは未だに学者の間で論じられており、その理由は定かではない。
だが、しかし。
「そんな話、信じられるわけがないだろう……」
おおよそ受け入れられる内容ではなかった。
鈴がきつく桜花を睨み付けるも、桜花はそれを全く意に介した様子もなく、どころか不思議そうに首を傾げて「ふむ」と腕を組み、首を傾げて、顎に手を当てた。
「では問うが、具体的に、どの辺りが信用に欠けるのだ。」
「全部だよ、全部。そもそもだ。宇宙人ってなんだよ、宇宙人って」
それこそまるでオカルトだ。宇宙人が攻めてくるとかいうわけのわからない話なんて、今時流行らない。SF小説のネタになればいい方だろう。
「なんだ、汝は宇宙人も知らんのか。アレだ、なんちゃら戦隊とか、なんちゃらヒーローなどによく出てくる、地球以外の惑星に存在するヒトのことだ。」
どうにも的外れなことを言うので、鈴の眉が中央に寄った。
「それぐらい知ってる。俺が言いたいのはそういうことじゃない。宇宙人なんて、ホントに存在すんのかってことだ」
告げた鈴の言葉に、やはり「ふむ」と考え込んで、桜花は言った。
「一つ問うが、お主はどうして宇宙人は存在せぬと思う。」
――どうして?
その理由を、考えてみる。
そりゃあ、宇宙人なんて見たことがないし、絶対にいるなんて証拠を見せつけられたことがないから――としか、鈴には言えない。明確な理由なんて、ない。
「存在することの証明よりも、存在しない証明の方が難しい――誰かが言うた言葉だ。まさしくその通り。そも、お主ら人間や多くの生命とて、この地球に存在しておるであろう。他の惑星に他の生命が存在していないなどと、どうして言い切れるのか。証明ができると言うのなら、むしろ妾が聞かせ願いたい。」
「それは……見たことがないから……」
目を逸らす鈴に、桜花はハンと鼻で笑った。
「見たことがないから、と来たか。くくくっ、片腹痛いわ。お主が生きてきたこの十数年、そしてこの先の何十年。一体この宇宙の、どれほどのモノを見ることができるのであろうな。人間様は、一〇〇年という短い時間で、宇宙の全てが理解できるとでもいうつもりか。存在している生命、物質、元素に分子に……ありとあらゆるモノの存在を、把握出来るとでも言うのか。否、断じて否だ。思い上がってくれるな、それこそ神の所業というものよ。」
くすくす。どこから取り出したのかもわからない鉄扇をしゃりんと広げ、口元を覆って笑う美女は、鈴の肩を軽く叩いた。
「もっとも、己の住む星のことですら何も知らず、環境を破壊していくだけの愚かな生物ごときには、到底理解できないスケールやもしれぬがのう。」
「ぐ……」
鈴は言葉に詰まる。
たしかに人間のいうスケールは小さい。宇宙どころか、そもそも銀河に存在する惑星ですら、その総てを調査したわけではないのだ。銀河ですら把握していないのに、どこか遠くの星に、地球と似た境遇の星がないと、言えるわけがない。
悔しいが、桜花の言うことも、一理ある。
「でも、生物が生息できる環境の惑星なんて他には……」
彼女の言葉を認めるのは尺だったので、鈴は論点を少しずらした。
けれど、桜花は広げた鉄扇で己を仰ぎ、「なにを言っておるか」とでも言いたげな、半ば呆れた視線で鈴を見る。
「お主、ミトコンドリアという生物を知らぬか。今でこそ酸素は地球になくてはならない物質であるが、かつて地球の生物にとって酸素は毒物でな。その毒物を取り込めるよう進化したのが、ミトコンドリアである。如何に過酷な環境であろうとも、生物はその環境に適応するため進化する。お主が言っておるのは、あくまでも人間が住める環境であろうに。他の生物全てが、人間の常識に当てはまるわけがなかろう。」
バカなことを聞くなとでも言いたげな顔で、オウカとかいう女は鉄扇で、近くを舞う木の葉を仰いだ。「おうおう、綺麗に舞うものよな」などと、完全に興味を鈴から舞い落ちる木の葉に向けていた。
「……ぐ」
確かに今の質問は、的が外れていたと思う。またしても、鈴は言葉に詰まった。
「じゃあ、神ってのはなんだよ。ホントにいるのかよ」
うまく言い表すことはできないが、この胸に引っかかる敗北感が気に入らない。何か一つでもこの女を言い負かしてやろうと、鈴は次の質問へ移った。
木の葉より視線を戻した桜花は、それは知らずとも仕方ない、と言った様子で意識を鈴に向けた。どうやら、今度は悪い問いではなかったらしい。
「神の存在程度、お主も知っておるであろ。とくにこの日本では、多神教と呼ばれるほど、実に多くの神の存在が信じられておる。八百万の神々――聞いたことはないかの。」
「ハッ、もしホントに神って存在がいんなら、この世界は戦争とか起きねーだろう、普通」
神が本当に平等を願っているというなら、どうしてこの世界に悪がある。神がいたら、今の世の中はこんなにも乱れていない。きっと、みんなが幸せでいられるハズだから。
「だから言うたであろう。多くの神々は、先の戦において命を落としたと。それにな、神とて万能なわけではないのだ、人と同じで限界がある。総ての生命を救うなど、到底無理な話よ。」
このまま話したところで、この件は平行線だろう。
鈴は別の疑問をぶつけることにした。
「じゃあ、高天原が現れたことによって、どうして異星人の驚異から地球を守れるってんだ」
「妾も詳しくは知らぬがの。なれど、かつての神がこの星を異星人より守らんと強力な結界を張ったとされている。その中核を担うのが、高天原。故、その結界を破壊せんと多くの異星人が狙っておるのだ。高天原にて発生する異常事件の多くは、異星人のものと見ていい。」
「けどさ、高天原に結界が張られてるってんなら、なんでイギリスとかアメリカとかでUFOとか目撃されてんだよ。役に立ってねぇだろ」
「役に立っておるよ。」
「……は?」
「あれは地球側のやらせだ。異星人がわざわざ己の正体を明かすわけが無かろう、何も知らぬ地球人と抗争になるやもしれぬのに。もっとも、侵略目的など、明らかな地球側の不利益になる事態を起こす、戦争目的の輩は別であろうが。
挨拶もせず、無断で人の家に入る無礼者は、阿呆か犯罪者よ。前者であれば叩き出す、後者であれば戦争だ。わざわざ敵に姿を晒すようなマヌケはおらぬであろう。
事実、結界を構築されている高天原の他には、地球に攻め来る異星人はおらぬのよ。もっとも、時折移民は居るがの。だが移民の多くが地球の規則に乗っ取り、ひっそりと生活しておる。旧西洋の魔女狩りが起きては奴らもたまらぬでな。
――それでも、十分な働きをしているとは思わぬか。」
自分の質問内容の答えにも驚いたが、それよりも大きな疑問が鈴の口をついて出た。
「い……移民?」
「うむ。地球におけるホームレスと同じだ。母星が破壊されただの、やむを得ない理由でこの地球へ訪れたものは無下にせず、監視をつけて在住を許可しておるよ。あまり無下に扱って、戦争になるのも避けたいのでな。何かおかしいか。」
「いや、だって宇宙人……」
なんだかもう、鈴の頭の中は混乱に混乱を重ねていた。
宇宙人。侵略者。戦争、魔女狩り、移民。彼女の口から飛び出す言葉のなにもかもが未知で、何もかもが理解不能で。納得できる部分は多くあるけれど、心の奥底では納得を拒んでいて。それはまるで、事実が理解しできないよう、頭が勝手なプロテクトのようなものをかけているようで。
何も言えなくなった鈴は、言葉を続けることができなかった。
「信じられぬなら、それでもよい。いちいち説明するのも面倒だ。ただ、これだけは伝え置く。今この地球に、危機が訪れようとしておるのだ。戦うべき敵がおる。我らと共に、この地を守ってくれはせぬか。」
「それこそ、意味わかんねぇよ……」
時神鈴は、ただの中学生だ。まだ世間もろくに知らない子供だ。そんな自分に、一体何が出来るというのか。中学生に戦争の応援を頼むくらいなら、そのうまを政府にでも話して、自衛隊やら軍隊やらを率いて戦えばいい。少なくとも、一介の中学生よりは、よほど心強い味方だ、きっと戦いの助けになるだろう。
それなのに、どうして桜花は鈴にそのことを話し、協力を頼むのか。
鈴の心を読み取ったかのように、半ば呆れた顔をした彼女は、こう告げた。
「先も言うたように、お主は選ばれし存在――『天児』だ。」
「……アマガツ?」
先ほども『アマガツ』とかなんとか言っていたが、それは一体何なのか。
「天児とは、神の移し身のことぞ。かつて異星人の驚異よりこの星を救った神々は――……そうさな、お主らの言う『輪廻転生』という秩序のもとに生まれ変わっておる。」
「その神の生まれ変わったうちの一人が、俺だっていうのか?」
「――然り。」
そんな、馬鹿な。
只でさえ意味のわからない説明をされていたというのに、今度は自分が神の生まれ変わりだと、この女は言う。冗談も大概にしてくれと思う。
もし仮に、時神鈴が神の生まれ変わりであるというのなら、どうして彼はこうして学校へ通っているのだろうか。血のつながった親がいて、帰る家があって、普通の人間と何ら変わらない、普通の生活をしているじゃないか。
確かに身体能力に関しては、他のクラスメイトより高い自信はある。喧嘩も強い自信はある。けれど、所詮は誤差の範囲だ。それを言ったら、オリンピック選手や、プロの格闘技家だって、神の生まれ変わるということになってしまう。だいたい神の生まれ変わりであるのなら、頭だってもっといいはずだ。何が悲しくて、神の生まれ変わりの成績が、中の下であるという。何が悲しくて、テストの度にひいこら勉強する神がいる。
内心疑問ばかりを抱く鈴に、桜花は「言ったろう」と付け足した。
「神も万能ではない。すべてのことができるのが、神ではない。」
「……はぁ」
そうですか、としか返せなかった。
これ以上反論したとしても、何かしら論破されるだろう。自分の中の常識がこれ以上壊されるのは、耐えられなかったからだろうか。鈴は、それ以上、何も言い返す気にはなれなかった。
「――すまぬな。お主の常識を壊すようなことをして。されど、我々には一人でも多くの仲間が必要な状況なのだ。それほど敵の力は強大で、恐ろしい。」
それだけ言った彼女は、鈴に背中を向けた。
するとたちまち、彼女の姿は薄れるように消え去った。同時に、世界は変わる。
再び、ざわざわと帰宅する生徒たちの声が鈴の耳に溢れ、景色も総て本来への色へと戻る。金色に染まった銀杏が風に揺れ、夕日が視界を赤く染め始める。
まるで、止まったビデオが再生ボタンを押されて動き出すかのように。止まった時が再び流れ出すように。すべての違和感は、消え去った。
「なんだったんだよ、今のは……」
我に帰った鈴は、鞄を落としていたことに気付き、拾う。僅かに付着した土を払い落とすと、つねった頬がかすかに痛んだ。
結局、何だったのだろうか。今のは夢だったのか。それとも――。
ふと、後ろから足元をトテトテと歩いていく、小さな子狐の姿が視界に入った。どうにも、鈴はその子狐の姿に見覚えがあるように思った。
どこで見たことがあったのだったか――。
思い出そうとすると、いつか、飛鳥と帰宅した時に見かけた小動物が思い当たった。
この高天原は都市というほど栄えてはいないが、しかし田舎というほど森が多いわけでもない。野生の狐などが、この通りに現れるとは思えない。どうしてこんなところにいるのだろうと疑問に見ていると。
その子狐は鈴の横を通り過ぎていった。しばらくトテトテと歩いていくと唐突に立ち止まり、揺らした尾の隙間から、視線だけをこちらに向けた。
狐であるのに、どこか人間らしさを感じさせるその表情は、「夢ではないぞ。総て、現実だ。」と言いながらほくそ笑む女の顔を想像するのに、十分すぎる材料だった。
☆
――夜。
それは何者が如何なる理由によって作り出した時間だろうか。
かつての大昔の人々からしてみれば、夜は忌むべき時間であっただろう。暗くて景色を見渡すことができなければ、書物を読むこともできない。道も暗く、誰がどこにいるのかも曖昧になる。
しかし、この現代においてはどうであろうか。
今や電灯などという発明品が跋扈し、暗かった夜でさえも明るく照らし出す。かつて存在した闇と言えるモノはなくなったと言っても過言ではないだろう。
だが。いつの時代も、闇というものははびこるものだ。それは形を変えて、人々の新たな闇となった。
かつては害を及ぼすことのなかった夜の闇。
今では、人々に恐怖という影を堕とす、現代の黒い闇。
「おいおい、いつまでそのタバコ咥えてんだよお前」
笑いが、響いた。
「いやだってさぁ、これ吸い終わっちまったら残りはあと一本しかないんだぜ? そりゃ大切に吸うっしょ」
「とんだニコチン中毒者だよな、カズはよぉ」
小さな明かりの中、数人の高校生と思しき者らが、闇の中で通行止めと書かれた標識に座り込み、タバコをふかす。
カズと呼ばれた少年が空に向かって息を吹くと、飛行機雲のように細く白い煙が伸びた。
この通行止め区間は、マンホールの蓋の耐久性がどうたらと訴えられた会社が潰れた跡地に続いている。その会社には当時、幽霊が出るだとか噂されていたらしく、噂が原因で今では土地の引き取り手がいない。故、こうして進入禁止区間に侵入するという禁忌をものともしない者たちの集会所と化している。
「あー、タバコうめぇ」
高校生でタバコ。本来なら許されない行為だが、夜という人気のない時間が彼らに場所を与えた。
周りには他に誰もおらず、幸か不幸か、住宅街の塀が彼らの姿を隠す。
「んでさ、あのクソババア、俺が万引きしたって知って顔真っ青にしてさ『け、警察に自主しなさいいいいい』っつうの。しねぇよ馬鹿。誰が自首するつもりで盗るかっての」
「ははははははは、なんだその真似」
「似てる、似てるよそれ!ははははははははっ」
「え、似てた?まぁそれは置いといて」
「置いとかないで、もっかい、もっかい真似やってくれ!」
「ふははははははっ、既に腹いてぇ!」
「よし、行くぞ。『け、警察に自首しなさいいいいいい』」
どっと笑いが湧いて、彼らの心は明るく満たされる。
誰にでもある、楽しい時間。彼らにとっては、この夜の時間が生きる中で一番大切にしている時間だった。他の奴らがどうかは知らない。ただ、社会からはみ出た自分たちが不快にならないのは、同じく社会からはみ出た仲間と一緒にいるときだけ。それ以外は退屈な時間だし、なんの意味もない。
この瞬間だけを楽しみに生きている。
――否、生きていた。
「あー、誰にも負けない絶対的な力がありゃあ、俺らの人生もっと楽しいよな。きっと」
☆
『愛知県、高天原の旧工業地帯で、明朝五時に近所の高天原第五高等学校の生徒約三名が死亡しているのが発見されました。警視庁では殺人事件と断定して捜査を始めましたが――』
母親の美月に朝食だと呼ばれ、寝癖のついた頭をワシワシとかき混ぜながら階段を下りる最中、鈴は、リビングから流れるそのニュースを聞いた。
ソファに寝ころんで、ブラックコーヒーを「不味い不味い」といいつつも、ちびちびと口にしている父親、蓮が言うには、今朝のニュースはこの事件で持ちきりらしい。
「なんでも、その死に方が普通じゃないらしいんだわ。ニュースだから詳しくは載せられんが、とても人間にできるような殺し方じゃなかったんだとよ」
蓮は、有名な新聞社に勤めており、会社の同僚から数々の事件について情報を得ることができる。警察官の知り合いもいるらしいから、今回の事件も、おそらくその同僚や警察官から話を聞いているのだろう。
「へぇ、どんな」
「うん、なんつーかな……。飯の前だからって、気分悪くして怒るなよ?」
「そんなんじゃ怒らないって。んで、どんなんだったの父さん」
「なんかな、一人は雑巾絞るみたいにねじり切られてたらしいんだよな。んで、もう一人は四肢を引きちぎられ、最後の一人に至っては――喰われてたらしい」
「そりゃあヒド……ん、喰われてた? なにそれ」
「あぁ、言葉通りだよ。それも、とびきりデカい、哺乳類みたいな噛み付き口だったそうだ。身体の左半分がなくなってたんだとよ。噛み口はそれこそ、キングコングみたいな……ライオンなんか、比べ物にならないデカさだとよ」
「……キングコング? 冗談いわないでよ。確かに愛知県って、日本じゃあそこそこ有名な県だと勝手に思ってるけどさ、名古屋もあるし。それでも、デカいゴリラみたいなもんが歩いてたら、速攻見つかるって。名古屋はともかく、ここは別に有名都市じゃないんだし、駅周辺以外はビル建ちまくってるわけでもないんだし」
笑いながら、「そんなことあるわけない」と言う鈴とは対照的に、蓮はテレビを見つめたままに、呟いた。
「だからこそ、だ」
「え?」
「こんな小さな都市に、どうやってそんなデカイ化物が現れたのかが、まるでわからんのだ」
以前にも述べたように、此処、高天原では事件が多い。どころか、得体の知れない事件が起きたのも一度や二度じゃない。犯人が見つからない事件だって、よくある話だ。
逆にいえば、一か月の間なんのニュースも流れなければ異常とまでいえるほど、この土地では犯罪率が高い。それが風水的な何かに関わるのかは知らないが。
――此処、高天原市では得体の知れない事件が少なくない。
ふと、鈴は違和感を覚えた。
どうして、得体の知れない事件が多く起きていることに、誰も疑問を抱かない。
『――高天原にて発生する異常事件の多くは、異星人のものと見ていい。』
昨日会った奇妙な女、オウカの一言を思い出す。
……まさか。まさか、この事件もまた、彼女のいう宇宙人の――。
「いやいや、そんなことあるはず――」
ない。とは、言い切れなかった。
一人は身体をねじ切られ、一人は四肢を引きちぎられ、そして一人は巨大生物に喰われ。
これだけ残酷な仕打ちを、常人が思いつくものか。思いついたとして、それを実行するものか。前者二つはともかく、喰われたというのは何なのか。ワニでも連れて行かなければ、そんなことができるわけがない――。
蓮と鈴は、親子そろって黙り込む。その中を、
「はいはい、二人ともそんな暗い話はおしまい。ご飯の時間ぐらいは笑顔でね」
朗らかな笑顔を浮かべて、美月が完成した朝食を皿に載せて運んできた。
白米に、味噌汁、鮭、納豆。
いつものメニューだった。
「おお、母さん。今日も美味しそうな朝ご飯だな」
真剣な表情から一転して、蓮はニッと笑って箸を手に取った。
「ふふふ、いつもと同じですよ」
「んじゃ、早速いただきますっと」
「はい、いただきます。鈴も、冷めないうちに食べなさいね」
うんと頷いた鈴は、箸を手に取って、「いただきます」と両手を合わせる。
この日も、いつものように三人で、ささやかな食卓を囲んだ。
飛鳥が学校に行けるようになってから、鈴はこの食卓で笑えるようになったハズなのに。この日ばかりは、どうにも笑うことができなかった。
☆
「なんだぁ、倦怠期かよお前ら」
珍しく、お互い特に何も話そうとしないまま学校へ登校してきた鈴と飛鳥に向けて、すでに登校して、窓から二人の様を眺めていたのであろう辰人が言った。
「なんだよ、倦怠期って」
辰人の目の前を横切って、鈴は自分の座席へ向かう。
辰人は、身体の向きを変えて視線だけ、鈴を追った。
「いや、いつもアツアツのお前らが、どよんとした雰囲気でいるのは珍しいと思ってな」
「はぁ、そもそも何の倦怠期だよ」
「例えば――そうだな。恋人とか」
……恋人?
顔をしかめる鈴とは対照的に、飛鳥は「こここ、恋人ぉおお?」などと顔を赤らめながらあたふたしている。
なにを慌てているのだろうかと思いつつ、鈴は冷静に言う。
「何度も言うけど、別に付き合ってるわけじゃねーよ」
「いつ付き合い始めてもおかしくないと思うがね」
「ただの幼馴染みだよ」
それだけ言うと、鈴は自分の席について黙り込んだ。
どうにも、昨日の桜花という女の言葉、そして今朝の事件のことが頭から離れない。いつものような軽口に付き合うつもりにはなれなかった。
そんな鈴の様子に疑問を覚えたのだろうか、辰人は飛鳥に耳打ちするような形で問いかける。
「なぁ飛鳥、鈴となんかあったのか?」
「うーん……」
顎に人差し指を当てた飛鳥は唸る。
これといって喧嘩らしい会話はしなかったし、昨日に『健康に悪いからインスタント食品は口にするな』という会話はしたけれど、それが原因で鈴があそこまで落ち込むとは思えない。
「思い当たること、私にはないなぁ」
ただ、何かに悩んでいるのは事実だろう。
今日学校へ登校している最中も、ずっとぼーっとしていた。話しかけても曖昧な返事しかなかったし、心ここにあらずと言った様子。なんとか、元気づけられないものか。
そんなことを、飛鳥は思った。
朝のSTが終わると、鈴の机の傍に、辰人と飛鳥がやってきた。
「どうしたんだよ、鈴。今日はなんか、元気なくないか?」
不安げな辰人の顔を見ると、なんだか自分の奇妙な悩みで迷惑をかけてしまったように思って、鈴は切り替えなければいけないな、と思った。
「いや、ちょっと考え事してただけさ。心配させたなら悪かったよ」
辰人の肩をポンポンと叩いた鈴は、飛鳥に向き直る。
「朝は悪かったな。ちょっと考え事してたんだ」
「考え事?」
飛鳥は首を傾げる。
これは何を考えていたのか聞かれるな、と長年の勘で察した鈴は、咄嗟に口を開いた。
「ああ。……あと数ヶ月でテストだなー、ってさ」
少しの間キョトンとしていた飛鳥と辰人だったが、やがて「そんなことか」と、二人は揃って笑い出してしまう。
あんまり変なことを言ったつもりはなかっただけに、鈴は「なんだよ、そんなに笑うなよ」と唇を尖らせた。
そんな鈴があんまりに可笑しかったのか、二人は腹を抱え始めた。
「いやだって、数ヵ月後のテストでどんだけ真面目になってんだよ! ばっかじゃねぇの!」
「この間、夏休み明けの課題復習テスト終わったばかりじゃない。あはははっ」
現在、夏休みは明けたばかりだ。飛鳥の言う通り、ほんの先日前に課題復習テストの結果が返ってきたばかりであった。
上手く話題を逸らすことができたみたいだな。
鈴は、そのままいつものようにふるまうことにする。
「お前らは成績優秀だからいいけどさ、俺はそうじゃないんだからな!」
「ホント、心配して損したわ!」
笑いながら鈴の肩をバンバンと叩く辰人に、「じゃあお前勉強教えてくれよ」とそっぽを向いて言う。
「悪い悪い、すっげぇ思い悩んでたみたいだったから一体なんなのかと思ったよ。……まさか勉強とはな。……ぶははははははっ!」
「だから笑いすぎだっつーの!」
「あ、まさか鈴くん、この間のテストの結果がやっぱり……」
ぽんと手を叩いた飛鳥に、鈴は「おっと」待ったをかける。
「それ以上は言うなよ、飛鳥」
「図星なんだ……ふふふっ」
「あーーーーっ! だから笑うなよお前ら!」
辰人が笑い、飛鳥が笑い。鈴も、はにかみながら笑う。
けれども、鈴のその目だけは笑っていなかった。
一限目の授業が終わり、一息ついて教科書を机にしまっているところへ、辰人が鈴の傍に立った。
「鈴、トイレ行こうぜ」
表情は笑っていても、目には笑いの感情が感じられないものである。
「……おう、行くか」
もしかしたら、気付かれているのかもしれないな。と思いながらも、鈴は頷いた。
普段なら教室の隣にあるトイレに入る辰人と鈴だったが、今日は違う。無言のまま、校舎の離れたトイレへと辰人は向かい、鈴も辰人がどこに向かっているのかを知りつつ、無言で付いていく。他には誰もいないことを確認してトイレに入り、辰人は問うた。
「なぁ、鈴。お前、何を隠してる?」
「……やっぱ、わかる?」
こうなることは、薄々わかっていた。鈴は誰にも話さず、一人で解決しようとするタイプの人間だ。それを辰人は知っているし、鈴が何かを隠すとき、下らない笑い話をすることも知っている。日常的に笑い話をしているものだが、いつもとの違いが見分けられるほど、辰人と鈴は親しい存在だった。
飛鳥もおそらく、鈴の異変に気づいていることだろう。けれど、彼女は基本的に口には出さない。
相手の異常に気付き、行動に写すのが鈴と辰人。気付いても行動には移さないが、相談された時には全力で解決に身を乗り出すのが、飛鳥。
数年の付き合いの中で、いつしかそういう役回りになっていた。
「わかるもなにも、隠すの下手くそなんだよお前は。んで、今回は何があった」
そして、誰もいない場所に連れて行き、話を切り出すのも、辰人のクセにようなものだ。
――けれど。
「……それは」
何も、言えるわけがなかった。
例え心の内総てを話したとしても、信じてもらえるとは思わなかった。
そもそもだ。一体、なんと伝えればいいのだろうか。
『実は俺には悪い宇宙人と戦う力があるらしくて、共に戦って欲しいと言われた』
とでも言うのか。それとも、
『朝の変な事件、アレは宇宙人の仕業かもしれない』
というのか。
どちらにせよ、鈴が辰人の立場であれば、確実に正気か疑うだろう。なにかの戯言なのか、それとも変な夢でも見たのかと笑い飛ばした後に、精神病院を勧めるだろう。
目を逸らして黙り込むばかりで、中々口を割ろうとしない鈴に不安を感じて、辰人は「おい」と、普段の彼からは想像できないような低い声を出す。
「まさかまた、飛鳥になにかあったんじゃないだろうな」
――また。
そう、水無月飛鳥は、ほんの数年前まで虐められていたのだ。鈴と辰人の協力によって小学時代、虐めを止めることに成功し、中学にまで引きずることはなかったのだが、虐めの根の部分を、完全に始末できたかどうかはわからない。もしかしたらまた、何かのきっかけで再発する可能性があった。
所詮、一介の中学生二人では、人間の本質を変えることはできないのだ。
けれど、鈴の悩みは辰人の考えるそれとは違う。
そもそも飛鳥は、この件には全く関与していないのだから。
「なにか答えろよ、鈴!」
普段は冷静沈着な彼だが、飛鳥のことになると冷静さを失うことがある。辰人は鈴の両肩を痛いほど掴み、睨みつけるように言った。
はぁ、ため息をついた鈴は、お前に隠し事は出来ないなぁと嘆息した。
「いいか、約束しろ。聞いても笑うなよ」
一応念を押すと、辰人は「ああ、笑わないさ」と頷いた。
しかし、信用できない。鈴は何度か、念を押すことにした、。
「絶対笑うなよ!」
「だからわかったって。さっさと話切り出せよ」
「ホントのホントに笑うなよ!」
「話す気あんのかよお前ェ!」
流石の辰人も、再三の念押しにはキレた。
昨日の変な狐女――桜花との会話。そして今朝の事件と、宇宙人との関連があるかもしれないという話を、鈴は説明下手ながらも、ところどころ辰人の問いに応えつつ、曖昧な記憶のまま話していく。すると、案の定。
辰人は大爆笑した。
「だからあんだけ笑うなっつったろクソメガネ! トレードマークへし折るぞコラァ!」
目尻に羞恥の涙を浮かべながら、鈴は辰人の胸ぐらを掴んで怒ったが、まるで悪びれることをしない。それどころか、鈴の怒りすらもが笑いの種になったようで、辰人は鈴の頭をぽんぽんと叩きながら目尻に涙を溜めていた。
「いやだって……なんの悩みかと思ったら――宇宙人! こんなん笑うしかねぇだろ! ぶふっ、くはッ、はははははははははははははははは! もう、腹筋痛すぎてやっべぇ!」
「こ、この野郎……!」
「しかもお前が宇宙人と戦う力を持ってるだぁ? 人生の主人公補正やっべぇなオイ!」
そろそろ本気でメガネをへし折ってやろうかと、悔しさにプルプルと震える鈴だが、こうなることは正直なところわかっていた。だからこそ、あれほど念を押したのだ。
それに、話を語った鈴の方だって、宇宙人が存在するなんて会話内容がSFの域を抜けられているとは思えない。というか、逆の立場なら、いくら辰人が説明上手であっても、鈴だって爆笑ものだろう。
「はぁ」とため息をついて、鈴は辰人を離した。
その後もしばらく笑いが止まらなかったようで、辰人は腹部を抱えながら壁に寄りかかって、どんどんと叩きながら肩を震わせていた。
これは何を言っても意味がない。しばらく放置しておくのがいいだろうと、鈴が辰人を見守って数分もすると、授業開始のチャイムが鳴り始めた。
「あ……」
「授業、始まっちまったな」
放課の時間は、それぞれ約一〇分だ。
トイレへの移動の時間に、約一分。鈴の前置きと念押しに、約三分。本命の内容は、話を要約したにしても、約五分以上はかかるだろう。時間がなくなって当然だ。
「とにかく、この話の続きは帰りにでもしようぜ。さっさと行こうか、鈴」
鈴の背中をポンと叩いた辰人の表情は、笑顔だった。けれどその笑顔は、先ほど鈴の話を馬鹿にした表情とは異なり、この問題に真摯に取り組むという意志が覗いていた。あんな突飛な内容でも、信じてもらえた――かはわからないが、少なくとも信じる努力をする――という事実がわかったことが、鈴には少し嬉しかった。
それは、本当に。――教室へ向かって走る途中、辰人が再び笑い出さなければの話だが。
「あ、やっべぇ。笑いすぎて腹いてぇ」
「あ? まだ笑ってんのかクソメガネが。そろそろそのメガネへし折るぞ」
「いやだって宇宙人と戦う正義の味方とか……ぷぷっ」
「おま……いつか絶対、笑ったこと後悔させてやっからな!」
授業が終わり、帰りのSTも終わった。担任教師が姿を消すと、生徒たちも次々と、部活なり、帰宅なりと、教室の中から離れて廊下へ消えていく。
帰宅の準備をしようかと、机に入っている教科書を鈴がカバンにしまっていると、飛鳥が鈴の席の隣に立った。
「ごめんね、今日も用事があって。わたし、先に帰るね」
三年ほど前に虐めがなくなって、鈴と飛鳥は一緒に登下校をするようになったのだが、思えばここ一・二年、飛鳥と一緒に下校する日は少なくなっていた。その理由の多くが、今回のように飛鳥が用事で早く帰るというものだ。
「おう、また時間あるときにゆっくり帰ろうな」
「うんっ」
頷いた飛鳥は、手を振って教室を出て行った。
「さて、辰人。続きでも話すか」
飛鳥がいなくなったのを、廊下から顔を覗かせて確認すると、鈴は、自分の席から少し離れた前の方の席に座る辰人に声をかけた。
「ああ」
辰人は既に、鈴と話す準備ができていたようで、カバンを肩に担いで歩き、鈴の隣の席に座った。「とりあえず」と、辰人は話し出す。
「お前の話を聞いて改めて思ったんだが、確かにこの高天原で起こる怪奇事件は異常だな。なんで今まで疑問に思わなかったのか解らないぐらい、異常に満ちている。さっき携帯で調べてみたんだが、統計だけみても、誘拐事件や傷害事件が他の県の数倍増しだ。その割に、犯人はほとんど捕まっていない。こりゃ、おかしいよな。犯人は捕まらないのに、同一犯とは思えない事件が至る所でいくつも起きてんだ。
なのに、誰も疑問に思わない。まるで、その考えに至らないよう何者かが人間の思考に制限でもかけているかのようにな。……つーわけで」
「……わけで?」
「龍神兄弟で、ここで起こる怪事件について調べてみないか?」
――なるほど。
高天原で起こる怪事件は『異常殺人事件』だとか、『神隠し事件』だとか言われる事件が多い。特に『神隠し』とよばれる行方不明者の数は、全世界で統計してもトップクラスの人数らしい。
猟奇犯にしろ、誘拐犯にしろ、犯人は人間だろうがもしか人間じゃなかろうが、マトモなワケがない。それを調べてみようということか。実に、好奇心旺盛な辰人らしいと言える。
「ちなみに、飛鳥には言うなよ?」
「おーけー、それはわかってるから安心しろ」
こんな危険かもしれないことに、飛鳥を巻き込むわけにはいかないだろう。そもそも、飛鳥のことだ。この話をすると「そんな危ないことをしちゃダメ」だとか言って止めようとするだろうから、鈴は飛鳥がいなくなるのを待っていたのである。おそらく辰人も、飛鳥が先に帰るところを待っていたのだろう。
調べてみよう。辰人のその提案に、鈴は「面白くなりそうだな」と笑った。
辰人もまた、ふっと笑う。
「ま、俺たち龍神兄弟にかかれば大したことはないだろうさ」
どこからその自信が湧いているんだ。鈴は辰人にそう言いたかったが、実のところ、鈴も心の奥底では期待していた。そして、どこから生まれたモノかは知らないが、何か自信のようなものがあった。
――俺たちなら、きっと真実に辿り着くことができる、と。
「しかし、突然どうしたんだよ辰人。昼はあんな馬鹿にしてたのに」
ああ。窓の外に見える夕焼けを眺めた辰人は、告げた。
「本音言うとな、昼にお前が言ってた狐のねーちゃんの話、なるほどなって思ったのさ。んでよ、モノホンの宇宙人が存在するか否か、興味がでてきたんだ」
☆
「しかし、調べるっていっても、どう調べるんだよ」
鈴の問いに、いつの時代でも犯人は現場に戻るもんさ、と辰人はいう。
なるほど、そうかもしれない。――のだけれど。
「まぁ、こうなるわな普通」
はははっと笑った辰人。
「……おい」
こめかみをピクピクと痙攣させる鈴。
曰く、「犯人は現場に戻るものだ」ということから、二人は早速行動するべきだと、高校生惨殺事件の現場である高天原第五地区に訪れた。
しかし、事件現場に来てみたはいいが、事件が起きたのはまだ十数時間前の話である。蓮の話を思い返す限り、相当の異常猟奇事件であるため、簡単に捜査が終わるはずがない。流石に現場は片付けられているだろう、という辰人の推測を信じていたのだが、いざやって来てみれば、そこには立ち入り禁止のテープが所狭しと張り巡らされていた。
これは辰人も予想外であったようで、目を丸くしていた。
また、未だ事件の名残があるのか、立ち入り禁止の中を覗こうとする野次馬根性の据わった通行人たちと警察官がせめぎ合っており、中学生の平均身長の二人では、とても事故現場を覗くこともできなかったのだ。
「ふっざけんなよ辰人ォ!」
事故現場のすぐ後方で、鈴はブチ切れた。
なんだかこの辺りは生ごみが腐ったかのような奇妙な匂いがするが、それも気にならないほど盛大に、ブチ切れた。
「よくも俺の一週間の小遣い無駄にしてくれやがったなァ、この野郎ッ!」
辰人は家から離れた塾の通学定期の圏内であるため、電車賃がかからない。しかし、塾など通っていない鈴は、駅からここまでの電車賃が片道600円。往復にすると1200円。そんなに大した額ではないように思えるが、中学生のお小遣いからすれば大打撃である。
それを、「気にしなさんな、俺は定期圏内だから」と辰人は笑った。
「だから尚更ムカついてんだよインテリクソメガネ!」
「んだよ小せぇな。たかが1200円で何ができんだ、あ? 10円ガムが120個買えますよーってか?」
「普通にCD買えるだろ! シングルだったら買えちゃうだろ!」
「残念、税別らしいから買えないな」
「普通は税込価格で1200円だ!」
わいわいと騒ぐ鈴がそろそろ鬱陶しくなってきたのか、辰人は「はいはい、すみませんね」と心の全く篭らない謝罪を繰り返す。それでも鈴がぐちぐちと文句をいうものだから、辰人も「うるせーな」と愚痴をこぼし始める。
「だいたいお前、CD買わねぇんだからお小遣いの使い道ないだろ。最近お前が金使ってんの見たことねーんだよ。ファーストフード行ってもドリンクしか頼まないしな。貧乏性かよ。金は使うものなの、 わ か る ? 」
「うっせぇな! 俺は仮面ヤイバーのDVDボックス買おうと思って、今必死で小遣い貯めてんだよ!」
激怒する鈴を「はいはい」と適当に躱しながら、辰人は手に持った携帯を弄り始める。
そして、野次馬の中へ突っ込んでいった。
話は終わっていないのだから、此処で逃がすものかと、鈴も辰人の後を追って野次馬をかき分けて進んでいった。
「無視かよ、辰人! 俺の話ちゃんと聞けよ!」
「うるさい、ちょっと待ってろ。愚痴なんざ、あとでいくらでも聞いてやるからよ」
鈴に言いながら、携帯を片手で操作する辰人。
流石に鈴も、辰人が自分の話をただ聞いていないだけではなく、何かをしようとしているのだと気付いた。
「さっきから何をしてんだ、辰人」
「ああ? 警官様と野次馬様の合間縫えば、事故現場少しくらいは撮影できんだろ」
パシャリ、パシャリ。
警官と通行人たちの行動を予測し、うまく人ごみの隙間を縫って携帯電話を潜り込ませ、シャッターが一歩遅れる不便な携帯電話のカメラ機能を駆使して、辰人は器用にも事件現場の写真を撮っていた。
たまに失敗もしているようだったが、それでも成功率は五割はあるみたいだ。この人ごみの中でそれだけ撮影できれば大したものだと、鈴は思う。
「……こりゃあすげぇ」
撮影したのであろう写真の画像を改めてじっくり眺めてか、辰人が呟いた。
「なんか写ったか?」
「ああ、いいのが撮れたよ」
「見せてもらっても、いいか?」
「……お前はやめとけ。死体は片付けられてるけど、事件の凄まじさは伝わる」
今日はもう、帰ろう。
呟いて、辰人は踵を返した。
「ん、もういいのか?」
「ああ、写真もそこそこ撮れたしな」
閉じた携帯電話をひらひらと揺らした辰人は、そのまま最寄り駅に向かって歩き出した。
小走りで辰人の隣に並んだ鈴の目線は、辰人がポケットに入れた携帯に向けられている。
「なんだ、そんなに写真見たいのか?」
鈴の視線に気付いた辰人が問うと。
「そりゃあ、……気になるからな」
そう言って、鈴は頭を掻いた。
先程ここへ来て損した、みたいなことを言った鈴の立場では、とても見せてくれとは言い出せない。鈴は、今になって、若干の申し訳なさを感じていた。
「今回は冗談じゃないぜ、やめておけ。確かに死体は片付けられているとはいったがな、撒き散らされた臓器の総てはまだ片付けられてなかったよ。あんまり散らかってるもんだから、多分、その処理に時間がかかって、今も進入禁止のテープが貼られてたんだ。
現場、なんか臭かったろ? あれは多分、片付けられていない肉片や臓器の匂いだ」
言われてみれば、事件現場では、不自然な異臭がしていたように思う。いままで嗅いだことがない匂いのために上手く言い表すことはできないが、敢えていうなら、鉄のような匂いに交じった、腐った生ごみのような匂い、といったところか。
鈴が感じた奇妙な臭いは、どうやら気のせいではなかったらしい。
「それでもみたいって言うなら見せるが、どうする?」
ポケットに突っ込もうとした携帯電話を、辰人が鈴に見せる。
正直、鈴は事件現場といってもせいぜい乾いた血がアスファルトにこびりついている程度のものだと思っていた。それだけに、未だ臓器が残っているというのは意外で、グロテスクなものが苦手な鈴は、画像を見るのはやめておこうと思った。
「いや、やっぱりいい」
「賢明だな。なら、さっさと帰ろうぜ」
辰人は、歩くペースを上げた。
まるで、背後に嫌なものがあって、それから逃げるかのように、早足でこの場を離れようとしているように、鈴には見えた。
「こんな負のなんかが詰まったとこに、いつまでもいるもんじゃあねぇ」
「……そうだな」
この場から早く離れたいというのは、鈴も同感だ。先に辰人の言った臓器の匂い、それがどうにも気になって、真実か錯覚か、腐った匂いを嗅覚で感じていた。
けれど、一つ気になることがある。これだけは、聞いておきたいと思い、鈴は問いかける。
「……なぁ、辰人。お前が写真撮ったあの事件だけどさ。……人間に、できそうか?」
「……なんだよ、まだこの事件の話を続けるのか」
「いや、コレだけは聞いておきたかったんだ」
「……そうか」
そうだな。
日が暮れかけて、赤くなった空を見上げながら、辰人は呟いた。
「もし宇宙人なんて存在がこの世界にいるのなら、俺は真っ先にそいつが犯人だと思う」
赤い、赤い、赤い。
どこまでも赤い夕暮れ。
学校からすぐ近くにある高天原駅で辰人と別れた鈴は、一人で帰路についていた。
空を見上げると赤くて、太陽を見ても赤くて、下を見ても、正面を見ても、赤い太陽に赤く染められた家やアスファルトが見えるだけ。本来綺麗だと感じるはずのこの赤い夕暮れが、どこか血のようで、今日だけはとても気持ちの悪いものに感じた。
今までは疑問に抱かなかった、この高天原に起こる異常事件。
考えれば考えるほど、どうしてこれほどの事件が人間にできるものであると思い込んでいたのかがわからない。それだけ、現代を生きる自分を含めた人々は、自分の理解できない非科学的な物事を認めまいとしているのだろう。しかし、それにしても、この異常な事件に対して疑問に思う人間が少なすぎる。
――もしかしたら、あのオウカとかいう狐のいう特殊な『結界』とやらが、人々に疑問を抱かせないように機能しているのかもしれない。
そんなことを鈴は思ったけれど、あくまで推測の域はでていないし、単に平和ボケした日本人が、自分には関係ないからと気にしないようにしているだけかもしれない。
鈴の思考はなんだか推測ばかりで、考えても答えがでないだろうな、と思いつつも、けれど鈴は考えることをやめられない。
宇宙人という存在がいるかもしれない。
その『かも』という仮定の可能性を与えられただけで、こうも自分の中の常識が壊れていくとは思ってもみなかった。
数ヶ月前、蓮が見ていたのを、一緒なって隣で見た番組がある。
下らない番組タイトルだった。確か、『高天原の異常事件、その犯人は宇宙人!?』だとかいうタイトルだったと思う。
内容はそこから推測できるように、高天原の異常事件について、専門家たちが口論している番組内容である。番組内では、専門家の何人かは宇宙人だの地底人だのがこの地球を侵略しようとしているなどと供述していた。その時の鈴は、テレビに移る写真だとか、UFOの目撃証言だとかを欠片も信じていなかった。なんだか合成写真っぽかったし、宇宙人なんているわけがないと、心の隅で固く信じていたからだ。――もっとも、これらに関しては桜花が「やらせだ」と談じていたけれど、もしかしたら、その『やらせ』の中にも真実が混じっているかもしれないと思うと、気が気ではなかった。
けれど、常識なんて一度壊れてしまえば、あとは乾いた粘土のようにボロボロと崩れてしまう。一度疑うことを覚えると、二度三度と疑わずにはいられない。
今、鈴がその番組をもう一度見たとしたら、おそらくまったく別の視点で見ることができるだろう。もしかしたら、宇宙人は本当にいるんだと信じるようになるのかもしれない。
「わかんないもんだな、世の中は」
自分はバカだから、うまく説明できないけれど、宇宙人はいるんじゃないかと思うようになっていた。
あれやこれやと考えているうち、気付けば鈴は、自分の家の前に立っていた。
「ああ、もう着いたのか」
ただいまと家に入ると、美月のおかえりという声が聞こえた。
「夕ご飯は蓮くんいらないらしいから、七時ぐらいに二人で食べよっか」
靴を脱ぎ、階段を登る鈴の背中に、声がかかった。
「りょーかい。なんか手伝うことある?」
「今日は大丈夫。ありがとね」
「はーい」
そのまま二階にある自分の部屋へ戻り、ドアを閉めて、鈴は鞄を放り投げた。
いつもはジャージなり私服なりに着替える鈴だったが、今日はなんだか着替える気分にもなれず、制服のままベッドの上に身を放り投げる。
なんとなく天井の模様を眺めていると、だんだん丸い模様が星のように見えてきて、嫌でも、宇宙人だのなんだのといったことが、頭に浮かんできてしまった。
「……宇宙人なぁ」
ふと、宇宙人がどんな理由でこの地球に攻めているのかということを、オウカとかいう狐女に聞いておけばよかったと思った。あの時は、受け入れられない非現実を突きつけられて動揺していたこともあり、冷静な判断力が失われていたから、聞けなかったのも仕方ないことではあると思うが。
「目的はやっぱ、世界征服とか?」
ヒーローモノの悪役ならば定番とも言える動機だ。
けれど、征服してどうするのか。人間を奴隷のようにこき使うのだろうか。
誰かが言っていたけれど、地球に来るほどの科学力があれば、アンドロイドだのロボットだのを造った方が、奴隷を得るよりはるかに楽だとかなんとか。奴隷として働かせるとなると、機械なら燃料だの故障だのはあるだろう。けれど、人間だって生理現象の管理や食費、病気だってある。そういったデメリットを考えると、確かに機械の方が効率がいいように思う。
地球侵略を目論む宇宙人の目的って、なんだろう。
考えれば考えるほど、わからない。
奴隷貿易? 資源の調達?
奴隷というけれど、この広い宇宙の中で地球人が一番頑丈な生物ということはあるまい。他にもっと奴隷に向いた宇宙人がいてもおかしくはない。奴隷が欲しい、だけでは、地球に攻め入る理由にはならないのではないだろうか。
なら、資源が目的?……いや、それも違うのでは。そもそも、地球に来るために何かしらの燃料を宇宙船に積んでくるだろう。なにも地球の資源でなければならないということはないと思うのだ。他の惑星にだって、多くの資源となるものがあるだろう。
あれこれと考えているうちに、鈴の意識は意図しないところでどこかへ沈んでいく。
落ちて、墜ちて、堕ちて――。
「ここは、なんだ?」
鈴が立ってたのは、灰色の世界。
オウカとかいう女が『結界』だとか言っていた、異質の世界。
この場所は、学生通り。彼女と鈴が出会った場所だ。
「前にも言うたであろう。結界だ。」
女の声。
声のした後方に鈴が振り向くと、その桜花が立っていた。
相変わらずその美貌は飛び抜けて美しく、透き通るような肌がやけに艶かしい。金色の瞳は、それこそ吸い込まれそうなほど綺麗だった。
「お前は、オウカ……」
「然り、桜花である。桜に花と書いて、桜花。」
「……別に聞いてないだろ、そんなこと」
「いやなに。汝は妾の名をカタカナで記憶していたようであったからのう。」
まるで心の中を読んだかのような物言いに、若干ながら鈴は不快になる。
が、ちょうどいい。彼女がどうかは知らないが、鈴は彼女に用があった。
「なぁ、聞きたいことがあるんだ」
「申してみよ。答えられるものならば、答えよう。」
やさしく微笑む彼女の表情は、とても外見相応のものには思えない。100歳の老婆ですら浮かべないような、不思議な笑み。人間の寿命では到達できないほど年を重た者の、魅惑的な笑み。
胸に起こる緊張や不快感、そして魅力的な異性に抱くような奇妙な感情を押し殺し、鈴は単刀直入に切り出した。
「この地球に攻めてくる宇宙人の目的って、なんだ?」
どうして、宇宙人が地球に攻めてくるのだろうか。確かに、地球も人工衛星だのロケットだのを宇宙に飛ばしてはいるが、それが嫌だからとすぐに暴力に訴えるほど、宇宙人の全てが野蛮だとは思えない。
そもそも、地球人が到達できる範囲に、宇宙人が生息しているかもわからないのだが。
「さて、それは妾の知るところではないので答えられぬな。なれど、一部の愚者どもの目的なら知っておる。」
「それでいい、教えてくれ」
一瞬、桜花は眉をしかめた。そして、吐き出すように言った。
「――自らの快楽が為、だ。」
「快楽?」
「そう、快楽。例えば、己の都合で、誘拐した民らに人体改造を行うもの。例えば、かつて受けた恨みを晴らすために八つ当たりをするもの。例えば、己の快楽のために他者を、不要なまでにいたぶり殺し、悦に浸る者――」
「もう、いい……」
「そうか。」
鈴は聞いていて、吐き気を催した。
地球に訪れる異星人の目的の多くが、全部、私利私欲のためで、人を人としてではなく、玩具かなにかとしてしか見ていない。
禁忌実験を人間で行うことは、許せないだろう。
人間だって、モルモットを薬の実験に使ったりはする。けれど、結果的にすべて、人類のために――誰かの為にと信じて行っていることだと思う。自分の快楽の為に命を弄んでいるのではない。
己の快楽のために他者を殺す。
どうして殺すのか。意味のない殺生ほど非道なものはない。確かに人も虫やらを殺すこともあるだろうが、それはその虫が人に害を及ぼすからだ。対して彼女のいう宇宙人とやらは違う。わざわざ人間を殺すことを目的としてここへ来るのだから。
鈴の内には、よくわからない怒りがこみ上げていて、ムナクソが悪くなって。とにかく、それらの行為が許せなかった。
「ここで起きてる誘拐事件のほとんどが、そんなわけわかんねぇ奴らに攫われてるのか?」
「……ふむ。行方不明者の九割はそうであろうな。そして殺傷事件及び死亡事件の五割も、異星人によるものであろうと推測されておる。」
ギリ……。
口から、歯を噛み締める音が聞こえた。気づかないうちに思いっきり噛み締めていたらしい。また、拳も強く握りすぎていたみたいで、爪が手のひらに食い込んでいた。
僅かに、血が滲んだ。
「他に聞きたいことがないのなら、此方の質問に移るが……よいか。」
「………最後に、一つ教えてくれ。昨日起きた高校生の惨殺事件も、宇宙人の仕業なのか?」
「奇妙なことを聞くものだな。汝も本当は分かっておるのであろう。まさか、アレが人間の所業などとは思うておるまい。」
やはり、という気持ちと、どこか落胆した気持ちが鈴の中で生まれた。
あの事件が人間の仕業であったなら、その人間は法律によって裁くべきだと思う。その人間はひどいことをしたと思うし、もしかしたら死刑になるのかもしれない。けれど、宇宙人があの事件を起こしたのだと思うとひどく納得してしまって、それだけに罪の行方がわからなくて。
――一体、誰が犯人を裁くことになるのだろう。
その事件の被害者や遺族の悲しみは、何処に向かえばいい?
その事件の罪の行方は、何処に行く?
「この世には、法律では裁けぬ悪が存在するものだ。仕方ないという言葉で片付けるつもりは毛頭ないが、そういうものだ。……質問は以上でよいか。」
「……」
「その無言、肯定と取らせてもらおう。さて、此方の番だ。以前会うた時、妾は問うたよな。その答えを聞きたい。お主、妾と共にこの地を守ろうとは思わぬか?」
鈴は、その問いに――。
――。
――い。
――れい。
――鈴、聞いてるの?
「――――」
バッと、鈴は起き上がった。
見渡すと、そこは自分の部屋だ。別段変わったところはなく、色がなくなってモノクロに染まっているわけでもない。
「……夢?」
なんだか頭がボーっとして、目蓋が重い。
目にかかる前髪をかきあげて、乾いた喉に唾を流し込む。
「……寝てたのか、俺」
――それじゃあ、さっきのも夢なのか?
鈴は両手の平を見てみると、爪が食い込んだ痕はなかった。
「あれ、おっかしーな……」
夢であったにしては、内容がいつまでも頭の中に残っている。
体を伸ばし、大きな欠伸をして、あの女が部屋にいないか室内を見渡した。しかし、自分以外の人の姿は見えない。
……夢、だったのだろうか。
「聞いているの、鈴ってば。寝てるのー?」
階段の下から自分を呼びかける美月の声を聞いて、鈴は我に返った。
時計を見ると、時刻は七時過ぎだ。帰ってきた時に、今日の夕飯は七時頃だと言っていたことを思い出す。
「今いくよー」
ドアを開いて、階段の下にいる美月に言うと、いそいそと、着たままだった制服から、私服へと着替え始めた。
「いただきます」
両手を合わせて、鈴は箸を手にとる。
今日の夕食はハンバーグとサラダ、シチューだった。
「鈴、もしかして寝ていたの?」
美月はハンバーグを箸で切り分けながら、鈴に聞いた。
「んーそうみたい。時間飛んでたから、多分寝てた」
言って、鈴はご飯を口に運ぶ。
「あら、意識なかったの?」
「意識飛んで、なんか夢を見てたよね」
あっけらかんと、鈴は白米を口に運びながらそう告げる。
けれど美月は少しばかり興味を持ったようで、「へぇ」と微笑んだ。
「ねぇ。一体どんな夢だったの?」
別段答えたくないわけでもないけれど、夢は所詮夢だろう。そう思った鈴は、「うん」と頷いて、その夢の内容を思い出す。
「この世界に宇宙人が来てて、悪い犯罪起こしててさ。その犯罪を止めるために、一緒に戦わないか? って誘われる夢だよ」
「ふふふ、鈴の好きなヒーロー番組でありそうな展開ね」
「ホントにね。なんていうか、やけにリアルな夢だったからびっくりしたよ」
「そう」
ゴクリと、美月は咀嚼したハンバーグを飲み込んだ。
気のせいか、空気が変わったように思う。
「ところで、鈴」
「……ん。なに?」
空気の変化に気づかないふりをして、鈴は返事を返す。
「今日は、どこに行っていたの? 学校から帰ってくるにしては、少し遅かったじゃない」
「ああ、辰人と出かけていてね」
「……今朝テレビでやっていた、ニュースの事件現場?」
――え?
一瞬、頭の中が真っ白になる。食事をする動きが、止まった。
「……なんで、知ってるの?」
「今日ね、第五地区に住んでる私の友達が教えてくれたのよ。『あなたの子供が来てるかも』って」
余計な告げ口をしやがって、と鈴は思う。
昔から美月は心配性だ。辰人と行っている人助けの龍神兄弟ですら、美月は「危ないからダメです」と、止めようとしたこともある。その時は蓮が「勝手にやらせておけ」と言ったために、龍神兄弟としての活動を続けてはいるのだが。
――この猟奇事件の捜査に関してバレるのが拙いというのは、鈴にもわかる。
「……あのね、鈴。不思議な事件だから気になるのはわかるけど、関わるのはもうやめなさい。こういう事件はね、子供の探偵ごっこでどうこうなるものではないのよ。確かに誰かが解決しなければならない問題だけど、あなたたち子供に解決できるような問題だったら、何のための警察なの」
「……まぁ、そうなんだけどさ」
「言い方は悪いけれど、子供の出る幕じゃないわ。なんというか、ジャンルが違うのよ。鈴にはね、あの事件に関わって欲しくないの」
「けどさ、俺と辰人なら……」
龍神兄弟なら、きっとどんな事件も解決できるハズだ。
いままでだってそうだった。高校生が相手でも、時には大人だって相手にしたこともあった。けど、負けなかったから。辰人の頭と、俺の拳があれば――。
「――龍神兄弟、ね」
美月は箸を置いて、鈴を見つめた。
「鈴。あなたが、辰人くんとコンビを組んで、人助けをしているのは聞いているけれど、お母さんに話してないこと、あるわよね?」
「……例えば?」
鎌をかけるように、鈴は美月に問う。
もし美月が細かい活動内容を知らないのなら、なんとか誤魔化せるかもしれないと思った。
「万引き犯やひったくりを、捕まえたりしているそうじゃないの」
「……まぁ、うん。そうだね」
そういうときも、ある。
尻すぼみに、鈴は答えた。
対する美月は、呆れたように息を吐く。
「それはもう、人助けではないわ。警察の真似事よ」
美月の、その一言は。
これまで鈴と辰人が行ってきた人助けが、無駄なことだと言っているように思えて。これまで鈴や辰人が龍神兄弟として受け取った感謝の言葉が、すべて嘘のものになってしまうような気がして。
「でも、悪いことしてるわけじゃないよ。誰かのためになると思って、やってるんだ」
思わず、鈴は眉をしかめた。
わかっているのだけれどね。と、美月は頭を抱えて、もう一度息を吐いた。
「中学生が泥棒を捕まえるなんて、本当は危ないから、お母さんはやめて欲しかったわ。けれど、みんなの役に立つことだし、悪いこととは言えないもの。ずっと我慢して、何も言わなかったの。
鈴のいいところは、その正義感の強いところ。間違ったことは、間違ってるって言える勇気があるところ。みんなが幸せになれるようにって頑張ることが出来るところ。お母さんは、ちゃんとわかっているつもりよ」
鈴は今まで、龍神兄弟の細かい活動内容を話したことがない。美月にはもちろん、父親の蓮にさえも話したことがない。いいことをしているという実感はあったのだが、多分、心の中で自分は危ないことをしているという自覚もあったからだろう。親に心配をかけたくなかったから、今まで黙っていたのだ。
「――でもね、鈴。勇気と無謀は、違うのよ」
美月の話は続く。
「確かに鈴は喧嘩が強いかもしれない。今まで、負けたことなんてないかもしれない。けれど、もし相手が鉄砲を持っていたらどうするの。撃たれて、死んじゃったらどうするの。そしたらお母さん、どうしたらいいの……?」
「……それは……」
そんなこと、考えたこともなかった。
なんとかなると思っていた。鈴と辰人がいれば、それだけで無敵だから。根拠も何もない、謎の自信や楽観という麻薬に溺れて、はっきりとした現実を見ていなかった。
「そりゃあね、確実に勝てる相手だけを狙うっていうのは、鈴からしても気分の悪いことだろうけれど……けれどね、わたしは心配なのよ。
もし、悪い人を捕まえようとして、逆に掴まっちゃったらどうするの。酷いことをされたらどうするの。もし捕まえたとして、何年か経った時に、復讐されたらどうするの。鈴と辰人くんだけじゃなく、飛鳥ちゃんにまで危害を加えられたら、どうするの。
考えるだけで、……お母さん、かなりキツいよ。それだけなら、蓮くんも好きにさせてやれっていうから我慢してきたんだけど……今回ばかりは、ダメ。絶対に、ダメです。
今回の事件はね、子供がなんとかしていい事件じゃないの。殺人事件なのよ。それも、相手は何を考えているのかわからない、猟奇殺人犯なのよ。わたしはあなたの親として、あなたに危ないことをさせるわけにはいきません」
鈴はなにも、言い返せなかった。
確かに辰人は頭がいい。確かに自分は喧嘩が強い。けれど、それだけではダメなのだと、考え至りもしなかった。親や、飛鳥に迷惑がかかるなんて想像もつかなかった。
今まで鈴が、『勇気』だと思っていた全部が、無謀に思えてきて、今まで鈴がしてきたことが、親には心配事でしかなかったと知って。
それでもこの事件を調べたいなんて、言えるわけがなかった。
「……ごめん、何も考えてなかったよ、俺。ただ、周りの人が感謝してくれるからいいじゃんって、思ってた」
「ううん、その気持ちは悪いことじゃないの。ただね、今回ばかりは危なすぎるのよ」
「……うん。ごめん」
鈴が呟くと、「はい、この話はおしまい。ご飯だいぶ冷めちゃったけど、まだ少しは暖かいから」と美月は箸を手にとる。
「あら、ハンバーグが冷めちゃった」
「けど、美味しいよ。母さんのハンバーグ」
先ほどまでの話など、まるでなかったかのように、美月は美味しそうに夕飯の続きを食べ始めた。
鈴は、美月を見る。
思えば、美月から自分の素行について怒られたのは、これが初めてだった。
ただの押し付けがましい理不尽なものではなく、本当に鈴のことを考えたからこそ、必要な話だと思ったからこそ、いま彼女はあの話題を振ったのだろう。
それを思うと、鈴は、自分が本当に大切にされているのだと自覚することができた。それだけで、自分はきっと、幸せなのだと思う。
冷たくなったご飯を口に運びながら、鈴と美月は二人で食事をした。
それからは、いつものように明るい会話をした。
「……おはよ」
鈴がまだ寝ぼけた頭で階段を降りると、朝食をつくる美月の姿があった。
「あら。おはよう、鈴」
ふと居間のソファーに目をやると、蓮がスーツ姿のまま、いびきをかいて寝ている。布団を掛けられているところを見ると、美月が起きてくる前には帰宅していたらしい。
その手には、集めてきた情報をまとめたのであろうメモ帳が握られていた。
――やはり、あの事件について調べているのだろうか。
もしあの事件の犯人が宇宙人だったとして、それは果たして人間の手に負えるのか。もしあの事件の犯人の正体を蓮が突き止めたとして、それが宇宙人にバレて、秘密保持の為に殺されそうになったら、どうするのか。
人間にはどうしようもない理不尽が敵だったと考えたとき、父親の命の安全を願わずにいられなくて。鈴は、そんな相手を敵にするかもしれなかった、自分の軽率な行動を反省した。
美月は、きっとこんな気持ちで龍神兄弟の噂を耳にしていたのだろうから。
ごめん、母さん。
心の中で、鈴は謝罪した。